第5話 己との戦い その2
「……い……スイ……チスイ!!」
「……!? ぁ……?」
自身の名前を強く呼ばれて気がついたチスイは、周囲を見渡す。
太い木々が多数生えており、鳥の囀りが聞こえてくることから今いる場所は森の中又は林の中だと推測できる。
いったい何故自身がここにいるのか。今まで何かとてつもなく大事な事をしていたような気がしてならなかったが、どうにも思考がぼやけて考える事が億劫だった。
そして、自身の両肩には手が置かれ、正面には見知った黒髪の少年の顔があった。
「あ、あぁ……おまえか」
「どうしたチスイ。調子でも悪いのか?」
「い、いや問題ない。して、ここで何をしている?」
チスイの問いかけに黒髪の少年ーーアヒトはキョトンとした表情をする。
だが答えたのはチスイの隣を歩いていた栗色の髪を風で靡かせる少女ーーサラだった。
「何言ってるのチスイちゃん。今は一刻も早くテトちゃんを探さないとでしょ?」
「そうだぞ、ちょっとしたことで飛んでいっちゃったんだ。あ、チスイは見てなかったんだったっけ?」
二人の話に、チスイもふわふわしていた意識がはっきりしてきたような気がした。
確か、ベスティアと喧嘩して飛んで行ったのだった。
「お、おぉそうであったな! であればこっちだ」
そう言ってチスイはテトがいる方角を指差す。
しかし、チスイの言葉にアヒトが訝しげに眉を顰める。
「ん? 何でチスイにそんな事がわかるんだ?」
「え? ……ふむ、左様であるな。何故私はあちらの方角を……」
テトという魔物の存在すらまともに接しておらず、喧嘩とやらの状況を目撃してもいない筈なのに、何故かテトの居場所を知っていた。
そして、この後何が起こるのかも、なぜかチスイは予測できた。
「……急がねばならぬかもしれん」
その言葉を言い終えた時、先程チスイが指差した方角から、爆発音が聞こえた。
「嘘だろ!? 急ぐぞみんな!」
アヒトがそう叫び、サラが強く頷き駆け出す。
途中、サラがチスイを懐疑的な視線で見つめてきた事にチスイの心がざわついた。
特に悪さをしたわけではない。なのに、サラにそのような視線を向けられるのはどことなく不愉快で、チクリと胸を刺す痛みがあった。
二人に僅かに遅れてチスイも駆け出し、ふと、一人足りない事に気がつく。
「チビ助がいない……?」
先に向かっているのだろうか。ならば、なお急がなければならない。
チスイは走る速度を上げる。
木々を抜け、見えた先にはテト一人がライオンのような頭に、ヤギのような身体、尻尾の先端が蛇の巨大な魔獣に襲われていた。
「さあ! わたくしのお手製キマエラちゃん! やっておしまいなさい!」
魔獣の背中に立っていた魔族がそう言葉にし、魔獣が咆哮を上げる。
そして魔獣が駆け出そうとしたタイミングでチスイがテトと魔獣の間に割って入った。
「そこまでだ。ここからは私が相手になろう」
チスイは帯刀していた幻月を抜刀する。
途端、魔獣が動きを止め、こちらの様子を伺うように首を傾げた。
「なに?」
思わずチスイも眉を顰める。
すると、魔獣の背中にいた魔族が興味深そうに顔を覗かせる。
「おやおやぁ? もしや貴女がイレギュラーでしたか。自ら出てきてくれて光栄です」
「何を言って……」
チスイの疑問も束の間、アヒトとサラも臨場してくる。
だがそこでアヒトが不敵に口元を歪めた。
「まさか、君がそっち側だったとは思わなかったよ」
アヒトはチスイではなく、魔獣の方へと並び立つ。
「おい、何故そちらに立つ」
絞り出すように発せられた言葉はかろうじてアヒトの耳に届くほど小さなもので、チスイは完全に狼狽してしまっていた。
「なにゆえって、今更言い訳でもするつもりか? 君が敵なのは一目瞭然さ。まぁずっとおれの名前を呼ばないあたり、怪しいとは思っていたんだがな」
「ち、がう……それは……」
ただの照れ隠し、などと言ったところで今の状況が好転するとは微塵も思えなかった。
いったいいつからなのか、初めからだとすれば、敵はアヒトだけでなく、国そのものが敵ということになる。
「だめだ……そんな事、あり得る筈が……」
眩暈がする。
チスイは額を押さえ、揺れる視界を戻そうと頭を振る。
「チスイちゃん……」
そこに、チスイの隣に聞き慣れた優しい声で語りかける少女がやって来る。
「さ、サラ……良かった、其方は私の味方であるか。なればあの男は操られているのだな」
「ううん違うよ」
「え?」
チスイが聞き返そうとするよりも早く、ドスッという重たい衝撃が腹部に走る。
チスイが恐る恐る視線を下に向けると、腹部には氷でできた短剣がサラの手と共にチスイの中に埋まっていた。
「あ、あぁ……あがあああああああああああああああ!?」
チスイの脳に激痛が走る。
頭蓋骨が粉々になり、脳が溶けるような感覚に、チスイは口から溢れる唾液もそのままに、引き攣った荒い呼吸を繰り返す。
「あなたみたいな人は死ぬべきなんだよ。早く死んでくれないかな、かな! あははははははははははははは!!」
森中にサラの奇怪な笑い声が響き渡る。
地面に両膝を付けて動けないでいるチスイの体を押して仰向けに倒したサラは、チスイの腰の上に跨る。
「うっ……サラ、どうして……」
「どうしてって言われてもなぁ。私はずっとこうする事を夢見てたからかな」
静かにサラはチスイの腹部に再び氷の短剣を突き立てる。
「ぐあああああああ!」
裏切られた。
最も信頼していた存在に、裏切られた。
その事が何よりもショックで、チスイは反撃する事ができなかった。
「いつもいつも! チスイちゃんをこうしたいって思ってたんだぁ」
「ま、待てサラぁあああああああああ!」
チスイの腹部に刺さった短剣を抜いては刺し、抜いては刺しをサラは恍惚とした表情で繰り返す。
その度にチスイは悲鳴を上げる。
やがて、腹部と脳の激痛を受け続けた事で声が枯れ、痛みに耐えられなくなったチスイの眼球は潰れ、それでもなお、暗闇の視界の中でもサラの殺意の籠った表情が浮かび上がってきた。
涙と鼻水、唾液で顔面をグチャグチャにしながら、もはや意識などあるか分からないといった状態のチスイに、サラは嬉しそうに短剣を突き立て続ける。
「その顔だよ! いつも人を見下した表情が嫌いだったんだよね。だから今のチスイちゃんの顔はすごく好きだよ」
「あ……ぁ……こ、ろして……」
「それはできないかな。だってここはチスイちゃんの精神空間だからね」
「せ、い……しん……」
サラの言葉を聞いた事でチスイは全てを思い出す。
自身が置かれた状況、目的、そして……
『これで二つ。遂に後がなくなったな』
「…………」
気が付けば智翠はもとの何もない空間で倒れていた。
失明していた視界は光を取り戻してはいたが、幾重にも受けた激痛で未だ明滅状態でぐるぐると目が回っているような不快な感覚が続いていた。
そのため、起きあがろうにも、脳が麻痺してしまっている状況であるため、身体が思うように動かなかった。
何より、己が二度も負けたという事に釈然としなかった。
『理解したか? 己がしてきた事の醜態を、弱さを、認めろ。友など作るから裏切られた時に動揺し、無意識に行動を制限し、隙を晒すのだ』
孤高であることが正解だと述べる虚像。
そして、それが正しいと思ってしまった智翠。
状況は違えど、サラに刺されるのはこれで二度目だった。
故に、認めざるを得なかった。仲間を作り、友を得てしまった事で、確実に今の智翠は警戒心が薄れ、弱体化してしまったのだという事に。
だがそれを言葉にして認めたくはなかった。
認めてしまえば、それまでに得たものが全て無駄だという証明になってしまう気がした。
「私は……」
智翠は虚ろな瞳で虚像を見つめる。
起き上がれる程にまで回復した智翠はふらふらと立ち上がる。
『これが最後だ、私よ。己の弱さを認識したのなら、この事象において何が最善か理解できるだろう?』
そう言った虚像は左手を背後に伸ばし、智翠の視線を誘導する。
霧で見えなかった空間には、いつぶりかのケレント城内謁見の間が浮かび上がっていた。
そして、突如その場が激動する。
いつの間にか虚像の姿はなく、代わりに壁や天井が崩れる破壊音や小さく呻く少女の声が聞こえて来る。
音の方へと視線を向けると、そこには体格が3メートル程に巨大化した、ケレント帝国前国王ボレヒス魔神体と全身傷まみれのベスティアの姿だった。




