いつもの朝
本日二話目です。
―天気のいい爽やかな夏の朝。
石畳の道の上に、白やクリーム色の壁の建物が、それなりに混沌としながらも、整備され密集している。まるでおもちゃのミニチュアを、子供が独自のルールで並べたような住宅街。
ここは、中央街。移民なども多い南の貧民街のように、様々な国籍の建物がまるで、迷路のように入り乱れて混沌としている訳ではない。だからと言って、北の王城や貴族街、ほど、大小様々な大きさのお屋敷がまるで、高級店の箱詰めチョコレートのようにきちんと整備された訳でもない。
まさに、この国―ルミエーダ王国の多数を占める、中流階級の家庭が暮らす王都の中央街。
また、中流階級の家庭の他にも、学生や騎士が住む街でもある。彼らは難関な試験を乗り越え、地方からやってきた王立高等学園や魔術学院、士官学校、医療学院などの、この国でも最高の教育機関に通う学生。または、地方から配属や任務により王都で暮らすことになるも、貴族街で暮らすほど身分の高くない騎士、新人の騎士たち。そんなさまざまな者達がアパートメントを借りて暮らす街でもある。
この様々な人間が暮らす街に吹く朝の風は、涼しく爽やかだ。湿気も多く、うだるような昼間の暑さが嘘みたいに思えてくる。その風に背中を押されるように、これから仕事へ行く大人や、学校へ通う子供、学生が、今日一日を始めようと準備を始め、石畳の道を踏みしめる。
そんないつもどおりの朝、とある白い壁のアパートメントの一室で、
「ジンくん、早く出ないと遅刻しちゃうよー?」
「もう、ジンちゃんたら私がいないとダメなんだから」
「寝坊とは、いい度胸しているな、貴様」
「おいおい、そこまでにしといてやれ、妾はジンが昨日夜遅くまで、なにやら学問に励んでいたのを知っておるぞ」
「もう、ジンさんたら、真面目なのはいいことですが、ほどほどにですよ?」
「寝坊、遅刻…ダメ…」
独り暮らしの学生や騎士が多く暮らす、一世帯辺り二部屋がある、アパートメントの一室。その、キッチンとリビングある部屋に数人の声がする。しかも、全部女性のもので、彼女らの目線の先にはたった一人、
「マジでヤバい!今日、第二訓練場の日なのに!」
一人の男がいた。
女性たちから、ジンと呼ばれた十代後半から二十代前半くらいに見える男。彼は寝癖の着いた平凡な短い茶色の髪と瞳を持ち、顔も特別不細工でも整っている訳でもなく、平凡で普通。特徴と言えば、いまだ大人になりきれていない少年の面影を感じさせるくらい。しかし、くるくると変わる表情と、その雰囲気は柔らかく、親しみやすさを感じる。
さらには、彼が身に纏う、銀色の糸で縁取られた紺色の服は、この国の騎士団のものだ。団服の左胸に描かれた、太陽のマークの中心に不死鳥という複雑な紋章は、騎士団の誉と名高い。彼も騎士の誇りにかけ、団服を支給された時と変わらず綺麗なままで保っている。その裾や袖などの他の部分も、シワやシミで目立つことが無いよう、手入れに抜かりはないのが見て取れる。
その身を包んでいる団服に革製のベルトを締める。最後に、騎士の中でも、少し特殊な立場の聖騎士候補を意味する、十字架が描かれた黄色の腕章を取り付ける。団服と腕章の効果か、不思議と童顔気味な顔に精悍さが滲み、その親しみやすさの中に厳粛な雰囲気が漂う。
「あーもう、こんな時間かよ~」
寝坊した男―ジン・オーブ・バナーレは、そんな団服と腕章の効果を台無しにする頼りない言葉を吐き、女性たちから口々に苦言を言われながらも続いて、装飾品などを入れている木箱を漁る。
そんな情けないとすら感じられる彼の姿を女性たちは呆れながらも、熱っぽく見つめている。持ち物を揃えることに夢中な彼は、その視線に微塵も気づかない。
これが、女性たちとジンにとって普段の日常だ。
「-ジン…あなた、またなの?」
そんな普段通りのジンと女性たちの様子を目にしながら、ベルティーユ・アメジスト・ファーテンは、溜息をつきながら言った。肉感的な体を、白のワイシャツに黒のタイトなスカートで包む彼女は、玄関の前に立ち、腕を組む。妖艶と評される、その美貌で呆れたと言わんばかりに、再び溜息をついた。
「あ、ベルおはよう!」
「…おはよう、ジン…私、言ったわよね?今日は第二訓練場だし、ダミアン教官の訓練の日だから早めに来た方がいいって…」
彼女は、自分を『ベル』と愛称で呼んだジンを見る。そのミドルネームにして洗礼名に相応しい、アメジストの宝石のような、濃い紫の瞳に呆れが映る。日頃から遅刻が多いこの男に、今日の予定について前日に注意するも、どうしても不安になりベルが訪ねてみれば、案の定遅刻しそうになっている。
どうせ、次の日が、新米騎士への指導と評価に厳しいダミアン教官の訓練の日だからと、夜更かしでもして予習をしていたのだろう。その様子を想像できたベルはまた溜息をついてしまう。無意識に大きなため息となり、後ろに一つに結んだ、自慢の波打つ長い黒髪がかすかにゆれる。
ちなみに、彼が女性たちの前で着替えていることに関しては、今更何も言わない。
「ベル、心配してくれたのに、本当にごめんな」
「ほら、ジンちゃんはこの通り反省してるんです、だから責めないでください。そもそも、私がジンちゃんの奥さんとして、ジンちゃんのお世話をするんですから、わざわざベルさんが来なくてもいいんですよ」
木箱の中身を物色しながらも、申し訳なさそうなジン。それに対し、女性たちの中の一人にして、彼の幼なじみのリリナ・ダイヤ・ジェナーは嫌悪感を隠そうともせず、嫌味を言う。そして、そのまま彼女は後ろからジンに抱き着いた。ちなみに彼の奥さんというのは自称である。
リリナの言動に、彼ではなく他の女性たちが飛びつく。
「リリナっちダメ!ジンくんは、あたしと結婚してもらうんだから!」
「お前ジンから離れろ!」
「ほう、妾とジンを懸けて一戦交えてみるか?」
「神の前で誓ってないでしょう!?そんなの断じて認めませんから!」
「抜け駆け、ダメ…」
二部屋あるとはいえ、一人暮らし用の部屋に女性たちの声が響く。隣の部屋や近くの部屋の住人はどう思っているのだろうかと、この部屋を訪れるたびにベルは心配になる。そんな彼女の心配を他所に、出かける準備をするジンの背中に抱き着くリリナや、それを引き離そうとする女性たちは賑やかだ。
ベルは改めて、彼女たちを見た。
一人目が先ほど紹介したジンの幼なじみの少女。飴玉のような桃色のセミロングの髪に、色素が薄い銀色の瞳。見た目だけは癒し系の可愛らしい美少女。先ほどのベルへの態度から見て分かるように、ジン以外の人間に対してはかなり辛辣な、リリナ・ダイヤ・ジェナー。
二人目がルミエーダ王国内で唯一、独自の自治権を認められる部族長の娘。自然豊かな森をイメージさせるような緑のショートカットに、空色とも緑とも言えない不思議な色の瞳。快活な雰囲気の、ラウラ・ターコイズ・ムンター。
三人目が、武の名門、エクエス伯爵家の一人娘にして、自身もジンと同じ聖騎士候補。目が覚めるような青い瞳と、同じく青い長髪をポニーテールが印象的。ストイックな雰囲気の、レオノーラ・サファイア・エクエス。
四人目が、長年に渡り緊張状態を続けるも、昨年同盟を結んだ魔族の王の姫。褐色の肌と女性らしい豊満な体。頭には他種族であることを示す二本の角が生え、闇のように漆黒な髪に瞳。不敵な笑みを湛えた、ヒルデガルト・オニキス・トイフェル。
五人目がこのアパートメントの近くの教会に暮らすシスター。温かみのあるクリーム色の髪に、北の移民特有の乳白色の瞳。そして、根っからのグロリアーダ教信者。母親のような母性を感じさせる、マリア・パール・カリダーデ。
六人目がシスターではないものの、マリア同様近くの教会で暮らす少女。十年前に終結した、隣国の戦争の、負の遺産と言われる、通称『亡霊人形』―光の加減によって、髪と瞳、爪の色が変わるのがその証拠。彼女のミドルネームに相応しく、光の加減によってオパールの宝石のように様々な色に艶めく、髪と瞳、爪を持つ少女。アンジェラ・オパール・リヤン。
「本当にすごいわね……」
よくこれほどの女性たちを集めたと、ベルは呆れを通して感心してしまう。しかも、彼女たちは全員がタイプは違うものの、皆が優れた容姿を持っている。他にも、ここにはいないが、彼の周りにはあと、顔を合わせるのも恐れ多い公爵令嬢までいる。また、ジンの話によると、ベルは誰か知らないが王立研究所の女性研究員もいるようだ。
そして、身分も年齢も、性格も経歴も、何もかもが違う彼女たちは皆、ジンに恋をしている。
そんなことを考えながら、ベルがキッチンのテーブルを見ると、新聞がある。なんとなく気になって、近づいてみると、それは大衆向け、もとい男性向けのカローナ新聞社のだとすぐに分かった。ジンは新聞をとっていないので、買ったのだろう。
ちなみに、昨日付けである新聞の一面には『黙って言うことを聞け!畜生共!!』と、インパクトの強い吹き出しのついた風刺画。そこには、神父に扮した黒髪の癖毛の男が描かれている。彼は聖人らしく、右手を胸に当てながら、大衆に微笑む。その一方、左手では、痩せ細った子ども達を、家畜のように鎖で繋いでいる。
かなり、見ていて快いものではないが、先月、子供への虐待で捕まった、神父に関する記事だと分かった。ベルも、もちろんその事件を知っている。捕まった神父は、表では、人のいい聖人を演じていたが、裏では、自身が管理する教会の孤児院で、子供を虐待していたらしく、発覚当時はすごく騒がれた。そして、その風刺画は、教会関係者でも、欲望に負けて卑劣な行いをするのだと、皮肉ったものだ。
「ベル」
新聞の風刺画に注視するベルにかけられる声。それは、リリナを引き離し、今も木箱から装飾品を物色するジンの声ではなくて、鈴を転がしたような幼い声だ。
「あら、レナ」
その人物は、事情があってジンの部屋に居候する、十歳の人狼族の少女―レナ・トパーズ・コリツィだった。
彼女は、寝起きらしく透き通った暗い黄色の瞳を眠そうにこすり、大きなあくびをした。人狼族の特徴である、狼の耳と、お尻の上にあるふさふさの尻尾は、彼女のボブヘアーと同じキャラメル色。それらは眠気のためか、力のないようにかすかに揺れる。
ベルは、レナに顔を向けながら、急いで新聞を裏にした。風刺画もだが、カローナ新聞社の新聞は、暴力的な記事や、男性が喜びそうなネタ、お下劣な記事もあり、ハッキリ言って下品な内容が多いのだ。そんな、新聞など、子供への教育に悪いとベルは思った。それと同時に、『なんて、下品なものを読んでいるのよ』と軽く、ジンに対して白い目になる。
幸い、裏は天気予報や、気温、様々な広告が載っている面だった。
「おはよう…ベルはお仕事遅刻しない?大丈夫?」
「レナ、おはよう。わたしは大丈夫よ」
新聞のことは、頭の片隅に追いやり、レナの言葉に返答する。ベルは微笑み彼女の頭を撫でた。『獣人の耳と尻尾に触れるべからず』という言葉があるので、耳には触れないように注意する。レナは文句言わず、くすぐったそうに目を細めた。レナは本当に可愛いなぁ、とベルが癒されていると、
「ベル!ノーラ!お待たせ」
出かける準備を整えたジンが、同じく王宮へ一緒に行くベルと、ノーラという愛称を持つレオノーラに声をかける。全ての身支度を整えた姿を改めて見ると、彼はいつもどおりだった。
夏であるのに、団服を気崩さないことはもちろんであるが、目をつける点は、彼のその装飾だ。
左の中指にダイヤの指輪。胸にターコイズのペンダント。腰には騎士が任務以外の時に用いる訓練用の剣、その隣に並んだ、サファイアが埋め込まれた短剣。両耳にオニキスのピアス。団服の手首の裾に真珠のカフス、そこから見えるオパールの着いた腕輪。団服の紋章の反対の右側には、ガーネットのブローチ。腰のベルトにチェーンで固定した、エメラルドの懐中時計。そして、首にはアメジストのチョーカー。
騎士の職業というのは普通、装飾品を付けることを基本禁止されている。しかし、この国では二百年ほど前の近隣諸国との戦争から、とある風習がある。騎士や兵役の義務が課された国民に、その恋人や、戦争へ行く者に想いを寄せる人が、自分や相手の洗礼名にちなんだ宝石の装飾品を贈って、無事を祈る風習だ。その名残からか、贈られた宝石の装飾品を身に着けることは、とても誇り高いことなのだという風潮がある。
現代の騎士団でも、そういった装飾品に関しては、訓練や戦闘時などの危険を伴う時以外の、通勤時や事務処理の時なら身に着けることを認めているのだ。ちなみに、騎士団だけでなく、荒事に無関係な市民の間でも、異性から贈られた装飾品を身に着けることは誇り高く、特別なものという認識だ。。
そんな複数の誇り高い、特別な装飾品に飾られたジン。『だけど、これは多すぎるでしょう?』と思わず喉の奥から出てきそうになった言葉を、ベルは飲み込む。それは、単純に数の問題だけではない。たまにベルは考えてしまう。もしも、ジンがアメジストのチョーカーだけを身に着けてくれたらと。
ジンの装飾品は皆、彼に思いを寄せる女性たちが贈ったものだ。
ルミエーダ王国の国民であるなら、ジンもその意味を知っているはずだし、レナを除く周りにいる女性が皆自分に異性としての好意を持っていることを知っているはずなのだ。
知っているけれど、彼は分かってはくれない。
「急ぎましょう、今なら、第二訓練場までギリギリ間に合うわ」
ベルが玄関の扉に手をかけ外に出る。
アパートメントの三階の手すりから見下ろすと、元気よく学校へ向かう子どもたちや、早足で仕事場へ行く大人たちが目に付いた。先ほどとは、異なり朝の涼しい風に混じって、太陽の熱と湿気が空気に漂い始めたのを感じる。今日もいつもどおり、湿気が多く焼けるように熱い真夏日になるだろう。
後ろから、ジンを見送る声と、急ぎ焦る彼の声、レオノーラが叱咤する声が聞こえる。それらの声を聞くと、ベルは、何やら得体のしれないものが体にまとわりつくような不快感に襲われたが、湿気のせいだと自分に言い聞かせる。
ベルは髪をいじりたくなったが、思いとどまる。代わりに、その不快感を追い払うように、大げさな動作で一つに結んだ波打つ黒髪を揺らして、手すりから離れる。ベルは階段の方を向き、一歩前に出た。
しかし、その時、後ろから『ベル』とジンに呼ばれ、彼女は反射的に振り返る、
「来てくれてありがとな」
そう言いながら、少し頼りない笑顔を浮かべる彼。
ベルの胸に、夏の日差しとは異なる熱が広がっていく。
「―本当に、敵わないわね…」
自分にしか聞こえない声で、ベルはポツリと呟く。
あぁ、彼を一人の男性として愛している自分は、なんてバカなのだろうかと、そんなことを思いながら、ベルは自嘲気味に笑った。
お読みいただきありがとうございました。