第一章 第零節
――あぁ、うーんと。いったいどこから話せばいいのかな。
――最初から?うーん、そうなると随分長くなるけれど……そうだなぁ。三日三晩は覚悟しておいた方がいいんじゃないかな。
――かまわない?うん……ならいいけど。
――さて、ポップコーンとコーラの準備はいいかな?あはは!映画を見るんじゃないって?うん、そうだね。でも、私にとってはね。まるで、
――まるで、映画のような人生だったんだよ。
***
全ての始まりは分からない。
どこから何が狂ってそうなってしまったのか、私は知らない。
でも私の人生が変わってしまった。
その最初の出来事はよく覚えている。
思えばあの急患に次ぐ急患、終わりの見えない急患ラッシュの夜勤から事は始まっていた。
「っっあ~~!!」
おっさんのような声を上げてベッドの上に倒れ込む。なんとかシャワーを浴びた自分を褒めてやりたい。
玄関先で一回意識を失った気もするけど……うん、気のせいだ。気のせい。記憶にないものは全て気のせい。そう思ってないとやってられないわ。
ごろんと横を向いてスマホをいじる。
「ねむ……」
ぼーっと残り少ない電池しかないスマホを見ていると徐々に瞼が落ちてくる。さっさと寝ちゃえばいいっていうのは分かってるけど、つい触っちゃうんだよね……いつも、この、ぱたー……。
ドンッと。
衝撃で飛び起きれば、ベランダに続くガラス戸から見える煙のようなもの。
「……カーテン閉め忘れた」
「……じゃないわ。煙?火事?」
ガラス戸を開けて下を覗きこむと、そこには一台のトラック。が、マンションのエントランスに突っ込んでいるのが見えた。
「うわぁ」
人間予想外のことが起こると間抜けな反応しか出来ないものだと思う。
数秒ぼけっとそれを見ていた私だったけど、すぐにハッとして救急車を呼ぶために室内のスマホの元へ。
次の、瞬間だった。
「っぁ!?」
轟音とともに床、壁、天井が大きく揺れる。と同時に背中を襲った熱い何か。
勢いのまま転がった私は何が起きたか分からず、救急車を呼ぶはずだったスマホの真っ暗な画面をしばらくガン見することしかできなかった。
「ぁ、いっ……たぁ」
ようやく思考が回るようになってきたのは背中からのずきずきというか、ずくずくというか、そんな痛みが脳に達し始めたころだった。
「うっ、い、ぁ、ぐ」
動くたびに痛む背中をを引きずりながら洗面台まで行くと、鏡に映っていたのは背中に突き刺さるガラスの破片と血まみれの自分。
「うそだろ」
自分史上これほどのケガをしたのは初めてだったためか、思わず意識が吹き飛びそうになった。
が、看護師としていくつかの修羅場を潜り抜けて来た自分が吹き飛びかけた意識を現実に叩き戻す。
「とりあえず、救急車」
握っていたスマホのホームボタンを押す。
――つかない。
もう一度押す。
――つかない。
再度、押す。
――つ か な い。
(うそうそうそうそ!そんなのってないでしょ!?)
ここにきてようやく“死”という文字が脳裏に浮かぶ。
手汗冷や汗何でもいいが、全身から汗が吹き出し呼吸が荒くなる。
(おちつけ、おちつけ、落ち着け。焦っても仕方ない。使えないものは使えない。だったらどうする私っ)
荒い呼吸を整え、思考を整理する。
焦れば焦るほど悪い結果になることは今までの経験から分かっていた。
(大丈夫、大丈夫。先輩が不倫してる間に急患が一度に3件来た時に比べれば……あ、なんか思い出したらムカついてきた)
役立たずのスマホを放り投げ、玄関へと移動する。
隣室の奥さんならこの時間は家にいるはず。隣もどうなってるかは分からないけど、電話を借りるぐらいはできる、はず。はずはずって、全部憶測だけど……考えてても仕方ないっ。今は動けるうちに動かないと。
痛みを堪えて移動し、隣室のチャイムを鳴らす。
「すいま、せーん……隣の、枦木ですけどぉ」
何度かチャイムを鳴らし、ドアを叩いてみるも誰も出てこない。
(もしかして中で倒れてる?)
おそるおそるノブを回すと、すんなりとドアは開いた。
しかしそこにあったのは割れたガラスと散乱する物だけ。
「だれも、いない?」
鍵もかけずにいったいどこに行ったのかという疑問もあったけれど、兎にも角にも早く救急車が呼びたかった私は靴箱の上に置かれた電話に手を伸ばした。
(こういう状況だし分かってくれる、よね。…………それにしても繋がらないなぁ)
本来ならばすぐにオペレーターにつながるはずなのに、スピーカーからはコール音が聞こえるのみ。
爆発で混み合っているのかとも思ったけれど、たかだか数件の電話が一斉にかかってきた程度でパンクするとは思えない。
「他の階、なら人がいる、かな」
よくこんなケガをしてまだ意識があるものだと自分自身に関心しながらエレベーターの前まで移動する。
しかしここでもおかしなことが起きる。
ボタンを押して待っても、エレベーターは一階から全く動く気配がないのだ。
「故障?冗談でしょっ……ほんと、さいあくっ」
吐きだすように言葉を発する。
私の部屋はマンションの三階。非常階段を使えばなんとか降りられる、と思うけど。
「まじでしぬ」
非常階段へ続くドアを体で押し開け、傷に響かないよう気を付けながら降りていく。
二階に行くのはやめた。
人がいるかどうか分からない賭けをするより、外に出て、集まっているであろう野次馬に助けを求めたほうが手っ取り早いし確実だと思ったからだ。
「…………は?」
しかし私の浅はかな考えは下に着いた時点で木っ端みじんに吹き飛んだ。
それは、エレベーターのドアに挟まっていた。
それは、真っ赤な血を流して倒れていた。
それは、あぁ、それは、
「うそぉ」
――人間、だった。




