第1話 精神空間
暗い水の底。己の鼓動に合わせて周囲が小さく波打つ以外、何も変化がない場所。
己がいったい誰なのか、どうしてここにいるのかさえ分からなかったが、そんな事どうでも良いと思えるほどに身体が重く、何もかもが億劫だった。
眼を閉じ、この場では眠る事が最適解だと感じさせる空間。
だが、時折りやって来るズシリと胃に響くような波動が少女の瞼を持ち上げさせる。
暗かった空間に徐々に光が入り込み、重かった身体がまるで解き放たれたかのように軽くなり、自然に上へ上へと持ち上がっていく。
暖かな光はまるで赤子を抱くかのようにそっと少女を包み込む。
そうか……私は……
己の存在を理解した少女は強い眼差しと共に、光の中へと入って行った。
「目が覚めたか、智翠。久しいな」
智翠が目を覚ますと、そこには焦がれ見知った女性がいた。
「つ、鍔鬼!?」
自分を鍛え上げ、自分に刀を託し、自分の前から姿を消した。恩師である鍔鬼の存在に驚きを隠せなかった。
そして、記憶の中にある鍔鬼とまるで変わらないその美しさに、人ではないことを改めて実感した。
「こ、ここは……?」
智翠が辺りを見回すがそこは何もない。否、霧のようなものが周囲を漂っており、自分が立っている場所以外、見通す事ができなかった。
「精神空間だ。安心しろ私のではない。貴様のだ」
「わた、しの……」
「この霧は現在の貴様の状態だ。不安、恐怖、葛藤……私はそんな感情を抱くように教えた覚えはない」
「ち、違うのだ鍔鬼。これは、私が未熟で……」
「そうだな。貴様は未熟だ。言ったはずだ。幻月に頼りすぎるなと」
「うっ……」
鍔鬼からは怒っているような表情は微塵もなかったが、その言葉には智翠に対して説教するかのように重い怒気が孕んでいた。
そんな冷徹な言葉を智翠はたじろぎながらも受け止める。
「私を驚かせたあの一度で自信過剰になったか? それとも、他人には得られない力に舞い上がったのか、どちらにせよ貴様にはまだ幻月は早過ぎた」
呆れたとでも言うかのように、小さくため息を吐く。
「……だから、幻月を差押えて、見損じた私の口封じでもしに来たのか?」
智翠は僅かに両脚の幅を広げ、いつでも動ける体勢をとる。
鍔鬼のことは尊敬しており、今でも師匠と思っているが、相手は魔族だ。いずれ殺し合う未来があることは智翠も予想はしていたが、まさか『幻月』を奪われた形でとは思ってもいなかった。
だが、それは智翠の勘違いであり、鍔鬼は端的に否定の言葉を口にする。
「残念ながらハズレだ。先程のため息は見極めの甘い自分に呆れただけだ。よって……」
鍔鬼は手に持っていた物を智翠へと投げ渡す。
「それをつけていろ。拡制手套……ここまで胃袋が大きくなった幻月を貴様程度が使いこなせるはずもない。使いこなすための貴様の鞘だ」
それは肘の上あたりまである手甲で白を基調としており、薄純色の藤の紋が手の甲に刻まれていた。
「こ、これは?」
意味がわからないまま突然投げ渡された手甲、その状況にたじろぎ、思わず聞き返すも智翠は鍔鬼の目つきに抵抗できず、それをはめる。
しかし、特に変わった様子もなく、ただの手甲という他なかった。
何か仕掛けがあるのかと自分の手を表や裏に返してはじろじろと眺め回す。
「使い方は後で話す」
そう言うと鍔鬼は智翠に幻月を投げ渡す。
その目はいつかの日の竹林での修行を思い出すほどに本気だった。
「先にも言ったが、ここは貴様の精神空間だ。その手甲は幻月を制御するものだが、使い手の心的面が脆弱では二の舞でしかない」
そう言葉にした直後、鍔鬼の姿が霧によって隠されていく。
どこへ行くのだと咄嗟に手を伸ばした智翠だが、その手は空を切るだけだった。
ーーまずは自分に勝て。
どこからか鍔鬼の声が響き渡る。
周囲をキョロキョロと見回すが、先程と何も変わらず霧で覆われ、何も見えない。
智翠はただ1人、幻月を抱えて立ち尽くすだけとなった。
「自分に勝て、と申されても……」
何をすれば良いのかが分からない。
昔、幼少の頃にやった坐禅でもしろとでも言うのだろうか。
そわそわと何もない空間だと理解していても何度も見回してしまう。
まるで迷子になった子どもの気持ちだった。親が見つからず、知り合いもいない。この気持ちをなんというのだろうか。
その答えに辿り着き、気付いてしまった時、智翠は己に愕然とした。
寂しかった。心細かったのだ。
良き友人、良きライバル、共に戦える仲間、そんな存在に出会い、知らずのうちにそれが楽しいと思い、より長く居続けたいと思えるようになっていた。
今までは何事も1人で行動し、立ちはだかる者は全て薙ぎ払ってきた。誰にも己の間合いには踏み込ませない。苦難が待っていようとも1人で解決する。
だが今は違う。仕合ったライバルであっても、気づけば隣に立ち、苦難を共にし、助け合った。
そんな生活へと変わってしまっていたことに対して、「弱くなった」と感じてしまった己にどうしても納得ができなかった。
「そんな筈はない。私は、大丈夫だ」
ぎゅっと幻月が収められた鞘を強く握りしめる。
途端に幻月の鼓動が波打ち、智翠の魔力を吸い上げる。
「うっ、ま……落ち着け幻月。今は戦場では無い」
肺が締め付けられる感覚に身体を丸め、顔を渋らせる。
『全く、見てられぬな』
「……!!」
唐突に掛けられた声に智翠はその方向へと瞬時に振り向く。
霧の奥に人影が見える。
『まさか己の理想も貫けぬとは……』
どこかで聞いたような声だが、智翠の記憶に当てはまる人物の顔が浮かばなかった。
背丈は智翠と同じ、そして……
「お、まえは!?」
『フン、一念発起せねば、死することになるぞ? 私よ』
霧を抜けて現れたのは、いるはずのない存在。腰にこの世に二つとない幻月を帯刀した智翠自身だった。




