第6話 変貌の兆し
ケレント帝国内にあるとある森の奥。
そこは一角だけ岩山が多く、数十年前に魔石が採掘できるとされて有名になり多くの採掘者が訪れていた場所であった。
岩の表面からでも魔石を採掘できたのだが、内部の方がより優れた魔石が手に入るという事で、観光客の呼び寄せも兼ねて人工的な洞窟が造られ、中にはトロッコ用のレールが配置されている。
だが、その魔石も採掘できる数が減り観光客もいなくなり、現在ではその跡地という形で残されている。
洞窟の最深部の広さは人が数百人を超えてもまだ空きがあるほどに広く造られており、そんな広々とした空間に、小さくだが反響して大きく呻くような少女の声が響き渡る。
「ぐっ……! だめ……どうして、力が抑えられない」
そこには吸血鬼化してしまった少女、サラが背中を丸め苦しそうに言葉にしていた。
地面には大量の汗が滴り落ちる。
ベスティアとの戦いの後、サラはこの洞窟を拠点に活動していた。しかし、サラの身体は徐々に変化し、行動ができなくなってきていた。
「……ぅぐ、はぁ、はぁ……もう、夜、だよね……ご飯、調達しなきゃ」
初めは昼間でも活動できたサラの身体は、次第に太陽光を無意識に避けるようになってしまった。
無意識の自己行動の違和感に気づいたサラは原因を知るべく、2日前、反射的に拒否する身体を無理やり動かし、太陽の下へ自分の左腕をかざしてみる事にした。結果、サラの腕は突如赤く腫れ、水脹れが生じる。
痛みと危機を感じたサラはすぐに腕を引くが、わずかに遅かったのか、指先が灰と化し崩れ落ちてしまっていた。普段は指が落ちようが脚がちぎれようが、意識を集中させるだけで元に戻っていたのだが、この時は戻る事はなかった。
当初は焦りを覚えたが、動物の血を摂取したらすぐに指が生えてきた。だがしかし、指の形状はとても人間と呼べるものではなかった。
そういう事もあり、現在はサラは夜になってから外に出て活動する事にしている。
だがそれもいつまで続くかは分からない。サラ自身、そう長くはないのではないかと感じてはいる。
今も血が欲しくて欲しくて堪らない感情が湧き上がってくる。
もう動物の血ではどうにもならないのだろう。
「なん、でかな……人間の血を飲まなければ、吸血鬼化は進行……しないんじゃなかったの……?」
これではまるで逆ではないだろうか。既に焼け落ちた左手は悪魔の様に指が長く肥大化し、鋭利な爪が伸びてしまっていて生活面でとても邪魔でしかない。
様々な木々に身を預けるようにしながら森の中を彷徨う事数分、1匹の鹿が池の水を飲んでいるところを見つける。
最近はこの辺りの動物が減ってきている気がする。少し狩すぎたのか、それとも動物の生存本能による群れでの避難か。
そんな事を考えながらサラは木の影に隠れて右手の人差し指をすーっと左へ振る。
刹那、鹿の飲んでいた水が隆起し、一瞬にして凍ってできた鋭利な氷柱が鹿の口から脳天を貫いた。
「ごめんなさい鹿さん。だけど、私も生きるためだから」
鹿の死体に近づいたサラは解体するべく指をかざす。
鹿の肉は美味しい。だけどその味も今は感じられない。血の方が数十倍は美味しいから。これが人の血だったらどんな味がするのだろうか。きっと一口舐めるだけで幸せな気分になれるんだろう。今からでも飲みに行った方が良いのだろうか。きっとその方が良い。選択は間違ってない。なにせ生きるって事は幸せでなくてはいけないのだから。
「はっ! だめだめ! 人の血は、吸血鬼化を早めちゃうってベスティアちゃんが…………」
変な思考に囚われつつあるサラは、自分に言い聞かせるように言葉にするのだが、ふとそこである事に気がつく。
そもそもこんな生活をする羽目になった原因はベスティアにあるのではないか。ケレント城に囚われた彼女を助けになど行かず、悲しむアヒトを慰めていれば今頃一緒に幸せの道を歩んでいたはずだ。
「…………あの泥棒猫が悪いんだ。アヒトは私のものなのに! ずるいよ、ずるい、よ。一人だけ幸せになって!」
サラは心の底から湧き上がってくる怒りを自身の拳でもって何度か地面へと叩きつける。叩いて叩いて叩き潰して、気がつけばサラが食べようとしていた鹿はぐちゃぐちゃに潰れ、もはや原型が何だったのかさえ分からない状態になってしまっていた。
それを見てサラは我に返ったように地面にぺたんと座り込む。
「私も、幸せになりたいな…………」
瞳に涙を溜め、潰れた鹿を眺めながら膝を抱えたサラは、現在着ている藤色の羽織の袖が視界に入り、ある少女を思い浮かべる。
「チスイちゃん……」
彼女は今どうしているのだろう。生きているのだろうか。彼女には申し訳ない事をしてしまった。決してわざとではない。チスイを攻撃するつもりなど微塵もなかった。
何せチスイはサラにとって大切な友達だから。
最後にチスイはベスティアを庇って倒れた。それはなぜかーー決まっている。チスイにとってベスティアはなくてはならない大切な存在だからだ。
そんな存在を殺して良いのだろうか。否、チスイが喜ぶわけがない。
もう自分のつまらない感情で争うのは辞めなくてはならない。自分ではそう理解しているのに、気がつけば誰かを恨み、殺したい気持ちでいっぱいになっている。
「……私は、いったいどうすれば良いの? 教えてよ、チスイちゃん……助けてよ……アヒト……」
サラの瞳から溢れた涙は、頬を伝い、雫となって地面へと落ちた時だった。
「あれ? こんなところで何してるのお姉ちゃん」
「え?」
唐突にかけられた声に驚いたサラはその方向へと視線を向ける。
そこには背中に羽の生えた小さな少女がおり、そしてサラはその少女のことを知っていた。
「あ、あなたは……!」
春頃に出会った吸血鬼の少女ーーアニ・ルーカード。
偶然出会った彼女に連れられ遊びまわり、そして彼女の血が入った小さな瓶をサラへと渡してどこかへ行ったきり、会うことのなかった魔族の少女。
「久しぶりだね。アニだよ! 少しだけ眷属の感覚がしたから追ってきてみたけど、もしかしてお姉ちゃん、私の血飲んじゃった? よく死ななかったね」
「え、えっと、血って瓶に入ったあれだよね。飲んではいないんだけど……」
そこまで言葉にしてサラは理解した。サラがこんな姿に変わってしまった原因が、アニがくれた瓶にあったのだという事に。
しかし、アニがくれた瓶がなければ今頃サラは死んでいた。あの瓶が割れ、中にある血がサラの体内に入ったおかげでサラは今生きている。
その事実にどんな感情を抱いたらいいのか分からずに視線を泳がせていると、アニの顔がサラの眼前までやって来る。
「え!? な、何!?」
「うごかないでね」
鼻先が触れそうなほど近くでアニはサラの瞳を覗き込み、そして、すっと視界から外れたと思った瞬間、サラの首筋にアニが噛み付いていた。
「んぁ……」
わずかに首筋から血が抜かれた事をサラは感じる。
すぐに首筋から離れたアニはペッと口から吸った血を吐き捨てる。
「んー、私の血を感じるのは感じるんだけどぉ……お姉ちゃん人間の血飲んでないでしょ」
「う、うん。だって、人間の血を飲んじゃうと、吸血鬼になっちゃうんだよね? アニちゃんには悪いけど、私は吸血鬼にはなりたくないなって思ってるんだ」
溢れんばかりの力は魅力的だが、その力で友人だけは二度と傷つけたくはない。日の下を歩けないのは御免でありアンやリオナがきっと心配しているはずである。早く元の身体に戻して、元気な顔を彼女たちに見せなければならない。
そんな事をサラは考えていたのだが、アニはキョトンとした顔をサラに向けていた。
「何を言ってるの? お姉ちゃんはとっくに『きゅうけつき』だよ?」
「…………え?」
一瞬何を言ってるのか理解できなかった。今の自分の状態が吸血鬼とはどういう事か。ベスティアはサラの事を「吸血鬼もどき」と言っていたはずである。「今ならまだ間に合う」とも言っていた。
サラは一度も人間の血を飲んでいない。なのになぜアニはサラを「吸血鬼」と言ったのだろうか。
「ま、まって、私一度も人間の血を飲んでないよ。なんで吸血鬼になってーー」
「なんで飲んでないの?」
「え、なんでって……飲まなければ人間に戻れるんじゃ……」
「そんなわけないじゃん」
「……どういう、こと……」
サラの膝が震え出す。自分が勘違いをしていたのだろうか。それとも……
「うっ……!」
突如サラは背中に痛みを感じて、地面に膝を付く。
痛みを逃そうと背中を丸めてうずくまる。
それに合わせてアニもしゃがみ込む。
「私の血を取り込んだ時点でお姉ちゃんは人じゃないの。そして人の血は絶対に飲まなくちゃいけない」
アニの話がサラの耳に入ってくるが、それどころではない。
背中が熱い。痛い。肉が引き裂かれる様な感覚に息が絶え絶えになる。
まるで、何かがそこから生え出そうとしている様な感覚。
「じゃないと、お姉ちゃんは『吸血鬼』じゃなくて、『吸血畸』になっちゃうよ」
「あぁあああああああ!!!」
痛みに耐える事ができなかったサラは地面に向けて叫び声を上げる。
それと同時に、サラの背中から黒い羽が肉を裂いて一気に生えてくる。
「はぁ、はぁ、うっ……はぁ、はぁ」
痛みが引き、サラは息を整えるとゆっくりと体を起こす。
「わぁ! おそろいだね! ほら!」
「へ……?」
アニが笑顔で背を向け、自分の背中にある羽を見せてくる。
それを見てサラはようやく自分の背中にある異物に気づいて顔を青ざめさせる。
「なに、これ」
「羽だよ? お姉ちゃんは少し生えてくるのが遅かったんだね」
「な、治るんだよね?」
「むりだよ」
「そ、そんな」
「えっとねー、吸血畸っていうのは、人の血を飲まなかった者の出来損ないがなっちゃうやつ。んー、ようするにただの傀儡。そこらの魔物と変わらないよ。人間と呼べる形はほぼないし、意思もないし、だけど弱肉強食の中ではかなり上の方で再生力もあるから、無駄に生き残るし、処分するの面倒なんだからね?」
サラは知らない間にアニが言う『吸血畸』とやらに身体が徐々に近づいていたのだ。
このまま放置すればより進行し、サラは二度と表に顔を出す事ができなくなり、アヒトや友人に会うことができなくなってしまうということだ。
「人の血を飲めば進行は遅くなるから大丈夫。毎日飲んでれば永遠に大丈夫だね。今から行く? それとも私と遊んでからにする?」
背に腹はかえられない。人の血を飲まなければ魔物以下の化け物に成り果てるのだ。
だけど、どうせ飲むのならやはり最初の血は自分が好きな相手にしたい。
「……分かった。だけど私1人で行く。アニちゃんはここで待ってて」
アヒトのいるところへ。ベスティアにも聞きたいことが山ほどある。
「そぉ? じゃあ待ってるね」
アニは目の前にある幹が太い木に駆け寄っていくが、言い忘れた事があったことに気がついて言葉にしながら振り返る。
「あー、けど、お友達のところには行かない方がいいと思うなーってもういないの? 人の血を飲んでないから正常な判断なんてできないと思うんだけどなぁ。まぁ、血を別けてもらうだけなら大丈夫かな」
アニは木の枝まで飛び、そこに座ると、どこから取り出したのか、「いもち」と書かれた菓子袋を開けて中のものを食べる。
この世界の星空は綺麗だ。ずっと眺めていられる。
サラが戻ってくるまでの間だけだ。それくらいならリンは怒らないだろうし、この世界も壊れる事はないはず。
長居するとこの世界にも元の世界にも戻れなくなるって聞いてるけど、既に1年近くここに居座ってる亜人もいるみたいだし、今更一人や二人増えたところでアニには関係ない。
アニには友達がいてくれるだけで満足である。
「この世界ってテレビとかゲームとかないのかな……」
そんな事を呟きながらアニは満天の星空を眺めるのであった。




