12話 狂気を孕みし愛しき落ち子です
破れ鐘の様な声。
人の声帯では出せない音。
形容出来ようがないが、それは生きた何かから発せられているのはわかった。
その悲鳴にも似た音には意思が乗っていた。
それが聞こえた瞬間、小屋へ向かったデニスが振り返り、焦りと共に私達に駆け寄ろうとした。
反射的に主人を守ろうとする忠義である。
だが、彼は体をこちらに向けただけで固まってしまった。
それが私達の左手にある草むらから、のっそりと現れたからだ。
子犬の大きさで、4本足のソレ。
私たちが探していた、なにか。
硬い黒い松の木のような肌をした触手の様なものが、そこに塊としてあった。
まとまり離れ、無軌道にうねっている。
名状しがたきソレは、そこにいる誰よりも小さいのに誰をも制する威圧を放ち、辛うじて頭部と思われる部分がパックリと裂けて、自分の存在を主張するかのようにうねりながら鳴き声をあげている。
デニスは蒼白になり、抜こうとした剣の柄に手をかけたまま膝を崩して動けなくなっている。
ここからでも大きく震えているのが見て取れる。
歯の根がガタガタと音を立て、彼の体は全体で恐怖を表現しているのだ。
兄は私を守る為に体を前に出してはいるが、顔からは大量の汗と涙と鼻水が混じりあって流れている。
涙を流しながらも、それでもそれから目が離せずに瞬きすら忘れてしまったような有様だ。
時が止まったかのように誰も動かない。
表現し難きそれを前にして、人は己の無力を認めるのだ。
話に聞いた通り開かれた口の中は真っ暗な空間。
口と表現していいのかも憚られるが、他に例えようがない。
あれは確かに口なのだ。
あそこに詰め込まれてしまえば、永遠に暗闇の牢獄に囚われるのだろう。
特筆すべきは目だ。
かの生き物には本来あるべき場所には口だけでなく、鼻も耳も目も無かった。
その代わりに松の肌のようなゴツゴツとした触手の表面をスライドするように、いくつもの目がなめらかに動いて移動している。沢山の目が体の表面を移動しながら四方八方、何者をも見逃すまいとぎょろぎょろと見張っているのだ。
「兄様大丈夫よ。シャルロッテがついてます」
ルドルフとそれの視線を切るように兄の目を見据えて、ぎゅっと抱きしめる。
すると彼は緊張がとけたように大きく息をした。
「シャル、あれ……。逃げ……」
何という責任感だろう。
この様なものを前にしても、私に逃げるよう優先してくれるのだ。
何という勇敢さだろう。
兄の行動に心を打たれた。
私に逃げるよう促しているが、それは恐怖を前に言葉にならず、絞り出すのがやっとのようだ。
まだ中学にもならない子供にこの光景は酷だ。
例え、言い出しっぺであるとしても。
もう一度、力をこめてぎゅっとする。
少し落ち着いたようだと言っても、焼け石に水程度であるが。
私は深呼吸して恐怖の主と対峙した。
「あなた、それはひどいんじゃない?」
私はソレに話し掛けた。
兄が今度は私を凝視している。
まあ確かに正気には見えないだろう。
「あなた、黒き山羊様のとこの子よね?」
動き回っていた目が止まると一斉に真ん丸になった。
その目はわかってくれるの?とでも言っているようだ。
そう、何故か私にはわかったのだ。
あの神様の力というか、匂いというかそんな様なものがソレから伝わってくる。
「なんでそんな姿なのかわからないけど、とりあえず怖いから目は2つに出来ないかしら?」
何故そんな注文をしたのか自分でも分からないが、つい口にしてしまった。
この惨状をどうにかしなければと思ったのは確かだ。
すると、ぎゅるんっと音を立てて2つの眼を残して沢山の目は無くなった。
これで少しは見れるだろうか。
「ありがとう。マシになったわ」
お礼を言うと、目を細めて返してくれる。
うん、意思疎通が出来ている。
兄が信じられないものを見るように、私とソレを交互に見ているのがわかる。
「後そうね、そのうねうねは怖いから無くして短い毛で覆いましょ?」
黒き山羊様のように。
神様のあの艶やかな髪を思い出す。
豊かで思わず触りたくなる美しい毛。
するとソレは、ひび割れた蔓の塊のようだった触手をぶるんと震わせて、表面が短い毛に包まれる。
異形の化け物から、不格好なマスコットキャラのようになった。
「目と口は顔の場所にしてね」
それぞれのパーツがしゅるんっと顔のあるべき場所に移っている。だが、なにか福笑いのような歪さが残っている。
しかし、ここまで来たら子供の落書きの様な愉快な生き物みたいなものだ。
奇しくも兄が描いた黒犬様の絵に似ていて、つい微笑んでしまう。
このままでも魔獣よりはきっとかわいいだろう。
兄の恐怖も少し和らいだようで、先程より血の通った面持ちになった。
それを確認すると私は兄を抱きしめていた腕をといて、ソレに近づく。
「神様のとこの子なんだから、もっとちゃんとしなきゃね。黒き山羊様にあやかって山羊になればいいわ。仔山羊ちゃんね」
山羊ってどんな感じだっけ?
昔見たアニメや牧場見学で見た山羊を思い描く。
だがそれは、ぐねぐねと表面が蠢くだけで上手くいかない様だった。
ソレには山羊自体がわからないのかもしれない。
「ちょっとごめんね」
私はそれに手を伸ばして、小さい躰を両腕で抱き寄せた。
額を合わせて、かわいい仔山羊を想像する。
元々、黒き山羊様とおそろいの足なんだもの、
かわいい仔山羊になって欲しい。
そうだ、角も神様とおそろいがいい。
小さなねじれた角をちょこんと二つ。
つぶらな瞳に愛らしい口元。
艶やかな黒い毛に覆われた、それは愛しい仔山羊になるのだ。
私の中の想像の羽を伸ばし、イメージをソレに伝えていく。
そうしてゆっくり目を開けると、とても美しくてかわいい黒い仔山羊が目の前にいた。
「なんて、かわいいの!」
思わず抱きよせた腕に力を込めてしまう。
抱き心地も温かくて、すべすべもふもふ。
想像以上に毛並みが良くて最高の仕上がりだ。
「あ゛ああ゛ァぁあ゛」
それは満足気に声を出したが、これまたひどい声である。
せっかくの可愛さも台無しというものだ。
「怖い声はだめよ? 山羊なんだから、めぇって鳴くのよ? めぇー」
「ベエ゛エ゛エエ゛エエ」
「めぇよ? めぇー」
私が鳴き声の見本をみせると、何度か発声練習の後、かわいくめぇめぇと鳴くのに成功した。
声質も本物の山羊に近くなっており、怖さの欠片ももう見当たらない。
「お利口ね」
褒めるとそれは得意気に鳴いて返す。
「兄様、見て!」
世にも悍ましい化け物をかわいい小動物に仕立てたのに成功した私は、褒めてくれとばかりに無邪気に兄を振り返る。
そこには恐怖で消耗し、信じ難い妹の行いに呆れて言葉が出ない兄の姿があった。
「私この子連れて帰るわ!」




