第2話 亜人娘の小さな望みとは
窓から差し込んでくるジメジメとした日差しによってベスティアは目を覚ます。
何かとても息苦しい夢を見ていた気がするが思い出そうにも日差しの鬱陶しさでどうでもよくなってしまう。
おそらく、この暑さが原因で悪い夢を見たと思い込んでいるのだろうと自分に言い聞かせて布団から出る。
「お、ティア。おはよう」
「ん……」
台所ではアヒトが何かを作っていたようで、ベスティアに気づいて挨拶をしてくる。
それを眠たげに目をこすりながらベスティアは軽く返事をする。
「…………何してるの?」
今は夏休みだ。学園は休みだというのに、なぜアヒトはこんな朝早くから起きているのだろうとベスティアは不思議に思い、質問する。
「何って、今日は冒険者としてサラとチスイと一緒に地下迷宮に潜る日だろ。朝飯食わなかったらティアは動けないだろ」
そういえばそうだったなとベスティアは欠伸をしながら思い、布団をたたんで食事用のテーブルを出す準備をする。
刀を使って戦うチスイという少女がベスティアとの戦いの後、夏休みの期間だけアヒトの冒険者の仲間に加わることとなった。
すでに何回か冒険者ギルドの地下迷宮に潜っている。チスイがいてくれることによって戦闘がとても安全なものとなり、力をだいぶつけることができていた。
「よし、できたぞ」
アヒトが両手に作った料理を持って来てテーブルに並べる。
アヒトが作ったのはベーコンエッグトースト。食パンに予め焼いておいたベーコンと目玉焼きを乗せて、ちぎったチーズをばらまいて焼き上げたお手軽な朝食である。
出来上がったばかりで香ばしいベーコンの匂いとトロッとしたチーズの香りがベスティアの鼻を通り抜ける。
ベスティアのお腹から可愛らしい音がなり、口からよだれが垂れそうになる。
「ははは。ティア、見てないで食べていいんだぞ?」
アヒトの言葉で「はっ!」と我に返ったかのように目を丸くしたベスティアは勢いよくパンにかぶりついた。
「ぅんんん! うん! うん! ……(もきゅ、もきゅ)」
「言いたいことは何となくわかる。だがなティアさんよ。もう少し落ち着いて食べようか」
両手を使って全力で美味しさを表現するベスティアにアヒトは嬉しくも思うが相変わらずのベスティアの行動に呆れてしまい、何とも言えない表情で微笑む。
「このパン、おれとティアので最後だかーー」
「おかわり」
「ねぇよ! おかわりはありません」
「むぅ……」
アヒトの言葉でベスティアは頰を膨らませる。
「膨れてもダメだからな」
「…………」
ベスティアの表情がだんだんと険しい表情に変わっていき、ジトーっとした視線がアヒトに突き刺さる。
「そんな目で見てきても意味ないぞー。ほら準備しろよ。もう行くんだから」
アヒトはそう言うが、ベスティアはアヒトから視線をそらすことなく、一向に動こうとしない。
「…………途中でなんか買ってやるよ」
「! ……わかった」
アヒトのため息混じりの一言でベスティアが素早く準備を始める。
「……ダメじゃん」
アヒトは自分の甘さとベスティアの子供さに呆れて深くため息を吐くのだった。
行きしなで食べ物を買ってあげたことで機嫌を直してくれたベスティアは、冒険者ギルドの地下迷宮での戦闘でもいい活躍を見せてくれている。
何日かかけて徐々に下の階層に行くことができ、現在は三十階層である。
迷宮は各ギルドの地下に存在し、百の階層に分けられている。迷宮へは冒険者登録をしていなければ潜ることができず、未だに百階層に到達した冒険者はいない。
かつて、二十年ほど前に人間界最強と言われていた人物がたった一人で八十階層まで到達したという記録が残っているが、その人物は突如ぱったりとギルドを訪れなくなり、今ではどこにいるのかましてや生きているのかさえわからなくなっていた。
「ふっ!」
チスイが横薙ぎに刀を振るい、魔物を真っ二つにする。
「チビ助、今何体だ?」
チスイが呼んだ「チビ助」というのはベスティアのことである。
呼ばれたベスティアは表情を歪めながらチスイに視線を向ける。
「二十体目か、それくらい。……それと、私はチビ助じゃない」
「ふむ、やるではないか。だが私はこれで二十五体だ。残念だったなチビ助」
チスイがニヤリと笑みを浮かべるのを見てベスティアはキッと睨みつける。
「だから、チビ助じゃない」
「ははは、戯けたことを。私より小さいではないか」
「う、うるさい! 第一、私は貴様と勝負するつもりなんてなかった。その前に勝負していたことを今知った。反則」
「何を言うか。勝負の開始はかなり前に済ませたではないか」
チスイの言葉にベスティアはポカンと固まるが、すぐに鋭い目つきになる。
「そ、そんなの卑怯!」
「はいはい、そこまでだ。チスイもズルはダメだと思うぞ。君には騎士道精神的なものはないのか?」
ベスティアが今にも飛びかかりそうな雰囲気をだしていたため、アヒトが二人の間に割って入る。
「騎士道精神? 武家の教えみたいなものか? 生憎、私は武家の家系ではない身でな。そういったことは何も知らぬ」
チスイの言葉を聞いて、てっきりそういった教えは厳しく教えられているのかと思っていたアヒトはわずかに目を丸くする。
「そうなのか? ま、まぁとりあえずこんな場所でおっぱじめるのだけはやめてくれよ? それに約束しただろ。勝負は周りに被害が出ないものにするって」
ベスティアとチスイが戦うと辺りが災害にでもあったのかというほどの被害が出てしまうと考えられたため、アヒトはチスイに「勝負は直接対決するのではなく、周りに被害が及ばない方法の勝負にしてくれ」と提案したのだ。
初めは渋っていたチスイだが、「承諾しなければ、これから絶対に勝負はしない」とアヒトが言ったら二つ返事で承諾した。
おそらくこの時からチスイの中では勝負のゴングが鳴っていたのだろう。時に腕立て勝負、時に走力勝負、時に大食い勝負といったもので、そのどれもが今のところ勝敗は微妙な結果に終わっている。
「む……しかし」
「しかしじゃない。おれからすればチスイもティアも背丈に大した差はない」
「男、それは本気で言っているのか? どうやらおまえの目は節穴のようだ。医者に診てもらう前に私が診てやるのだ」
何か癪にさわったのかチスイはアヒトに刀を向けて睨みつける。
アヒトの頰が引きつる。
「はい、ストップだよ! ここは迷宮の三十階層。もっと気を引き締めないとダメだよ!」
サラがアヒトとチスイの間に割って入る。サラは頰を少し膨らませてチスイを叱るように見つめる。
それにチスイの肩がビクッと跳ねる。
「う、うむ! ……そろそろ手練れの魔物が出てきてもおかしくはないな。よし! 腹も減ったし地上へ上がるのだ」
そう言ってチスイはサラから逃げるように歩き出した。
「私、チスイちゃんに嫌われてるのかな……」
「そ、そんなことはないと思うぞ。まだ関係が浅いからだ。おれなんか常に殺気みたいなものが飛んでくるし」
「そっか……。私もうちょっと仲良くなれるように頑張るよ!」
サラはそう言ってチスイの方へ走って行った。
それを見て、アヒトはベスティアに視線を向ける。
「おれたちも行くか」
「ん……」
そうして、今回もベスティアとチスイの勝負とやらはうやむやになり、迷宮から何事もなく無事に戻ることができたアヒトたちは受付嬢に報告を行う。
「すごいですね! もう三十階層だなんて。さすが魔族を倒したってだけはありますね」
「いえいえ、そんな大したことないです」
「そんなことありません。その歳でここまで潜ることができれば十分ですよ」
「そうですか。それなら嬉しいです。あはは……」
アヒトは受付嬢との会話を終わらせて近くで待っていてくれた仲間の元へ戻る。
「ふん、おまえみたいな嘘つきで軟弱な者が魔族とやらを倒すことができたのなら、私は蟻の如く容易く消し炭にしていたな」
どうやら受付嬢との会話が聴こえていたらしく、チスイは腕を組みながらそう言ってくる。
確かに、あの場にチスイがいたら本当に楽に倒せていたのかもしれないと思うと、アヒトは何も否定することが出来ず、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そういえば、あの合宿の時にチスイは何をしていたんだ? 君ほどの強さがあれば魔獣の二十や三十なんて倒していてもおかしくはないと思ったんだが」
アヒトの素朴な疑問にチスイは両手を腰に当てて胸を張って答える。
「風邪をこじらせて寝込んでいた!」
アヒトたちの前にチスイのドヤ顔が炸裂する。
全員がただただ口をポカンと開けて固まる中、チスイはそんなこと気づくことなく話始める。
「今思っても何がいけなかったのかがわからぬ。当日に体調を崩さぬよう、全身の鍛錬を行い、冷水を十回も浴びたはずなのだが……」
絶対にそれが原因だろうと誰もが思った。
チスイは戦闘時はとても優秀で抜かりない動きをするというのに、それ以外では何もない場所で転んだり、刀だけ携えて他の貴重品などを忘れろといった行動が多く、どこか抜けているところがある。
そんなチスイのことはだいぶ慣れてきたアヒトとサラは、未だに風邪をひいた原因を考えているチスイを微笑ましく見つめる。
「む?……何だ、私の顔に何かついているのか?」
「視線に気づいたチスイは小首を傾げる。
「ふふっ、何でもないよ。お腹すいたでしょ? チスイちゃん外で一緒にご飯食べよ!」
「うぅ!? さ、サラ。そんなに押さなくても一人で歩けるのだ」
サラに背中を押されて扉に向かう二人を見て、アヒトとベスティアも追いかけるようにして歩き出す。
扉を開けて外に出る。
「…………」
「…………」
「…………」
「暑いぞ!」
外は日差しが地面を照らし、一瞬でめまいを起こしそうなほどジメジメとした熱気が体中に伝わってきた。
あまりの暑さにチスイが叫ぶ。
季節は夏である。迷宮内は暑いというほどの気温ではなく、ギルド内では魔術によって室内の温度が調整されていたため、外の気温のことをすっかり忘れていた。
おまけに太陽の高さと腹の減り具合から考えて時刻は正午前後。気温が一番高くなる時間帯である。
「これはひどいな。何でこんなに暑いんだよ」
アヒトは襟元を開けて手で扇いで服の中に風を流し込む。そんなことをしても暑さはおさまらないことは分かっているが無意識に体がそうしてしまう。
ベスティアが額に浮かんだ汗を拭いながら辺りを見渡し、
「あ……」
と漏らし、アヒトの裾を二、三度引っ張る。
裾を引っ張られて振り向いたアヒトはベスティアが向いている視線の先を追う。そこには掲示板があり、貼り紙が何枚か貼られていた。
「ん?」
よく見ると最近貼られたようなものがあり、そこには『海開き』と書かれていた。
「海か……行きたいのか?」
アヒトはベスティアに視線を向けて尋ねる。
「海、見たことない。……少し気になった、それだけ」
質問に対する答えは返ってこなかったが掲示板をじっと見つめるベスティアの尻尾が微かに揺れていることからどうやら行ってみたいという気持ちは高いようだ。
「そうか……じゃあ、行ってみるか海」
「……!? ほんと?」
ベスティアの耳がピンと立つ。
ベスティアのわかりやすい反応にアヒトは無意識に口元がほころぶ。
「ああ、二人もどうだ?」
アヒトがそう言った瞬間、ベスティアの目がジト目に変わる。
「……二人も誘うの?」
「ん? 何か問題あるか?」
「……(じー)」
「な、なんだよ」
ベスティアの粘りつくような視線にアヒトはたじろぎながら聞くが、ぷいっとそっぽを向かれて口を閉ざしてしまった。
こればっかりはベスティアの考えていることが理解できないアヒトは頭をポリポリと掻く。
「いいね、行こうよ!」
サラが目を輝かせながら誘いを受ける。
「私は行かぬ。おまえたちだけで楽しんでこい」
チスイはそう言ってどこかへ行こうとしたが、サラがそれを許さない。チスイの襟首をガシッと掴んで止める。
「ぐえっ」
後ろから掴まれたことによってチスイの首が締まり、潰れたような声が出てしまった。
サラがチスイの耳元に口を近づける。
(チスイちゃん、本当に行かなくて良いの?これは勝負を挑む良い機会だと思うよ)
(何故そう思ったのだ?)
(だって海だよ、ビーチバレーとかビーチフラッグとかいろんな競技があるっていうのにみすみす逃すなんてもったいないな)
(む?そのびぃちばれぇとびぃちふらっぐというのは勝負をするものなのか?)
(そうだよ)
「私も参加するのだ!」
チスイが片腕をまっすぐ上に挙げて誘いを受ける。
隣でサラが密かにガッツポーズをしていたのをベスティアは見逃さない。何か良くないことを企んでいるのだろうサラを睨みつけるが、サラ自身、全く気づく気配はない。
当のサラはというと、
――チスイちゃんのことをベスティアちゃんが相手している隙を使って私はアヒトさんとの距離を一気に詰める! なんていい案なの! 運が良ければその日のうちにまたあの時みたいに、ききききキスしてもらえるかも!? キャー
といったことを考えていた。
もちろん、両手を頰にあてて腰をくねくねさせているため、ベスティアには何を考えているのか大体お見通しである。
「そうと決まれば今日の午後からは水着を買いに行こ!」
「そうだな、……とりあえず昼食にしよう」
それからウキウキと機嫌良く歩くサラを先頭にお昼の料理屋を探すのだった。
ちょっとバトルはお休み。




