第一章 第二節
マンションのベランダから外を見た時。駐車場から出て辺りを見回した時。そこは人っ子一人いないゴーストタウンだと思っていたが、よくよく見てみれば三回転ぐらい捻じれた腕や水風船のように割れた頭部、それに千切れた足やミンチ肉のようになった人体の一部があちこちに転がっていた。
人は見たいものしか見ていないというけれど、どちらかというと見たくないものを無意識的に排除していた気がする。
しかし、いつゾンビが襲い掛かってくるか分からない現状、意識を張り詰め周囲を確認しながら移動していれば嫌でもそれらが目に着く。見たくなくてもそのインパクトに視線が向いてしまうのは仕方のないこと、なのかもしれない。
それらは、減るでも増えるでもなく点々と転がっていた。自分が寝ていた間にいったいどれほどの惨劇が起きていたのかと考えると思わず鳥肌が立つ。
その場にいなくて運がよかったのか、いたとしたら看護師として何が出来たのか。
(……何もできるわけないか)
私がたった一人いたところで何にもならなかっただろうと理解していても、医療職としての義務感的なものが胸をぐさぐさと刺してくる。我ながら無茶を言ってくれると、自嘲めいた笑みまでもが出て来てしまった。
(はぁ~、ダメだな。一人で歩いてると思考の渦に嵌る。しかも悪い方の。こんな状況なんだからもっと前向きでポジティブな思考に切り替えないと。お母さんならこういうの、上手いんだけどなぁ)
姉弟で一番母に似ていると言われる私だが、そのたびに首を傾げたくなる。
私はどちらかという頑固だし無駄に真面目(とよく言われる)だし、気に入らないことは気に入らないとオブラートを放り投げて喋るしわりと根に持つタイプ、簡単に言えばとてもめんどくさい人間だ。
逆にお母さんは常にポジティブ、前向き、何か問題が起きても他人に何かされても「まぁどうにかなるでしょ~」的なおおらか?ふわふわ?ぽやぽや?した人間だ。
(……改めて考えると全く似てないな)
以前にもお母さんにこの話をしたことはある。その時お母さんは「まぁ、無駄に生きてないからねぇ」なんて言っていたが、年齢と性格って関係あるんだろうか。
私も年を取ったらあんな感じに?
(想像できない……)
しかめっ面でカルテを打ち込む自分は見えても、ふにゃふにゃした笑顔を浮かべる姿は見えてこない。
(って、また思考が明後日の方向に。うーん、集中集中!いつゾンビが出て来てもおかしくないんだから!)
ぐいっと頬を引っ張って気を引き締める。
現実逃避は安全な所に着いてからにしなくては。
(でも、なんていうか、死体が転がってて人がいないっていう以外は今のところ特に問題ないんだよねぇ。ほんとにゾンビなんているのかしら?)
マンションから約1キロほど移動してきて、生存者こそいなかったが危険なこともない。どうやらこのままアパートまで行けそうだと足も軽くなる。
(早くお母さんの無事を確かめて弦に救助してもらわないと)
そしたら百合とも合流して久しぶりに家族水入らずでお喋りでもできたらなぁ、と思う。
(早く、早く、早く、早く)
足音を立てないように気を付けながらも逸る気持ちにどんどんスピードを上げていく。
焦らないでと思っても勢いづいた体は流れに乗って前へ前へと進んでいく。
誰もいない街を颯爽と駆け(やばい、ちょっと気持ちいい)なんて思った時にはとっくに手遅れだった。
――コンッ
――カラカラカラ
「っっ……!?」
ぶわっ、と汗が吹き出す。有頂天になっていた意識は一気に地面に叩きつけられる。
勢い余って気づかずに蹴り飛ばした空き缶は2、3メートル先を音を立てながらコロコロと転がっていった。
ひゅう、ひゅう、と出かけた呼吸音を手で塞いで止める。
さっきまで羽が生えたように軽かった足は急に鉛でも詰められたかのように重く、地面に張り付いた。
どっ、どっ、どっ、どっ。
と、早鐘のように打たれる心臓が送り出す血液が体中を駆け巡る。
ようやくほっと息を吐いて脱力したのは一分後か、二分後か。
体感では永遠にも感じられた緊張から解放された私は、リュックのサイドポケットからペットボトルを取り出して一気に呷った。
(バカめ。落ち着けよ、私。焦れば焦るほど事態は悪くなるだけだろう?)
ペットボトルをサイドポケットに戻し、ぐっと伸びをする。
緊張しすぎず、リラックスしすぎず。こんな状況では難しいけれど、できるできないじゃなくやるしかないのだ。
(――よしっ)
呼吸を整え再び歩き出す。
アパートまでは残り数百メートル。周りにあるのは死体だけ。助けに行ってゾンビを連れて行っては本末転倒。注意深く辺りを見回しながら一歩一歩歩を進めた。
でもまさかそれが徒になるなんて。
「ぅ」
それは、何でもない音のようだった。
いつもなら車の走行音にかき消されて耳には入らないような微かな呻き。
でも、聞こえてしまった。
聞いてしまった。
ゆっくりと視線を向けた先には俯せで倒れる人。
その足は奇妙に捻じれて、片方は膝から下が消えていた。
けれど、生きていた。
(ウソでしょ)
思わずそんなことを思ってしまう。
死んでいるのなら、無視できた。
だって、死人には何もできない。何をしたって死んだ人間は生き返らない。だから胸は痛んでも、ただそれだけ。
でも、あぁ、どうして。
(生きてる、なら……助け、ない、と)
どうして生きてるんだ。
医療職者として、いや、人としてあるまじき言葉が浮かぶ。
(違う、違う!こんな状況でなければっ)
浮かんだ言葉を否定するように言い訳をしてみるが、湧いた罪悪感はずぐずぐと私を突き刺してくる。
「だ、れか」
そんな暗闇に沈みかけた意識が一気に浮上する。
気づけば私は倒れたその女性の傍らに立っていて、そしてその傷の深さにぐっと拳を握った。
「――まぇ、ぁっと。んんっ、すいません。あの、名前は言えますか?」
擦れた声を整えるように咳ばらいをし、女性の側にしゃがむ。
「……なぁ、まぇ、は、いしみ……いしみ、けいこで、す」
「ありがとうございます、いしみさん。では今からいくつか質問をするので、出来る限りでかまわないので答えてください」
「は、い」
「では、住所はどちらですか?」
「じゅぅ、しょ……ひがしまち、いっちょうめ、にの、ごの、じゅう、です」
「ご家族の連絡先は分かりますか?」
「かぞ、く……かぞく、かぞ……」
ぶつぶつと、うわ言のように呟く女性。
分かってる。
この行為に意味はない。
この人はもうじき、死ぬ。
手の施しようがない、とはこういうものを言うのだろう。
「むすこ、が」
「え?」
「むすこ、が、いるんです。しょうがくせい、まだ、ちいさくて……おねがい、たすけて……わたし、もう、だめだから……おとうさん、も、だめ、だから」
もうほとんど目も見えていないはずなのに、血塗れの手が私のシャツの裾を握った。
「、ねが、いっ……むすこ、けいくん、たすけ、てっ」
「……っ」
なんてことだと、酷い話だと、奥歯を噛み締め、閉じそうになった瞼をぐっと上げて笑みを浮かべる。
「分かりました。任せてください」
血塗れの、縋りつくように握られた手に手を重ねる。
「…………ぁ、あり、がと……ごめ、なさ……ごめん、なさい……やさしぃ、ひと…………ごめん……な、」
ずるりとすり抜けていった手がアスファルトの上に落ちる。
光のなくなった瞳を見つめて
(助ける、とは、言えなかったな……)
と。
酷い嘘を言ってしまったと、酷い奴だと、もう一人の私が言う。任せろだなんてよく言ったものだと蔑む。
どうせ死ぬのだからと、思ってしまった自分が――
(…………学校って、どこの学校だろう)
精神に引きずられるように重くなった体を動かして女性のいくつかあるポケットを探ると、スマホが出てきた。指紋認証でロックを解除し、連絡先を見ると見たことのある小学校の名前。
(ここならアパートの方が近いか。先にお母さんを見つけて弦に連絡、その後学校に向かおう。いや、弦に学校に向かってもらった方が早い、か)
血塗れで割れたスマホ。そのホーム画面には楽しげに笑う家族が映っていた。
「……重い」
ずんと体に、心に圧し掛かるこの重さはいったい何なのか。
(悩んでいてもしょうがない。まずはアパートへ)
どこか遠くを見つめる目をそっと閉じる。
「おやすみなさい。よい夢を」
ウエットティッシュで手についた血を適当に拭い、その場を後にする。
アパートに着いたのはそれからたった数分後。
辺りには同じようにいくつかの死体が散乱していたけれど、それ以外は特に変わったところはない。
(鍵、鍵っと)
キーケースからアパートの鍵を出し、鍵穴に差し込もうとした時、ふと、なんとなくだが、説明のつかない違和感を覚えた。
(なにか、なにが?なんだろ、この、なにか)
“気持ちが悪い”
――ノブは簡単に回った。
鍵は、かかっていなかった。
「おかあ、さん?」
いつもならすぐに玄関先に飛び出してくるはずの母の姿はどこにもない。
――目の前が、真っ暗になった気がした。
室内を三往復して見て回ったけれど争ったような形跡は見つからなかった。同時に血が飛び散ってるとかそういうものも見つからなくて安堵する。
だからといってどこかへ逃げた様子も見られず、突然降ってきた“お母さんはいったいどこに消えたのか”という難問に頭を悩ませる。
さてどうしようかと思っていた時、上着のポケットに入れていたスマホが突然震えだして肩がビクリと跳ねた。
画面には弦の名前。
あー、まずい。と思ったものの出ないわけにもいかず、泣く泣く通話ボタンを押した。
『今!どこだ!このバカッ!』
案の定、思わずスピーカーから耳を離してしまうぐらいの声量で怒鳴る弦に平謝りする。
そしてここまでに起きた出来事を簡単に説明した。
『で、これからどうすんの』
「……学校に、行こっかなー、なんて?」
『…………はぁぁぁぁ、バカ』
「いや、だって、だって……約束、したし」
『それがバカだって言ってんだよ。そんな約束しなけりゃよかっただろ。ていうか、相手もう死んでんだろ?なら気にすることないじゃん。人の命より自分の命だって、姉ちゃんいつもオレ達に言ってたじゃん』
「それはっ!……それは、弦と百合のことであって、私は」
『一緒だっての。死んだ人間に義理立てしても誰も褒めてくれないだろ。そういうの、自己満って言うんだよ』
「…………ごもっともです」
弟にズタボロに言い負かされた私は力なくソファーに座り込む。昔はもっと可愛げがあったというのに。
しかし落ち込みながらも私の中で学校に行くという意志は変わっていなかった。
そしてそんな私の性格を知っている弦は、最終的に今までで一番深い溜息をついて言った。
『これだけ言ってもどうせ行くんだろ』
「……ごめんね」
『いい、知ってる。どうせ行くんだろうなって。だから遠慮なく文句言ったんだし』
「心配かけてすいません」
弟に、迷惑をかけたいわけではないのに。
『――姉ちゃんの良いところはさ、そういうところ。で、悪いところもそういうところ』
「はぁ?」
分かるような分からないような、いややっぱり意味が分からないことを言って弦は笑った。
そういうって、どういう?
『母さんとその息子?を見つけたら連絡して。ていうか何もなくても一時間おきに連絡して』
「えっ、めんど」
『しろ』
「りょ、了解」
思わぬ迫力に驚いて慌てて了承する。これは相当心配かけてるなぁと、再度胸が痛んだ。
『じゃ、また一時間後』
「ん、分かった」
『――あのさ。姉ちゃんいつも一人で無理するから。オレ達だってもう子どもじゃないだからさ。だから、頼ってくれて、いいから。……じゃ、またな!』
ぶちんと勢いよく切られた通話。
激しい照れ隠しだなぁと、まだ可愛いところあったなぁと、これから何が待ち受けている分からない、そんな未知の状況であるにも関わらず、つい微笑ましくなって笑みがこぼれてしまう。
(――そろそろ、行かないと)
時間にして約二十分。
未だ生活の後を残す室内を目に焼き付け、外へ出る。厚い雲の向こうにある太陽の光が妙に眩しく見えた。
再び血臭の漂う街に戻ることに抵抗がない、わけではない。というか抵抗しかない。
けれど、約束したのだから。約束、してしまったから。
(放り出したらきっと後悔する。まぁ、放り出さなくても後悔するんだろうけど)
どうせ後悔するならなるべく悔いのない選択を。
(そうでしょ、お母さん)
さて、次の目的地は――我が母校、菊花小学校。
暇つぶしにでも読んでいただけたら幸いです。
最初の方は(なるべく)一日一話投稿できるように頑張ります。そのうちペース落ちるかもしれませんが週一ぐらいは投稿できたらと思います。
よろしくお願いします。




