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嘘つきの唇

第15話です。前話に引き続き児童虐待に関する表現があるのでご注意ください。


 「―肩の痣は、間違いなく、鬱血痕だね」


 きびきびとした口調で、六十代初めくらいの女医は言う。


 「やっぱりそうなんですか…」


 深刻そうなベルの声が落とされる。


 青灰色のワンピースのスカートをギュッと、彼女は握る。


 今、ベルがいるのは、北の地区にある個人経営の診療所の診察室だ。


 少し年季の入ったアイボリーの壁に、カルテや資料がきちんとまとめられている棚、整理整頓された木の机。それに漂う消毒液の匂い。


 そんな空間にいるのは、ベルと女医。それに、この診療所に長年勤めるベテランの看護師たちが忙しそうに行ったり来たりする。


 一つしかない出入り口。その木製の扉の向こうには待合室。そこには数人の患者や付き添いの者に混ざり、レナがいる。


 今はレナの診察後。レナが診察室にいる時は、ベルが待合室にいて、今はその逆だ。ベルは女医の診断と見解を聞くためにこの部屋にいる。


 先ほど、ジンの家へ行き、レナの肩に鬱血痕を見つけたベルは真っ先に、彼女を病院に連れてきた。


 ここは、王宮の治療院に勤めた経験のある女医が開業した診療所で、幼い頃からベルも体調を崩す(たび)にお世話になった。ここの女医は六十代の貫禄ある女性。ハッキリとした物言いで、厳しい性格でもあるが、腕はピカイチで、患者へのアドバイスも的確だ。


 何より信頼できる人であるため、ベルはレナを彼女に診せたのだ。


 「ただ、鬱血痕は、皮膚が弱い場所が、何かに強く吸われることでできるから、それだけでは、キスマークと断定はできないよ」


 女医はそう言うが、レナの左の肩の鬱血痕は、たぶんキスマークだ。


 本来なら大人がセックスの時などに、相手からつけられるもの。恋人やパートナーなど、本当に、体も心もそういう関係になることを互いに望んだ時、初めてつけることが許されるものだ。

 

 そんなものが子供のレナの肩についていた。


 日にちが経つと、黄色に変色する痣。レナの肩についていたそれはまだ赤く、つけられてからまだあまり時間が経ってないことが分かる。


 「仮に虐待されたとしても、幸い、女性器に目立った外傷や、異変は見られないから、妊娠の心配はないわ」


 『いや、幸いはおかしいか』と女医は付け加える。女医は、レナの肩のものがキスマークであることも、レナがされたことも気が付いている。ただ、医師という立場から、軽はずみに憶測を語れないのだ。


 「レナは、診察を拒否したり、何か言ってましたか?」


 いきなり連れてきて、診察のために体を見られること、触られることはレナにとって、とても恥ずかしく、嫌なことであったはずだ。しかし、妊娠や体の異常など、様々な最悪なことが想像できて、ベルは居てもたってもいられず、レナにジェラートを奢る前に、医師に診てもらうことにしたのだ。確かに、レナの意志を尊重していないが、ベルは間違ったことをしたとは思わない。だからといって、正しいことをしたとも思わないが。


 「大人しくて、素直に見せてくれたわよ。戸惑った感じではあったけどね…。ただ、本当に子供らしさを感じないくらいに、無抵抗だったのが、心配になるわね」


 「…そうですか」


 「あと、貴女がしたことではないって、すごい一生懸命に言ってた」


 「……!」


 レナは、自分を必死に守ろうとしてくれている。その事実がベルの胸に重くのしかかる。


 「もし、これが本当に虐待だと仮定しても、私は、貴女がしたなんて微塵も疑ってないよ。この仕事をしてると、色々と学ぶのよ。…虐待をする大人は、子供の命が危ない状態や、大怪我みたいな緊急事態になって、初めて病院に連れてくるの」


 あくまで仮定という言葉をつけて虐待と言う女医の言葉。


 レナがされたことは、処女が奪われていないとはいえ、間違いなく性的虐待。体も心も傷つける暴力だ。


 そして、それをしたのはきっとジン。


 「それとね、もし虐待を立証するとしても、それをしている時の目撃証言とかないから、訴えても罪に問うのはかなり難しいと思う」


 その言葉にベルは、一瞬胸がふわっとして、そしてすぐに自分への嫌悪感と恥ずかしさでいっぱいになる。


 ―ジンが、レナにしたことは、間違いなく犯罪だわ…―


 とてつもなく最低なことであるのに、ジンが罪に問われないと聞いて安心している自分が、心底が憎たらしくて汚い存在にベルは思えた。


 たとえ、目撃証言がなくても、監視の魔道具や、音声を記録する魔道具などの物的証拠や、どう見てもこの人が犯人であると言う状況的証拠など、言い逃れができない確実な証拠があれば、犯罪の立証が可能だ。


 もし、そうなった場合、ジンは罪に問われ、法の下に裁かれる。加害者も被害者も平民同士であるが、決して軽くない罰が下されるだろう。もちろん、レナを養育する親権と、聖騎士候補どころか、彼が持つ騎士の地位だって剥奪される。


 しかし、レナの場合、体にあった鬱血痕から、性的虐待があったのではないかと疑うことができても、そこからジンがレナにキスマークをつけた、あるいは他にも淫らな行為をしたという性的虐待を立証することは難しい。被害者のレナが証言してもだ。この国で、子供の立場が高いとは決して言えないのだ。


 「貴女は、あの子を虐待したかもしれない人に、何か心当たりがあるみたいだけれど、その人はあの子の親?」


 「いえ、あの子の実の両親は、半年以上前に、とある事件に巻き込まれて亡くなっています…。あの子は、生まれつき魔力を取り込めない体なので、魔力が多い人に引き取られたんです」


 ジンはレナを引き取ったので、正しく言えば里親だ。しかし、ベルからすると、ジンとレナの二人は、愛し慈しまれ、信頼しあう『親子』ではなく、ただの他人同士が同じ空間にいる同居人だった。


 「なるほどね。あの子は、きちんと自分の体のことも、現実も分かっているから、我慢してたんだね……」


 女医はふむと頷いた。『でもね』と言葉が続く、


 「あの子には、確かに魔力も必要だけど…それよりもずっと必要なのは、普通の十歳の女の子でいられる居場所よ」


 その言葉がひどくベルには痛かった。


 「あの子の里親は代えるんでしょ?」


 「はい…そのつもりです」


 この国で子どもが、親の虐待を立証し、罪に問うことは難しい。その代わり、比較的容易に子供は里親を代える権利と選ぶ権利がある。もちろん、その里親候補が、よっぽどひどい大人で、教会と裁判所の役人が不適格な大人という烙印を押さない限りではあるが。


 「魔力を補充するために魔石とか必要だし、金銭的な問題もあるから、次の里親をどうするかまだ決まってないだろうけど……。もし、貴女が引き取るなら、教会と裁判所に一言添えるから」


 女医は相変わらずハッキリとした物言いだった。しかし、言葉の端々から女医がレナを心配していることが伝わってきた。


 ベルは、女医にお礼を言って、診察室を出た。


 レナの姿を探すと、彼女は他の患者や付き添いの人に混じり、待合室のソファで静かに本を読んでいた。待合室の本棚にあったのであろうその本の背表紙には、『森のお茶会シリーズ<イリスの憂鬱>』と書かれており、表紙には、青いドレス来たキツネの女の子が描かれていた。


 レナが持つクマのぬいぐるみのローズが、赤いバラの刺繍がされたレースとフリルに飾られているなら、本の表紙のキツネのイリスは、青いアヤメの刺繍がされたレースとフリルに飾られている。まさか、本にまでなっていたのかと、ベルは驚く。同時に、本にまでなっていたから、より女の子たちに人気があるのかもしれないと思った。


 ベルは、本を夢中になって読み進めるレナを見る。こうして見ると、レナは普通の子供にしか見えなかった。人狼族という種族とかそんなことは関係なく、森のお茶会シリーズの世界に夢中になる女の子。


 何も言わなければ、レナが性的虐待をされたかもしれないとは、誰も思わないだろう。


 「レナ」


 ベルはレナを呼ぶ。


 彼女は本から顔を上げる。


 「ベル、終わったの?」


 「えぇ」


 その言葉を聞くと、レナは本を閉じて、少し名残惜しそうに本棚に戻す。


 ベルはレナに手を差し出す。


 その手を、レナはこちらの顔をうかがいながら、ためらいがちに取った。


 嫉妬の代償は高くついたと、ベルの胸に苦いものが広がった。


*************


 ―ベルとレナは診療所を後にして、北の地区を歩いていた。


 王都の北の地区は、平民の中でも富裕層が多く住む地区だ。


 石畳の道の上には、おもちゃのミニチュアのように可愛らしい外装のケーキ屋やカフェ、花屋。それに、お洒落で洗練されたブティックや、有名建築デザイナーが手掛けたアパートメントや一軒家、堂々と通りに構える商会の事務所や大商人の屋敷など、まさにカースト上位の者が暮らす街として、独特の雰囲気があった。


 そして、午後の北の地区を道行く人も、煌びやかな衣装という訳ではないが、決してみすぼらしい服を着ている者はおらず、一目で上質と分かる衣装を着ている者もいた。また、こうして北の通りを歩くと、他種族や移民などの他種族がいないわけではないが、圧倒的に少ないのが分かる。


 「レナ、このまま広場まで行く?それとも、ちょっと歩き回る?」


 ベルは、手をつないでいるレナに聞く。今日は、元々休日だったので、特に時間を気にする必要はなかった。


 これからどうしたいか聞かれてレナは、少し困った顔をして首を傾げた。


 そして、


 「ベルの好きにしていいよ」


 その答えに逆にベルは困る。


 そして、レナが今着ている、フリルとレースで飾られた、襟元が詰まり七分丈の袖の―露出のない少女趣味なワンピースを見て、


 「じゃあ、これから、コーデリアに行かない?」


 こうして、女のショッピングが始まった。


 ―高級百貨店・コーデリアに着くと、まずレナの服を買いに行った。


 コーデリアは、白い壁の三階建ての巨大な建物だ。外装はまるで小さな四角形のお城にも見え、その内装は、白い壁に金属でできた装飾、塵一つなくピカピカに磨かれた床、価値の高い壺や花瓶などの調度品が並び、煌びやかに着飾った客たちなどが行き交う。キラキラと輝くシャンデリアが、祝福のために空から降りてくる天使たちのようで、その様は神様の宝石箱のようだった。


 そんな場所の中の一つの店にベルとレナは今いる。


 「どれがいい?レナの好きなのを選んでいいわよ」


 ベルはそう言うが、ずらりと並んだ子供服を前に、レナは目を白黒させていた。


 ここは、コーデリアの中の子供服を主に扱う店だ。高級百貨店ということで、高価なブランド物しかないイメージもあるが、決してそういう訳ではなく、平均収入の市民でも楽しめるように良心的な値段のお店もある。この店もその一つだ。うんと安いという訳ではないが、それなりの収入がある平民にとっては良心的な値段の服ばかりだ。


 レナは初めてコーデリアに来たということもあり緊張していた。白とピンクと花のモチーフに飾られた店内は、まさしく女の子のための空間で、暗に男子禁制という見えない看板が掛けられているようにも思えてくる。


 「本当に好きなのを選んでいいのよ、レナも去年の服だと、もう体に合わないでしょ?」


 レナはまだ、第二次性徴を迎えていないが、まだまだ成長期だ。身長だって伸びるし、体つきもこれから変わってくる。服はその都度買い替える必要があるのだ。


 「でも、ここの服、高いよね?」


 レナは心配したように言う。


 「大丈夫よ、ここは良心的な値段のお店だから。それに私が払うから何も心配はいらないのよ」


 「え、それは悪いよ」


 レナは戸惑ったように言う。ベルは大丈夫と繰り返すが、


 「銀行にパパとママが残してくれたお金と、私用の貯金があるから、そこから払って」


 「でも、それはあなたがこれから、必要になった時に使うお金だわ。本当に必要になった時に足りなかったらどうするの?」


 「大丈夫。スぺリサ国から、パパと家族に、退役軍人保障が毎月出るから。パパは後遺症があったし…私は、パパもママも、もういないから…けっこう高いお金が支払われるの」


 徴兵された国民やその家族に支払われる退役軍人保障など、普通子供が気にしないことを話すレナは変に子供っぽくなくて、一瞬大人と話しているような錯覚にベルは陥る。すぐに、この前、カフェでお昼を取った時のように『これは折れないな』と、ベルは降参した。


 「じゃあ、今日は一先ず、私が払って、後で受け取るからそれでいい?」


 「うん」


 そして、レナは服を選び始める。気になったものは、一つ一つ手に取り吟味する。

 

 西の地区の市場で雑貨屋へ行った時と同様、レナはトパーズ色の目を輝かせていた。その姿にまたもや『やっぱり、女の子ね』とベルの顔に笑みが浮かぶ。


 レナは、涼し気なワンピースを四着選んだ。どれもが、今のフリルやレースに目いっぱい飾られた少女趣味なワンピースに比べたら、圧倒的にレースとフリルは少ない。しかし、どれも、清楚な雰囲気で、十分に女の子らしく可愛らしいデザインだった。前来ていた胸元にオレンジ色のリボンが着いた黄色のワンピースや、先日のシンプルな薄紅色のワンピースのことを考えても、本来彼女はこういう服が好きだったのだろうと推測できる。そして、きっと今着ているはジンが選んだのだろう。


 レナは四着のワンピース以外にも、フードが付いたローブを三着持っていた。


 それらは、花の刺繍がされており、可愛らしいデザインだ。


 「レナ、それも買うの?」


 「うん、外に出る時に、必要になるかもしれないから」


 ローブは耳と尻尾を十分に隠せるようなサイズだった。獣人族などの他種族で、耳や角、尻尾など、人族にはない特徴を有する者の中には、差別や犯罪に巻き込まれることを恐れてローブで隠す者もいる。他にローブを纏うのは、民間の魔術師や、治療師、医師など専門的な知識を持つ者だ。そのため、ローブを纏うことで、どちらに部類されるのか分からなくなるのだ。


 レナの場合は子供のため、ローブを着ていても他種族であることは明らかだが、それを着ていると目立つ。人が多いところの場合、それだけでも、子供にとっては誘拐などの犯罪の抑止力になるのだ。


 レナは獣人族として、女として、子供として、自分の置かれている状況と、自分の価値をちゃんと分かっている。そんなことを考えながら、ベルは服のお会計を済ませた。


 店員にお願いして、買った商品のうちの一着にレナを着替えさせてもらう。試着室から出てきたレナは、肩を露出させないが、鎖骨が見える程度には開いた白い襟と、小さな青いリボンが左右に一つずつ付いた、パフスリーブの水色のワンピースだった。膨らみに乏しい胸の下から切り替えになっていて、ふわりとしたスカートで女の子らしい服。その服はレナにとても似合っていて可愛い。店員も『とてもお似合いです』なんて、笑顔で言っていて、自分のことではないのにベルは少し誇らしげになる。


 レナは可愛らしいワンピースを着た喜びと、涼しいが自分を守る鎧を取られたみたいな不安が半分の、そんな落ち着かない表情をしていた。ベルは、レナに買ったばかりのローブの一着をワンピースの上から着せた。赤いバラが刺繍されたクリーム色のローブに包まれると、レナはほっと安心した表情になる。重ね着になるので、暑いかもしれないが、先ほどの露出の少ない少女趣味のワンピースよりはマシだろうと、ベルは思った。


 そして、その店を出ると二人はコーデリアの中をあちこち歩き回る。


 色鮮やかなキャンディーとチョコレートの専門店や、贈り物向けの上品な文房具店、羽や宝石の付いた帽子が並ぶ帽子屋、それらの店を他の客に混ざり、見て回る。この前一緒に、西の地区の市場を回った時よりも、ベルもレナも大人しく商品を見ていたが、十分に楽しそうに回る。


 そして、数メートル先にとある化粧品店を見つけた時、ベルは懐かしいと思った。


 その化粧品店は、店の外からでも、一つ一つの化粧品がキラキラと輝いているのが分かる。『コラリー』という化粧品ブランドを扱う専門店だ。


 「ねぇ、レナ、あの店見てもいい?」


 レナが頷くのを見て、ベルは店内に入る。


 コラリーの化粧品は、一つ一つの容器が宝石のようなガラスで装飾されたブランドだ。十代を中心に人気な化粧品ブランドで、キラキラとしてカラフルな印象を持つ。


 ベルも少女時代は愛用したブランドで、とても懐かしいと思った。ベルは、紫色の丸いガラスが円になるように装飾された白粉を手に取る。レナも目を輝かせながら、蓋に一粒の透明なガラスが装飾された、紅色のマニキュアを手に取ってまじまじと見ている。


 キャラメル色の耳と尻尾を揺らしながら、トパーズ色の瞳で熱心に見ているレナを見ていると、自分もこんな頃があったんだなとしみじみする。


 「お子さんの化粧品選びを手伝ってるんですか?」


 微笑まし気にこちらを見ていた店員に話しかけられる。レナと共に化粧品を手にとるベルを見て、若い母親とその娘と思われたのだろう。


 「残念ながら娘じゃないんです。知り合いの娘さんなんです」


 ベルは、『それは、嘘だけどね』と心の中で呟いて、店員に誤魔化す。しかし、すぐに『いや、レナとジンは書類上では里親と里子だから、あながち間違いじゃない』と、すぐに思い直した。

 

 そんなふうにベルが一人で思考する中、母娘と間違えた店員は『そうなんですか~』と感心したように言って、


 「でも、そのお嬢さんと、とても仲がよろしいんですね」


 何の曇りのない笑顔を浮かべる店員。


 何個か化粧品の宣伝をレナにした後、店員は業務に戻っていった。


 レナが化粧品を見る様子を見ながら、ベルも化粧品を見る。


 ベルは幼い頃からキラキラと輝くものが好きだった。そのため、十代の頃は、キラキラと輝くガラスで装飾されたコラリーの化粧品が大好きだった。しかし、所詮は十代の少女をターゲットとしたブランドだ。二十代の女性が使うにしては、いささか幼いデザイン。二十代になったばかりの頃に、別の場所でコラリーのチークを買おうとした時、店員から『妹さんへのプレゼントですか?』と聞かれたのはいい思い出だ。


 その時に、もうコラリーの化粧品は似合わない年なのだと悟り、以来、二十代と三十代の女性に人気な『タチアナ』という化粧品ブランドを愛用している。タチアナはコラリーのようにキラキラと輝いている訳ではないが、白蝶貝のように艶めいた容器を、繊細な模様が彫られた金属で装飾されており、上品なデザインなのが特徴だ。もちろんベルはその化粧品ブランドも好きだった。


 「本当、キラキラしてるわね」


 ベルは、ズラリと並べられた久しぶりのコラリーの化粧品を見て、顔を綻ばせる。


 そして、口紅コーナーに目を向けた時、たくさんあるテスターの一本を手に取る。小さな桃色のガラスが縦に三つ並んだデザイン。その口紅の色は、チューリップ色の明るい赤。綺麗な色というよりは可愛らしい色だ。その口紅を見ていると、何カ月も前に偶然、この口紅を、ジンからもらったのをベルは思い出す。


 ちょうど、ジンは田舎から王都に来て、やっと都会の生活に慣れた頃だった。ジンが王都に来てから、魔術や王都の細かいルールを教えるなど、何かと世話を焼いていたので、そのお礼としてくれたのだ。久しぶりのコラリーの化粧品で嬉しかったし、何より好きな人からのプレゼントというのが、ベルは嬉しかった。


 しかし、


 ―あの色は、私には似合わなかったのよね…―


 ベルは明るい色の口紅よりも、どちらかというと深い色や、くすんだ色、そういった落ち着いた色の方が似合う。ジンからもらったチューリップ色の口紅はベルには明るすぎた。


 あのチューリップ色は、可愛らしい雰囲気の人が似合う。


 「レナ、こっち向いて」


 ベルはマニキュアを見ていたレナを呼ぶ。こちらに顔を向けたレナのさくらんぼ色の唇に、ベルはそのテスターの口紅を引く。可愛いレナには可愛い色がよく似合う。


 レナは化粧品脇の鏡に映った、チューリップ色の自分の唇を見て、トパーズ色の目を輝かせる。


 ベルも同じ色のテスターを塗ってみた。レナに並んで鏡を除くと、無理やり己を可愛らしく飾り付けようとする、センスのない女の姿が映る。


 「ベルは、こっちの色の方が似合うと思う」


 そう言いながらレナがスッと差し出したのは、深みのある落ち着いたバラ色の口紅。『私もそう思うわ』とベルは苦笑した。


 その後、ベルはレナを引き連れて店を出る。


 また二人でコーデリアの中を歩くが、たくさんの店の中の一つ、とある化粧品店を目にした時、今度はレナの目が釘付けになる。


 「レディ・ラシェルだ……!」


 その店は、白と赤を基調とした化粧品店で、入り口には妖精族の歌手のクローディア・オルコットの写真が飾られている。銀髪を持ち、ワインレッドの口紅を付けた彼女は相変わらず、蠱惑的な笑みを浮かべている。『妖艶』とか『セクシー』とかそういう言葉で称される彼女だが、これで、聖歌や賛美歌を専門に歌うのだから、本当に意外だ。


 そんなギャップも売りにしているクローディア・オルコットは、『レディ・ラシェル』という化粧品ブランドも手掛けていた。レナが見つけたその店は、そのブランドの専門店だ。


 「見ていく?」


 本日二件目の化粧品店へ行くか、ベルは尋ねる。しかし、先日雑貨屋で、バラが刺繍されたクリーム色のリボンを見つけた時のように、レナは悲しそうに首を横に振った。


 「いい…。私に、化粧はまだ早いから……」


 子供に化粧道具が早いのはベルも同意だが、先ほどコラリーの化粧品店を見て、テスターまでつけたので今更だろう。


 「本当にいいの?」


 「いいの、私には必要ないから!!」


 少しだけ声を荒げるレナ。彼女は苛立った表情を見せたが、すぐにハッとしたようにレナは、『ごめんなさい』と謝った。レナが怒りの感情を見せたことにベルは驚いて、一瞬固まるが、すぐに『気にしないで』と取り繕う。


 キャラメル色の耳と尻尾をしょんぼりと垂らしたレナに、ベルは『そろそろ、約束のジェラートを食べに行きましょう』と、声をかけた。



*************


 ―広場は相変わらず人でいっぱいだった。


 広場で待ち合わせをする人、大道芸を楽しむ人、露店に並ぶ人、ベンチに座りゆったりと時間を過ごす人。様々な人がここにいる。


 ベルは約束通り、レナにジェラートを買ってあげた。前にもここでレナにジェラートを買ったことがあったが、今回はレナと一緒に露店に並んで好きな味を選ばせた。案の定レナはイチゴ味のジェラートを選んだ。ちなみにベルは前回と同じバニラ味のジェラートを選ぶ。


 この前と同じ噴水近くのベンチが開いていたので、二人一緒にそこに座る。


 噴水の向こうでは、前と同じく青緑色の髪のピエロと、赤色の髪のピエロが観客に囲まれ芸を披露していた。今回はジャグリングだ。


 ベルとレナはそれを見ながら、ジェラートを食べる。


 口の中が冷たさと甘さ、それにバニラの香りでいっぱいになり、ベルは目を細めた。


 レナに目を向けると、彼女はイチゴ味のジェラートをすごい勢いで食べていた。次々と消えていくジェラート。そういえば、この前カフェでお昼を取った時、大人一人分のミートソースパスタとサラダを、レナは一人で間食していた。あまりの食べっぷりにベルが驚いていると、レナは慌てて、


 「最近、食欲なくて、今日のお昼とかもあんまりご飯食べてなかったの…でも、ジェラート見たら、すごくお腹空いちゃって…」


 そういえばジンが、最近、レナは食欲がないようだと言っていた。当の本人のレナもそう言っている。確かに、この前、二人で一緒に買い物した時に比べたら、レナは痩せたように思える。ある意味、この食欲はその反動なのかもしれないとベルは考えた。


 「そうなの…。レナ、他にも何か食べる?ホットサンドとかも売ってるけど?」


 「食べる!」


 あまりに素直な返答にベルは苦笑した。しかし、すぐにレナは食事が摂れないほど苦しかったのだと、反省する。そして、バニラ味のジェラートを食べ終わってから、チーズとチキンのホットサンドと、卵とハムのホットサンドの二つをベルは買ってきた。少し多めに買ってきたのだが、レナは全部平らげた。


 「ごちそうさま…。ベル、あの、ありがとう…」


 「いいのよ、これくらい」


 少し気まずそうな顔でレナはお礼を言って、ベルはそれに対して、安心させるように優しく答えた。


 噴水の向こうでは、変わらずピエロたちが芸を披露し、周りにいる人々の視線を独り占めする。青緑色の髪のピエロが足でジャグリングをする一方で、赤色の髪のピエロがリンゴを使ってジャグリングをしている。


片方は足でジャグリングという難しい技に挑戦しているのに、もう片方はジャグリング中に使っているリンゴを齧って、歪なリンゴを増やしていく。もちろんそんな食いしん坊な赤い髪のピエロに観客たちは大笑いだ。どちらのピエロも、派手な化粧の仮面を被った顔におどけた笑みを浮かべている。


 なんとなく、チューリップ色の口紅を付けたベルの口元と、口紅で笑顔を描いたピエロの口元の、ちぐはぐな感じが似ている気がした。


 そんなことを考えながら、ベルはレナの方へ座ったまま体を向けて、軽く深呼吸をした。そして、そのトパーズの宝石のような目を見つめて、口を開く。


 「―ねぇ、レナ、その肩の痣、ジンにされたのよね?」


 虐待の確認。それはベルがしなければならない大きな仕事だった。


 ベルはレナの言葉を待つ。


 レナは黙っていた。


 ただ、戸惑いと不安、困惑、それに焦りが混ざった、ぎこちない表情を浮かべていた。まるで、子供が悪戯をして、それがバレそうになり、どう誤魔化そうか悩むみたいに。しかし、レナは元来の素直さからか、観念したように、『うん』と頷いた。


 『やっぱりか』と、覚悟していたとはいえ、鈍器で殴られるような、あるいは刃物で刺されるような、そんな痛みも含んだ感覚に、ベルの心は侵される。


 「あなたに、魔力が必要であるとは分かっているけど、ジンがあなたにしたことは、とても悪いことなの…。だから、あなたをジンの下には帰さないわ」


 「ほんとう?」


 「えぇ、本当よ。約束するわ。魔力の供給のことなら気にしないで、大丈夫だから」


 レナのぎこちない表情の中に、少しの安心が浮かんだ。その表情に、ベルは罪悪感に駆られる。


 ―どうして、もっと早く気づいてあげられなかったの!―


 レナがどんな目に遭っていたか、そんなことに気づかなかった馬鹿な自分自身へ、ベルは激しい怒りが沸いた。


 そんな彼女の思いが、顔や態度に出ていたのか、レナが、『ねぇ、ベル…』と口を開く。


 「あのさ、私、全然大丈夫だよ。ジンは、確かに、首とか肩にキスマーク付けたけど、それは、ジンが…私がジンのことが好きだって勘違いしちゃったからなの…。私も、そのこと、ちゃんと否定しなかったし…。あ、もちろん、ベルみたいにジンが好きってわけじゃないよッ…」


 「レナ…?」


 「ジンは、私は子供で、()()()みたいにできないからって、代わりにキスマーク付けただけなの…。ジンにとって、私はまだまだ子供で、女として見てないの…。だから、()()()()してないから…」


 『だから、安心して』と、ぎこちない笑みでレナは言った。その言葉の意味が、レナの処女が守られたことに対するものか、それとも恋のライバルにはならないと証明するためなのか、あるいはどちらもなのか、ベルには分からなかった。


 ただ、理解してしまった。


 ―この子は、自分の価値感を捨てようとしたんだわ…―


 レナは生きるために、自分の大切な価値観を捨てようとしたのだ。


 レナはちゃんと色んなことを知っている子だ。それに獣人族で、しかも女であるということ、その身に降りかかるかもしれない危険を理解している。もしかしたら、興味本位で男女の性が絡んだ生々しい恋愛も、友達との会話で出てきていたのかもしれない。ただ、言えるのは、きっとレナはキスマークの意味も、もちろん知識のみだけどセックスの意味も知っている。男女がキスすれば子供ができるとか、天使が女の人のお腹に子供を届けてくれるなど、そんな戯言なんて信じていない。


 レナは周りを見て、きちんと考えることができる。そして、人を気遣うことができる、そんな大人びた子供だ。


 そんなレナが、仕方ないとはいえ放り込まれたのは、複数の女性と曖昧な関係を持つジンと、その女性達がジンを巡って牽制しあっている現実。それは適切ではない関係だ。正しくない現実だ。


 レナは必死に考えただろう。どうすれば、きちんとジンから魔力をもらえるか、彼を思う女性たちから目の敵にされないか。この正しくない現実で生きられるか。


 その結果が、きっと、性に目覚めてない純真無垢な女の子を演じることだったのだ。


そのために、レナは親鳥を盲目的に信じる雛のように、ジンの思い通りに従ったし、ぬいぐるみに名前を付けるなど、幼子のように振る舞った。そして、意識して演じていたそれが途中から、無意識にも出てくるようになった。レナの目論見を外れて、ジンが彼女を必要以上に子ども扱いしながら、女としての役割を求めたからだ。


 ベルは、ジンが子供にそういう気持ちを抱く人なのかは分からない。しかし、どちらにしてもジンのせいで、レナは、現実を見て諦める大人、親に庇護される幼い子供、そんな二面性を持たざるおえなかった。


 「ねぇ、レナ、つらかったでしょ?」


 ただでさえ、両親が亡くなってしまい辛いのに、生きるために、自分の意思とは違う行動を取らなければならない。間違いなく苦痛だったとベルは思う。その苦痛を和らげるため、現実に対応するため、レナは今まで大切だった全部を捨てようとしたのだ。


 ジンが学校に行けないと決めつけるから、行かなくなった。会うと辛くなるから、大好きな友達と会うことをやめた。子供だと示すために、『森のお茶会シリーズ』クマのローズが友達だと偽った。赤いリボン付きの串を、友達との思い出を連想させるから、ごみ箱に捨てた。『セクシー』とか『妖艶』とか、そんな性に関する言葉に結びつく女性だから、大好きなクローディア・オルコットを遠ざけようとした。自分自身に嘘を吐くために、好きなものや欲しいものを、必要ないと言い聞かせた。


 ジンをたまに睨んでいることから分かるように、一人の男と、一人の女の誠実な愛が正しいと分かっているが、不誠実な愛がすぐ側にあること受け入れた。本当はジンが好きではないが、彼に勘違いをされて、大人の男に恋する少女を演じた。彼に幼い子供として、女として、両極端な役割を押し付けられ拒否しなかった。


 普通の十歳の女の子でいることを諦めた。


 そんなふうにレナは、大切な価値観を捨てようとしたのだ。


 でも、捨てきれなかったのだ。


 そのことを理解したベルは、たまらずレナを抱きしめた。


 「戦わなくていいッ…戦わなくていいのッ!」


 レナは一人で戦っていた。


 魔力を取り込めない体だから、国は魔石を支給してくれないから、行く当てがないから、誰も助けてくれないから―彼女は一人で戦うしかなかった。


 本当なら、レナは当然の権利として大人に守られるべきなのに、無抵抗という抵抗をさせてしまった。


 「ごめんなさい!ごめんなさい!」


 目の奥が熱いと、ベルは感じた。視界が滲んでアメジストの瞳から涙がこぼれる。ベルは自分に泣く資格はないと分かっていた。でもどうしても止まらなくて、何度も『ごめんなさい』と繰り返しながら、『どうして守れなかったの?』と何度も自分へ問い詰める。


 レナみたいな引き取られた子供が、虐待されてないか異変はないか、確認するのは教会に住むマリアとアンジェラの仕事だった。しかし、二人はジンとの恋に夢中になり、レナを守ることを放棄した。そして、自身も恋愛に夢中になるあまり、ベルも周りが見えてなかった。


 ベルの腕の中で、レナは泣くことも、怒ることもしなかった。ただ、初めて会った時のように、痛みをこらえるように、こちらの服をギュッと握った。


 「…ありがとう」


 ポツリと鈴を転がしたような声が短い言葉を紡ぐ。


 ―ジンは、自覚がないまま、人を傷つける人だわ…―


 きっと彼には悪気がない。悪気がないまま、無自覚で人を傷つける。そうせずにはいられない男だ。


 だが、傷つけられた方はたまったものではない。


 ―本当に、最低な男よ…―


 ジンはある意味最低な男だと、ベルは思う。


 しかし、頭の中に様々な思い出が浮かんで苦しくなる。


 何カ月も前に、王都の外で初めて会った日のこと。魔術を教えて、上達したとお礼を言われたこと。コラリーの口紅をもらったこと。王宮からの帰り道に、一緒に綺麗な夕焼けを見たこと。マドレーヌを半分こにして、『おいしいね』と言って一緒に食べたこと。美術館でデートをした後、初めてキスしたこと。初めての経験ではなかったけど、ジンとは初めてセックスした時のこと。


 そして、ベルが大好きな、ちょっと頼りないあの笑顔。


 そんなジンとの様々な思い出が浮かんだ。


 ジンに対する失望もあるのに、同時にどうしようもなく嫌いになれない。そんな自分自身への嫌悪感がベルの中に沸いて来る。


 「ごめんなさい…ごめんなさい…ッ…」


 泣きながら何度も同じ言葉を繰り返すベル。


 ―恋愛をすることは、薬物でダンスをするのと同じ―


 昔読んだ小説のフレーズを、またベルは思い出す。


 噴水の向こうから、ピエロへのたくさんの拍手が聞こえる。


 その音がベルの耳にこびりついて離れなかった。



お読みいただきありがとうございました。

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