仄かな日常のスパイス
読み終えた本を閉じ、首を回す。
固まっていた筋肉と骨が、小気味いい音を立ててほぐれていく。
「良作だったのか?」
目線も向けず、部長は言葉だけをこちらに投げかけてきた。
たった二人の文芸部は驚くほど静かで、その言葉も明瞭に私の耳へと届いている。
「少なくとも、私にとっては」
「ふむ。そいつは喜ばしい上に羨ましい」
読書の手を止め、部長は私の手元へと視線を向けた。
すでに読み終えた本だったらしく、懐かしいなと呟く声がこちらに届く。
「人の好みは千差万別。小説であろうとそれは変わらんな」
「あれ、部長はお気に召しませんでしたか?」
そういうわけではないのだが、と。
どこか困ったように、部長は頬を掻いた。
「心に刺さる作品ではなかったな。その証拠に内容もうろ覚えだ」
正直なのは美徳だが、残念な話だ。
この喜びと興奮を分かち合える相手がいないというのは少し寂しかった。
「じゃあ、部長の好みってどんなのです?」
「それはまた、難しい質問だな……」
少し考えこみ、部長はいくつかの作品名を列挙した。
半数程度は私も聞いたことがある名前だ。
「……なんというか、共通点の見えないラインナップですね」
「乱読家の自覚はある」
ジャンルも作者もバラバラな作品たちには、一切のまとまりがない。
適当に本の名前を並べたのではないかと疑いたくなるほどだ。
「人の好みなど、そんなものだろう。嗜好に一定の方向性はあるだろうが、至高の作品とまで限定すると、皆そうなるものだ」
そんなものだろうか。
試しに私自身で試してみる。
幼少期から現在までの思い出に残っている作品……。
そのいくつかを数え上げると、確かに先輩の言う通りだった。
「うわ、本当。あっれぇ……?」
不思議に思う私の様子を見て、部長の頬が若干緩んだ。
気恥ずかしさで、私の頬は赤みを増している気がする。
「乱読は楽しいぞ。自分でも知らない自分の好みを知ることができる。お前もたまには苦手な伝奇小説でも読んでみたらどうだ」
そう言って、部長は棚から一冊の小説を私に手渡した。
本屋に並んでいても絶対に手に取らないだろうハードカバーの小説は、どうしてだかいつもよりも嫌悪感が薄れている。
「まぁ、部長が言うのなら……」
気乗りのしない声とは裏腹に、本を開く手は軽い。
たまには気まぐれもいいかもしれない。
人生に微かなアクセントはつきものなのだから。