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痛みの匂い(前編)

お待たせしました第十八話です。

第八話に出てきた青年が出てきます。

また、今回は、前編と後編の二つに分けます。後編は後日投稿させて頂きます。大変申し訳ございません。

また、前回に引き続き、更新が遅くなる期間が続きます。

読者の皆様には大変ご迷惑をおかけします。


 ―王都の空は、夕暮れのオレンジが覆っていた。


 遠くの空は紫がかって、その奥は更に色が濃い。広い王都の町を囲む灰色の壁と、白系統の建物たちに視界が阻まれるので、その紫色の空の先を見ることは難しい。しかし、きっと夜の色、黒であるとは誰もが知っている。


 そんな、夜がすぐ側にある、日が暮れかかった北の地区の住宅街。お洒落なアパートメントや、屋敷とも言うべき立派な一軒家が並ぶ通り、そんな通りを辻馬車から降りて、ベルは歩いていた。その日焼け知らずの白い両方の手には荷物。


 太陽の光が役に立たなくなり、代わりに街灯に見下ろされる中、ベルが左の脇に抱えるのは、紐に括られた四冊の本。反対の右手で前に抱えているのは紙袋。全てレナの私物だ。


 ちなみに四冊の本のうち、一番上に来る本は算数の問題集。二番目に来る本は、背表紙を見る限り薬学の専門書。この専門書は、薬剤師だったレナの両親の物だろう。それ以外の二冊の本はそれぞれブックカバーがしてあり何か分からない。ただ、三番目の本がパッチワークで作られた温かみのあるブックカバーの本。最後に来る本は、黄色の紙に、色鉛筆で描かれた赤いバラの花のブックカバー。バラの絵は、お世辞にも既製品にするほど上手とは言えず、子供らしいタッチの絵だった。レナの手作りだろうか。


 一方、紙袋の中は、封をされているので見ることができない。片手で収まるサイズだが、ずっしりと重い。


 全てが今日リリナと会って、受け取ったものだ。


 ―ベルは数十分前のことを思い出す。


 大泣きしていたリリナは、あの後しばらくして涙が止まった。ぐちゃぐちゃに泣いたせいで、瞼が少し腫れた上に、白目が充血して赤かった。しかし、それくらいで彼女の可愛らしさは少しも損なわれなかった。


 たくさん泣いても、リリナはすっきりとした表情はしてなかった。原因が原因だから仕方ないとはベルも思う。


 リリナはただ無表情。そのダイヤのような銀色の瞳には、希望も絶望も何もない。そのぽっかりと穴の開いたような彼女の瞳。その穴を覗き込めば、銀色の底が見える。まるで、ベルが学生時代の実地訓練で見た、国家に属する騎士や魔術師達と同じ目。戦場で感情を麻痺させた大人たちと同じ目だった。


 『ベルさん…。 急に泣いて、すいませんでした…』


 『別に気にしてないわよ…』


 『…ベルさんは、優しいですね…。 本当に頼れる大人です…。 本当に、なんで、同じ人が好きなんでしょうね?』


 ―じゃなかったら、私、ベルさんのことも、素敵な女性だって、好きになれたのに…―


 そんなやり取りをしてリリナとベルは別れた。彼女が心配になったが、生憎ベルに出来ることはない。ただ、今日、リリナと会ったことで、ベルの中で彼女の認識が変わった。リリナは、憎い敵でありながら、十八歳の子供で、そして哀れな女だった。


 ―もしかしたら、私もリリナと、仲良くできた…?―


 先ほど辻馬車に乗っていた時、ベルはそんなことを考えた。ちょうど、中年の女性や、仲の良さそうな老夫婦、気難しそうな男性が乗る馬車の中。石畳の道を走り、ガタゴトと揺られている時。窓の外を眺めるには、遠い場所に座っていたベルにとって、その考え事は、ある意味暇つぶし。あるいは、十代の子供が、帰り道で一日の出来事を振り返り、憂鬱になるような悩み事と同じ。


 最初に頭に浮かんだのは、子供の頃の教科書にも載っていたような歴史。大昔のルミエーダ王国では、王室や貴族、力を持つ平民でも、複数の妻を持てたと言う。側室や第二夫人、妾、愛人、様々な呼び名があるが、一人の男が、複数の女性と関係を持てたことには変わりはない。歴史の中で、その女性同士が嫉妬により重大事件を引き起こしたケースもあるが、良好な仲を築いたケースもある。現代だと、女性の地位向上や時代の変化で、法的に一夫多妻が禁止されている。


 しかし、あえて大昔の時代のことを、自分達に当て嵌めたとする。たとえ、互いにジンが好きでも、恋のライバルという可愛いもので済んでいたかもしれない姿。互いに、笑顔を見せられたかもしれない姿。そんなあり得ないことをベルは想像した。


 しかし、レオノーラの時と同様、リリナとも後戻りができないくらいに、互いが嫉妬しあっている。汚い感情を抱きすぎた。そもそも、一夫多妻などベルは御免だ。好きな人を他の女と共有など、そんなのベルには耐えられない。そして、今現在耐えることができてない。そのせいか、一瞬だけ想像した姿が、ひどく歪だった。


 感情のない笑みを浮かべて、ジンを取り囲む、作り物の女たちの姿。リリナやベルだけでなく、ジンに想いを寄せる全員だ。彼女たちは舞台という箱の中で、皆、手足が糸に繋がれ、カチャカチャと音を鳴らして動く操り人形。


 不気味だ。ハッキリ言ってかなり気持ちが悪い。


 ―最悪だわ…―


 決して、馬車酔いとかではないが、気分が悪い。ベルはその気味の悪い想像をかき消すように、自慢の波打つ髪を揺らした。そして、気分が晴れないまま、馬車から降りて今に至るのである。


 だが、少し時間が経ったためか、あるいは、昔馴染の道を歩いているからか、ベルは気分の悪さが少しずつ薄れていってはいる。


 ベルが今歩く、北の地区・イネス地区の住宅街は、高級店の箱詰めチョコレートのように、統一感があり並んでいる。ここは北の大通りから離れているので、煌びやかさや堅苦しい印象はないが、十分に綺麗で上品であるとは思う。道行く人も、仕事が終わって疲れた顔をしている人々だが。これが、大通りなら、男も女も洒落込んだ服装で、まだまだ夜を楽しんでいる。反対に、南の地区なら、夜市や酒場など、一般人が安全に楽しむエリア。そして、違法バーや、いわゆる場末の娼婦たちなど、この国の闇へ続くエリアに別れるのだ。


 昔から馴染んだこの道は、煌びやかな楽しみも、仄暗いスリルもない。安全でどこまでも模範的。平民の中でも平凡な富裕層が暮らす道。雑貨屋やパン屋など、住宅街であれば、どこの地区にも一件はある店たちある通り。そこに夏の名残を感じつつも、秋の夕暮れの風が吹く。ベルの胸には安堵が広がっていった。


 ―風が、気持ちいい…―


 そして、ちょうどベルは、とあるパン屋の前を通る。『フィーネ』という名の老舗のパン屋だ。天井の下から枝が生えてくるように、細い棒の先に長方形の看板。そこから吊るされたハチドリを模した金属の板が、夕暮れの風に揺れる。


 その風に乗って、美味しそうな匂いが周りに漂う。食欲を刺激する匂いだ。足を進めるたびに、距離と共に遠くなるそのおいしそうな香り。小麦とバターと、それに甘い香りがした。


 もし、誰かに、その三つの混ざった匂いで連想する食べ物は何か、と聞かれたら、ベルは迷わず『クイーン・ララ』と答える。


 クイーン・ララとは、六十年くらい前に発明されたケーキのことだ。そのケーキは一見すると、普通のシンプルなパン、もしくはケーキにしか見えないのだが、中には甘いバタークリームが入っている。しかも、そのクリームには歯ごたえのいい刻んだナッツが混ざっているのだ。戦後の復興期に、質素倹約を強要する役人の目を盗んで、平民が贅沢をするために作られたケーキだ。生地はパンに近いものからケーキ、はたまたパイに近いものまである。店によっても違うが、どれにしても、かなり高カロリーな食べ物。


 そして、ベルの父方の祖母が大好きだったケーキだった。祖母は昔から、それこそ、このケーキが発明された娘時代の頃から大好きだったらしい。特にケーキ生地の物が好きで、若い頃はよく食べていたのだと、幼いベルに教えてくれた。しかし、祖母は年々、歳を重ねるごとに健康のためを考えて控えていた。そのため、ベルにとってクイーン・ララは、祖母が特別な日に、時間をかけて味わいながら食べるケーキだった。


 フッと、ベルの頭に笑顔の祖母が浮かんだ。真っ白な髪に、スピネルの宝石のような黒い瞳を持つ、皺だらけの顔の女性。彼女はいつだって幸せそうな人だった。本当にどんな時でも。そんな幸せそうな女性は、もうこの世にいない。十一年前に死んでしまったから。


 少しの悲しみと寂しさを感じながら歩くと、アパートメントや立派な一軒家などの大きな建物の列のなか。そこに白い壁の一軒家が見えてくる。花壇には、黄色と薄紫色の可愛らしいパンジーが植えてある。ガーデニングが趣味な義姉が育てたもので、季節ごとに違う。ここがベルの実家だった。


 「ただいま~」


 ベルはドアを開け中に入る。実家だからか、少し気の抜けた声が出る。


 材木商のため、家の中は全体的に木を基調とした空間だった。屋敷というほどではないが家は広い。玄関には二階への階段と、三つの扉が見える。それぞれ応接間やリビング、食堂へとつながる。


 「おかえりなさいませ。 ベルお嬢様」


 家政婦のエッダが応接間の扉から出て来て、ベルを出迎えてくれた。六十代の彼女は、昔からこの家で働いていて、幼い頃からベルもお世話になって来た女性だった。


 「エッダさん、やめてよ。 お嬢様なんて…。 もうそんな歳じゃないんだから」


「そうは言っても、私にとっては、ベルお嬢様は、いつまでもベルお嬢様なんですよ。本当に小さな頃から見ているんですから。 それこそ、おしめだって替えたこともあるんですもの」


 エッダは穏やかに『うふふ』と笑って、ベルが抱える本の束を持ってくれた。


 貴族だと、雇い主側と使用人側の間の線引きが徹底されているらしいが、平民の富裕層は比較的緩い。エッダに至っても、もちろん訪ねてきた客の前では、きちんと線引きを守るが、普段から気安い関係だ。


 エッダは十代の頃に結婚して、夫と二人の子供がいる。その二人の子供は、ベルよりも年上で、既にそれぞれが家庭を持っている。エッダは妻であり、母親であると同時に、幼い孫がいる祖母でもあるのだ。


 そんな家庭を持つエッダは通いで、この家で働いている。十三年前に、この家が事業に失敗して存続が危ぶまれた時も、見捨てずにいてくれた。本当に信頼できる人物だとベルは思っている。


 「ところで、レナは?」


 「今は応接間に。 旦那様達と一緒にいますよ」


 「応接間? 一体誰が来てるの?」


 ベルが帰って来た時、エッダが応接間から出てきたので、もしかしたら来客中かもしれないと思った。もちろんこの時間に掃除ということも考えられそうだが、彼女は基本、掃除は午前中に済ますのだ。また、家族にしても、家で過ごすときは、基本リビングで過ごしている。応接間を使う時は、来客者が着た時だ。


 しかし、レナも一緒にいる理由はどこにあるのか。ベルは頭の中の人物名鑑を開いた。我が家と関係がある人物で、レナと関係がありそうな人物を探す。


 その時だ、


 「ベル!」


 応接間から、母親のブレンダが、レナの手を引いて現れた。


 茶色まじりの真っ直ぐなブルネットの髪を、後ろで纏めた五十代半ばの母親。その瞳は、アベンチュリンのような柔らかな緑色。とても穏やかな印象だ。


 そんな母親に手を引かれたレナ。彼女は、何とも言えない形容しがたい表情をしていた。まるで、絵本に出てくるおばけにイタズラされたような、あるいは夢か現実か分からないことに遭遇したような。その三角の耳が付いた、キャラメル色の頭の上には、いくつものはてなマークが浮かんでいる。


 自分が留守の間に一体何があったというのか、とベルが困惑していると、


 「おかえりなさい、ベル。 実はね、今、ちょうどマルコくんが来てるのよ」


 「マルコが?」


 久しぶりに、その名前を聞いたと、ベルは首を傾げた。


 「そうよ。お父さんたちと仕事の話」


 母親はそう言うが、なんとなくベルは腑に落ちない。ベルが昔から知るマルコという人物は、公私混同を良しとしない男だ。そのため、彼女の父親と商売の話をする時も、大抵は、北の大通り近くに構える事務所へ赴く。


 そんな彼が、商売のためとはいえ、ベルの実家へ来たということは、プライベートな話もあるということだ。


 それは、マルコという男と、ベルが長年の付き合いだからこそ分かることだった。


 「とにかく、ちゃんとマルコくんに挨拶するのよ。 レナちゃんだって、きちんとお行儀よく挨拶したんだから」


 『ねー?』と言いながら、母親は手をつないでいるレナの顔を覗き込んだ。普段、母親は年齢による皺を嘆いており、美容にいい化粧水や食べ物などと、地道な努力を続けている。しかし、レナへの満面の笑顔を見る限り、その努力の結果は虚しいのだと苦笑せざる負えない。特に目元が。


 そんな母親がレナと手をつないだまま、応接間へ戻る姿を見ながら、『お母さんは、今、お祖母ちゃんになった気分なんだわ』とベルは複雑な気分になる。そして、彼女もそのまま、二人の後に続いて中に入った。


 大きな木製のテーブルが置かれた応接間の中には、先に中に入った母親とレナ。それによく磨かれた木製のテーブルを囲むようにソファに座る、父親と兄と、義姉、それに撫で付けた金髪の若い男がいた。応接間に満ちている空気は、とても和やかだ。


 「ベル、おかえり」


 「ただいま、お父さん」


 最初にベルに声をかけたのは、入り口から一番遠い位置に座る、父親のマクシムだ。父親は革張りのソファにリラックスした状態で座っていた。父親は、母親と同じくらいの五十代半ば。ベルほどではないが少し癖のある黒髪を持ち、そこには年相応の白髪が少し混ざっている。瞳の色はスギライトのような紫。


 父親の髪も瞳も、ベルの祖父譲りだという。そして、ベル自身も色濃く受け継いだものだ。


 ベルは、テーブルの上に紙袋を置いた。母親とレナが、テーブルの右側のソファに腰かけたので、ベルもそちらに腰かけた。


 すると、向かいから、


 「意外と早かったな。 お前のことだから、話が長くなって、もう少し遅くなると思ったんだが」


 少し嫌味を交えながらそう言ったのは、九歳年上の兄、ジェレミーだ。彼は父親やベルと同じ癖のある黒髪で、瞳も黒曜石のような黒。髪が祖父譲りで、瞳が祖母譲りだ。そんな兄は、相変わらず身内には不愛想で、ひねくれた男だ。これで商売の時は、柔らかい笑顔と雰囲気になるのだから、本当に詐欺だとベルは昔から思う。


 「早く帰って来て悪かったわね、兄さん。 それと、私、そこまで話長くないわよ」


 「いや、お前は昔から、俳優のピーターなんちゃらや、流行りのスカートの色だとか、どうでもいいことは話が長いんだ」


 「ピーター・クエバスよ! ピーターなんちゃらじゃないわ! それと、流行追うなんて、女なら当たり前」


 ベルは大げさに怒った表情をする。別に兄が自分を嫌っているとか、本気で文句を言っている訳ではないと分かっているので、これは演技だ。ちなみにピーター・クエバスとは、ベルが学生だった頃から好きな舞台俳優だ。


 「不愛想でひねくれ者の兄さんと違って、ピーターはハンサムで素敵なんだから」


 と、不貞腐れたように付け加えることもベルは忘れない。


 「まぁまぁ、二人とも。その辺にしたら?」


 おっとりとした口調で、二人を窘めるのは、兄の隣に座る彼の妻。ベルにとっては義姉の、ソフィアだ。彼女は赤みがかった茶色の髪を後ろで結んでいる。その瞳は、ローズクォーツのような薄紅色。昔から変わらない優し気な色だ。


 兄と義姉はいわゆる政略結婚というやつで、幼い頃から婚約していた。そのため、ベルとも昔からの付き合い。彼女には本当に妹のように可愛がってもらってきたため、ベルは幼い頃から大好きだった。


 「ごめんなさいね、ソフィア姉さん」


 「僕をハンサムでも、素敵でもないって言ったことに対して、謝罪はないのか」


 ベルは義姉には素直に謝るが、兄に謝るつもりは毛頭ない。


 本当に政略結婚とはいえ、よく義姉は、こんな男と結婚したと思う。自分なら、早々に破棄する、とベルが実の兄に対して失礼なことを考える。


 「私じゃなくて、謝るならマルコさんによ」


 義姉は苦笑する。


 けっこう長い間、訪問客を放置してしまったが、ベルにとっては今更だ。失礼な行為も、身内や親しい者の間ではさほど関係ない。


 ベルは、ドアに一番近いソファ―ベルの斜め前に座る男に顔を向ける。


 「こんばんわ、マルコ。 あいさつが遅れてごめんなさいね」


 「一応、お邪魔しますと言っておくよ、ベル。 二カ月ぶりくらいだな」


 太陽の光にも負けない、金色の髪を撫でつけた男―マルコ・アヴィド・リッシューは冗談めかしく言葉を返す。仕立てのいい服を身に纏う彼。その胸元の薄青色のアスコットタイを飾るのは、宝石が一粒ついたブローチ―宝石は薄紫色のアメジストだ。


 「お前は、いつも通り、変わらないようで何よりだ」


 放置したことに対する少しの不満が滲んだ、苦笑交じりの声。その声はいつでも、貫禄と安らぎとも言える、落ち着きに満ちている。


 マルコは、今、商売の時と同じ満面の笑顔を浮かべている訳ではないが、ベルの相変わらずの対応に苦笑しているのか、その目元を細めていた。無表情でいる時は、厳しそうな印象を持つ彼の顔だが、商人特有の笑顔を張り付けている時は、人好きそうな印象に変わる。兄と同様に詐欺だと、ベルはいつでも思う。


その上、マルコは美丈夫だ。笑顔はもちろんのこと、無表情の時でも、彼は女性から熱い視線を送られやすい。本当に無自覚の『女たらし』なのだ。

 

 ちなみに彼の瞳は、明るい紫色。それは、アスコットタイのブローチと同じ色。ベルは子供の頃から、その瞳がとても綺麗だと思っていた。


 そして、彼は現在二十六歳。二歳年上のベルの幼馴染だった。


 「今日は、仕事の話でここに来たんだ」


 「お母さんから聞いたわ。 その口ぶりだといい仕事みたいね?」


 「あぁ。 今は詳しくは言えないけど、魔国との交易に関する大役をうちの商会が任された。 そのために、協働している商会の協力も必要なんだ。 まぁ、国挙げての事業の一つだから、責任が重大なんだがな」


 「さすが、貴族からの信頼も厚い、大商会・リッシュー商会ね」


 「そりゃあ、もちろん。 ‘成功の秘訣は、積み上げた信用と、危ない橋を渡らないことの二つ’を徹底しているからな」


 『だから、国も、うちの商会に大役を任せてくれるのさ』と暗に言いながら、マルコは胸を張って、フロウス教の商業の神・リュゼの有名な台詞を言って見せた。


 彼は、四代前に西の多神教国家・ヴァダー国から、この国に移住してきた商人の玄孫。つまり移民四世だ。そして、王都でも有名な大商会・リッシュー商会の跡取りにして、次期会長だった。そして、ベルの実家のファーテン材木商は、リッシュー商会の傘下だ。


 そんな彼と、彼の家族は、一応、グロリアーダ教徒だ。しかし、四代前は多神教であるフロウス教の信者だった。フロウス教では、太陽や雨などの自然から、成功や学問と言った抽象的なものまで、あらゆるものに神がいると考える宗教だ。もちろん、一神教のグロリアーダ教と、多神教のフロウス教では、大昔には、やはり血生臭い対立があったが、現代ではその争いもなく、手を取り合おうとしている。


 そのため、グロリアーダ教信者の洗礼名に、宝石の名前ではなく、異教の神や偉人の名が使われることもある。そもそもグロリアーダ教でも、宝石の名前以外にも、聖人や偉人の名が使われることは、決して珍しいことではない。


 マルコの場合だと、彼のミドルネームにして、洗礼名の『アヴィド』は、フロウス教の幸運の神・アヴィドのことだ。商業の神・リュゼと同じくらいに、商人から崇められる神様。


 「それにしても、うちも忙しくなるな…」


 「げんなりした顔しないでよ、兄さん。 いいことでしょう?」


 大仕事を前に苦い顔をする兄。隣に座っていたら、思いっきり肘で小突いてやるのに、とベルは呆れながら口をへの字にする。そもそも、兄はかなり心配性で慎重な男だ。父親が、人並みの運しか持たない博打(ギャンブル)が苦手な男だったためか、兄自身も博打(ギャンブル)を恐れる男になった。


 失敗したら大きな損害になるような、大きな仕事を兄は恐れている。そのため、失敗してもそこまで損害がない小さな利益を、コツコツ積み上げていくことばかりをしている。それは、十三年前にファーテン家の家業が危ぶまれた時からだ。


 「そりゃあ、いいことだって分かってるさ。 この事業は、失敗する可能性は限りなく低い。 それに、マルコくんの家は、うちの恩人だしな…。 これで恩返しになるなら、頑張るしかないな」


 「そんなに気を追わないで下さい、ジェレミーさん。 ファーテン材木商は、うちの商売でも重要どころなんで、親父共々、本当に助けられてるんです。 それに、俺も個人的にジェレミーさんやソフィアさんに、マクシムさん、ブレンダさん…それにベルにも、たくさん助けられてきたんですから…。 恩返しなんて必要ないんです」


 『あ、もちろんエッダさんも忘れてませんよ。 子供の頃からお世話になってきましたから』と、ドアの側に控えるエッダへも、マルコは目を向けた。エッダは『本当にマルコ様は、良い男になりましたね』と皺だらけの顔で笑う。


 とても和やかな空間だった。


 ベルは、母親の隣に座るレナを見ると、やはりその幼い表情に戸惑いが浮かんでいた。しかし、先ほどに比べたら、リラックスしているように見えた。彼女はお腹が空いたのか、お腹に手を当てていた。


 「ごめんなさい、私とレナは、そろそろ帰るわね」


 「あら、もう帰っちゃうの?」

 

 ソファーから立ち上がるベルへ、あからさまに母親は残念そうな顔を向けた。彼女は、べルが帰ることに対してではなく、レナが帰ってしまうのが残念なのだ。実の娘として少々複雑だ。


 「どうせ、明日の朝も来るんだから、泊まればいいじゃない?」


 「お母さん、着替えも、何も持ってきてないから無理よ」


 「むー…。 服はどうにかなるのに、それ以外か…」


 ベルの幼い頃のお下がりが残っているから、服は何とかなる。問題は下着類だ。今の時間だと、洋服店は大通りだと開いているが、そこまで行く労力は結構必要だ。母親はしぶしぶ了承する。そして、レナがソファーから立ち上がると、母親も立ち上がった。


 「じゃあね、レナちゃん。 明日はおやつに、イチゴのショートケーキ出すから、楽しみにしててね」


 「ベルのお母さん、ありがとうございます」


 「うふふ。 本当に可愛い、いい子」


 母親は屈んで、祝福を施す天使のごとく、レナの額にキスをする。まるで、愛する孫娘への愛情表現そのものだ。


 「それじゃあ、また明日の八時半ごろに来るわ」


 「なぁ、ベル」


 マルコが声をかけてきた。


 「なに? どうしたの?」


 「あのさ、たぶん夕飯まだなんだろ? もし良かったら、飯食いに行かないか? もちろん、その子も一緒だ」


 突然のお誘いにベルは驚いたが、マルコの明るい紫色の瞳は真剣そのもの。長年の経験から、何か話したいことがあるのだと分かった。


 ベルはレナに顔を向ける。レナは、少し考える素振りを見せたが、『いいよ』と大きく頷いた。


 「分かったわ。 だけど、堅苦しい店はやめてね」


 「もちろん」


 マルコは頷いた。


 ほっとした表情を見せる彼は、年相応の若い青年そのものだった。




お読み頂きありがとうございました。

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