憂鬱という病
大変お待たせしました。20話です。
―リリナから、レナの私物が届いたのは、それから一週間後のことだった。
午前八時という、これから仕事始めだという時間に届けられた荷物。一体、宅配業者は何時から働いているのだろうかとベルは少し疑問に思った。
宅配用の大きな箱の中には、絵本や小説、花の図鑑や子供騙しのおまじないの本たち。クレヨンや色鉛筆。バラの花模様の真っ白な小物入れ。
その中でも、ベルが気になったものがあった。一つが光沢のある何本もの赤いリボンが入ったジャムの瓶。それは、一か月以上前に西の地区で会った果物屋・シンシアの商品に結ばれているものだと、ベルは気づいた。ジャムの瓶の大きさは、片手に乗せられるくらい。その底には、何本もの赤いリボンが、とぐろを巻いて、赤い蛇のごとく存在している。しかし、不気味なおどろおどろしさだけでなく、まるで伝説の大魔術師が残した、不思議な道具を発見するような、そんなロマンすら感じられた。
そして、ベルが気になったのはもう一つ。
何枚もの子供服。
全てが、幾重ものフリルとレースに飾られている。まるで、物語のヒロインや、お姫様が着るようなデザイン。もちろん高価で上等な布地とは程遠いが、かなり少女趣味で可愛らしいデザイン。そして、それらは全てレナのもの。
それらの服は、ハッキリ言って派手で目立つが、お人形さんのように可愛らしいレナには良く似合う。全て、ジンがレナへ贈ったもの。
「レナ、この服どうする?」
リビングのテーブルの上に並べたそれらを前にして、ベルはレナに聞いた。
これらの服は本来、レナの好みではない。今だって、彼女は適度な飾りが付いたワンピースを着ている。首元とスカートの裾に、白い小花が刺繍された藍色のワンピース。とても清楚なデザインだ。
届いた私物を整理しているレナは、シンプルな赤いポシェット手に持ち、困った表情を浮かべた。
正直、自分の好みではないし、その上、ジンが買ったものなので、いい感情はないだろう。
それでもレナは答えが出ないようだった。ベルは聞き方を変える。
「じゃあ、この服、レナは好き?」
「…実は、派手だから、ちょっと苦手」
「じゃあ、捨てちゃいましょう」
「いいの?」
レナは、さらに困惑した表情を浮かべた。
「いいのよ。…あのね、好きでもない服を、勿体ないからとか言って、手元に残しても、結局タンスの肥やしになるだけよ」
それは、ベルのファッションの持論だ。気に入らない服は持っていても、結局着ることはない。たとえ着たとしても、大抵の場合、その日一日を憂鬱な気分で過ごすことになる。本当に不毛なことだ。
もちろんベルもこの意見が、それなりに裕福な人間が持つ、贅沢であるとは分かっている。これは価値観の問題。レナがこの服をどうするかは、結局は彼女の価値観の問題だ。
「……」
レナは、じっと、テーブル並べられた服を見た。まるで着せ替え人形で遊ぶみたいに並べた服。
その可愛らしいどれもが、持ち主であるレナらしさを感じない。
レナは、ぎゅっとポシェットを握った。
「ごめん、もうちょっと考えてみる」
レナはうつむいて答えた。それが今の彼女の答えなのだろう。
「そう、ゆっくり考えていいわよ」
ベルは微笑みながら、ベットの上の服を畳み始めた。
「ねぇ、ベル、いつ、ここ出発するの?」
「そうねぇ、お昼食べたら、出ようかしら」
今日、仕事が休みのベルは、レナと、ある約束をしていた。
「広場は賑やかだから、ちゃんとクローディアの声とか聞こえるか心配…」
「そこは、きっと大丈夫よ」
今日の午後、シルキー族の歌手、クローディア・オルコットが広場で、野外公演を行う。野外公演と言っても、教会や舞台など公式の場で歌う時ほど、大それたものではない。広場で芸を披露する大道芸人や、ダンサー達のように、広場の一角で歌を披露する気軽なもの。二、三曲くらい歌って終わりのものだ。
今日、ベルとレナは、そこに行く予定だった。
「クローディアは、綺麗だし、カッコいいから、人気がすごいの…。 だから、心配なの…」
「大丈夫よ、安心して」
待ちきれないと言わんばかりのレナ。その様子に、ベルは自然と笑みが浮かんだ。レナは、一刻でも早くいきたいようだが、ベルの言葉にしぶしぶ頷く。
ベルは、『他の荷物も、整理しちゃいましょう』と声をかけるが、その後すぐに、強い眠気に襲われた。自然とあくびが出てしまい、口に手を当てた。
最近は、レナのために、休みを取っているとはいえ、魔術師としてのいつも通りの仕事や、秋祭りのパレード関係で忙しい。その上、ベルは魔法陣に関する係のリーダーでもあるため余計だ。定期的に休日を取っても影響がないよう、なるべく業務時間中にできるだけの仕事は終わらせている。しかし、そのため、疲れが溜まっているのだろう。それに、周期的に見て、もうすぐベルは、今月の生理が来そうだ。生理前の様々な症状に多くの女性が悩まされるように、ベルも生理前はイライラすることや、食欲が増進すること、眠くてたまらないことがある。たぶんもそれも原因だろう。
「ベル、眠いの?」
「ちょっとね。でも、体調悪いとかじゃないから大丈夫よ」
レナはベルを心配そうに見つめたが、すぐに、『ちょっと寝たら?』と言ってきた。
「この荷物は、全部私のものだから、自分で片付ける。 だから、ベルは仮眠取った方いいよ。ベル、いつもお仕事とかで大変でしょ? だから、疲れてるんだと思う。 …本当に辛いなら、別にクローディアの歌、聞きに行かなくてもいいし…」
最後の方の言葉が、とても辛そうにベルには聞こえた。レナに対して、ベルは申し訳ない気持ちになる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと寝てくるわ。たぶん、二時間くらい寝たら、大丈夫だから。それに私も、今日楽しみにしてたんだから、何が何でもお出かけはするわよ」
ベルはそう言うと、レナの頭を撫でて、寝室に向かった。
ベッドの上に、横になり、目をつぶると、意識が徐々に沈み込んでいった。
************
―とてつもない憂鬱が、十二歳の体を病気のように蝕んでいた。
今年、魔術学院に入学し、寮暮らしになったベルは、ちょうど夏の休暇を利用して、実家に帰省していた時のことだ。
たくさんの学校の課題と共に、お土産話を持ってきたベルだったが、家にいるのは、客の相手をしている父と、黙々と家事をしている家政婦のエッダだけだった。兄は、家業のためにあちこち奔走していたし、母も義姉も笑顔を張り付けて殺伐としたお茶会に出たりなど、色々と苦労していた。全て、二年前に事業を失敗したせいだった。
混沌とする社会情勢を読み切れず、事業に失敗したファーテン材木商は、リッシュー商会のおかげでなんとか、立て直しを図ることができていた。しかし、ファーテン材木商同様に、事業に失敗した他の材木商や鉄鋼商、高利貸し業などは、立て直しを図れず、次々と潰れていった時期だった。国内の社会がそんな状態だったので、間違いなく、実家でも失敗が尾を引いていた時期だったのだ。
ベルは、何もできず高等教育機関で学ばせてもらっている自分が恥ずかしく、そして、実家に帰って来ても、家族全員が揃わないことが寂しくて堪らなかった。時間を潰そうと思って、学校の課題の図書を読もうとした。課題の図書は、著名な歴史学者のミランダ・ゼオライト・カスタンの『信仰における魔術の変遷』であったが、本の文章が全く頭に入ってこない。
ベルは本を閉じた。そして、裸足になり、椅子の上で足を抱えた。母親が見たら叱られる行儀の悪い格好で、彼女は爪先のペディキュアを見つめた。菫のような紫色に塗った爪先は、学院で仲良くなった新たな友人たちと共に、規則に煩い教師の目を盗んで塗ったもの。軽い悪ふざけであったが、ベルと友人たちにとっては、友情を深め合う神聖な儀式のようなものだった。
学院に入学する前に、仲良かった友人たちは皆、淑女教育を売り文句にした厳粛な女学校や、この国の特権階級である貴族の子弟達も多く通う王立高等学園などの、高等教育機関に進学し、それぞれが別々の道を歩んでいた。今も、手紙でやり取りはしているが、彼女たちもそれぞれの場所で人間関係を築いているようだった。
友人達が、自分が踏み入れない場所で、変わっていくことにベルは寂しさを感じた。でも、それは彼女自身だって同じで、魔術学院で新しく数人の友人ができたのだ。初めに友人になったルームメートの女の子のことや、東部の町出身の友人、異国の血を引く友人、トランペットを上手に吹く友人、そのことを家族に話すことをベルは楽しみにしていた。
だから、今、一人で家にいることはとてつもなく、寂しくてたまらない。憂鬱が病気みたいに、ベルの体を蝕んでくる。
苦痛に耐えるようにベルが目をつぶると、コンコンとドアをノックする音が響いた。
「ベル、入ってもいいかしら?」
「おばあちゃん!」
それは、ベルが大好きな祖母の声だった。ベルは、急いで椅子から降りて、ドアを開ける。
「おかえりなさい、ベル。 久しぶりねぇ…」
祖母は、穏やかな笑顔を浮かべて、皺だらけの手でベルの頭を撫でた。
「おばあちゃん、ただいま! どうぞ、中に入って」
「じゃあ、おじゃまするわね…」
ベルは、祖母を部屋に招くと、さっきまで座っていた椅子を彼女の側におく。祖母は、『悪いわね』と言いながら、ゆっくりとした動作で座った。昔に比べて、祖母は本当に年老いた。昔はピンと背筋を伸ばしてスタスタと早歩きで歩いていたのに、今では、腰を曲げてゆっくりと歩く。
ベルがベットに座ると、足のペディキュアを祖母は目ざとく見つけた。
「あら、綺麗ね」
「そうでしょ? これ、友達とおそろいなのよ」
「いいわねぇ。 私も、昔はよくマニキュアを塗ったのよ」
祖母は、皺だらけの左手の、枝のような自分の指を見た。結婚指輪の宝石のスピネルと同じ、黒の瞳はどこか遠くを見つめている。祖母が遠くを見つめている時、大抵、悲しみとも喜びともつかない何かが、その黒い瞳には映っていた。きっと、その何かは、全ての感情が混ざった複雑な多面体のようなもの。そんなふうにベルは感じていた。
祖母は、見つめていた左手の指から視線を外すと、その黒い瞳にベルを映した。
「ベル、学校でお友達ができたのね」
「そうなの。ねぇ、聞いて…」
ベルは、祖母に新たな友人たちのことや、学校のことなど、たくさんの話をした。たわいもない些細なことまで、祖母はその全てに反応を示し、聞いてくれた。ベルは、ただ、それが嬉しかった。
「…中庭はね、花が咲き乱れていて本当にキレイなの。 申請をするとお茶会も開けるのよ…。 でもね、暗黙の了解で、四回生にならないと申請ができないみたい。 下級生が申請をすると、その後の先輩からの圧力が恐いって噂なの…」
「そうなの。 どこでも、暗黙の了解ってあるのねぇ…」
「でもね、下級生でも、申請した先輩から招待されれば、お茶会に参加できるのよ。 だから、先輩達に気に入られることが大事なの…」
そう、ベルが気分よく話していた時だ。コンコンとドアがノックされた。
「ベルお嬢様。 大奥様は、今いらっしゃいますか?」
その声は、家政婦のエッダだ。
「えぇ、いるわよ」
ベルは答えて、エッダに入室の許可を出す。同じ平民同士であり、この家で昔から働いてくれたので、自分をそんなお嬢様扱いをしなくてもいいと、いつも言っているのだが、真面目なエッダはそれを良しとしない。
「大奥様、そろそろ散歩の時間ですわ…」
「まぁ、もう、そんな時間なの?」
祖母は立ち上がって部屋の時計を見た。まだ、午前十時くらいだ。
「散歩は十一時でしょ? まだ一時間あるじゃない?」
「大奥様、夏は暑いですから、一時間早く散歩へ行くと、この前、一緒に決めたんですよ」
「あら、そうだったかしら? いえ、そうだったわね…。 あなたが言うんだもの、間違いないわよね…」
そのやり取りに、ベルは少し違和感を覚えたが、祖母が『ごめんなさいねぇ』と言って、立ち上がったので、彼女もベットから立ち上がる。
「ベル、じゃあ、行ってくるわね」
「いってらっしゃい。 ちょっと熱いから気を付けてね」
祖母は部屋を出た。祖母の後ろを付くようになるエッダは、部屋を出る寸前に、ベルを見た。
「お嬢様、大奥様は病気なられてしまいましたが…。 お嬢様が大好きな大奥様であることには、これからも変わりません。 だから、今のように、普通に接してください…」
エッダが真剣な顔でベルにお願いした。ベルは、『なんで?』とも、『全然元気そうじゃない?』とも言わず、『分かったわ』と聞き分けのいい優等生の答えを言う。そして、その答えは正解のようで、エッダは満足そうな顔をして部屋を出て行った。
ベルは、再びベットに腰かけ、足を抱えて、菫色のペディキュアを見た。派手で強気なイメージを持つ紫の中でも、可愛い色。
家族のみんなが、祖母は病気になったのだと言う。
ファーテン材木商の実家の立て直しが図れた後、すぐに祖母は、体調を崩してしまってしまった。ベルももちろん心配だったし、寮に届く家族の手紙にも祖母は病気になったと書いてあった。ただ、どんな病気であるかは、書いておらず、手紙には、ただ、『おばあちゃんに優しくしてね』ということが書いてあるだけだった。そのこともベルを憂鬱にしていた原因だった。しかし、祖母はゆっくりだが普通に歩けていたし、元気そうだ。手紙でもエッダが、祖母の介護をしていると聞いたが、なんて過保護なのだろうかと思ってしまった。
きっと祖母が体調を崩してしまったため、みんな過敏になっているのだと、ベルは結論付けた。彼女は、ペディキュアを塗った足を床に下ろす。
そして、ベルは再び机に向かい、課題の図書を開いた―
************
ベットの上で、ベルは目を開いた。
「また、おばあちゃんの夢…」
十一年前に亡くなってしまった祖母の夢。あれは、ベルが十二歳の時の、夏の日の思い出。魔術学院に入って、初めての夏季休業の時のこと。これもベルと祖母の本物の思い出だ。あの頃は、まだ、祖母を素直に『大好き』と言うことができた。しかし、あの後から、少しずつ崩れていった。
「私、恨まれてるのかしらね…」
ベルは腕で目を隠したが、その数秒後には、また腕をどかして、状態を起こす。時計は午前十一時ちょっと前を示していて、だいたい二時間くらい寝たことになる。そろそろお昼ご飯の用意をしないといけない。
頭はすっきりしているので、疲れは取れたのだろう。ベルは、ベットから足を床に下ろして靴を履く。十二歳の頃とは違い、菫色のペディキュアは塗っていない。そもそも、ベルは仕事に必要ないからと、マニキュアは今は持っていない。
―そういえば、二週間後には、任務があったわね…―
ベルは、昨日、魔術師団で話された重大な任務を思い出した。
正直、重大な任務の前、ベルはいつでも恐怖を感じる。この前の魔族の子供を狙った誘拐事件、その任務の話を聞いた時、本音を言えば怖かった。それでも、それをしている最中は、ただ必死で、恐怖を感じず麻痺している。しかし、その前は決まって憂鬱が病のように体を蝕むのだ。
たまに誰かに『どうして、王宮魔術師なんて、危険な仕事をしているの?』と聞かれることがある。その時に、ベルは答えることができない。魔術学院を受験する頃から、王宮魔術師になるという夢があったし、一度挫折しながらも、夢を叶えた。王宮魔術師として、国を守ることはベルの誇りだ。しかし、なろうとした理由は上手く説明ができない。
生理前の憂鬱も相まってか、ベルの胸は少し重くなったが、『大丈夫』と繰り返す。困った時の神頼みで、敬虔なグロリアーダ教徒のフリをして、ベルは胸の前で十字を切ってみた。変わるものは何もないが、しないよりは今はマシだった。
洗礼の時に教会から渡された、十字架はどこにやっただろうか。心臓ともいうべき、交差する部分に、自身の洗礼名と同じアメジストが填められた十字架。礼拝にすら最低限にしか参加しないので、最後に使ったのは、春の生誕祭の時だ。二週間後の任務の日は、それをお守りに持ち歩こう。
そんなことを考えながら、ベルは寝室のドアを開けた。
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―昼食を食べた後、ベルは約束通り、レナと広場へやって来た。
多くの物と人々が集まる王都の中心地店。
ちなみに先ほど昼食は済ませた。メニューは簡単なコンソメスープと、チーズとレタス、ハムを挟んだベーグルサンド。燻製肉が好きなレナは美味しそうにベーグルサンドを頬張っていた。昼食を食べた後だからか、ベルは、いささかスカートのホックがきつい気がしたが、きっと気のせいと誤魔化す。
ベルの今日の服装は、七分袖のクリーム色のブラウスに、落ち着いたモスグリーンのスカートだ。ブラウスにスカートという多くの女性がする無難なファッションだが、彼女がその装いをすると、不思議と上品な印象ながらも、色気が混じる。ベルは、歩きやすいヒールのない黒い靴で、レナと手をつないで歩いていた。
「今日は、あそこのベンチ空いてないわね…」
以前からよく座っていた噴水近くのベンチは、カップルに占領されていた。彼らは何かを話し合っているようで、遠目からでも、とても仲がいいのが伝わってくる。
「別に座らなくてもいいよ」
ミントグリーンのローブを纏ったレナが、興味なさそうに言葉を吐く。彼女が着ているローブは黄色のデイジーが刺繍されている可愛らしいローブ。ローブの下には、午前中も来ていた藍色のワンピース。その上に斜めがけにしたシンプルな赤いポシェット。今日届いた荷物の一つだが、さっそく使うことにしたらしい。レナは、ベルの手を引くように歩いている。言葉では言わないが、早く行こうとベルを急かしていた。
まだ、時間があるので、それまでベンチで休もうと思っていたのだが、レナは待ちきれないらしい。
「もう、人でいっぱいかも…」
心配そうに呟くレナ。
「レナ、大丈夫よ。 ちゃんと歌は聞こえるわ」
「そうだけど…」
レナは、クローディア・オルコットのファンとして、少しでも近くに、側に行きたいのだ。彼女は焦っているが、クローディア・オルコットが好きだと伝わって来て、ベルは自然と微笑んだ。ベルは、レナから直接、クローディア・オルコットが好きだと聞いたことはない。しかし、彼女の表情や態度から読み取れるのだ。好きなものがあること、それはとてもいいことだ。
―野外公演が行われる場所には、たくさんの観客が集まっていた。
ベルとレナは、前から三番目くらいの輪の中で、それなりに近い場所にいた。大人のベルは石畳の上にピアノや、魔術が施された音響機械が見えるので、これから来るクローディア・オルコットが見えるだろう。しかし、ベルは背の低いレナが見えるか心配だったが、彼女は上手く人と人の隙間を見つけたようだ。彼女は興奮したように、トパーズの目を輝かせている。
そして、しばらくすると、クローディア・オルコットが登場してきた。
ワインレッドの大胆なシンプルなワンピースを着ている彼女。その後ろを楽器を携えた数人の演奏家がついて来る。まるで女王様と家来たちのようだ。
「―みんな、今日は、来てくれてありがとう! 短い時間だけど、楽しんで行ってね!!」
クローディア・オルコットは挑発的な笑みを浮かべたまま、観客に呼びかけた。その声に歓声が上がる。レナは声を上げないが、一層トパーズの瞳を輝かせて、彼女を見つめていた。
演奏家たちが楽器を鳴らし、クローディア・オルコットが歌い始めると、観客たちはその口を閉じる。彼女の歌を聞きに来た観客以外の人々のざわめきもあって騒がしいのに、そのアルトの声はスーッと耳に入って来る。さすが歌手だわ、とベルは素直にそう思った。
歌の内容は、『人は皆が神の子、だから争わず、互いに慈しみ合おう』。そういった意味の曲。数ある聖歌や賛美歌の中でも、有名なものだ。有名と言えば聞こえがいいが、何千何万回も教会で人々が歌ってきた、聞き慣れたありきたりな曲。
そんな曲をクローディア・オルコットは声、表情、手を使って表現する。その声は落ち着いているのに、透き通っていて、そして力強い。
ベルは何となく、この歌を歌う彼女が何を伝えたかったか分かった気がした。彼女は妖精族で、シルキー族。そして、この国では少数派と呼ばれる者の一人だ。
クローディア・オルコットという女性は、確かに輝かしい社会的成功を治めた一人だ。しかし、少数派であるために、人族至上主義者からは嫌われている。きっとそのことを彼女は知っているし、その痛みを知っている。だから、自民族中心主義者が対立しあう、物騒な世の中を憂いている。人族も少数派も事件を起こしいがみ合っている、そんな状況だからこそ、きっとクローディア・オルコットは今、ここで、この曲を歌っているのだ。
―彼女は、強い人だわ…―
ベルは、公僕として、彼女を含む国民を不安にさせていることに恥ずかしく思った。それと同様に、二週間後の任務に恐怖を感じている自分が情けないとすら思えた。クローディア・オルコットは歌手だが、悪意に晒されながらも、自分が持てる武器を用いて戦っている。自分は、王宮魔術師という国を守る者であるのに、悪意と対峙することを恐れている。この手には、魔術という、使い方によっては、物理的に相手を圧倒し、その命すら奪える武器を持っているのに。
ベルは周りを見た。周りには人族も妖精族も、獣人族、龍人族、魔族も、移民だっている。みんながこの歌に聞きほれている。隣のレナを見ると、レナは相変わらず、目を輝かせて、クローディア・オルコットを見つめている。午前中にレナは、クローディア・オルコットのことを『綺麗で、カッコいいから、すごい人気』なのだと言っていた。
きっとその通りなのだろう。彼女は強い女性だから、綺麗でカッコいい。
そして、
―彼女は輝いているわ…―
愛し合っている人がいるからとか、そんなことは関係なく、クローディア・オルコットは輝いている。
急に、パートナーと愛し合っている友人たちの顔が、ベルの頭に浮かんだ。その後から、たくさんのプライドに支えられているクラーマー研究員や、政略結婚をするヒルデガルト殿下の顔が浮かんで、思わず『どうして?』と心の中で尋ねてしまう。
しかし、クローディア・オルコットの力強い歌声に、思考が流される。
ベルは神への信仰心など、それほど持ち合わせていない。だから、敬虔なグロリアーダ教の信者とは言い難い。しかし、そんなことは関係なく、どこまでも迷いのないクローディア・オルコットの歌が、ひどく胸を突いて仕方なかった。
お読みいただきありがとうございました。
また、大変申し訳ありませんが、私は学生をしておりまして、そろそろ長期の実習に入ります。そのため、次の更新は八月の中頃になります。
更新が遅い中、この物語を読んで下さる読者の方、本当に感謝しております。遅筆ですが、未完結にする気はありませんので、これからもこの物語をよろしくお願いいたします。