第一章 第一節
別に、死体を始めて見たわけではない。
だから死体そのものにショックを受けたわけでは、ない。
ショックを受けたのは死体のその先。本来ならばエントランスにあたる場所。
その場所が、今ではすっかり瓦礫に覆われてしまっていた。
「どう考えてもさっきの爆発が原因、だよねぇ」
ケガをした体では、いや例えケガをしていなくても人一人ではどうにもならなそうな瓦礫の山を前に、今まで張っていた気がすーっと抜けていく。
「うそだぁ」
へなへなとその場に座り込んで思わず泣きだしそうになった時、視界の端に映った死体。
爆発で死んでしまったのかと思ったが、よくよく見ると体にいくつもおかしな傷があることに気がついた。
更によく見てみようと近づくと、傍らにスマホと、社員証のような物も落ちていた。
「名前……桐谷香、MM製薬研究員……そんな会社、あったっけ?」
この辺りでは聞いたこともない会社名。マンションでもこの人を見かけたことはない。
「何でこんな所で死んでるんだろ」
体には焼けたような痕もあったけど、それよりも目を引いたのは動物か何かにかじられたような傷。
相当強い力でかじられたのか、肉は抉れ、皮膚は捲れ上がっている部分もあった。特にひどいのは首の噛み跡。おそらくこれが致命傷になったのだろう。
「さて、どうするかな」
落ちていたスマホはロックがかかっていて使えなかった。
このままここで天井を見上げていたら隣の死体の仲間入りは時間の問題だろう。
救助を待つにしても、それまで体力が持つかは分からない。
チラッと隣の死体に視線を送る。
いつまで見つめていても死体は死体。勝手に動き出しはしない。
「助かったらちゃんとお墓に入れますので」
ぱんっと手を合わせて死体に向かって宣言する。
そして残った力を振り絞って思い切り死体を引っ張った。
ようやく閉まったエレベーターのドア。
パッと手を離すと重力に従って掴んでいた両足がコンクリの地面に落ちる。
「……帰ったら手洗お」
ぽーんと軽快な音を鳴らして動き出したエレベーターの中で一人、ごちた。
なんとか自室へと引き返してきた私が最初にしたのはパソコンの電源を入れることだった。
スマホが使えないならパソコンのメールで助けを求めようと思ったのだ。
そうするぐらいならベランダから助けを求めた方がいいんじゃないか、とは私も思った。ので、散乱するガラスをなんとか避けてベランダに出てみた。
けれど外には誰もいなかった。
駅チカ徒歩10分の距離にある私のマンション。まだ夜が更けたばかりのそこで人通りが0だなんてありえなかった。つい数十分前に爆発事故があったばかりなのだから、むしろ溢れるぐらい人がいてもおかしくないはずなのに。
何かがおかしい。
ここにきてようやく私は不信感を抱き始める。
帰ってくるまで、いや、眠るまでは何の変哲もないいつもの毎日だった。
それなのに目を覚ましてからは不可解なことばかりが起きる。
背中の傷も今ではすっかり痛みが消えていて、知らないうちに刺さっていたガラス片も抜けていた。
「……何が起きてる?」
とりあえず一番近くに住む母親、次に弟、そして職場の同僚や友人にメールを送った。
それからSNSを開いて、ようやく私はこの地獄を知る。
『ギャアアアアアッッ!!』
『たすけ、たずげて、だずげでぐれええぇぇっっ!!』
『い、ぁ、い、や、がっ、あっ、』
次々と上がってくる動画や画像は見るも無残な人々の姿を映し出していく。
ぐにゃりと曲がって変形する人。
頭が膨らんで爆発する人。
隣人にかじりつく人。
子どもを食べる人。
血が、臓物が、悲鳴が、罵声が、絶叫が。
「っぅぐ」
我慢できずにトイレに駆け込み吐き出す。
そして自分の両手を見て、再度吐き出した。
(仕方、なかった。仕方なかった。あぁしないといけなかった。私は間違ってない、間違ってない、間違ってない!)
「はぁ、はぁ」
洗面台で口を濯いでパソコンの前に戻る。
SNSのメディアアカウントは政府の緊急記者会見の様子を発信していた。
ボリュームを上げて、その動画に意識を集中する。
『本日正午より日本の本州において大規模なパンデミックが確認されました。このウイルスに感染した人は、そのほとんどが体が極度に変形し、死に至ります。しかし感染した人々の一部は脳死状態にあるにも関わらず体だけが動き、他者を襲うようになります。現在対策チームを組み、原因や対応策を究明していますが、まずは生存者の救出を最優先事項とし、自衛隊・警察・消防などが連携をとって対処している最中であります。生存者の方は下記のコールセンターへ電話をかけるか、発見しやすいようにビルの屋上などの高い建物の上に避難することをおすすめします。そしてこれに伴い、ただ今より本州全域から四国・九州・北海道・その他離島を含む本州以外の全ての地域への無許可移動を禁止いたします。保護された方は感染の可能性がないということが確認されてから安全な地域への移動となりますのでご了承ください』
『それではこれより質疑応答の時間となります』
そこで画面を閉じた。
すぅっと、頭が冷えていくのが分かった。
どうりでこのマンションにも、街にも人がいないわけだ。
皆が避難している間私はのん気に寝ていて、挙句トラックの爆発で全身傷だらけときた。
まぁ、なぜか傷は勝手に塞がってるんだけど。
「――よし、夢だな」
頭を整理して、と思ったが全く整理しきれない。
さっきの記者会見の内容も意味不明だし、グロ動画も意味不明だし、下の死体のことも意味不明だ。
自然治癒なんてしそうにない背中の傷が治ったのも意味不明。
そんな理解できない説明できない、ないない尽くしの出来事が一発で片付く答えは一つ。
これが夢だってことだ。
いわゆる明晰夢、というやつだろう。
こんな夢を見るなんて私相当疲れてるんだなぁ。疲れてる時は寝るに限る。夢の中で寝るって何か不思議な感じだけど、不思議なことばっかりだからこれぐらいたいした不思議じゃないよね。ってことで、はい、おやすみー。
目を覚ましたらいつもの日常が待ってるはず。
職場に行けば三又かけてる先輩と人に仕事押し付けてばっかりの後輩とまるで使えない同僚が待ってるはず。
飛び散ったガラス戸も元に戻ってるし、隣家の子どもの元気な笑い声も聞こえてくるし、トラックの爆発も死体もなかったことになってる。はず、だよ、ね?
***
「ほんと、クソだわ」
現実はクソ。はっきり分かった。
朝日に照らされるのは割れたガラス片。シャツの背中の部分は破けてぼろぼろ。なのに傷は痕すら一切なくなっていた。
極めつけは自衛隊員である弟からの返信のメール。
『無事みたいでよかった。なるべく早く救助に行く。ところで母さんと連絡取れた?』
そのメールを見てすぐに充電コードを引っこ抜いてスマホを取り、お母さんに電話をかける。
しかし何度かけても一向に出る気配はない。
「お母さんっ」
マンションからお母さんの住むアパートまでは2キロちょっと。車なら数十分の距離だ。
でもこんな時に限って車は職場に置いてきていた。疲労困憊状態の運転は危ないからとバスで帰って来たけれど、こんなことになるなら無理にでも車で帰ってくるんだった。
まぁ、
「……予想なんて、できるわけないか」
ぐっとスマホを握る。
健康の為と始めたジョギングと筋トレ。まさかその成果がこんな所で発揮されるとは、あの時の私は想像もしなかっただろう。
そうと決まれば、リュックの中に水の入ったペットボトル、缶詰やクッキーなどを詰め込んでいく。服も動きやすいウェアに着替え、キッチンから包丁を一本、取り出した。
「……。ま、まぁ、これは最終手段ってことで」
言い訳をするようにもごもごと呟く。
できれば使うことがありませんようにと祈りながら。
「ふぅー……さて、行きますか」
深く息を吐いて、気合をいれる。
エントランスは塞がっている為、外へ出るには地下の駐車場の車両出入口を使うしかない。
とりあえず一階まで昨日ぶりに下りてみると、死体はそれなりに腐敗が進んで蠅がたかり始めていた。
そういえばこの死体、かなりの箇所噛まれていたけどゾンビ化(と勝手に呼んでいる)しなかったなぁ。噛まれたからといってゾンビになるわけじゃないのか?だとしたら感染経路って何だ?空気?
「まぁ今はいいか」
エントランスは変わらず瓦礫で埋め尽くされていて、試しに一つどけてみるとバランスを崩した他の瓦礫が雪崩れてきたため慌てて後ろに下がった。
「仕方ない、駐車場から行くか」
非常口に向きを変えて歩き出す。途中、落ちていたスマホと社員証をリュックの中に突っ込んだ。
もしも無事に生き残れることができたら彼女の家族でも、知り合いでもいいからこれを渡そう。墓を作るって約束は果たせそうにないけど、せめてそれぐらいは、と。
それがせめてもの償いだと、思いたかった。
地下駐車場の車はほとんどがなくなっていた。残っていた車を覗きこんでも鍵が残されているようすはなく、諦めて出口の方へ向かう。
特に何の問題もなく地下から地上へと出た私は、すっかりゴーストタウンとなってしまった街を見て息を吐いた。
あのゾンビ化した元人間達がいないだけでも喜ぶべきなんだろうけど。
ここからお母さんのアパートまでの2キロちょっとの移動。ゾンビに対する対処法が分からない為オーソドックスに①音を立てない②遭遇したらまずは逃げる③最終手段撃退。
とは言っても全く撃退する想像ができないんだけど……。
(考えててもしょうがないし、なるようにしかならないし。ま、死んだ時は死んだ時ってことで。)
グッと両手を握って息を吐く。
(足が震えてるのは武者震い、武者震い。大丈夫、目の前には誰もいないんだし。2キロぐらいあっという間に着く。大丈夫、大丈夫、大丈夫)
ふーっと、音を立てないようにもう一度息を吐く。
そうしてようやく一歩、足を踏み出した。




