痛みの匂い(後編)
お待たせいたしました。第十九話です。後編をアップするのが遅くなり申し訳ありません。
また、更新が遅くなる期間はまだ続きます。
―マルコに連れられて来た店は、大衆向けのレストランだった。
大衆向けと言っても、北の地区にあるので、食事の質も値段もやや高めだ。レストランの中は、象牙色の床に、白い壁の全体的に温かみのある空間。そんな空間で、木のテーブルの上に美味しそうな料理を並べ、人々はおしゃべりを楽しみながら舌鼓を打つ。
周りの人々は、友人同士やカップル、それに家族連れだった。時折、笑い混じりの子供の声や、言語を取得する前の幼い子供の喃語まで聞こえてくる。
マルコは、ベルの注文通り、堅苦しくない店を選んだ。
「わぁ、色々あるわね…」
ベルは四人掛けのテーブル席に着き、メニュー票を眺める。メニューはパスタやドリア、ハンバーグ、魚のムニエル、つまみ用のフリッターなど、本当に様々。パスタはトマト系からオイル系、スープ系と種類が豊富。ドリアの方も、チキンドリアやミートドリア等、こちらも種類が多い。それぞれの料理のバリエーションが豊富だ。飲み物も、ジュース類や紅茶類、お酒類が充実している。異国のハーブティーや、独自のブレンドやアレンジをした変わり種の飲み物まであり、見ているだけでも楽しい。本当に何を注文しようか悩む。
「レナは、何を食べる?」
「シーフードグラタン!」
レナのあまりに素直な返答に、ベルは自然と笑みが零れた。
「ベルは?」
「私は、そうね…。 夏野菜のサラダと、白身魚の香草焼きにしようかしら。 マルコは?」
ベルは、マルコに聞くと、彼はすでに決めてたようで、『俺は、ペッパーグリルチキン』と答える。
「野菜は? きちんと野菜もとらないと体に悪いわよ?」
「ベルは、うちのお袋と同じことを言うんだな」
「私も、クラリーチェおばさまも、あなたを心配してるのよ。 おばさまも、こんな大きな息子の食生活を心配しなきゃいけないなんて大変ね」
クラリーチェというのはマルコの母親の名前だ。マルコがベルの家族と昔から付き合いがあるように、ベルもマルコの家族と幼い頃から付き合いがある。彼の家族は、昔からベルに良くしてくれたが、特にマルコの母親には可愛がられてきた。
マルコは『余計なお世話だ』と、大げさに不貞腐れた表情を見せた。もちろん演技だ。『この小言が多いおばさんに、君はいじめられてないか? 大丈夫か?』とマルコは冗談めかしく、レナに質問する。レナは、苦笑交じりに『大丈夫です』と返す。こんな失礼な男に対して、きちんと返事をするなんて、本当にレナはいい子だと、ベルは心の中で拍手したくなる。
そんな失礼な男のマルコは、近くにウェイトレスが通りかかると、すぐに人好きそうな商人の仮面を被って注文する。ベルは『夏野菜のサラダを二人分追加』と横から入る。マルコは、人好きそうな笑顔のまま、『余計なお世話だ』と、目で訴えてきた。
ちなみに、注文を取っているウェイトレスは、マルコの本心を見せないその作り笑いを見て、軽く頬を染めていた。しかし、すぐに同じテーブルに着くベルとレナを見て、複雑そうな顔をする。『この黒髪の人は奥さん? 子供は獣人だから、二人は両親じゃないはず。 でも子供は茶髪だし、父親と娘と、それに知り合いの女性?』と、こちらの関係性を探るようなことを目が言っていた。しかし、すぐに他の客に注文で呼ばれたために、その場から去る。
直接言われた訳ではないけれど、この三人で共にいることは『おかしい』と言われた気分にベルはなった。
「悪い、お手洗い行ってくる」
商人の仮面を外したマルコが席を立つ。彼は、椅子に掛けていた上着のポケットからハンカチを取り出した。薄青色のハンカチは月桂樹の刺繍がされており、老舗の洋服ブランドの『アンネリーゼ』の商品だと分かる。『アンネリーゼを普段使いなんて、さすが、大金持ちのリッシュー商会だわ』と、ベルは、幼馴染マルコとの間に存在する隔たりを実感しながら『了解、行ってらっしゃい』と見送る。彼の背中を見送る中、
「ねぇ、ベル…」
「ん? どうしたの?」
落ち着かない表情でレナが質問して来る。
「あのさ、マルコさんは…お金持ちのマルコ・アヴィド・リッシューさんで間違いないんだよね?」
「そうよ? マルコは、すごいお金持ちの家の、マルコ・アヴィド・リッシューよ?」
「マルコさんは、太っている人じゃないの?」
その質問にベルは頭をひねった。それは間違いでもあるが、正しくもある。ただ、なぜレナが、そのことを知っているのか分からなかった。
「うーん、すごい昔…それこそ八歳くらいの頃なら、マルコは丸々と太っていたわ。 だけど、すごい努力してね、痩せたのよ」
「え? マルコがダイエットしたの?」
「そうよ。 少しずつ痩せていったけど、十二歳くらいの頃には、すでにスリムだったわ。 だけど…どうして、レナは、マルコが太っていたって知ってるの?」
ベルが逆に問いかけると、レナは慌てて、
「あ、あの…ッ。 そう…噂で聞いたの! 大金持ちのマルコ・アヴィド・リッシューは、太っている男だって!」
レナはそう答えてトパーズ色の目を泳がせる。髪と同じキャラメル色がピクピクと挙動不審に動く。何か隠していると、直観的にベルは思ったが、気にしないことにした。あえて指摘しなくても、レナなら、悪いことは起こらないはずだと思ったから。
「そうなの…。 全く、イヤな噂ね。 きっとマルコの努力を知らない人が、マルコに嫉妬してそんなデマを流したのね」
「ベルは、マルコさんと仲いいの…?」
「仲がいいってよりは、腐れ縁ね。 幼い頃からお互いに知ってるし…」
それこそベルとマルコは、十年以上の付き合いだ。ベルが六歳で、マルコが八歳の時に、リッシュー家のホームパーティーで出会った。まだ、ベルが、平民同士での上下関係やカースト制を知らない頃。マルコが、支配と共同を履き違えた人間関係を築き、傲慢の意味を知らない頃。
「でも…すごい、信頼しているように見えた…」
「そう? 今更、取り繕う必要がないからじゃない?」
「あのさ、ベル…」
『これも、あくまで噂で聞いたことなんだけどね…』と、レナは言い淀んだ。トパーズのような黄色の瞳が心配そうに上目遣いになる。しかし、すぐに意を決した顔になって、
「マルコさんは…強欲でいじわるで、自分の願いを叶えるためなら、何でもするような、悪い大人じゃないの?」
鈴を転がしたような声が紡ぐ質問。
レナは『噂』だと言うが、ベルはなんとなく違うと思った。まるでレナが、その‘悪い大人だったマルコ’を見てきたような感じがした。もちろんあり得ないことだが。
ベルは、一瞬、これほどまでに違和感を与えるものの正体は何なのかと、分からなくなった。しかし、次には、頭を切り替えてレナへ語りかける。
「いいえ。 レナ、噂に惑わされないで。 確かに、マルコは商人だから欲張りだわ。 だけど、目的のためにきちんと努力する人よ。 …それに優しい人だわ」
「……」
「それでも、あなたにとって悪い大人だったなら、何も言わないわ。 どんなに素晴らしい人でも、誰か一人には嫌われているものだから。 でも、レナ、他の人からの噂で、マルコを悪い大人と決めつけるよりも前に、ちゃんと、自分の目で見て判断してほしいの」
ベルの言葉に、レナはバツの悪そうな顔をする。
その後、マルコがお手洗いから戻って来る。三人でたわいもない話をしながら、しばらくすると料理が運ばれてきた。
皿の上の料理から湯気が立ち、美味しそうな匂いが食欲を刺激する。
レナが食事前の口頭の儀式を始めたので、ベルも習い祈りを捧げる。
意外だったのが、マルコも一緒になって祈りを捧げていたことだ。
マルコは、グロリアーダ教徒だが、そこに『敬虔な』という言葉は付かない。商人らしく、努力と少しの運がものをいうと考える男だ。ハッキリ言って無神論者に近いのだ。
そのため、彼は普段、食事の前に、神に感謝と祈りを捧げることはしない。
―レナに、合わせてくれてるんだわ…―
彼は大人として、レナという子どもの価値観に合わせようとしている。その事実に、ベルの胸が温かくなった。
儀式が終わると、各々が料理を食べ始める。
レナは、熱々のシーフードグラタンに手をつける。チーズがまるで火山のマグマみたいに、グツグツと音を出す。レナはチーズの火口へ、スプーンを侵入させた。
「リボンのマカロニ!」
グラタンのマカロニは、真ん中がくびれてリボンのような形をしたファルファッレだ。貝やイカ、エビのシーフードと共に、チーズやホワイトソースと絡まる。
レナは、フーフーと息をかけてから頬張る。それでも、やはり熱いのかハフハフと息を吐きながら食べる。たまに熱冷ましと言わんばかりに、夏野菜のサラダもつついていた。キャラメル色の耳と尻尾がご機嫌そうに揺れる。
ベルは、レナのそんな姿を見て微笑む。嘘偽りのない子供らしさだった。
ベルも、自身の白身魚の香草焼きにナイフを入れた。食べやすいように骨は除いてある。それを一口大に切り、口に入れるとローズマリーの香りが広がった。
「うまそうに食うなぁ…」
マルコがニヤニヤと笑いながら話しかけてきた。彼は粗びき胡椒がまぶされたグリルチキンを食べている。言葉にしなくても、フォークとナイフを握った小憎たらしい顔が、『食いしん坊』と言っている。
「いいじゃない、本当においしいんだもの」
「おいおい、睨むなよ。 別に嫌味じゃないからさ」
「睨んでないわ。 ただ、マルコは、相変わらず人をバカにした物言いだって、見ているだけ」
「それが睨んでるんだよ」
マルコは苦笑しながら勝手に注文されたサラダをつつく。ベルも眉を寄せながら、サラダのレタスを一口食べる。
マルコは『やれやれ』と言わんばかりに首を振ったあと、レナへ目を向けた。
「グラタンは美味しいかい?」
ハフハフと息を吐きながら、シーフードグラタンを食べていたレナ。彼女はきちんと飲み込んでから返事をする。
「はい、とってもおいしいです」
「それは良かった。 そう言ってもらえると連れてきた甲斐があるよ。 追加でデザートも頼むかい?」
「いえ、食後にジュースを頼んだので。 それにお金がかかりますから…」
「誘ったのはこっちだから、ちゃんと奢るさ。 君は好きに選んでいいんだよ?」
「あの、それは悪いです…」
「そんなことはないさ。 別に悪いことじゃない」
「えっと…その…私は、マルコさんに何かしたわけでもないですし…。 …それに、マルコさんは…私の親でも、家族でもありませんから…」
その言葉に、ベルは思わずレナを凝視してしまった。
マルコも、暗に『奢られる理由がない』と言われ、何か思うことがあったのか、一瞬面食らった顔だった。彼は、柔らかな口調に努めて、レナに語りかける。
「君は、今、お金を持っているのかい?」
「今は持ってないですけど…銀行に行けばあります。 そこから払う形にします」
「それは、貯金じゃないのかい?」
「あの、私の父がスぺリサの退役軍人で…十八歳までは、けっこう高いお金が毎月支払われるんです…。 だから、そこから払います」
『パパ』という言葉を使わずに、『父』という言葉を使うレナ。そんな彼女は変に子供っぽくない。大人びた子供というよりも、まるで子供の姿をした大人と共に食事をしているような、そんな錯覚にベルは陥った。
しかし、そんなことは頭の隅に追いやり、ベルはフォローを入れる。
「マルコ、しつこいわよ。 レナは、今日、デザートを食べたい気分じゃないのよ。 そうよね、レナ?」
「え? …あ、うん…」
レナは、ベルの言葉に頷いた。しかし、レナのその表情は『しまった、失敗した』と後悔しているようだった。トパーズ色の瞳がキョロキョロと、ベルとマルコの顔を行ったり来たりする。キャラメル色の耳と尻尾が、落ち着かないように震えて、しょんぼりと垂れた。
微妙な空気になりかけたので、ベルは、『そういえば、関係ない話なんだけどね』と別の話を切り出す。
「この前、地方に引っ越した同僚から、久しぶりに手紙が届いたの」
「その人も、王宮魔術師だったのか?」
「えぇ、同期だったんだけどね、二年前に結婚して、今は、旦那さんの故郷の領地で、地方所属の王宮魔術師として働いているの」
王宮魔術師というのは、『王宮』で働いているから王宮魔術師という名称なのではない。正しくは、『王宮、ひいては国に認められた』魔術師のことなのだ。
そんな、国に認められた魔術師であるベルの同僚は、一つ年下の女性。入団当初、始めに仲良くなった女性だ。
王宮魔術師の試験は難関であるため、何回も受けてやっと受かる人や、別の魔術関係の仕事を経てから試験を受ける人もいるため、同期と言っても年齢はバラバラだ。ベル自身も一度落ちて受かったクチだ。魔術学院卒業と同時に、一発合格した彼女に嫉妬する気持ちもあった。その上、彼女はお洒落も化粧も控えめで、ハッキリ言って地味な女性だった。その点に関して『もっと、こうすればいいのに』と、ベルが上から目線で思うこともしばしばあった。
それでも、彼女はお人好しで、努力家だった。いつでも真っ直ぐな人で、ベルにとっては尊敬もする友人でもあった。
そんな彼女は学生時代から付き合っていた恋人と結婚した。
結婚が決まったことを報告してきた彼女は、輝いていた。まるで宝石のように輝いていた。
もともと、恋人と寄り添っている時に、思わずハッとするような煌めきを彼女から感じることはあった。しかし、結婚という形で、将来を好きな人と共に歩むことを誓った彼女は輝いていた。
かつてベルの祖母が、何回も言い聞かせていた『女の人は、好きな人と愛し合うことで輝く』。それは本当のことなのだと、あの時知った。
「まぁ、隣国から近い地域だから、たまに事件も起きるみたいだけどね」
「そうか、大変だな…」
「国同士の問題でもあるからね。 私達は…国の手足だから、どれだけ、大変でも、ただ従うだけ…。 本当、お偉いお貴族様達が、パワーバランスとか派閥争いとか、一旦抜きにして頑張ってくれたらいいんだけどね」
「まぁなぁ、国王陛下も高位貴族も、色々実行に移したくても、根回しとか必要なんだろうしな…」
『お貴族様は大変ねぇ』と、ベルは少し嫌味に言って見せた。公僕としてどうかと言うのは、今は抜きだ。
ベルはレナへ目を向けた。彼女は夢中になってグラタンを食べていたが、何かを難しい顔で、こちらの会話を聞いて考えているようだった。その姿を見て、ベルは、彼女は様々なことを知っているし、様々なことを考えることができる子なのだと、改めて思い知った。
―三人が料理を食べ終わった後、ウェイターによって、食後の飲み物が運ばれてくる。
レナはミックベリーのジュースに、マルコはホットのコーヒー。ベルは、夕方から寒さを感じたため、ジンジャーの粉末入りのホットの紅茶にした。好き嫌いが分かれる飲み物だが、ベルにとってはそこまで苦にならない飲み物だ。紅茶とジンジャーの合わさった匂いが癖になる。
「綺麗な色…」
レナは自分の前に置かれたミックスベリーのジュースを見て、うっとりと呟いた。その果肉入りのジュースは、透き通ったルビーのような赤。レナは、赤い色が好きなのだ。
ベルは、嬉しそうにトパーズ色の目を輝かせるレナを微笑ましく見ていた。しかし、数秒くらいして、レナは鼻をクンクンと動かし始める。そして、紅茶に口をつけようとしたベルを見て、眉を寄せて変な顔をした。
「ねぇ、ベルのそれ何? すごく変な匂いがする…」
「一応、紅茶よ。 でも、ちょっと好き嫌いは別れるかも…。 レナはこの匂いは嫌?」
ベルは最初、レナは、紅茶の中のジンジャーの匂いをお気に召さなかったのだと思った。『これは好き嫌い別れるし、子供にはまだ早いかもしれないわ』と、のんきにそう考えていた。
確かにレナは、紅茶に入っているジンジャーの匂いが、変な匂いに感じて、お気に召さなかった。しかし、ベルとレナの認識には、大きな違いがあった。
「私だけじゃなくて、色んな人が嫌だと思うよ…。 一体何が入ってるの? すごく血生臭いんだけど…」
「え?」
ベルはレナが言ったことが、一瞬理解できなかった。きっと、聞き間違い。そう思った。
しかし、
「もしかして、何かのお薬みたいなものなの? ほら、外国のお薬に、動物の体を使ったものあるでしょ? それみたいに、何かの生き物の血を固めたもの?」
「あ…」
「せっかく紅茶はいい匂いなのに、血生臭い匂いのせいで台無しだよ 」
ベルの聞き間違いではなかった。そして、レナはイタズラとか、こちらの気を引きたいための嘘みたいに、わざと言っているようではなかった。レナは、血生臭い匂いを本当に感じている。
ベルは、落ち着いた態度に努めて、
「あのね、レナ、これジンジャー入りの紅茶なのよ…」
「…え?」
レナは、その言葉を聞いてトパーズ色の目を見開いて固まった。そのまま数秒後、彼女の顔に困惑の色が浮かぶ。まるで、見知らぬ世界に迷い込んだかのように。
ベルは、助けを求めるようにマルコを見た。彼は唖然としており、驚いているようだった。しかし、すぐに取り繕った表情を浮かべて、
「ベル、その変な飲み物じゃなくて、別の飲み物を頼んだらどうだ?」
「そうね、リンゴジュースでも飲もうかしら!」
明るい声をベルは無理やり作り出す。しかし、そのアメジストの瞳には、出口の見えない場所に座り込んだような、傷ついたレナの表情が映りこんでいた―
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―その後、ベルは新しい飲み物にリンゴジュースを頼むも、微妙な空気のまま食事は終了した。
レストランを出るとマルコが、二人をアパートメントへ送ってくれた。
ベルは紙袋と本の束の荷物を持っていたが、本の方をマルコが持ってくれた。
安全で模範的な北の地区の夜道を、三人は他愛もないことを話して歩いた。話は弾んだけれど、ベルは別のことを考えていて、どんな内容だったかは正直覚えていない。
ただ、北の地区のアパートメントの角、街灯に照らされた場所に描かれた、あまりに大胆な落書きのことは覚えている。あの落書きは夏頃から見る、カラフルな髪を持つ、舌を突き出した悪魔の落書き。それを見て、『ついに北の地区にも、現れたわね』と、公僕としてどうかと思うが、ベルは感心してしまった。
落書きは、相変わらず痛いくらいの悲しみと、怒りにも勝る硬い信念を感じた。こちらを馬鹿にしながら、涙を流している悪魔の絵。
ふいに、ベルは『悪魔族』という言葉は、差別用語なのだと突然思い立った。ベルたちを含めた人族は、当たり前のように魔族の中でも、褐色の肌と角を持つ者たちをそう呼ぶ。聖書の中の『悪魔』に似た特徴を持つためだ。しかし、歴史の中では、『他種族を率いた悪魔族と、人族は昔から敵対したため、人族の聖書は悪魔族の姿で、‘悪魔’を描くようになった』と言われている。そもそも、魔国のシャテナ語では、褐色の肌と角を持つ者を『悪魔』と言ったりしないだろう。何か別の言葉が使われている。きっと、それをこちらの公用語のリヒター語では、『悪魔』と間違った翻訳をしているのだ。
「俺は、悪魔族っていう言葉を、どうにかしないと、他種族平等はまず無理だと思う」
同じように、悪魔の落書きが視界に入ったマルコが、唐突にそんなことを言った。彼は商人であるため口が上手い。そのためか議論が好きでもある。そのため、持論を展開したり、こちらに意見を求めたりして来るかと思ったが、レナがいるためかそんなことはしなかった。
ベルは頭を別のことでいっぱいにしたまま、上辺だけの空っぽな会話を続けて歩いた。しばらくすると、白い壁と、チョコレートを貼り合わせたような屋根が印象的な二階建ての建物の辿り着く―ベルが住むアパートメントだ。その階段への入り口は、臙脂色のアーチを描いている。
そこの二階の、階段から一番近い部屋は、最近越してきた新婚の若夫婦の部屋。その隣にベルの部屋はある。
玄関に入ると、レナは、もう寝たいと言ってきた。他の子供達がそうであるように、歯磨きをして、お風呂に入って、ベッドに入ることがレナの習慣だ。今日のレナはそれを無視している。しかし、ベルはあえて指摘せず、『そう。きっと疲れちゃったのね。おやすみなさい』と、作り笑いを浮かべ、レナの額にキスをした。
天使が施す祝福のキス。家族が行う愛情のキス。あるいは、行き場のない気持ちを抱えた、切実な祈りのキス。
沈んだ表情のままレナは、リビングの奥の寝室へと向かった。
玄関に残されたのは、この部屋の住人のベルと、送ってくれたマルコ。
「マルコ、送ってくれてありがとう。 上がってく? お茶でも出すわ」
ベルの言葉に、マルコは一瞬面食らった顔をした。しかし、すぐにそれは苦笑に変わる。
「じゃあ、お言葉に甘えて上がってくよ」
彼が一瞬何を考えたか、ベルは想像がついた。お互いにいい年をした大人だ。思春期すら過ぎた男と女。ベルは過去に恋人がいたこともあるから、もはや幼い子供のように純粋ではない。マルコは健康な若い男だ。この前、リリナがジンをそう評したように、彼だって他の男同様に頭の中が、出世と女の人の裸でいっぱい。
しかし、幼なじみとしてマルコは絶対的な信頼があった。少なくとも、女性が部屋にあげてくれたから、誘われたと考えるような人間ではない。
人としてどうすべきか、どうすべきかでないか、きちんと弁えた人間だ。彼は体が大人だけではなく、心も大人なのだ。
―それに、マルコは…今日、私に話があって来たんだわ…―
だから、彼はわざわざ実家に来て、食事に誘ったのだ。
ベルは、リビングのテーブルを挟んだ、向かい合わせのソファにマルコを座らせる。そこに、本と紙袋も置いた。
そして、リビングと一緒に存在するキッチンで、コーヒーを準備した。マルコは、プライベートで紅茶かコーヒーか聞かれたら、必ずコーヒーと答える。
ベルの部屋にあるのは、お湯に溶かすだけのインスタントコーヒー。本格的なコーヒーや、先日クラ―マー研究員からご馳走されたドリップ式コーヒーに比べたら匂いも味も劣る。ベルはマグカップを二つ用意して、そこに注ぎ込んだ。
ソファに挟まれたテーブルにマルコへ一つ、ベルの方へ一つマグカップを置く。
「おまたせ」
「悪いな、わざわざ用意させて…」
「いいのよ、送ってくれたお礼だから」
ベルはそう言って、マグカップに口をつける。砂糖もミルクも入れてないコーヒーは苦い。それにやはりインスタントなので、香りも味も劣る。そもそも、ベルは、最高に美味しいコーヒーの味を知っている。どんな高級豆も、きっとあのコーヒーには敵わない。
少しだけ寒い空気に、安いコーヒーの匂いが漂う。
マルコは同じように、コーヒーに口をつけていた。
普段からブラックコーヒーを飲んでいるマルコの顔が、苦い表情を浮かべている。もともと厳しそうな印象の顔なのに、よけいに厳しく見える。
部屋の中は静かだった。寝室からレナの声が聞こえることもなかったし、まして建物の構造的に防音が徹底されているので、隣の部屋の若夫婦の会話が聞こえることもない。そして、ベルもマルコもただ黙っていた。沈黙がひたすらに思いのに、不思議とベルの気持ちは凪いでいた。
「なぁ、ベル、あの子のことなんだが…」
最初に口を開いたのはマルコだった。
「レナのこと?」
「あぁ、あの子、レストランでお前の紅茶の匂いが、血生臭いって…」
「あの子がそう言ったのは初めて…ただ、心当たりはあるわ」
レナは、ジンジャーの粉末入りの紅茶の匂いが、血生臭いと感じていた。
「去年の冬に、奴隷商人が捕まった話があったでしょ…?」
「あぁ…。確か、人狼族の三人家族が狙われた事件だろう? 父親と母親は、犯人に殺されて、娘だけが生き残ったって…」
そこまで言って、マルコはハッとしたように言葉に詰まる。
「まさか…」
「えぇ、そのまさかなの…。レナはその生き残った子どもなの…」
「その時のことと、関係があるのか?」
「私は、そう思ってる。 …詳しいことは言えないけど、事件の時、レナは目の前で、お父さんとお母さんを殺されたの。 本当にひどい状態で、床には血だまりができてたわ…。 それにね、レナの家は、その日の晩御飯にジンジャースープが出てたの。 …おかげで、現場は血の匂いと、ジンジャースープの匂いで本当にひどい異臭だった…」
ベルが思い出すのは、半年以上前、レナと初めて出会った時のこと。理不尽に最悪な事件に巻き込まれて、彼女の両親が亡くなった時のこと。
あの時、血の匂いと共に、ジンジャースープの匂いが漂っていた。
「私は、そのせいで、あの子の中で、ジンジャーの匂いが、血の匂いに変換されてるんだと思ってる」
それは、ベルが先ほどの帰り道でずっと考えていたことだ。レナは、あの時、目の前で両親を殺されるというショッキングな出来事を体験している。正直、トラウマになっても仕方ないと思うくらいの。
「そうだったのか…。 でも、あの子…今まで、どうしてたんだ? 誰かが引き取ってたんだろ?」
当たり前の疑問をマルコは投げかけてくる。それは、ベルの過ちを否応なく自覚させるものだ。
「あの子はね、生まれつき魔力を取り込めないの…。 だから、魔力をすごく持っている人に引き取られたの…」
「ジン・オーブ・バナーレか…!」
マルコは、低い声で正解する。ベルにとって、いつでも貫禄と落ち着きに満ちた声は、苛立ちを含んでいた。マルコにとっての‘ジン’という名前は、まるで何かの呪いの言葉であるかのようだった。
「マルコ、ジンを知ってるの?」
「知ってるって、当たり前だろう? あいつは王宮に出入りする商人からも、貴族たちからも、何股もかけてる上に、独断行動の多い最低なクソ野郎って有名だからな」
吐き捨てるように彼は言った。
愛する男を‘最低なクソ野郎’と言われて、ベルは何も言えなかった。
客観的に見たらまさにその通りだし、ベル自身が、ジンをそう思ってしまっていた。
「あの男が、あの子を引き取ってたのか? 本当に、あんな男に、子供なんて育てられるのかよ…」
「…育てられなかったから、今ここにレナがいるのよ」
ベルがそういうと、マルコは更に眉を顰めた。
「詳しいことは言えないけど、ジンは無自覚でレナを傷つけた…。 それでレナは傷ついた…。 だから、私が今は引き取ってる」
「……」
マルコの肩に変に力が入ったのが見えた。ベルは、それがテーブルの下で、マルコが固く拳を握ったからだと理解した。彼は怒っている。
そんな怒りを隠しきれない険しい顔で、彼はこちらを見つめた。その視線は真っすぐで、祈るように切実だ。そして、それはベルが我儘を言った時や、自分勝手な愚痴を零す時など、彼女が間違ったことをした時に、彼が窘める表情だ。幼い頃から変わらないものの一つ。
「…俺は、今日、お前に会いに来た」
「そうだと思ってた…。 お父さんたちに用があるなら、事務所に行けばいいだけだもの…」
「一応、マクシムさんやジェレミーさんにも、仕事の話があったのは本当だ…。 本当なら、手紙でも出して、お前をお茶にでも誘ったりとか考えていた。だけど、お前が毎日、獣人族の女の子を実家に預けているって話を聞いて、そっちよりも、家で待たせてもらった方が早いと思ったんだ…」
「そう…」
「それと、言っておくけどな、あの男だけじゃなくて、お前も噂になってるんだからな…。 九股男を取り囲む、馬鹿な女の一人って」
「そう、ひどい言われようね」
「驚かないんだな…」
自分がジンと共にいるせいで、王宮で悪い噂を立てられているのをベルは知っていた。ただ、ミーナやベンジャミンなど、親しい者たちは、そのことに関して何も触れなかったし、ジンのことも触れなかった。
「一応、知ってるわよ。 自分が、‘キープさん’とか、‘四番目の女’とか、‘愛人’って呼ばれていることくらい」
ひどいものだと‘肉付きのいい穴’や、‘肉欲処理器’など下品なものまである。それを聞いて、傷つかないわけではないが、あまり関わりのない者達が言うから、その侮辱をかき消す方法も、抗議をする方法もなかった。
「どうしてだ…?」
唸るようにマルコは声を出す。
「お前、悔しくないのかよ…!」
怒りと悲しみに満ちた声。マルコの顔が激しい感情に歪む。
「お前のこと、ろくに知らない奴らから馬鹿にされて! あの男に、お前の気持ちを踏みにじられて! お前悔しくないのか!?」
「マルコ!レナが寝てる、静かにして!」
そう言われてマルコはすぐに黙った。しかし、激しい感情が彼の中で燃え上がっていることには変わりないようだ。彼は自分の中の熱を逃がすように、肩で息をした。相変わらず、薄紫色の瞳は、こちらを見つめたまま。
「俺は、王宮に出向いて、あの男と、お前の噂を聞いて驚いたよ…。 あの男に対して殺してやりたいとすら思った…。 それに、ベル…俺は、お前に失望した…」
「……」
「お前の気持ちを知っていながら、その気持ちを返すことも、逆に突き放すこともしないで、他の女達ともイイ思いしている最低なクソ野郎。 …そして、そんなクソ野郎の好きにさせてる馬鹿なお前…。 なぁ、ベル…」
―今のお前は、本当に哀れだよ…―
マルコは苦しそうな顔で、ハッキリとそう告げた。
「今のお前を見たら、俺だけじゃなくて、たくさんの奴が失望する…」
「だから、ジンと縁を切れって?」
『そうだよ』と、マルコは頷く。
ベルの頭に、唐突に『恋愛をすることは、薬物でダンスをするのと同じ』というフレーズが浮かんできた。
そして、次の言葉に『簡単に言わないでよ』と、腹の底からマルコに対する、苛立ちの感情が沸きあがってくる。なんて、彼は無責任なのかと、ベルは腹が立った。しかし、彼のそれは間違いのない正論だ。きっと老若男女問わず、たくさんの人に聞いても、マルコの言葉は正しいと言うだろう。それは、理想と綺麗事を並べた神父の説教と同じだ。同時にそんな言葉に従えない自分は、狂っていて、理性を捨てた異端者と同じだろう。
「ねぇ、マルコ…私、噂通りの女なの」
「ベル…」
「本当にどうしようもない馬鹿な女なの…。 私は馬鹿な女だったから、レナを守れなかったし、傷つけてしまったの…」
ベルは自嘲気味な笑顔を浮かべた。無理にでも笑わなければ泣いてしまいそうだった。しかし、正直言えば、感情のままに泣いてしまうことも億劫だ。結局、自分が何がしたいかということは、ベル自身もハッキリとは分からなかった。あえて言うなら、正論を前にした虚勢だ。
「ジンも私も、レナを傷つけた。 私も馬鹿だけど、ジンは馬鹿で最悪よ…。 彼はレナの体と心を傷つけただけじゃないの…。 彼のせいで、レナは、学校に行けなかった…。 あの子ね、学習に遅れが出てるの。 家庭教師の経験があるソフィア義姉さんが言ってるから間違いないわ…。 他人の人生を背負う覚悟もない素人が、子供に勉強を教えてるんだもの、当たり前よね。 …それにレナは、友達に会いに行けなくなったし…たくさんのものを捨てようとしたの…。 たった十歳の女の子がよ? 普通の十歳の女の子として、当たり前のものが、あの子にとっては当たり前じゃなくなったの…。 分かる? ジンは、レナの人生を傷つけたの…。 自覚がないままね…」
だから、ジンは最低で、最悪なのだ。
「彼は本当に最低なことをしたの。 絶対にしてはいけないことをジンはしてしまったの。 …私は、それが許せないから、ジンと距離を取ってる」
「それならッ…」
「ジンは、最低なクソ野郎。 だけど、私は、それでも彼が好きでしょうがない大馬鹿女なのよ」
ベルのその言葉を聞いて、マルコはヒュッと息を呑んだ。そのまま、数秒、彼は何も言わなくなる。
彼の胸元の小さなブローチと同じ色の、薄紫の瞳。初めて出会った幼い頃、その瞳が天使と同じ瞳で綺麗だと思った。あの頃ベルは、天使の瞳は、薄紫色なのだと信じていた。その瞳は傷ついたように歪む。
「どうして…。 あんな男のどこがいいんだよ…」
「ごめんなさい…」
ベルは謝った。
ジンがなぜ好きなのか、ベル自身が分からないから、答えられないという意味と、マルコの思いを踏みにじっているという、二重の意味。
ベルは知っていた。長年の付き合いの幼なじみが、自分にどのような思いを抱いてきたか。だから、思春期に入ってからは、距離もとった。大人になってからは、子供染みたあからさまな距離の取り方はしなくなったが、あくまで‘幼なじみ’という範疇を超えない付き合い方をした。
―彼にとって、ベルはいつでも‘女’だった。色欲なんてものがない、ふわふわとした夢に包まれていた幼い頃も、世間体と理屈ばかりの生き物になってしまった大人になった今も。
べルは、マルコが自分を女性として愛していることを知っていた。そして、マルコは、ベルを手に入れることよりも、彼女の幸せを望んでいることも。
だから、最低なクソ野郎に、ベルがどんな扱いをされても惚れているという今の状況は、マルコにとって屈辱だろう。
「ごめんなさい…」
ベルは、また謝った。今度は、自分の行動がマルコを侮辱しているということに対して。
マルコは『悪い、もう帰る』と言って、マグカップのコーヒーを半分以上残して、立ち上がり、去っていく。
見送りすらできず、その背中が遠ざかるのを見ているベル。
カタンと、小さく控えめにドアが閉まる音が聞こえた。
室内には、コーヒーの匂いだけが残る。
舌以外のどこかで、苦いものが広がったのを、ベルは感じた。
************
―窓から、見える空は青かった。
「―ここは、まるで海みたいねぇ…」
しわがれた声が上から降って来る。
「海? ここに海なんてないわ、おばあちゃん」
膝の上に乗っていた幼いベルは、祖母を見上げた。
祖母の膝の上に乗ることは久しぶりだった。うんと幼い頃はよく乗っていた。しかし、ベルはもう七歳。身長も体重も、幼子に比べたら遥かに大きい。母親が見たら、祖母の膝に負担がかかるから、ダメなのだと怒られる。しかし、祖母は怒ったりはしないで、艶やかなスピネルのような黒い瞳で、ベルに微笑んでいた。
「もちろん、分かってるわ…。 ここは王都。 陸地だって…」
今いるここは祖母の部屋だ。温かみのある木材の床と壁、模様入りのタンス、刺繍入りのクッションがあるベッド、鏡台の上の空っぽになった香水瓶、それに青い空が見える窓。ベルには、椅子に座った祖母がここを海みたいと言った理由がまるで分からなかった。
「自分でも、おかしいって思うわ…。 でもね、この世界を覆う空や、その下に広がる町並みを見ると思い出すの…。 時に青く、時に灰色の広い海を…」
「おばあちゃんは、海を見たことがあるの?」
「あら、ベルには話したことがなかったわね…。 私は、王都から北へ離れた、海がすぐ近くにある小さな村で生まれたのよ」
「そうなの?」
ベルにとっては、初めて聞く話だった。
「そうよ。 何にもない田舎だったわ…。 村にはね、牛とか、ヤギを育てる農家もあったけど、ほとんどが漁師の家。 男の人達は毎日、船で海に出る。 そして、その獲って来た魚で、女の人は美味しいごはんに作るの…。 子供達は、海風の音を聞きながら、走り回ってる。 それが、当たり前だったわ」
「お魚! 私、ムニエルとか大好き!」
「ふふ、ベルはお魚が好きだものね…。 私の村では、サーモンがよく獲れたわ…。 私の家族も、サーモンの香草焼きや、サーモンのチーズ焼きがよくご飯に出てきたの」
「おばあちゃんの家族は、どんな人達なの?」
ベルの問いかけに、祖母は一瞬悲しそうな顔をしたが、すぐにベルが大好きな優しい笑みに変わった。
「私の家族はね、お父さんに、お母さん…ベルにとっては、ひいおじいちゃんに、ひいおばあちゃんね…。 それに、兄さんに、姉さん、あとね、妹がいたの」
「わぁ、おばあちゃんは、大家族だったのね!」
「そんなことはないわ。うちよりも家族が多い家なんてたくさんあったもの。 …私のお父さんはね、無口で職人みたいな人。 お母さんは、料理が得意で、いつも笑ってる人。 兄さんは、しっかり者で、頭がいい人。 姉さんは、気が強いけど、面倒見のいい人。 妹は、のほほんとしてて、歌うことが好きな子…。 よく、家族で、海が一望できる丘の上で、ピクニックをしたのよ…。 晴れた日には、海がね、青く見えて綺麗だった。 …曇りと雨の日は、灰色に見えたけど、私の家族も友達も、近所の人達も、みんな灰色の髪だから、私の村では灰色の海も愛したわ…」
『今じゃ、私の髪も真っ白なんだけどね』と、冗談めかしく祖母は笑った。彼女は、皺だらけの左手で、ベルの頭を撫でた。左手の薬指には、真っ黒なスピネルの宝石が付いた結婚指輪。
「おばあちゃんは、どうして、王都に来たの? もしかして、おじいちゃんと結婚したから?」
もし、そうであれば素敵だとベルは思った。愛しの男が、小さな田舎の村から恋人を連れ出して、煌びやかな王都へ共に行くのだ。まるで、素敵な恋愛小説のワンシーンみたいに。
しかし、祖母は、『いいえ』と首を横に降った。
「おじいちゃんに出会ったのは、王都に来てからよ…。 私はね、王都へ逃げてきたの…」
「逃げてきた?」
「そうよ、戦争から」
戦争、その言葉にベルは固まった。実際に体験したこともないし、政治や情勢など難しいことは分からない。ただ、大人たちが話しているのを聞いて、なんとなく『戦争とは、恐くて、悪いもの』だということは、幼いベルにも分かっていた。
「私が若い時…十三歳くらいの時かしら…。 ちょうどエーディス大戦っていう、大きな戦争が起きたの…。北方の村がどんどん無くなったわ。 国の騎士や魔術師も頑張ってくれたけど、数が足りなくってね…。 私の村からも、多くの男の人達が、戦争に行ったの。…お父さんと、兄さんも、戦争に行った…。 それで、残された、女の人や子供達は、数人のグループに別れて戦火から遠い王都に逃げたの…」
「おばあちゃんの家族は? みんなはどうなったの!?」
興奮したように、ベルは叫んだ。祖母は、ベルの頬を撫でる。そして、悲しそうな表情で、
「お父さんと、兄さんは、結局、帰ってこなかった…。 私と妹は、先に王都に着いたけど、後から王都で合流する予定だった姉さんや、母さん、それに友達は、一年経っても来なかった…。 みんなが死んだって分かったのは、王都に来てから三年目の春、青空が綺麗な日…。 その頃の地図には、私が生まれた村は消えていたわ…。 妹も、それから間もなくして病気で死んでしまったわ…」
「そんな…!」
祖母に語られたのは、あまりに悲惨な出来事だった。
ショックで何も言えないベルに、祖母は笑いかける。
「ベル、あなたは優しい子ね…。 本当に可愛い宝石ちゃん。 大丈夫よ、私は、それでも幸せになれたから」
祖母は、窓の外を見た。
「例えるなら、王都は海の中ね。 たくさんの建物やお店が、岩とサンゴ礁。 風に揺れる木々が海藻。 その中で生きている人が、泳いでる魚…。 たまに、荒くれ者な強いサメに食べられたり、社会っていう潮の流れに抵抗できないときもある…。 そんな中で、弱い魚の私は、おじいちゃんっていう、優しい魚に出会えたの…」
「おばあちゃんは、おじいちゃんが好きだった?」
「えぇ。 とても好きだったわ…。 今も愛してるの…」
そう言う祖母の左手の薬指の、宝石が艶やかに輝く。その黒い宝石のスピネルは、祖母のミドルネームにして洗礼名だ。ちなみに、指輪の裏には、『アミラ・スピネル・ブレーズへ偽りなき愛を捧げる。 ―エリク・チャロアイト・ファーテン』と、祖父から祖母への愛の言葉が刻まれているのを、ベルは知っている。以前、照れた表情で祖母が教えてくれたから。
「ベル、何回も言うようだけれど、女の子はみんな宝石で、そのままでも綺麗だけど…」
「‘好きな人と愛し合うことで、もっと輝く’でしょ?」
『もう、何回も聞いているもの』と、ベルは悪戯っぽく笑った。
正直、今日の祖母は、王都を海と例えたり、人を魚と例えたり、女の子を宝石に例えたりと忙しいと思った。しかし、大好きな祖母の言葉を聞くことは、嫌ではなかった。彼女の言葉は、いつでも幼いベルに夢を与えてくれた。
「そうよ。 …ベル、あなたも素敵よ。 夜の静かな海のごとく波打つ黒髪と、女神様のように神秘的なアメジストの瞳。 本当におじいちゃんから素敵なものをもらったわね…。 本当にあなたは素敵な宝石…。 でも、もっと輝ける」
「そうなの?」
「そうよ。 私は、あなたがいつか輝けるって信じてる。 だから…」
―いつか、好きな人と愛しあって、幸せになるのよ…―
その瞬間、ベルを取り囲む世界が、ぐにゃりとジェラートが溶けるみたいに歪んだ。
ベルは、驚きのあまり、祖母の膝から落ちてしまい、ドロドロに溶ける床に落ちた。溺れそうになりながら、必死にもがいて、祖母に助けを求めて手を伸ばす。
祖母はベルに手を伸ばすが、その皺だらけの手は、床や壁と同じくドロドロに溶けて、掴むことはできない。
ベルは縋るように、祖母を見た。
いつの間にか、遥かに遠く上にいる祖母は、一瞬泣きそうな笑顔を浮かべた。そして、その顔は笑みを浮かべたままドロドロに溶けて、そのまま床にぼたりと落ちた―
************
「ッ!」
ベルは、声にならない悲鳴を上げて、目を覚ました。
荒い息のまま、ベッドの上で周りを見渡す。周囲は暗い。まだ夜だ。
ベルは、首筋の汗を拭った。どうやら、寝ている間に寝汗をかなりかいたらしく。寝間着と、下着は湿って体にへばりつく。かなり気持ちが悪い。朝にもう一度シャワーを浴びなければ。
「あれは…夢…?」
朝の予定にシャワーを浴びることを追加してから、ベルは夢の中のことについて考えた。
祖母が出てきた夢。あれは、七歳の秋の日のこと。
あの日は、家庭教師が帰った後に、祖母の部屋へと向かい、幼いベルは甘えていた。そして、夢の中と同じやり取りをした。まだ、ベルが祖母を『大好き』だと、純粋な気持ちのまま言えた頃。
最後の、夢の世界がドロドロに溶けること以外は事実。ベルと祖母との、本物の思い出だ。
どうして、今頃、夢の世界に出てくるという形で思い出したのだろうか。ベルは、そう疑問に思った。そして、子供みたいにベッドで足を抱えて、そこに顔を埋めると、すぐ側から苦しそうな声が聞こえてきた。
「レナ…」
ベルは隣を見下ろす。そこには、同じベッドで眠るレナがいる。彼女は、くまのローズのぬいぐるみを抱いて眠っていた。
「…ッ…パパ…ママぁッ…」
レナは、固く閉じられた目から、涙を流していた。彼女はきっと、最悪なあの日の夢を見ている。レナの声は痛みに呻くように苦し気だ。
「大丈夫よ…。 レナ…」
ベルは、夢の中にいるレナへ、背中をさすりながら語りかける。本音を言えば、何が大丈夫なのかということは、ベル自身も分からない。ただ、言わないよりもマシだと思った。
レナが夢にうなされるようになったのは最近。ジンを引き離してから、最初の頃は何ともなかった。きっと新しい環境での緊張もあったのだろう。
それに、ぬいぐるみを抱きしめながら眠るレナの行為そのものは、まるで幼い子供のような行為にベルは思えた。いや、彼女は子供なのだ。
たとえ、普段は感情をあまり出さなかろうが、人に気を使って大人びていようが、ぬいぐるみ抱いて寝るという年齢より幼い行動を取ろうが、彼女は十歳の子供。両親にまだまだ愛され、守られなければならない普通の子供なのだ。
だから、両親を亡くして泣いてしまうなんて当たり前だ。トラウマや、心の傷が思わぬ形で出てしまうのも仕方のないことなのだ。
「…ッう…」
レナは呻く。あの事件さえなければ、レナは傷つかなかった。ジンに出会わなかった。こんなふうに夢の中でしか泣けないなんて、悲しいことも起こらなかった。
ベルは、ベッドの脇のテーブルに重ねられた四冊の本と紙袋を見た。レナには悪いが、ベッドに入る前に、一応ベルは中身を確認した。
本の方は、算数のドリルと薬学の専門書は変わらない。あとのブックカバーに隠された二つ、パッチワークのブックカバーの方は、グロリアーダ教徒の聖女、ヘレナ・モッカイト・クラージュの伝記。手描きのバラが描かれた紙のブックカバーの方は『森のお茶会シリーズ<ローズの夢>』だった。
紙袋の方には、スぺリサの国花・タンポポが刻まれた従軍記章、小さなアラゴナイトがついたネックレス、紳士を模した異国の置き人形、手編みの赤ん坊用の靴下、トパーズがついた十字架、麻色のスカーフ、シンプルなデザインの懐中時計、バラの花が刺繍された二枚のお揃いのハンカチ、腕を組んだクローディア・オルコットのブロマイド。
たくさんあったそれらは、レナと両親の、コリツィ家という家族の生活が、確かにこの世界にあったのだという証拠だった。
手に感じたあの重さを思い出して、ベルはいたたまれない気分になった。
「大丈夫よ、寂しいかもしれないけど…きっと、あなたのお父さんと、お母さんは、神様のところから、あなたを見守ってるわ…」
ベルは、それほど神様を信じている訳ではないが、レナのためなら、その言葉がすんなりと出てきた。
「泣いていいの…。 泣いていいわ、レナ」
たくさん泣いていい。そして、いつか泣いた分だけ、偽りのない幸せな笑顔を見せてくれれば、それでいい。
ベルの言葉がレナに届いたのか、悪い夢が終わったのか分からないが、彼女は少しずつ落ち着いていった。
呼吸も一定のリズムになり、穏やかなものに変わる。トパーズの瞳を隠した目元は、いまだ涙の跡が乾ききらないが、安心した寝顔だった。
ベルは、レナの頭を撫でた。耳には触らないように注意する。『獣人の耳と尻尾に触るべからず』という言葉があるように、獣人族にとって、耳と尻尾を他人に触らせることは大きな意味があり、結婚相手や恋人以外には絶対に触らせない。それ以外の者がすることは、侮辱に当たるのだ。
自分は、獣人族として、子供として、グロリアーダ教徒として、女の子として、人狼族として、女として、たくさんの側面を持つレナの人間性を、きちんと尊重できているだろうか。無意識のまま、あの奴隷商人のように、物と見なして傲慢に振る舞っていないか、ジンと同じように罪の意識もなく、傷つけていないか、そんなことがベルの頭に浮かんだ。
そして、急に家族の顔や、結婚した友人たちの顔、今日来たマルコの怒った顔、夢に出てきた祖母の顔、ジンの顔が頭に浮かんで、ぐちゃぐちゃになる。
きっと全て、変な夢を見たせいだ。
「レナ…」
ベルは、眠っているレナの頭を撫で続ける。
キャラメル色の髪は柔らかくて、不快ではない汗の匂いと共に、フローラルの香りがする。ベルと同じシャンプーの匂い。
ただ、この幼い寝顔を見ていると、この温もりを守ることだけを今は考えていたいと、ベルは思った―
お読みいただきありがとうございました。