第1話 止めるための戦い
魔界に足を踏み入れたサラは息を呑んだ。これほどにも汚れた空気というものを感じられるのは初めてで、無意識に眉間にしわが寄ってしまう。魔族化してしまったサラの身体であれば何かしらの耐性があるのかと予見していたが、まったくの見当違いだったようだ。だがそれがサラにとって、自分がまだ人間であるという事を教えてくれているような気がして内心では安堵や喜悦を感じずにはいられなかった。
ここでは他人に見られる心配はないので、背中の羽根を大きく広げたサラは腕にアキヒを抱いたまま空中を浮遊し、途切れた魔力の痕跡の方向を重点的にチスイの捜索に当たっていた。
「あれは……」
「どした? チスイって子見つかった?」
サラの呟きにアキヒが反応する。
「ほら、あそこ見て」
サラが指差す方向にアキヒは視線を向ける。
そこにはゴブリンと思われる群れがある一つの方向へと向けて走っていた。
「あの方角って、俺らが潜って来た穴があるところじゃん。行かせて大丈夫なのか?」
「分からない。けど、今私たちがするべきなのはナミヒラさんを見つける事だよ」
そう言ったサラはゴブリンの群れへと再度視線を向ける。ゴブリンたちが結界壁の穴に目掛けて走る姿に違和感を覚えたからだ。
何故かは分からないが、まるで何かに怯えて逃げているようにも見えた。
そんな違和感など気付きもしないアキヒが唐突にサラへと質問する。
「ねぇサラさん! チスイって子を見つけたらどうするのさ。なんか作戦とかあるの?」
「え? んー……そんなものはないかな」
「えぇ、ダメじゃん」
「あはは、まぁそうだね、とりあえず刀を奪うことに専念するかな。それが一番ナミヒラさんを正気に戻せる方法だと思うから」
チスイが持つ刀……『幻月』と言う「それ」に操られてしまっていると推測するサラは、何とかして元のチスイに戻すためにここまで追いかけてきたのだが、正直今のサラに勝機は見えない。
チスイを殺すと言う意味での勝機なら全くない訳ではないが、チスイの動きを止め、刀を奪い、正気に戻させるという行為が最も有効な方法であり、最も難解な方法であった。
チスイを放置しておけば国が危ない。だからといってチスイを殺すわけにも行かない。
捜索している間、サラの脳内では「チスイを殺すべき」という声が響き渡りサラの集中力を阻害してくる。
……うるさい、黙って。
おそらく吸血を充分に終えていないからだろう。暴走状態の際に現れる悪いサラと本来のサラが脳内で混在してしまっている状況なのだ。
その声にだけは従いたくはなかった。それだけはしてはいけないとサラは感じた。何故かは分からないが、チスイを殺せば必ず後悔するような気がしてならなかった。
すると、アキヒが左方を指差してサラに告げる。
「あそこ! サラさん、魔族の群れの中に何かいる。一瞬、火花みたいなものが見えた気がする」
空中で大きく旋回したサラは、アキヒが指差す方向へと身体を向け、視線を向ける。
サラの視力は人間のものより遥かに遠距離を視ることができる。アキヒが魔族という大まかに括った存在をサラならどんな種族なのかまで把握する事ができた。
「あれは……!」
見た目は人の形をとっているが、頭部がブタ又はイノシシに近い形。
その存在をサラは初めて見たが、知識として知っていた。
「オーク……」
そしてその種族が取り囲む中心には先程公園で戦った刀を持った少女……チスイだった。
「えっ、あそこにいる魔族の集団ってオークなの? でもオークってあれじゃん、ゲームでいうところの雑魚キャラというか……」
「……何を言ってるのかよく分からないけど、確かにオークは魔族の中では下位種族にあたるかな。けど、ゴブリンとかと同じで群れで動くし、ゴブリンと違って力があるから厄介かなー」
そうアキヒに説明しながらサラは飛行速度を上げていく。
いくら強力な武器を持ったチスイでも多数を相手に戦うのは不可能なはずだ。数として300程はいるだろう。直ぐにでも助けに入らなければチスイの命が危ない。
徐々にオークの群れの中心に近づき、チスイの姿が明確になる。
チスイはオークの攻撃を赤子を相手にするかの様に容易く、その刀で斬り伏せていっていた。一度の振りで数名のオークの身体から血飛沫が舞い上がり、肉塊へと成り果てていく。
「…………ごめん、アキヒ君。ここで下ろすね」
「え、なんでだよ」
サラは近くの岩場の陰にアキヒを下ろす。
「怪我人は休んでて。その傷でオークの集団を相手はできないでしょ? それに……」
サラはそこで言葉を止めた。
「それに、なに?」
「うんん、何でもないかな。とにかくここで待ってて!」
サラは羽根を広げて地を蹴り宙を飛んだ。
チスイと戦うことでまた暴走し、アキヒを傷つける事だけは避けたかった。血が足りなければオークの血でも飲めばいい。人の形をとっているのなら多少は代用になるはずだと内心に言い聞かせて群れの中心に勢いよく降り立った。
「そこまでだよ! ナミヒラさん!」
威勢を見せるためにサラはわざと脚に魔力を集中させて地面を陥没させて着地すると、チスイに向けて叫んだ。
その声でチスイの動きが止まり、オークの群れが動揺のざわめきを起こす。
オークたちが一斉に後退り、距離をとる。サラが無意識に放つ魔力の異質さに警戒してしまっていた。
そんなオークたちを無視してサラはチスイに向けて声をかける。
「私が相手をしてあげる。もうオークには指一本触れさせないよ」
チスイを助けるために飛び込んだのに、なぜかオークを助けたかの様な自分の発言に違和感を覚えながらチスイを睨む。
串刺しにされていたオークの腹から刀を引き抜き、サラに体ごと向けるチスイ。
その辛そうな表情を見たくないという気持ちも含めて、サラはチスイではなく、チスイが持つ刀に注目した。禍々しさを感じさせる膨大な魔力が刀の形をした「それ」に集中しており、オークたちの魔力もその刀から感じられた。
「それ」は人であれ何であれ、魔力を持つもの全てを喰べているのだ、と改めてサラは結論付けた。
「すぅはぁ……たとえ、魔力が奪われたとしても、私はあなたを助けるよ! それが、私がこの身体でやり遂げなきゃいけない事だから!!」
なぜかは分からない。記憶がないから確証もない。だけど、目の前の少女がとても大切な存在だった事だけは知っている。身体が覚えているのだ。
サラは右手首に付けているブレスレットをそっと外す。また斬り飛ばされてしまっては折角の「彼」からの贈り物を失くしかねない。
ここはなぜか太陽の光が届かないため、ブレスレットがなくても焼け死ぬことはない。ただ、吸血量が足りてないため、『吸血畸化』の進行が速くなるか、もしくは暴走する可能性が高まるくらいだろう。
大切なブレスレットを羽織っているアキヒの皮ジャケットのボタン付きポケットに入れてしっかりと閉める。
「いつでもおいで! その汚い魔力ごと美味しく吸い尽くしてあげるから」
サラは体勢を低くしペロリと唇を舐める。
あれ、何で今私そんなわけわかんない事言ったんだろ……
チスイの血を吸い尽くしてしまっては本末転倒である。助けることが一番の目標。
ブレスレットを外した事によって思考が暴力的な思考へと上書きされつつあるのだろう。
血は二の次血は二の次血は二の次、血はナミヒラさんを助けた後、覚えててね私。
そう自分に言い聞かせるサラだが、そもそもチスイから血を吸う事自体が間違っている事に気がついていなかった。
そんな内心など気にもせずにチスイが「それ」を後方に構え、魔力を爆発させて加速しながらサラに肉薄した。
それを見てサラも口元を大きく弧の形に描きながら、獣の如く地を蹴った。




