第一章 第五節
うう、ううと呻く声が鼓膜を突き刺す。助けて助けてと言葉にならない声が聞こえる。
どうしたらいいのだろう。
助けたいのに、助けられない。
救いたいのに、救えない。
どうして、私は、こんなにも無力なんだろう。
(あの女の人を助けられなかった)
“だってもう間に合わなかった”
(あの男を見捨てた)
“だってあの状況では足手まといだった”
(あの男の子を殺した)
“だってそう望まれたから”
だってだってだって、仕方なかったじゃないかっ。
これは私のせいかっ?違う、違う、違う、この男のせいだっ!
この、男が、全てを(いつから)、作って(どこから)、私を(どうして)、壊していったっ(もうやめて)。
苦しい。
苦しい。
憎い。
憎い。
あぁ、それなのに、力が抜けていく。
裂かれて、剥かれて、暴かれていく。
私の内、私の心、私の--が曝け出されていく。
あの男の言葉、(やめろ)、行動、(やめろ)、視線が、(やめろ)、仕草が、(やめろ)。
壊されていく。
私、は、
「ゆい」
ハッと息を飲む。
伏せていた顔を、抱えていた頭を擡げる。
口から、鼻から、だらだと汁を垂れ流しながらも光の消えない眼が私を見返した。
「にげ、なぁ、さい……ゆぃ……」
――どうして。
どうしてそんなことが言えるの。
どうして私を、私のことを。
考えるべきは、求めるべきは、自分の命でしょうっ?
「ぃい、の……おかぁさんは、いいの……ゆい、にげて……にげ、なさいっ」
はぁはぁと、どちらのものかも分からない音。
どうしたらいい?
どうすればいい?
分からない、分からない、分からない分からない分からない。
「うぅ、あああ、お、かぁさん」
見捨てて逃げろと、それでいいのだと。
そう言われても選択できない。体が動かない。理性と感情がまるでちくはぐで、どうにもならずにその場に蹲る。
ここに希望などなく。
(男はなんの前触れもなくもう一方の腕を捥ぐ)
ここが地獄で、だとしたら男は悪魔で、私はその悪魔に捧げられた生贄で。
「あぁははははは!恋した人を自分好みに育て上げる!なんて幸せなんだろう!枦木さん、あぁ、いや結さん、と呼ぼうかな。僕達はもう恋人同士なんだから構わないよね!?はは、あぁ、綺麗だよ、結さん。僕が、これまで出会ってきた、誰よりも!これほど赤が似合う人もいない。これほど絶望が似合う人もいない。これほど死が、似合う人もいないっ!結さん、結さん。あぁ、あぁ、あぁ、もっともっともっと!君を壊したいっっ!!」
心が、ばらばらで。
私が今まで信じてきたものが、壊れていく。
命を救うのは難しくて、身体は簡単に壊れてしまって、正義は当たり前にはなくて、悪は当たり前に存在る。
だったら私は、私の信じるものは、信じた意味は。
「意味なんて、ない」
ここには、何もない。
私は、何者でもない。
――私は、誰だ。
ノイズが走る。音が遠ざかる。
男の声も、母の懇願も、弟の言葉も、妹のことも。友も、同僚も、私を構成する多くの人達が。
正義、慈愛、使命、義務、親愛、友愛、家族愛、私を構成する多くの感情が。
他にも、いろいろ、沢山、たくさんあったはずの、私の、私は、僕は、君は、あなたは、いったい――
『おめでとう、ようやくの誕生だ。我が愛しのジョゼフ』
世界が、反転する。
「これはこれは」
男が面白いものを見るような目を向ける。でもそれはすぐにつまらなそうに背けられた。
「僕が愛しているのはあなたではないから今すぐ変わってもらいたいんだけど……ま、そう簡単にはいかないかぁ」
男の息がかかる。お互いに笑みを浮かべて、僕は男の腕を引きちぎった。
すぐに男が後ろに跳んで距離を取る。それを許さず一歩、顔面に拳を叩きこんだ。続けざまに腹にも二、散発入れれば血を吹き出して膝を折る男。
「君の、名前は、何だったか……」
「ぐっ、ぅ……お前に名乗る、名はないよ」
「東堂傑」
男の目が見開かれ、すぐに顰められた。
「知ってるなら、聞かないでくれないかな」
「いや、知らない。分かるだけだ」
「あぁ、そう。…………はぁ、残念だなぁ」
男の顔を見下ろすように立つ。
男は、僕の顔を見上げて、ふっと息を吐くように笑った。
「ようやく僕が愛せる人が現れたのに。それに、どうせなら彼女に殺してほしかったよ」
「そうか。では、さようなら。東堂傑」
「あぁ、さようなら。僕の」
――――。
ぬちゃりと、引き抜いた手から伸びる赤い筋。ぼたぼたと床を汚すことを気にも留めず、僕はイスに縛り付けられた母の元へ向かった。
僅かな動きだけでも苦しげに呻く母をそっと横にし、じっとその顔を見つめる。
今の僕にできることはなく、ならば最期の時までのわずかな安寧を。それが僕のせめてもの罪滅ぼし。
「自分の子を看取るのは、これで二度目だな」
ひゅうひゅうとかすかに聞こえる呼吸音も徐々に消えていく。命が零れていく。魂が抜けていく。
「さようなら」
「えぇ、さようなら。ありがとう、あの子を守ってくれて」
「……」
言葉が、紡がれたわけではない。
それでも確かに聞こえた。届いた。
「母は、強いのだと。忘れていたな。――そうでしょう、レヴィ」
カツンと音を鳴らして入ってきたのは黒い髪の少女。
「随分と可愛らしいお姿で、兄上」
「そういうお前もな、弟よ」
「他の兄上もいるのでしょう。それに、父上も」
兄上は肩を竦めて口角を上げる。
「でなければオレ達はここにいない、だろう?相も変わらず足掻いているよ。みっともなくな」
「そうですか」
「で、それを知ってどうする?」
「僕は変わりません。ただ、間違いを正すだけです」
「なるほど。では、殺し合いだ」
「えぇ、そうなりますね。兄上」
「……ふん。つまらんし変わらんな、お前は」
「あなたは、少しだけ変わりましたね。その体の少女の意識がほとんど、ですか」
「黙っていろ」
兄上は拗ねるように腕を組んでそっぽを向く。中身があれと分かっていてもそういう姿を見るとつい、可愛らしいと思ってしまう。
「兄上」
「なんだ」
「頭を撫でたら怒りますか?」
「腕を斬り落とされたいならそう言え」
およそ少女らしからぬ表情で言い放たれた為、諦めて手を引っ込める。治るとは言っても痛みがないわけではないのだ。
「ま、殺し合いとは言ったが父上は許さないだろう。なにせ千数年ぶり、二度目のお前だ。この機会を逃したくはないだろうよ」
「……残りはベンジャミンですか」
「あぁ。今頃父上は張りきって次の準備をしていることだろう。なにせあいつはお前がいないと出てこない。現代語で言うとブラコン、というやつだからな」
「なるほど。では私もブラコンですね」
「……たしかにお前はあいつのことを目に入れても痛くないと」
「いえ、僕は家族皆を愛していますよ?あっ、だとしたら僕はファミコンですね」
そう言うと兄上は心底嫌そうな、苦虫を千匹ぐらい噛み潰したような顔で「お前!の!そう!いう!ところ!が!オレ!は!嫌い!だっ!!」と吐き捨てた。
「ひどいですね?」
「どっちが!っ……はぁー、もういい。お前と話すと疲れる。とりあえずお前の誕生は見届けた。今日はもう帰る」
「はい、兄上。どうぞお気をつけて」
兄上は何か言いたそうにして、結局何も言わずに去っていった。
残された僕はその場に座って、ぼーっと天井を見上げる。
(始まってしまったからには、終わらせないと。次こそは)
そう、次こそ僕は――
「父上を、殺さないと」
君には申し訳ないと思っています。でも目覚めてしまったからには逃げられない。この地獄の果てまで、どうか、僕と。
私と。
君と。
あなたと。
私が。
私は、
「私は、誰?」
***
安っぽい電灯だ。
昔の学校のようなそれが、最初に視界に入ったものだった。
少しの間そうして電灯を眺めているとドアが開く音がして、足音が近づいてくる。
「目、覚めた?」
「…………ゆづる」
「よかった。腹、減ってる?」
首をゆるく振ると弦はペットボトルの水をサイドテーブルに置いた。水だけでも飲めということだろうか。
黙ってこちらを見る弦に観念し、ゆっくり体を起こす。不思議と痛みや強張りは感じなかった。
「はい」
手渡されたペットボトルのキャップを捻り、口に含む。あっという間に中身は空になり、自覚がなかっただけで体は水を欲していたのだと気づいた。
「ありがと」
「ん。着替え、引き出しに入ってるから。準備できたら出て来て」
「分かった」
「じゃ」
空のペットボトルを持って出ていく弦。昔は一緒に風呂にも入っていたというのに、いつの頃から着替えすら別々に、というか弦の方から嫌がられるようになってしまった。
(思春期って難しい)
引き出しを開けると下着と黒のシャツ、迷彩柄の上着とズボンが入っていた。サイズは少し大きめだが特に問題なく、スリッパから靴に履き変えて部屋を出る。
廊下で待っていた自衛隊員の女性に案内されたのは私が寝ていた隣の部屋で、「どうぞ」と言われるがまま中に入ると、そこにはシーツをかけられた長細いふくらみ。
「……」
「枦木隊員から、最期のお別れをと」
「…………あぁ、はい」
「私は外にいるので、何かあれば声をかけてください」
「はい。ありがとう、ございます」
ドアが閉まる。
近づいて、シーツを捲る。
そこにはビニールに包まれたお母さんがいた。捥がれた腕も、何事もなかったのようにそこにある。
「……そっかー。ダメだったかー。ま、そりゃそうか。だってあんな状況で両腕引っこ抜かれて生き残れる人、普通いないよね。そっかそっか、ダメだったか。そっかぁ、そうかぁ……は、はは……あはは、あはははは、は、はぁ、あ、あぁ、うぁ、ああ、ああああああああああああああああああああ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい助けられなくてごめんなさい諦めてごめんなさい逃げて生きててごめんなさいっ……お母さんお母さんああああああ」
ぼろぼろと、ぼたぼたと、叫びながら泣く。
これが現実なんだと、物言わぬ体が付きつける。
いっそ狂ってしまえば、あの男の様になってしまえば。そうすれば全てを忘れ、この先も生きていこうと思えるだろうか。
「姉ちゃん」
温かいものが、触れる。
「弦」
――あぁ、そうだ。
「行こう」
まだ、あった。
「……うん」
まだ、二つも、あった。
私の大切なもの、守るもの、守りたいもの。
だから、まだ、死ねない。
まだ地獄はそこにあるのだから。
「弦、教えて。今周りはどうなってる?」
「……こっち来て」
弦に案内されてテレビの設置された部屋で入る。そこにはさっき私を案内してくれた女性隊員以外にも数十人の自衛隊員が集まっていた。
てっきりテレビでも見るのかと思ったけれど、弦はテレビをスルーして窓の方へ私を手招きする。
「これが、オレ達の今の状況だよ」
そこにはビルを取り囲むようにして群がる、無数のゾンビが蠢いていた。




