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医務室で

 お待たせしました第九話です。遅筆であるにも関わらず、この物語を読んで下さる方、ブックマークや評価、感想下さる方本当にありがとうございます。


 また、作中で女性差別を表す表現がありますが、実在の人物を貶めている意図はございませんので、ご了承ください。

**********


―冷たい憂鬱が胸の中に存在しているのに、ベルの心は不思議と凪いでいた。


 それはある種の落ち着きというよりも、憂鬱が胸の中でひしめき合って、身動きを取れないでいるような、そんな感覚だった。


 ベルの目の前には曇りの空よりも濃い灰色の天井が広がっていた。灰色のローブを脱いで、ワイシャツ姿で簡素なベッドに寝転がる彼女は、その上をゴロンと転がり、右半身を下にする。ベッドに横になるためにほどいた波打つ黒髪が彼女の視界に入った。ベルは今、砦の中の医務室で休んでいた。いや、正しく言えば、強制的に休まされていた。


 合同演習が終わり、後片付けや負傷者の手当てに入るなか、どうやらベルの顔色が悪かったらしく、それに気づいた同じ隊の者たちによって強制連行され今に至る彼女。ベルが大丈夫であると言っても、聞き入れてもらえず、それどころか、騎士団のフォルケ隊長、カッセル副隊長にまで休めと軽く怒られる始末だった。


 周囲に味方がいないなか、ベルはしぶしぶそれに従うしかなかったという訳だ。


「…退屈ね」


 ベルはポツリと呟く。


 今現在、医務室にはベル一人だけだった。


 通常、ケガ人は、野営地や砦の中でも広い場所で治療を受ける。ベルがいるこの部屋は確かに医務室に違いないが、通常、砦の中で働く者たちがケガや体調を崩したときに使い、合同演習の時はほとんど使う者がいない場所だ。普段は常駐している医師や治療術師たちも、ベルが連れてこられた時にはいてくれたが、今は、ケガ人の治療のために出払っている。


ベルも合同演習が初めての参加ではないからこそ、準備や本番以上に、後始末の方が大変であると知っていた。きっと今は猫の手を借りたいほどに忙しいのだろう。


 ベルの記憶の中では、この医務室に運ばれたのはベルだけではなく、何年か前に演習で貧血を起こした者や、魔力を使いすぎて倒れた者などがいた。しかし、圧倒的少数だ。まさか自分が運ばれるとはベルは夢にも思わなかった。そして、同時にひどく不甲斐ないと思った。


 自分の顔色が悪かった原因は、ベルは何となく予想がついた。レオノーラと対峙して、醜い自分と酷い失態を自覚して、ショックだったからだ。つまり身体的なものではなく精神的なものが原因だ。


 ベルは、再びベッドの上をゴロンと転がり、再び灰色の天井を仰ぎ見る。部屋の中を漂う消毒液の臭いがひどく鼻についた。部屋の中に存在するのは、蓋をするように広がる灰色の天井、その下には真っ白な床と、様々な薬品と器具のしまわれている白い棚、その側の灰色のローブが畳んで置いてあるデスク、右側には白い扉、そして、ベルが横たわる白いベッド。


なんとなく、死を連想してしまうような場所にベルは思えた。


 そういえば、昔、魔術学院にいた頃、初めての実地訓練は隣国に近い小さな村だったと、ベルは何年の前の記憶が急に甦った。


魔術学院では、実践力のある優秀な魔術師を育てることを目的としている。そのため、授業のカリキュラムの中に、王宮の騎士団や魔術師団の仕事に、実際に参加させてもらう実地訓練が組み込まれていた。本来であれば、弱い魔物退治への同行や、市街地の見回りの同行などを訓練生としてさせてもらうが、ベルが学生だった頃は違った。


あの時、ベルは、初めて悲惨な死に立ち合った。


**********


 『―君たちには、犠牲者の回収をしてもらう』


 中年くらいの王宮魔術師が、静かな声で、ベルたち学生にそう告げた。ちょうど、とある村が見える、長閑な山道の途中のことだった。移動魔術により学生と王宮の騎士や魔術師の全員がその山道に降り立った時に、無表情に学生に告げた王宮魔術師。


その言葉を聞いた時に、『あぁ、いよいよなのか』と、ベルは思った。元々、魔術学院の先輩達が話していたことや、嫌でも耳にする近隣諸国の情勢から、自分達が何をするのか、大人ではない学生でもなんとなく想像がついていた。


ベルたち学生に与えられた課題は、隣国により襲撃された村へ行き、村人や敵兵の遺体を回収することだった。


 遺体として村人に混ざり村に残った敵兵は、旧リーヴェント帝国の残党兵だった。旧リーヴェント帝国は今では、隣国と呼ばれる名のない国。


 元々、好戦的であり、近隣諸国との間で緊張状態を続けていたが、十数年前から、近隣の小国を中心に侵略し始めた。



それに対し、もちろん周辺諸国は同盟を組んで対抗したが、帝国は元々大国である上に、強大な軍事力や生物兵器の投入などにより多くの犠牲者が出た。


ルミエーダ王国は、自身も大国であるために、その影響を考慮して、侵略されている国への物資提供や難民受け入れ以外は、静観の姿勢を取っていたが、事態の重さを受け止め、武力制裁という直接的な介入を行ったのは今から十年前。ベルが学生だった当時は四年前の話だ。


 近隣諸国と侵略戦争を始める前から、厳しい統制や圧政により、なんとか国としての形を保っていた元帝国は敗戦国となり解体され、多くの民衆と広大な大地が残った。 


 その結果、元帝国内で各領地での独立や分離、覇権争い、復権闘争など、隣国は混乱の時代へと突入してしまった。新しい政府が決まらないために新たな名前が決まらない隣国。今ではルミエーダ王国の多くの者が『旧帝国』、『隣国』と呼び、名前がないに等しい。その影響は近隣諸国や、ルミエーダ王国でも火の粉として降りかかっていた。


 そして、ベルたち学生が実地訓練としてきたその村は、隣国の近くにあるために、その火の粉が降りかかり襲撃された村の一つだった。


 昨夜襲撃されたというその村は、オレンジが特産の小さな村だった。村には、隣国に近いという理由から、騎士と魔術師が元々、在中していたが、敵兵は手練れの者が多かったらしい。そのために全滅は免れたが、村人に多くの犠牲者が出た。そして、在中していた騎士と魔術師、それと他の町からの応援により、多くの敵兵が討ち取られたのだ。


 『ちゃんと、やりとげなきゃ…』


 そんな学生の誰かの消え入りそうな言葉を耳にしながら、ベルは覚悟を決めて、他の学生と共に村の中に入った。


 村の中には至る所という訳ではないけれど、多くの遺体があった。例えば、民家の脇の鍬で戦おうとした若い男。馬小屋の影に逃げ込んだ寝間着姿の老夫婦。果実が実る前のオレンジ畑で裸に剥かれた少女。家の中で幼い子供を抱きしめる母親。剣を握ったまま絶命する敵兵、多くの者達が無残に死んでいた。


 ベルは王宮の騎士や魔術師が調査を始めるなか、他の学生や、生き残った村人と共に、それらの遺体を回収する。学生達は皆顔色が悪かったし、中には泣いている学生や、吐いている学生もいた。


 ベルもあまりにも惨い惨状や被害者の気持ちを考えて、『なぜ、この人たちが、こんな目に遭わなければならなかったのか?』と、居た堪れない気持ちになり泣きたくなったし、騎士や魔術師により倒されて死んだ敵兵を見ると、怒りと共に、『なぜ、この人たちは、こんな酷いことをしたのか?』という疑問だって生まれた。


 しかし、何度も死体を運んで、往復する作業を繰り返していくうちに、『死後硬直のせいで、死体は動かしづらい』、『どうしたら、もっと効率よく運べるだろうか』、『二つ上の先輩達みたいに、戦闘に参加じゃなかっただけマシだな』などと、考えるようになってしまった。


 まるで、普段、学院で授業を受けている時に別のことを考えているみたいな、誰もがやってしまうような下らないことのように、扱っている自分。死んでしまった一人一人に名前や性格、人生があったことを忘れ、ただの荷物として扱ってしまった残酷な自分を自覚した時、ベルはとてつもなく恐ろしくなった。


 遺体を運びながら周りを見ると、同じように死体を運ぶ学生たちは皆、表情が無く淡々とした動作だった。きっと、皆同じようなことを考えている。


 確信めいたそれは、あの頃のベルにさらに恐怖を与えた―


 **********


 「―嫌なことを思い出しちゃったわね…」


 今では学生ではないベルは呟く。


 それは独り言というよりも、自分自身へその経験がどういうものであったかを確認しているかのようだった。


 ベルの頭の中には、生々しい死体と、恐怖に歪んだその死に顔がフラッシュバックする。思い出して快いものでは決してない。


 ちなみに言えば、あの時、死体を回収したのは、犠牲者を弔うというよりも、調査するためという意味合いの方が大きかった。


 そして、学生を実際の戦場や後処理に駆り出していた理由も、実地訓練という授業としてよりも、足りない人手の補充と、あまりにもその頃の情勢が不安定だったため、学生たちに戦場とはこういうものだと教え込み、覚悟を決めさせることの方が目的だった。そして、その時は一緒ではなかったが、士官学校の学生や医療学院の学生も別の場所で、魔術学院の学生と同じようなことをして、同じことを教え込まれたらしい。


 その当時は、隣国の国境付近の村や町は度々襲撃されていて、どこも緊張が漂っていた。サンプルには困らなかったのだ。そして、実地訓練の前夜に村が襲撃されたのも全くの偶然。本来なら、国境付近の村の様子を知ることだけの予定だったが、襲撃されたことにより皮肉にもこれ以上ない()()になったのだ。


 そんな学生を育てる国側の狙い通りに、ベルたち学生は戦場を知った。


死体を一か所に集めるテントへ行った時、生き残った村人は家族の遺体に縋りついて泣いていた。その一方で騎士と魔術師たちは、無表情でそれを見ていた。特に、この町に駐在していたという騎士と魔術師の、何も映らない空洞のような目を、ベルは一生忘れられないと思っている。


 『国を守る者は、ああいう目をするのか…』


 あの頃は、感情を感じられない自分自身を含めた、国を守る側の人間に対して、なんて冷たいのだろうとベルは思っていた。戦場という場所は、感情ある人を冷酷な生き物にしてしまう、感染症みたいなものが蔓延していると、あの頃少女だったベルはそう信じていた。


 しかし、あれは、人として共感ができないために冷酷であるという訳ではなく、むしろ苦しみや悲しみ、怒りといった痛みを共感できるからこそ、限界を超えて麻痺してしまったのだと、魔術師になり、そして大人になった今なら分かる。どんな生き物にも受け止められる痛みに限界容量(キャパシティ)があるのだ。そして、それは、オタマジャクシが蛙に成長するように、全く別な生き物に変わるように見えて、本質は変わらないことと同じなのだ。


 ―私は、あの時も、醜かった…―


 ベルは、醜い自分がいたのは今に始まったことではないと、ゆっくりと理解していく。


 しかし、学生時代のあれは、ある意味で特殊な状況下だったからそうなってしまっただけで、ベルだけではなかった。むしろ、あれは国を守る者なら誰しもが成りうる姿なのだ。決して『醜い』と表現していいものではない。


だから、いい大人が恋愛関係の嫉妬から暴力を振るい、優越感に浸る醜さとは別なのだ。学生の頃のことがあるからこそ、余計今の自身の醜さが際立つようにベルは感じた。


 「あぁ、もう本当に最悪…」


 憂鬱であるだけでなく嫌な記憶を思い出したせいで、ベルは余計気が滅入る。このまま暗い海に沈み込んでしまいそうな気分だ。


 そんななか、コツコツと誰かの足音が静寂の中に響いた。


 扉の外の廊下からするその音は、どんどんとベルのいるこの部屋まで近づいてくる。


 そして、部屋の前でピタリと止まり、ガチャリと扉が開いた。


 「失礼しまーす…ベル、大丈夫か?」


 少し頼りないその声の持ち主は、ジンだった。彼は紺色の団服の上着を脱い片手に持ち、ワイシャツ姿だった。


 「…ジン、来てくれたの?」


 状態を起こしてジンを迎えるベル。彼は無理しないように言うが、彼女は『もう、大丈夫よ』と断る。


 彼は灰色の机の上にあるベルのローブの隣に、自身の団服をきちんと畳んで置いた。そして机の椅子をベッドの前で持っていき、そこに座る。ほんの少しだけ彼から汗の匂いがするのを、ベルは感じたが、不思議と不快には感じなかった。


 「ベル、本当にもう大丈夫なのか?心配したんだぞ…」


 ジンは眉を顰めて心配そうにそう言った。ベルは彼の深刻そうなその表情がおかしくて、少しだけ、フフと声抑えて笑う。


 「あら、心配してくれたの?それは、ありがとう。私はもう大丈夫…みんな大袈裟過ぎるのよ」


 「心配するに決まってるだろ。それと、ベル、俺のことちょっとバカにしてるだろ…」


 ムッとしたように、言い返すジン。どうやら、本気で自分を心配していたようだとベルは、笑ったことに対して少し反省する。


 「ごめんなさいね…。ちょうど、嫌なこと思い出して気が滅入りそうだったから、誰かが来てくれて嬉しいのよ…」


 ジンは『嫌なこと?』と聞き返すが、ベルは『秘密よ』といたずらっぽく笑った。


 元々、ジンは地方の騎士だった。特に田舎の地方の騎士は士官学校などには行かず、騎士見習いとして必要な技術を学ぶのだ。


 ジンは隣国とは遠い田舎の村出身だ。そのため、実地訓練として戦場を見せられることもなく、事件と言ったら盗難事件や、魔物による農作物への被害というような平和な村で、平凡な騎士として生きてきた。彼が、今、聖騎士候補であるのも、王族や上級貴族に匹敵するような膨大な魔力を持つという理由のためで、異例のことなのだ。


 そんな元は平凡な田舎の騎士であった彼に、隣国の情勢が改善しているこのご時世でわざわざ戦場の話はしなくていいと思ったし、何より醜い自分を知られてベルは幻滅されたくなかった。


 「ベル、なんか今日、おかしくないか?」


 「そう?別にいつも通りよ」


 「まぁ、ベルがそう言うなら…」


 少し不服そうなジン。その不満を代弁するように、彼が座る椅子がミシッと軋んだ音がした。


 「そういえばさ、俺、最後まで倒されず残ったんだ」


 「へぇ、頑張ったじゃない…ケガはしてない?」


 「あー…ほんのちょっと、気にすることでもないよ…」


 少し、バツが悪そうな顔するジンを見て、ベルは怪訝そうに『ちゃんと手当したのよね?』と尋ねる。それに対し、ジンは目をそらした。手当していないという訳だ。


 そういえば、先ほどから彼の動作が、左の上腕を庇っているように見えてきた、とベルは更に怪訝な顔をする。


 「ジン、左腕…肩から見せなさい」


 「え、だいじょ……すいません、すぐ見せます…」


 断ろうとするも、有無を言わせないベルの表情とオーラにより、言うことを聞くジン。ベルは『よろしい』とまるで女王様のように偉そうに言って見せた。


 そうして、彼は女王様に逆らえない家来のようにワイシャツを脱いで、左肩を見せる。好きな男の、半裸姿ということもあり、少しだけベルは顔に熱が集まるのを感じたが、すぐに治癒魔術をかける魔術師としての理性が働いた。


 「切れてないけど、内出血は起きてるわよ…。骨は…異常はないわね」


 ジンの左腕の上腕は斬られた跡はないものの、打撃を受けたらしく内出血がひどい。そこには赤から青へ、そして紫へとグラデーションした痣が浮かんでいた。きっと模造剣でも当たったのだろう。模造剣は刃を潰している剣だから、当てるだけでは実際に切り傷を付けることはできないが、当たれば普通に痛いのだ。もし、これが本物の剣での戦いなら、ジンは死んでいたな、などと考えながら、ベルはテキパキと魔法で状態確認をしていく。


 そして、治癒魔術をかけるために、ベルが実際に内出血が起きている部分に触れると、ジンは『イッ…!』と、声を殺して思い切り顔をしかめた。


 「なんで、もっと早く治さないのよ…。外で、治療院の人とかいるでしょ。あと、魔術師とか、騎士にも治癒魔術得意な人も…みんな、頼めば治してくれるのよ…」


 ベルは呆れたように言う。彼女の言う通り、今は後片付けをやる傍ら、治療院の者や、治癒魔術が得意な騎士や、魔術師達で負傷者の手当てを行っている。ジンも彼らに声をかけ、すぐに治してもらえばよかったのだ。しかし、


 「そうだけど…俺、ベルが医務室に運ばれたって聞いて、本当に心配だったんだよ…手当てしてもらう場合じゃなかったんだ…」


 何でもないようにそんなことを言うジン。それが本音であることは、彼の真っ直ぐな茶色の瞳が証明していた。


 「あなた、本当にバカね…」


 「なんだよ…こっちは本気なのに…」


 むくれるジンを見ながら、彼は本当にバカが付くくらい真っすぐだとベルは思った。再び彼女は、今度は覚悟を決めるジンの傷口に手を触れて治癒魔術をかけていく。


 「…本当にバカだわ…」

 

 魔術によって、痣が消えていくのを観察しながらベルは呟くように言う。それは、ジンに向けた言葉ではなかった。ただ自嘲気味な笑みが彼女の顔に自然と浮かぶ。ジンはそれに気づかず、一緒になって、痣が消えていくのを食い入るように見つめ観察していた。


 みるみる消えていく痣が完全に消えてなくなると、『おぉ~』とジンは感心したように声を出す。


 「悪いな、ありがとう。本当に助かる!」


 「いいのよ。…それよりもこれからはケガしたら、すぐに手当てするのよ。いい?」


 嬉しそうなジンにベルは、幼い子供に言い聞かせるように忠告する。それに対し、ジンは『分かってるよ!』と答える。それは、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供が、大切にするよう母親に言われる時の答えと似ていた。


 そんな風にジンが喜びながらワイシャツを再び着ていくなか、ベルはどうしても気になっていたことがあった。


「ねぇ、ジン。…あの…レナはどうしてるかしら…」


 ベルは、あの広場の時以来、レナに会ってなかった。今までは、朝や帰りにジンの部屋に行った時など、それなりに頻繁にレナに会っていた。しかし、最近は仕事で忙しいためジンの部屋に行くこともなかったし、何より、ベル自身がレナに会う勇気がなく、行けなかった。


 ―私は、きっと、レナを傷つけた…―


 ベルにはそんな自覚があった。


 自分のために怒ってくれているはずの大人が、実は八つ当たりのために怒っていた。それは、きっとショックなことだとベルは思う。例え、最初はレナのためであったとしても、事実としてベルは自分のために怒った。


 ベルは、レナを八つ当たりの道具に利用したのだ。いつも無表情で、感情を滅多に露わにしないけれど、きっとレナは傷ついたと彼女は思わずには入れらない。


 だから、謝らなければならないのだと、ベルは分かっている。しかし、その勇気が彼女にはなかった。


 「ん?レナ?別に普通だと思うけど」


 「そう…。普通なの…」


 「あ、でも…」


 ジンはぼりぼりと頭を掻いた。そして、少し困った顔をする。


 「最近さ…レナが、人形遊びをするようになったりして……やっと子供らしさが戻って来たんだって、安心したんだよ。ほら、あの赤いドレス着たクマのぬいぐるみのナナ!……あれで、いつも遊んだり…仕草もちゃんと子供っぽくなって本当に安心したんだ…」


 ベルはその話を聞きながら、ジンの家に行くと、棚の上に必ず飾られていたクマのぬいぐるみを思い出す。


 赤い薔薇の刺繍が施されたフリル付きの、赤いドレスを着たクマのぬいぐるみ。確かレナくらいの女の子の間で流行っている、個性豊かな様々な動物の女の子たちという設定の、『森のお茶会シリーズ』のぬいぐるみ。ジンの家の棚に飾られているのはクマの『ローズ』だ。元々はレナのもので、彼女はそのぬいぐるみに『ナナ』という名前を付けているらしい。


 ベルにとってレナは、人のことを気遣うことのできる大人びた子供だった。そのため、彼女がそんな人形遊びをしているのは、ジンから以前説明されても想像がつかなかった。せいぜい可愛いから手元に置くくらいだと思っていた。また、子供っぽい仕草をしているレナも想像がつかない。


 「その、レナがどうしたの…?」


 「うん…なんか最近ぼーっとしていると言うか…。例えば、俺とレナが家にいるとするだろ、人形で遊んでいると思って、俺が別のことをして目を離すと、気づいたら、人形を持ったまま、ぼーっとしてて…。あと、人形遊びしてない時も、ぼんやりしてるかな…。他にも食欲もないみたいでさ……。ホント、変な病気だったら、どうしよう…」


 ジンは不安そうな表情を浮かべる。


 ベルもレナのことが不安になった。レナは自分の力で魔力を取り込むことができない。そのため、ジンが魔力を供給している状態だが、それで何か異常があるのだろうか。レナが普通の者と違う体の状態であるため、ベルは余計過敏になってしまう。


 「もう少し、様子を見てみましょう…もし、今の状態のままなら、病院に行った方がいいわ…」


 ベルは、ありきたりなアドバイスしか与えられない。もしかしたら、両親が殺された時のことが原因かもしれない、赤の他人であるジンとの生活でストレスが溜まっているのかもしれない、いや両方かもしれないとか、色々なことが頭をよぎる。


 そんな深刻そうなベルを気にしてか、ジンは声の調子を変えて『そういえば』と声を出す。


 「ベル、今度、俺と演劇見に行こう!」


 「演劇?」


 先ほどの不安な雰囲気を切り替える急な言葉に、ベルはきょとんとしてしまう。


 「ベル、演劇見るの好きだったよな?チケットもらったから行こう!」


 ジンの言葉を理解するのにベルは数秒かかった。そして、彼の言葉が放たれてから数秒遅れで、不安が消えていくような喜びが胸の中に溢れてきた。


 デートの申し込み。ジンはどう思っているか分からないが、ベルにとっては紛れもなくデートの申し込みだった。ベルは緩みそうになる顔を急いで引き締める。


 「日にちはいつなの?」


 「ちょうど三週間後だよ。ちなみに開演は午後の一時」


 三週間後はちょうど仕事も休みの日だ。


 「いいわね、行きましょう!ジン、午前中に用事はあるかしら?もし、なかったら、九時に広場に待ち合わせして、ちょっと町で買い物して、それからお昼もどこかで食べましょう!」


 早口でベルは楽しそうに話す。女性特有の注文の多さにジンは苦笑しながら頷いた。


 もし、何も知らない人物が二人を見たなら、幸せそうにデートの約束をする恋人たちに見える光景だった。ハチミツに砂糖を混ぜたような恋愛特有の甘さが医務室に漂う。


 そんなベルにとっては幸せな空間のなか、その幸せを壊すようにガチャリと、ドアが開いた。


 「お~い、ジン、お前まだ後片付け終わってないのに、サボるなよ。…いちゃつくなら後にしろ」


 そんな、やる気のない声と共に入って来たのは、ジンの友人のカルロス・アウィン・アミスターだった。合同演習で途中までベルと対戦した彼は、めんどくさいと言わんばかり顔で、ジンにそう言った。


 「やっべ!そうだった!ベル、手当ありがとな、お大事に!」


 そう言ってジンは紺色の団服の上着を纏い、訪問者のカルロスに礼を言ってから部屋を後にする。


 ベルは、慌ただしいジンを見送りながらも、なぜかいまだに医務室にいるカルロスへ目を向けた。


 「あなたは、行かなくていいの?」


 「あー俺ですか?一応、今までジンの代わりに二人分は働いたんで、ちょっとばかし、ここで休憩ですよ」


 悪びれもなくそう答えるカルロス。先ほどまで、ジンが座っていた椅子にドカリと座る。


 何となく下品だと思える仕草だが、これでも一応、伯爵家の次男なので、人は生まれではないなと、ベルは失礼なことを考えてしまう。


 彼も本来ならベルが言葉を交わすのも恐れ多い貴族だ。しかし、レオノーラと同様、国を守る組織としては、ベルの方が立場が上なので、あえて敬語は使わない。


 その昔、騎士団で、ある貴族の男が職務中に身分を振りかざしたため、業務が滅茶苦茶になったり、いくつもの不正や汚職が起きる事件が起きた。その教訓から、公爵や侯爵などのあまりにも高位貴族である場合を除き、騎士団と魔術師団、治療院の者達は、職務上の上司や先輩には、建前上でも敬意を払わなければならなくなった。


 つまり、先輩と後輩、上司と部下の上下関係が徹底されているのだ。


 「ていうか、演劇デートでしたっけ?ノーラが知ったら、荒れますねぇ」


 「聞いてたの?」


 ベルは問いかける。登場したタイミングから考えると別に聞かれてはいないとはベルも思ってはいないが、それが、カルロスと会話する上で、必要なことだと思った。


 彼はジンとよく一緒にいるため、ベルとも挨拶や軽い世間話する程度の付き合いがある。だか、この男、カルロスという男は、どことなく底が見えない男だと彼女は常々思っていた。それはベルが商人の娘であるために、ピンと来ることだった。


 「すいませんね、聞き耳を立ててるつもりはなかったんですけど…」


 カルロスは自身の明るい金髪をいじる。耳が隠れるくらいに伸ばした髪。そこから彼の洗礼名と同じ、一粒のアウィンナイトの宝石が付いたピアスが見えた。彼の蛍光色の瞳と同じそれは、派手な色彩であるのに良く似合う。


 カルロスはそのピアスをまるで見せるように髪をいじっていた。気障な仕草なのに違和感がないのは、恵まれた容姿のおかげだろうかと、ベルは考える。ジンとは違い、日に焼けた体でガタイがいいカルロス。しかも、その顔は整っており、彼は男前の美青年だ。


 ―これで、軽そうな言動が無ければ、もっとモテるでしょうに…―


 彼は見目の良さや、それなりに安定したアミスター伯爵家の次男、聖騎士候補ということから、女性から熱い視線を送られやすい。だが、同時にあまりにも軽い雰囲気と言動のため、女性から嫌われやすい男でもあった。


 「そういえば、アランがすいませんでした。…つーか、聞こえてましたよね?…」


 「アラン?…あぁ、あの…」


 演習準備中に『シャゼル夫人』と言った、ジンの友人のあの失礼な男かと、ベルは合点が言った。


 「彼は黒髪女性に恨みがあるの?それとも、女性なら何色の髪を持っていても侮辱せずにはいられない、女性差別主義者なのかしら?」


 あの時の腹立たしさを思い出してベルは聞いた。皮肉という意味もあるが、あのアランという男がどういうつもりで自分をシャゼル(ふしだらな女)と呼んだのか彼女は気になった。


 もし、彼が女性差別主義者なら彼の頭には、金髪のパオラッタ(馬鹿な女)、赤髪のアティーダ(ヒステリックな女)、茶髪のドルタネ(垢抜けない女)、銀髪のルーツィカ(キチガイな女)などの女性への差別用語がいくつも出てくるはずだ。


 「あーアイツ、女性差別主義者ほどじゃないんですけど、ちょっとばかし、女より男の方が偉いとかは思ってますね。…まぁ、いつものことなんで、気にしなくていいっすよ」


 何でもないように答えるカルロス。ベルの中でアランという男が女性の敵と認識された瞬間だった。


 「別に、そこまで気にしてないから。…それと、あなたが謝る必要はないんじゃない?」


 実際に、カルロスは冷やかしを行ったが、ベルを侮辱したわけではない。冷やかしも不快だったが、別に気にすることでもないと彼女は考えていた。


 「一応、あの場にいたんで。…まぁ、その謝罪も口実なんですけどね。…実は、俺はファーテンさんにお礼を言いに来たんですよ」


 「お礼?」


 ベルは思わず聞き返す。彼にお礼を言われるようなことをした覚えはなかったからだ。


 「そう、ノーラと戦ったから…。…あの時、ファーテンさん手加減してくれましたよね」


 「手加減て…あの子もそれなりに手強くて、大変だったのよ?」


 「でも、ノーラが使える魔法で戦ってくれましたよね?ファーテンさんなら、ノーラの魔法なんて、上級魔術使えばすぐ倒せたでしょ?」


 ベルは反論できなくなってしまう。彼の言うとおりだからだ。


 ベルは、王宮魔術師だ。しかも、上級魔術師の資格だけでなく指導官の資格も持っているので、魔術の専門家といってもおかしくはない。レオノーラの魔術は確かにすごかったし、強力であった。しかし、王宮魔術師であれば、誰でも使えるレベルの魔法だ。もし、上級魔術を使えば、すぐに破れるくらいの魔法。


 しかし、ベルは上級魔術は使わなかった。


 「確かに、私は上級魔術を使えば、レオノーラさんをすぐに倒せたわ。だけど、それじゃ、同じもので戦えない…」

  

 記憶の中では、いつでもレオノーラはベルと戦い勝敗を決めたがった。しかし、レオノーラは騎士、ベルは魔術師とあまりにも戦い方も、優劣の付け方も違うものであるから無理だった。それをレオノーラの方から、同じ土俵に立ち戦いに来たのだ。


 だから、その思いにベルは答えた。けれど、そんなレオノーラの思いもベルは汚してしまった。

 

 「あの子は、正々堂々と真っすぐだった…」


 「そうなんですよねー。ホント、もう昔から真っすぐで、直進て感じ」


 カルロスは頷いて同意する。そして、『あ、俺、ノーラと幼なじみなんですよねぇ』と聞いてもいないことを付け加える。


 「アイツは、いつも真っ直ぐですよ。エクエス伯爵家に生まれたことを誇りに思って、憧れの騎士を目指して、正しく強くあろうとしている。…それなのに、やっぱり女の子らしい部分とか、どうしようもなく、不器用な部分とかあって…」


  底が見えないはずの男。そんな男であるカルロスの目が愛おしげ細められる。


 その様子を見て、ベルは気づいてしまう。


 「あなたは、あの子が好きなのね…」


 カルロスはレオノーラが好き。


 しかし、レオノーラはジンが好きなのだ。


 「ジンが憎くないの?」


 「もちろん、殺してやりたいくらい憎たらしいですよ」


 朝の挨拶をするような爽やかさで、答えるカルロスにベルはギョッとする。


 そんなことをお構いなしに、彼は続けた。


 「俺は幼い頃から、ずっとレオノーラに惚れているのに、彼女の心をたった一瞬で奪っておいて、その心をめちゃくちゃに踏みにじるアイツが大嫌いです」


 レオノーラの心を踏みにじる行為というのは、自分に好意を寄せる女性を引き離さず、曖昧な関係を続けていることだろう。ベルは、自分までも責められている気がして、恥ずかしさを感じた。


 そして、カルロスはやはり、ベルのことはお構いなしに『まぁ、アイツは俺のこと、親友だと思ってるみたいですけど』と、付け加えた。それから、カルロスは悪戯を思いついた子供のように、にやりと笑い、


 「俺、ファーテンさんにお礼言いに来たって言ったでしょ。俺ね、必死に魔法覚えて戦うノーラと、ノーラに合わせて戦うファーテンさん見て思ったんですよ。……ノーラは勝ち目がないって分かってる。それでも、アイツの中途半端な情のせいで、戦わずにはいられないんだって…。…ノーラがこんなに辛そうな顔しているなら、ちゃんとアイツとの恋を終わらせなきゃなぁって…」


 「恋を終わらせる?」


 「今の、ノーラは恋という酒に酔っぱらっているようなもんです。まぁ、カッコつけずに言えば、ノーラにシラフになってもらえるようにちゃんと現実を見せます。…そんで、シラフになり傷ついたノーラを、優しく包み込んで、俺の魅力で惚れさせるんですよ」


 まるで宝の地図を見せるように堂々と言うカルロス。やはり、少し演技がかった気障な仕草だ。それに、言うだけなら簡単であるが、人の気持ちを変えるなど難しいのではないかとベルは思った。

同時にレオノーラは、勝つために自分に挑んだわけではないことが、ベルにとって衝撃的であった。


 そして、レオノーラにそこまでの強い思いがあるなら、カルロスがこれからしようとしていることは、かなり残酷なことでもあると、理解した。


 「俺のこと、ひどい奴だと思ってる顔してますね?」


 「えぇ。…あなたって、けっこう冷たい男なのね」


 「そりゃどうも。まぁ、中途半端に優しさを与えて苦しめる奴よりは、いいと思ってるんで」


  白い歯を見せ笑うカルロス。笑顔の下に持つ冷淡な一面は、まるで商人のようだ。


 「知ってますか?俺のじいさんが言ってたんですけど、悪い男は冷徹なヤツでも、いい男が優しいヤツでもないんですよ。悪い男は、自分の中の冷たい部分と、温かい部分に気づかないまま、使いどころを間違えるヤツで…。反対に、とびきりのいい男は、ちゃんと自分の中の冷たい部分と、温かい部分が分かっていて、使いどころを間違えないヤツなんです…。まぁ、自分のことをちゃんと知っているヤツは、アメと鞭の使い手ってことですかね…」


 『なんか、最後のちょっとエロいっすね』と下品な一言を付け加えてカルロスは再び金髪をいじる。二度目のそれは、自身を鼓舞するようにアウィンナイトのピアスを反射させた。


 「俺はノーラを諦めないことにしました。俺はそのために、冷徹な男にでも、優しい男にもどちらにでもなりますよ…。俺は、ノーラがファーテンさんと戦ってるの見てそう思ったんで、お礼を言いに来たんです……。本当にありがとうございました」


 そう言い切り頭を下げるカルロスは軽い男ではなかった。正直言って、理由を説明されても、彼が自分にお礼を言う理由が、ベルには理解できなかった。だが、彼の人物像がベルの中で書き換えられる。カルロスという男は、下品な部分もある軽い男でありながら、ひたすらに目標に向かう真っ直ぐな青年でもある。少しだけ、ベルは彼を見直した。


 『俺、そろそろ戻りますねぇ』とカルロスは軽い口調に戻し、席を立つ。そして、ドアの前に立ちガチャリとドアを開けると、


 「あ、そういえば」


 「どうしたの?」


 そして、カルロスは満面の笑みで振り返り、


 「ファーテンさんて、ジンとセックス済ましてるんですか?」


 その言葉にベルはピキリと固まる。それに対し、やはりカルロスはお構いなく、


 「あ、済ましてるんですね」


 恥じらうこともなく、言うカルロス。


 「……それ、セクハラよ…」


 「あ、すいません、そんなつもりはなかったんです…ただ…」


 なんとか絞り出し抗議するベルに対し、カルロスは悪びれもない。しかし、何かを考えているようだった。


 「じゃあ、セクハラ男は退散しますね、お大事に~」


 そう言って今度こそカルロスは去っていった。


 「…何だったのよ、一体……」


 ベルはまるで未知の生物に遭遇したように呆然とする。どっぷりとした疲労と共に、釈然としないものだけが残った。


 ただ、一つだけ言えるのは、アランという男だけでなく、カルロスという男も女性の敵ということだ。


 ベルはイライラを解消するように、少し乱暴に自慢の波打つ黒髪をいじり始めた。


 


 お読みいただきありがとうございました。

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