第1話 ある朝の出来事
彼に出会った。
私を汚い目で見ない優しい人。これが恋だって知った時は嬉しかった。
私でも男の人を好きになる事ができるんだって、教えてくれた。
だからもっと彼のことを知りたい。彼と一緒にいたい。
ーーねぇ、私のことを見て?
なんで見てくれないの? 私はこんなにもあなたを見て、あなたのために頑張っているのに。
私に初めてを教えてくれたあなたじゃなきゃダメなのに。
……あの猫が悪いんだ。なんで猫が喋るの? どうしていつも隣にいるの? そこは私が来るはずだったのに。
ずるい、ずるいずるいずるいズルイズルイズルイ!!
あなたは私のものだから。あんな猫のもとへなんか行かせない。
ずっと隣に置いてあげる。その方がいいでしょ?
--ね? アヒト
カーテンの隙間から差し込む陽の光が暗闇を照らさんとばかりに閉じていた瞼へと直射され、鬱陶しそうにアヒトは意識を覚醒させる。
季節は冬だというのに、これだけの日光が差し込む角度になるまで寝ていたのかと自分に呆れる。
しかしながら、そんな冬の季節だというのに、特段今のアヒトの身体は寒さを感じず、追加で腹部に何やら重みを感じた。
「……うんん?」
アヒトは眩しい視界に抗うようにゆっくりとその瞼を開ける。
「にゃは、やっと起きたかぁ。いつまで寝てるんだよこの寝坊助ぇ」
「--ッ!?」
目の前からしたその声にアヒトは薄く開けていた瞼を一気に持ち上げた。
アヒトの腰に跨り、ふわふわな尻尾を揺らしながら悪戯な笑みで見下ろす獣耳の少女--ベスティアがそこにいた。
「……ティア? な、何をしているんだ?」
聞かなくても見ればわかる状況にあえて質問する。
「何って、ご主人様に朝のご奉仕をしようかと思っちゃってたり」
ペロリと唇を舌でなぞるベスティア。
そんな言動にアヒトは心臓が飛び出しそうなほど鼓動が速くなっており、明らかに動揺している自分に落ち着けと唱える。
ボレヒスの一件以降、アヒトとベスティアは晴れて結婚することとなった。アリアの支援のおかげで全てが穏便に事が進み、居住地まで提供してくれた。
この国を守ってくれた謝礼・報奨金の代わりといったものなのだろう。
ちょうど住む場所も無く、両親も特に反対してこなかったためありがたく頂くことにしたのだが、どうやらあの一件以来、ベスティアには変化が起きているみたいだった。
「にゃはは、ほらご主人よ。ベスティアちゃんの朝一濃厚キスをその身で受け止めろよぉ」
「おわっ! ちょっ、まっ」
寝起きで思考が追いついていないアヒトへベスティアは頬を紅潮させ口を窄め、その灼熱の瞳を輝かせながらアヒトの顔へと近づいていく。
その瞳を見たアヒトはようやく理解する。
「ティアじゃなっ、むんんんん!?」
だが気づいたところで今のアヒトに口付けしようと迫る少女を止める手段などなく、二人の唇が重なり合う。
10秒、20秒と経過し、興奮気味にゆさゆさと左右に揺れるベスティアの尻尾が、突如硬直した。
途端にアヒトの唇から離れ、顔を上げ、勢いよくアヒトから飛び退き、そのまま高速で転がるように壁際に逃げ、ペタンとベスティアは座り込んだ。
「でぃでぃディア!? にゃにゃにゃに勝手なここことをしてる!?」
そんなベスティアの叫びにアヒトは体を起こし、離れた位置で頭を抱える亜人少女へと視線を向ける。
遠くからでもわかるほどに顔を真っ赤に染め、現状を全く理解できていないといった様子だった。
それを見てアヒトはほっと胸を撫で下ろす。羞恥心でいっぱいになってしまっている亜人少女こそ、アヒトの知る本当のベスティアであることが瞳の色を確認せずとも理解できた。
ボレヒスの一件以降、ベスティアに起きた変化というのはこれである。
ベスティアの小さな暴走は今日に始まった事じゃない。アヒトもベスティアの体の事については本人から聞かされたため、ある程度理解はしているつもりでも、いざそれを対処しようとなると手がつけられないといった感じである。
そんなこんなで今日もまんまと別人格のベスティアにやられてしまったわけだが、アヒトは一つ、ベスティアの発言から気になる単語を聞いた気がした。
未だ混乱状態から覚める事なく目を渦巻いているベスティアへとアヒトは近づいていく。
「なあティア」
「ひゃい!?」
ビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤な状態にしたままアヒトを見上げるベスティア。
アヒトが座り込むベスティアへと視線を合わせるべく自分も片膝をついてしゃがみ込む。
その真剣な瞳にベスティアの鼓動がより加速し、既に赤い顔を更に真っ赤に染め上げていく。
「ディアって君の別人格の名前なのか?」
「……ふぇ?」
何を聞かれたのかわからないといった様子でポカンと口を半開きのままベスティアはアヒトを見つめる。
顔に昇っていた熱も一気に冷めたのか、赤かった顔がもとの肌の色へと落ち着いていた。
「ほら、さっき言ってたじゃないか。それともおれの聞き間違いか?」
「あ、えと……聞き間違いじゃない。ディアは私のもう一人の人格の名で、その……名前がないのは可哀想だと思った、それだけ」
「なるほどな。いい名じゃないか」
そう言ったアヒトは軽く微笑むと、ベスティアの頭に手を添える。
「遅くなったけど、これからよろしくディア」
主導権がベスティアにある今、中にいるディアにアヒトの声が聞こえているかは不明だが、とりあえず挨拶だけはきちんとしておこうと思っての行動だったのだが、撫でられているのがベスティア本人であるため、彼女からすれば反応に困ると言った様子の表情だった。
しかし、撫でられるだけというのもベスティア自身悪くない気分のようで、すぐにくすぐったそうに目を細め、この感覚を自分だけが堪能している優越感により表情が緩んだ刹那、
ガシッとアヒトの腕をベスティアが両手で掴み、自分の体へと引き寄せて抱き抱える。
「にゃはは、褒めてくれて嬉しいぞ。これからはご主人のことはこのベスティアもとい、ディア様が全力で守護してやる。感涙に咽べよ」
「お、おう……」
突如入れ替わったディアが灼熱の瞳を細めながら、アヒトの腕に頬づりをする。
「や、やめてぇえ!」
「ごああああ!?」
だが瞳をいつもの空色へと戻しそう叫んだベスティアは頬を染めて突き放すように両手でアヒトの胸を強く押した。
ベスティアの両手がアヒトの胸に触れると同時にわずかな衝撃波を生み、あまりの威力にアヒトの体は部屋の扉側まで吹き飛ばされてしまった。
「は! ご、ごめんにゃさいあひと。えと、私たちは夫婦になったけど、その、そそそういう行為はまだ早いかなって。もう少し歳を重ねてからでも遅くはないと思う。たぶん……ディアは黙ってて! 第一、ディアがあんなにくっつきに行かなければ、あひとだって怪我せずに……え? いや、だから私はまだ早いって--」
どうやら他人には聞こえないディアの声と口論になっているようで何を言われているかは定かではないが、ベスティアの頬が再び赤くなっていることから大方の予想はできるというものだ。
アヒトは痛む体を押さえながらゆっくりと起き上がる。
「何はともあれ、仲がいいというのは素晴らしいことだな」
「ぜんっぜん!」
アヒトの呟きを聞いていたのか、ベスティアがそう叫んでくる。おそらく中にいるディアも同じことを思っているのではないだろうか。
そう考えていると、廊下からとてとてと走る音が聞こえ、この部屋の扉が開け放たれる。
「ご主人さま! 今すごい音が聞こえたのです! だいじょうぶなの……です?」
飛び込んできたのは正式にベスティアの義妹となったテトである。
テトは扉の横で座り込むアヒトと頬を赤らめるベスティアを交互に見て、頬を膨らませフンスカと鼻息を鳴らす。
「ティアお姉ちゃん、ご主人さまが大好きなのはわかりますですけど、やりすぎてはダメなのです。こう毎日さわがれてはさすがのテトもあきれるですよ」
「ちがっ、テトこれは私じゃなくて、いや私なんだけど…………うぅぐぬぬぬ」
何も言い返せないベスティアが少し涙目になりつつ、またディアに何か言われたのだろう、「うるさい」と小さく呟く亜人娘がそこにいた。
そんなベスティアへの軽いお叱りを終えたテトはパチンと手を叩き、満面の笑みをアヒトたちに向ける。
「さ! お昼の時間なのです! もうご飯はできてるですよ」
おいでおいでとリズムよく手を叩くテトにアヒトたちはふっと小さく笑みを零す。
テトはテトであの一件以降、精神的にかなり大人びた気がするとアヒトは感じていたが、やはりまだまだ可愛らしい幼子である事には変わりなかった。
「了解。今行くよテト」
「ん。すぐ行く」
ベスティアも同じ事を思ったのか微笑みながら軽く頷き、テトの元へと歩み出す。
それにテトは「きゃは」と笑い、小走りで階下へと駆けて行くのだった。




