第一章 第四節
それがたった一人の為に整えられた舞台だったと、誰が気づくだろう。
時折現れるゾンビを回避しつつ一階から三階まで捜索するも件の息子の姿は見つからず。もしも爆発していたら判別なんてできないしなぁと、悩みながらも足と目を動かした。
弦に二度目の生存報告を終えたところで、少し休憩するために足を止めたのは保健室。さすがにこんな状況で仮眠をとる気はないけれど、ベッドの上に少し横になるぐらいならと誘惑につられて向きを変える。
(白いシーツ、枕、とにかく横になりた~い)
スキップしながら飛び込んだ保健室。しかし残念ながら白いシーツはそこにはなく、代わりに数体のゾンビと血まみれの空間が待ち受けていた。
期待していただけに裏切られたショックはそれなりで、ずーんと落ち込みながらも音でゾンビを誘導し、保健室内の捜索を始める。
やたらと血塗れな室内はこれまでの教室とは違い生臭く、だからといって片手が塞がる為に鼻を塞ぐことなど出来ず。さっさと調べて出ようとベッドを仕切るカーテンを開けたところで思考が止まった。
「………………え?」
それに気づいた、気づいてしまった。そうだと分かった時には私はとっくに胃の内容物を床にぶちまけていた。
それでも湧き上がる嫌悪感は消えず、再度胃液を吐き出してようやく息をつく。
白いシーツの上。それを侵す赤は、一人の少年のものだった。
両手と両足はそれぞれ釘で固定され、腹の皮は開かれて内臓がむき出しに。
そして、そんな状態でも少年は生きていた生きていた。
ボンドのようなもので止められているのか瞼は開いたままで目からはだらだらと涙がこぼれる。喉からは声にもならない音がもれ、電光に照らされた臓器は未だにぴくりぴくりと脈打っていて。
この、嫌悪感を。
表す言葉がないことに安堵した。でなければ私は今すぐにでもそれを叫び、発狂しただろう。
(こんな、ひどい、こと……)
呆然と立ち尽くす私にぐるりと少年の眼球が回る。
びくりと一歩、二歩後退した私は隣のベッドのカーテンに躓き、縺れ、カーテンごと倒れ込んだ。
痛みに呻きながら顔を上げると、そこには少年と同じように貼り付けにされた男、井沼がいた。
「……………………は?」
状況を、理解できない。
何でお前がここにいる?さっきまでゾンビに怯えて泣いていたお前が、どうしてここに?
「なに、して……な、なにして」
――違う。
「どうしてこんな」
――違う。
「いったい誰が」
――違う、違う。
「弦に、弦に連絡して救護を」
――違う違う違う違うっ!!
これは、私の、せいじゃないっ!
「助け、を」
――いったい誰に助けを請うというのか。
まるで標本のように、見せつけるように飾られた二人を通して悪意を感じる。お前のせいだとなじる声が聞こえる。
(出血が少ない……痛みも、あまり感じてないのか)
だからこそ死なないのだろう。死ねない、のだろう。
もっと早く見つけていればと思う。同時にどうにもならないことだとも、思う。
「――」
「ぇ?」
微かに、聞こえた、言葉。
それが嘘であれと。
「――ぃ……ぁ、い……しぃ、た、い……」
“死にたい”
どんっと両肩にかかる重石。
気のせいでもなく、ほとんど声の出せない少年が確かにそう言った。
「ぁ、う、あ」
ガタガタと手が、歯が、鳴る。崩れ落ちそうになる体を支えるために机に手をついた。
それだけは嫌だと、私の心が叫ぶ。
それだけはしてはいけないと、理性が拒否する。
「ほ、放っておけば勝手に死ぬんだから……わ、わたし、私が、こ、ここ、ころ」
シンクに駆け寄りぐぇぇっと再び胃液を吐く。吐くものがなくてえづくだけになっても、シンクから離れられなかった。
それでも私の背中には何も言えないはずの少年と、井沼の無言の圧力がかかる。
痛い
痛くない
殺して
殺さないで
死にたい
死にたくない
死にたくないっ
死にたくないっ!
――お母さん、助けて。
「あ、あぁ、あああああっ」
ゾンビが音に寄ってくるだとかそんなことはすっかり忘れて、私はその場に崩れ落ちた。
助けられない。助けたくても、何もできない。道具も、人も、何もかもが足りない、足りなすぎるっ!
これまで看護師として潜り抜けてきた修羅場なんて、この状況に比べたら大したことじゃないと、修羅場と呼ぶなんて烏滸がましいと痛感する。
(命は、救えない。後、私にできることは……)
できる、ことは――
***
どれぐらいの間そうしていただろう。
抱えた膝から顔を上げて時計を見る。どうやら2時間程経っていたらしい。
スマホの画面には12件と表示された着信履歴。ぼーっとそれを眺めているとちょうどよくスマホが震える。
「……もしもし」
『よかった、無事だったんだな。全然出ないから何かあったかと』
「ないよ。何も。ちょっと、立て込んでて」
『……姉ちゃん?』
「お母さん、まだ見つかってないから。また、連絡するね」
『は?ちょっ、まっ』
ブチンと一方的に通話を切る。
次に顔を合わせた時が怖いなぁと溜息をついた。
(お母さん、どこだろう。きっと無事、だよね。生きてる、よね)
ぐるぐるぐるぐると渦巻く不安を抱えながら保健室を出る。廊下に追い出したゾンビの姿はなく、私は足早に玄関に向かって歩を進めた。
後この学校内で探してない場所は体育館のみ。そこで見つからなければ弦と合流して自衛隊に捜索を任せよう。
私に出来るのはもう、それぐら、い、
「…………」
「や、どうも」
玄関には男が立っていた。細身の所謂イケメン。にこりと笑えばあちこちから黄色い悲鳴が上がるだろう整った容姿。
しかしその男の周りに転がるゾンビの死体が私に警戒心を抱かせた。
「僕は東堂、どうぞよろしく」
差し出された手はいやに綺麗で、私は男を睨み付けて「何か用」と答える。
「つれないなぁ」
「今は、あんたと楽しくお喋りする気分じゃないから」
肩を竦めて傘立てに腰掛ける男は妙に絵になった。胡散臭さは変わらないが。
「まぁ、仲良くしようよ。ほら、僕達数少ない生き残りだし?」
「なにを」
「だって、今この本州で生きてるのって僕と君、後はゾンビ狩りしてる自衛隊員だけみたいだからね」
「…………は?」
男の言葉に口を開け、閉め、結局何も言えないままギュッと閉じた。
「な、にを根拠に」
「さぁ?僕も人に聞いただけだから」
「人?それって」
「自衛隊、じゃないよ。ていうかあれ人なのかなぁ?僕的には違う感じがしたけど」
「……」
「やだなぁ。そんな怖い顔しないでよ。僕にこの情報をくれたのは黒い髪の女の子だよ。これぐらいの」
そう言って男は自分の腰のあたりを示す。
「なんで女の子がそんなこと知ってるの」
「僕が知るわけないじゃん。僕はただそう言われただけ。でも嘘をついてる感じではなかったし、ていうかそもそも本当か嘘かなんてどうでもいいからね」
「どうでもなんてっ」
「あっ、そういえば一つ言い間違えてた」
いちいち言葉を遮ってくる男に苛立ちが募る。
「本当は生き残ってるのは僕と君、後――君の母親、だったね」
ぞわり
突然雰囲気の変わった男に肌が泡立つのを感じる。
ねっとりと絡みつくような遠慮のない視線が上から下まで流れていった。
「あんた、いったい」
「ショーは楽しんでもらえたかな?残念だけれど楽しい時間ももうじき終わり。いよいよグランドフィナーレといこうじゃないか!」
ダッと走り出した男の後を慌てて追う。追いかけて辿り着いたのは体育館だった。
そして、そこに、捜していた人はいた。
「お母さんっ!」
「……ゆい?」
どこか虚ろな表情をしたお母さんは両手を縛られ、パイプイスに固定されていた。
凪いでいた感情が、一気に噴火して目の前の男に向かう。
「あぁ、怖い。今なら人の一人や二人、いや十人ぐらい殺せるんじゃないかい?」
「っ」
しかしその言葉に冷水を被せられたかのように血の気が引く。
ぬるりと、洗ったはずの手が再び真っ赤に染まった気がして、これは幻覚だ、気のせいだと頭を振る。
「やっぱり殺すなら生きた人間だよ。ゾンビなんて所詮死体だし、どれだけ痛めつけてもう~う~う~う~唸るだけ。面白くもなんともないけど、人間の苦しむ姿ときたら!体をいじめるのもいいけど、それよりもっと楽しいのは……あははは!さて枦木結さん!」
突然呼ばれた名前に肩が跳ねる。
「君、約束したよね。あの母親の息子を助けるって。でも、実際何をした?」
「ぁ……そ、れは」
「看護師なのに、人を助ける仕事なのに、君、あの子に、あの二人に、何をしたのかなぁ~?」
伏せた私の顔を覗き込むようにしてにぃぃっと笑みを浮かべる男。心底楽しそうに、滑稽だとでも言うように、男は口の端を上げて笑う。
「こ・ろ・し・た」
「っっ――!!」
「ねぇ、ハジメテ人を殺してどうだった?肉を裂く感触は?手にかかる血の匂いは?息が止まった時、どう思った?あ、でも看護師なら血なんて見慣れてるかぁ、残念」
男の言葉が頭を駆け巡る。
肉の感触は――気持ち悪かった。
血の匂いは――気持ち悪かった。
息が止まった時――――安心、した。ほっとした。終わったんだと、そのままそこに二時間い続けるぐらいには。
(だって、仕方ない。長い時苦しむぐらいなら、どうせ助からないのなら)
仕方ない、仕方ないと自分の行為を正当化する。それらしい理由を並べて折り合いをつける。
「と・こ・ろ・で、実はあの二人が助かる方法があった、って言ったら、枦木さんどうする?」
「…………え」
ひゅっと、息が止まった。
「なーんて、冗談だよ、冗談。あの二人はあと二、三日で死ぬはずだった。それなりに耐性はあっても、あなたや僕とは違うから」
「……あんた、いったい何がしたいの。さっきから言ってることめちゃくちゃなんだけど」
男はお母さんの肩に手を置いて、そして、
ゴキリ
と、まるで果物でももぐみたいに腕を引き抜いた。
「ああああああああああああああああああ!!!!」
それまで微睡の中にいたお母さんの悲鳴が反響する。その悲鳴に合わせるように男の笑い声がコーラスとなって鼓膜を震わせる。
「いやあああ……あああ……ああ、ああああ」
「あはははは!楽しいねぇ!楽しいねぇっ!!」
悲鳴と、狂騒。
男は、こいつは、地獄を作り出していた。男の為の地獄を。
「ゃ、やめ」
走り出して、駆け寄って、お母さんを助けたかった。男の手がもう一方の肩にかかっていなければ、すぐにでもそうしていただろう。
右へ左へとお母さんの肩でリズムを刻みながら楽しげに男の手が動く。
そして私が動かないことに満足そうに笑った。
「賢いね、枦木さん。僕は君みたいな人が大好きだよ。真面目で律儀で正義感があって他者を案じる思いやりも持ち合わせてる。まるで人間の鏡のよう。それでさ。そういう人を見ていると――ぶち壊してやりたくなるんだよねぇ」
ミシリと骨が鳴った気がした。
「昔からそうなんだよ。綺麗なものを見るとつい壊したくなる。いけないことだと分かっているのに、抑えきれない。割って裂いて踏みつけて、ぐちゃぐちゃになったそれが、愛しくて愛しくて仕方がないんだ」
「……っ、いかれてんの、あんたっ」
ようやく吐き出した言葉はそんなもので。
「うん、まぁ、よく言われる。いかれてる、頭がおかしい、病気だとか。極めつけはどんな育て方されたんだって。別に関係ないんだよねぇ。うちでは虐待もなかったし愛されなかったってこともない。愛してくれたよ、両親とも。僕も愛してたよ、二人を。でも僕の愛は受け入れてもらえなかった、誰にも。だから勝手に愛することにしたんだ。愛されなくてもいい。その分僕が愛する。僕の、愛の、形で」
気持ちが悪い。
それ以外の言葉が思いつかなかった。
男の瞳に映る私はきっと引き攣った酷い顔をしているのだろう。それなのに男は気にした様子もなく笑いかけてくる。
「あぁ、あぁ、とても良い顔だね。枦木さん」




