14話 逃げた男です
かくして兄は折れるしかなくなり、私達は戦利品であるクロちゃんを連れて林を下る。
めぇめぇと、私の足元で鳴きながら付いてくるのがとても愛らしいではないか。
仔山羊から兄は距離を取りつつも、私から離れ過ぎることも出来ず、微妙な距離で帰路に就いた。
帰りは呆気なく、来た時に付けた印を辿れば程なくして厩舎へと着いた。
行きはクロちゃんの足跡や、不自然に折れた小枝などを探しながらの行程であった為に時間がかかったのだけれど、意外にも近くに潜伏していたのだ。
厩舎が見える位置に出ると、誰かが走ってこちらに向かって走って来るのが見えた。
カールである。
「坊っちゃま方! 大丈夫でやしたか?」
息を切らして血相をかえて詰め寄る彼は、単に心配していたと言うには大袈裟であった。
「わざわざありがとう。こうして3人とも無事だよ」
クロちゃんを横目で見つつも、少し引き攣った笑顔で兄が率先してカールに声をかけた。
さすが兄、立派である。
私がお母さんなら先ほどの経験の後で、こうしてきちんと領主の息子たらんとする彼を褒めまくるところだ。
「化け物が出たって話じゃねぇですか! 一体全体何が起きてるんでやす?」
大きな声で早口にしゃべるカールを、デニスが落ち着かせる。
彼が騒ぐせいか、厩舎の動物たちも心なしかざわついているように思える。
「大丈夫。化け物の正体はこの山羊だったんだよ。ほら、かわいいだろ?」
愛らしいクロちゃんを前に、カールはブルブルと顔を横に振る。
「冗談じゃないでさぁ。ゼップは命からがらそれは恐ろしい化け物から逃げてきて、今しがた荷物をまとめて出て行ったとこで……。あっしは今から屋敷に応援を求めに行くところだったんでさ」
これには私達3人で顔を見合わせた。
なんのことを言っているのかわからない。
焦るカールから聞き出したところ、どうしても心配だった彼は厩舎の小間使いのゼップに私達を追わせたそうだ。
万一、危険が迫ったら直ぐに戻って応援を呼ぶよう言いつけたのだと言う。
護衛のデニスの手前、彼に恥をかかせないよう見つからないようにといい含んだらしく、ゼップとやらはそれを実行しえたのだ。
デニスの付けた印を追えば、ゼップは容易に私達に追いつけただろう。
小屋の手前で私達に追いついた彼は息を殺して、茂みに隠れて様子を見守ったのだそうだ。
そしてしばらくして、そこに現れたのはどんな御伽噺にも語られていないような禍々しい生き物であったという。
恐怖で声も出ず、腰を抜かしたせいで、その場から離れることも出来なかったらしい。
3人に化け物がにじりより血の惨劇が始まると思いきや、妹君が化け物に何かを施すと、それは動きを止めたのだという。
そこでようやっと体の自由を取り戻し、ほうほうの体で逃げてきたという話だ。
まさかあそこに第三者がいたとは。
「魔女と化け物に仕える気はねぇ、みんな生贄にされちまうとか、わめいて行っちまったんでさあ」
カールは興奮に押されて、そこまで一気にまくしたてた。
そこでようやく私を思い出したのか、こちらをみてしまったと申し訳ない顔をしている。
魔女って私のことかしら?
なるほど、はたから見たら私がクロちゃんの姿を変えたように見えたのかもしれない。
もしくは変身した姿は目にはいらず、怪物にかわいいと抱き付いた行為がそうとられたのかもしれない。
兄は口を微笑んだ形のまま目をつむっている。
頭を抱えたくもカールの手前何事もないよう振る舞う為に、心を無にしているのだろう。
そんな兄の努力を吹き飛ばすかのように、デニスが笑顔でしゃべりだした。
「そのゼップとやらはとんだ勘違いをしたようだ。冷静になってこの仔山羊をみてごらん。すべてはこの愛らしい生き物が起こした誤解と騒動だったんだよ」
再度促されたカールは、私の足元に隠れていたクロちゃんを見た。
「あれまぁ」
途端に目が輝きだす。
代々ここでの仕事をしているという事は、農業区の家屋で家畜や馬と近い場所で育ったに違いない。
相当な動物好きなようだ。
カールはクロちゃんを見て、デレデレになってしまった。
「これはなんてめんこい山羊でさぁ。こんなにきれいな生き物は、このカール生まれてこのかた、初めておめにかかりやす。いやお嬢様も女神のような美しさとは思ってますがね? あっしは動物に目がないもので」
照れながらも、ここにいる唯一の女性である私への気遣いも忘れない。
なんと出来た人だろう。
大げさだが女神と言われて気を悪くする人もいないだろうし、優しい嘘というものである。
彼のそうした気遣いとクロちゃんへの態度で、私はすっかり気分が良くなってしまった。
「カールさんは見る目があるわね! クロちゃんは黒き山羊様の仔山羊なのよ? 可愛くてお利口で世界一の仔山羊なの!」
世界一の仔山羊とは何なのか自分でもわからないけど、つい自慢したくて調子に乗ってしまった。
「豊穣の女神黒山羊様ですか。確かにこの輝く毛並みと美しさはそうとしか思えませんや」
私とカールはそれからクロちゃんを褒め称いあい、兄に止められる頃にはすっかり仲良くなってしまった。
私達に褒められまくったクロちゃんも、心なしか得意げな顔になっている。
「ゼップはそそっかしいところがある男でしたから、早とちりで逃げ出したとは本当にバカな男でさぁ」
こんな可愛い生き物が化け物に見えたとは、寝ぼけてたとしか思えないと呆れながら言っている。
ゼップさんには悪い事をしてしまったけれど、逃げてしまってはどうしようもない。
そんなに怖かったのかしら?
「取り敢ず父に報告しておくから、ゼップとやらの事は君は気にしないでいいよ。正式に後任が決まるまでは手伝いを他からよこすことになると思うが、誰か来てほしい人がいるなら候補を伝えておくれ。ゼップが2、3日中に戻ってくるならまた別だろうが……」
語尾を濁していたが、彼が戻ることはないだろうと、すべて把握している兄は言いたげであった。




