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正義と悪と亀裂と

お待たせしました。第14話です。今回は、児童への身体および性的虐待、女性への性暴力の表現があります。苦手な方、ご不快になる方はご注意ください。


 ―正義が悪に必ず勝つのが、物語の様式美だが、現実はどうだろうか。


 人によって正義と悪の定義は違うし、状況や立場によって正義も悪も逆転する。たとえ、正義と悪が、白と黒で明らかであっても、正義が勝つとも、悪が完全に負けるとも限らない。


 そんなことを考えながら、ベルは今の状況に対してどうするか悩んでいた。


 「二人と一緒で心強いよ」


 「………あぁ」


 「………えぇ」


 最初に言葉を発したのは、心底安堵したような笑みを浮かべる聖騎士候補の、ジン・オーブ・バナーレ。


 それに対し低い声で答えたのは、口をへの字にして不機嫌そうな同じく聖騎士候補の、レオノーラ・サファイア・エクエス。


 そして、ぎこちない声で答えたのは、顔を引きつらせて気まずそうな王宮魔術師の、ベルティーユ・アメジスト・ファーテン。


 組み合わせがいいとは決して言えないこの三人。


 そんな三人が今いるのは、ノエリア地区、バウール通り。


 ここは一棟ごとに多くの家庭が入居しているアパートメントが立ち並び、ごく一般の庶民が住む、南に位置する中央街だ。たくさんの窓が並んでいるアパートメントから、向かいのアパートメントや建物へ、祭りの旗みたいに洗濯物が垂れ下がる。時折、風になびくたくさんの影が通りの上を横断している。


 大小様々な真っ黒なお化けが、細い手をつないで、通せんぼしているようにも見える洗濯物の影。そんな影に怯えることもなく、早足で道行く人はまばらで、時折、公僕である事を示している装いのこちらへ胡乱な目を向けている。こうして通行人を見ていると人族が多いのが分かる。


 上を見上げると空は青色と灰色。太陽が顔を出す青空の向こうに、灰色の雲が見えた。自身のローブよりも暗い色なので、もしかしたら一雨降るかもしれないとベルは思った。人々が早足になるのも分かる気がする。


 人々が屋内へ避難しようと、足を急がせる中、変わらずバウール通りを動かない、ジンとレオノーラ、ベルの三人。


 ―話は、一日前に遡る。


**********


 ―お昼が始まる前に、全ての王宮魔術師と王宮騎士団の者が一か所に集められた。


そこは、白磁気のように真っ白な壁に、血のように赤い絨毯の床の広い部屋。聖騎士候補も含めた、王宮魔術師と王宮騎士の全員が揃っていても、まだ余裕のある部屋には、調度品や装飾品の類は一切なく、ただ、だだっ広い空間だった。


 そこは戦争前や、何か大きな事件の捜査の前に、全体への説明と指示出し、事の結果を報告するために使われる部屋だった。六十年前のエーディス対戦はもちろんのこと、十数年前の隣国の戦争や、後処理の前後に度々用いられた部屋。そんな部屋で、魔術師団と騎士団の二つの組織の責任者が、大勢の部下の前に立つ。体が大きく厳つい顔の騎士団長は、重い口を開いた。


 「―皆が、知っての通り、先月から、誘拐事件が起きている…」


 先月から今月にかけて王都では、五件の誘拐事件が起きていた。


 誘拐された被害者は、皆子供だった。

一件目が、東の地区・アナベラ地区の八歳の男児。

二件目が、南の地区・エマ地区の六歳の女児。

三件目が、西の地区・コレット地区の六歳の女児。

四件目が、同じく西の地区・フラヴィ地区の五歳の男児。

五件目が、南の地区・キアラ地区の七歳の女児。

この五人の子供が攫われた。


 誘拐事件自体は、元々貧民街などの治安が良いとは言えない地区や、たまに裕福な移民や他種族が狙われることもあったので、皮肉にも王都を震撼させたとか、珍しいとは言えなかった。しかし、今回の誘拐事件は明らかに注目する点があった。


 「―現在発覚している五件の誘拐事件だが、いずれの事件も誘拐された子供が、中央街に住んでおり、皆、魔族の子供だ…」


 今回の事件が、特徴的な点は、誘拐された子供が全員、魔族である事だ。一件目の男児がオーガ族、二件目の女児が悪魔族、三件目の女児がメドューサ族、四件目の男児が悪魔族、五件目の女児がゴブリン族。


魔族の中でも、いわば明らかに人族以外の特徴を有し、目立つ種族の子供ばかりだったのだ。人族以外を狙う誘拐事件はたまに聞かれるが、その中でも魔族だけが狙われる、このことに人々の想像が掻き立てられないわけがなかった。犯人は、魔族の子供を嗜好する小児性愛者、魔族に恨みを持つ復讐者、依頼を受けて魔族を誘拐する狩猟者(ハンター)、様々な憶測が飛び交った。


 「犯人から身代金や要望、犯行声明はないが、この子ども達が、行方不明になる前に、金髪の男と一緒にいるのが目撃されている。また、この子たちが誘拐された思われる時間は、午後二時から四時の間くらいだと予想されている…。いずれも、子供が外で遊んでいてもおかしくない時間だ」


 事件のあらましを低い声で告げる騎士団長。四十代くらいの彼は男爵家出身でありながら、努力して今の地位に着いた、根っからの叩き上げの人材だ。騎士団長だけではなく、王宮魔術師団長など、長年国を守る組織に携わっている者は、多くの場数を踏んでいて、その分、磨き上げられた嗅覚と直観力を持っている。そして、いつだってその頂点(トップ)達が下した予想は、嫌でも血肉となった知識と経験によって、弾き出される正確なもの。そのため、今、語られている仮説の正しさを、ベルだけでなくこの場にいる者たちは知っていた。


 「我々は、この四件の連続誘拐事件は、関係あるものと考えている…。そして、背景には、過激な人族中心主義者の団体があると考えている」

 

 ピクリとも変わらない表情でそう告げた騎士団長。


そして、王宮魔術師団長へと顔を向けて、説明役を交代する。


 「あー…、今までも、王都は十分に治安が悪かったとは思いますが、この一年間は、特に顕著でした。しかし、問題なのは、大規模な犯罪集団だけではなく、そこに触発されている者たちがいることです。本当に遅いくらいですが、もはや新たな手を尽くさなければなりません」


 騎士団長と同じ年くらいの背の高い魔術師団長が、淡々とそう告げる。普段は、仕事を前に面倒と言わんばかり顔をしているのが、彼を知る多くの者の認識だった。しかし、その目は皆が見たこともないくらい激情に燃えていた。


 「幸いにも、この誘拐事件の犯人の目星は付いています…。そのため、我々は万全の準備で、現場に突入するだけです…。現場には、何人かの者がすでに付いていて、この話が終わったら、本格的に動きます。ちなみに明日には捕まえる予定です…。あー…、それと、皆さんには伝えたいことがあります」


 そう言うと、魔術師団長は一呼吸おいて、


 「今までもでしたけど、これからも、過激な犯罪者や犯罪集団は、テロやら、傷害事件やら、大騒ぎになる大規模犯罪をすると考えられます。しかも、それらは、今以上に猛威を振るうでしょう…。そのために、騎士団と魔術師団は気合を入れて捜査をしていきます…。…いいですか、これは、そんな奴らとの、戦いです。国民の命がかかった、負けられない戦いです。一人ひとりが、その意識をきちんと持ってください」


 最後まで淡々とした口調で締められた言葉。しかし、その言葉の重みに、その場にいた全ての者が、現在の王都の状況を改めて認識したのだ。


 ―こうして、今回の誘拐事件は本格的に、動き始めたのだ。


**********


 ―そして、今に至るわけである。


 現在、ジン、レオノーラ、ベルの三人は、その誘拐事件の犯人の確保のために、周囲の警備にあたっていた。


現場にいる者たちは、魔術師も騎士も、さらには聖騎士も関係なく、三人一組の班となって行動することになっている。ちなみにこの組み合わせは、魔術師団にいた頃から、実力と地位、評判共に高かった聖騎士候補のアマート考案だ。彼曰く『魔術、剣術、体術などの全体的な戦力が、おおよそ均等になるよう選んだ』ということらしい。


 たとえ、戦力が均等になったとしても、相性が悪ければ意味がない。正直に言ってベルはそう思った。男一人に、その男に思いを寄せる女二人の、俗に言う三角関係。どう見ても相性が悪い。任務において、これほど相性が悪いのは珍しいのではないだろうか。


 ちなみに、魔術師団本部で組み合わせが発表されるまで一緒にいたミーナは、先輩の魔術師のベンジャミンと、仕事で魔術師団によく顔を出し、気さくで評判もいい女性騎士と一緒だった。先ほど、その三人を見たが、男一人に、女二人の同じ組み合わせだったのにこちらと全く違った。あちらは恋愛感情が一切絡んでないためか、任務の緊張感があるも、とても穏やかな印象だった。厳しい表情ながらも、互いに力を合わせようとしているのが、そこに漂う空気で分かった。


 そんなことを思い出しながら、ベルたち三人はバウール通りを歩く。


 壁にヒビの入った窓の多いアパートメントの群れ、看板だけは立派な三流新聞社、小規模の事業所が一か所に集まった背の高い建物、飾りはないが清潔な雰囲気のパン屋や雑貨屋。そんな白い壁や黄色の壁、クリーム色の同系色の建造物に挟まれた石畳の道の上には、何十匹もの真っ黒なお化け―もとい洗濯物の影が風に吹かれてゆらゆらと動いている。そこにまばらな通行人や野良猫などの人影がかかる。


 そこにベルたち三人分の影もそこに加わる。ジンとレオノーラ二人が前を歩き、ベルが後ろに続く。三人の形を模倣した真っ黒な影が、斜め後ろを着いて来る。まるで自分の影ではないように感じて、ベルは子供の頃に読んだ本の中の、死後の世界へ魂を導く死神を思い浮かべた。


 通りのまばらな通行人たちは様々だった。酒のジンを片手に、昼間から酔っぱらう男性や、急ぎ足で通りを歩く女子学生の集団。化粧がばっちりで、肩にショールを巻いた、たぶん娼婦と思われる女性(公僕であるこちらを見て、通り過ぎるまで客引きができないからか、睨んでいた)。


 人族の他にも、頭に犬の耳が生えた人犬族の中年男性や、顔に鱗のついた龍人族の若い女性。特徴的な刺繍入りの伝統衣装に身を包む移民の老人など、他種族や移民もいた。西の地区も他種族や移民が多いが、南の地区も多い。特に南に行けば行くほど、多くなる。そして、低所得者が多いのだ。ここのノエリア地区は、まだ、そこまで貧しいというわけではないが、下町の独自の雰囲気がある。


ふいに、『好きなタイプかい?女の子なら胸が真っ平らな子。男の子なら直腸がキレイな子だな。あぁ、もちろん全員魔族さ』、というやや長いセリフが、ベルの目に飛び込んできた。


それは、ベルたちのすぐ近く、斜め前脇のカフェテラスの屋根の下。そこで、男性が紙巻き煙草を加えながら、新聞を読んでいる。新聞の一面には、セリフ付きの風刺画。癖毛の黒髪の男が嫌らしい顔を浮かべて、いかにも悪人という感じな者たちに語っている。


下品な長いセリフがついたその新聞は、風刺画と下品な内容な記事でおなじみのカローナ新聞社のだと、ベルはすぐに分かった。そして、その記事は、この誘拐事件に関するもの。カローナ新聞社は、この事件を小児性愛者の犯行と見ている。そして、直接は書かれていないが、事件をいまだ解決をしていない国に対して、『能無し』や『役立たず』と罵っている気がした。


下品な風刺画のせいか、王宮魔術師という公僕として、痛い所を突かれている気がするからか、ベルの憂鬱が増す。


 再び空の向こうを見ると、灰色の雲が先ほどよりも近くなっている。これは思ったよりも早く降りそうだと、ベルは上に干されている洗濯物に目を移すと、アパートメントの窓から主婦やお手伝いしている子供が洗濯物を回収し始めたのが見えた。『外に出ている日に、雨が降りそうなんて、ツイてないわ』と、ベルはそう思って自慢の黒髪をいじった。しかし、すぐに職務中だと、手を離す。幼い頃から、母親にも注意されるこの仕草は、無意識のもので、ベル自身も自覚している悪い癖だ。


 ベルは、『しっかりしなさい』と心の中で、自分を叱りながら、灰色のローブの襟元を正した。


 「犯人、今ごろ捕まっているのかな?」


 唐突にジンが言った。


 「そろそろじゃないか」


 それにジンの隣を歩くレオノーラが答える。


 二日ほど前から、私服の騎士と魔術師が、犯人の自宅のアパートメントの様子を伺っていた。誘拐された子供が、犯人宅にいる様子はない。そのため、後は透視魔術や、密偵用の小型の召喚獣を用いて、中を確認し、タイミングを見て突入するだけだった。


 そもそも、この犯人の目星がついたのは、数日前、犯人の部屋からぐったりとした様子の、魔族の子供が怪しげな人物に抱えられて出ていったという近隣住民からの通報があったからだった。目撃者が見たという子供は寝ていただけという可能性もあるが、最悪の場合だって考えられる。


 ベルの頭には、着飾った醜い奴隷商人の男と、肩から血を出して剣を握る男の犯人の姿が浮かんだ。そしてすぐに、舞台の場面が切り替わるみたいに、血を浴びて呆然と座り込むレナと、狼の姿のまま死んでしまった、血塗れの彼女の両親が浮かんだ。実際にこの目で見た光景。そして、あの時、嗅いだ咽せかえるような血の匂いと、ジンジャースープの匂い。視覚から嗅覚へ、あの時の記憶が鮮明に呼び起こされる。そして、また視覚へ。あの時、テーブルと床にこぼれたジンジャースープは、まだ微かに湯気が立っていた。


 あの時、もっと早く駆けつけていれば、今頃と、ベルは思わずにいられない。そのことを思い出すと、いつでも、コップの水に一滴のインクを垂らすような、そんな取り除き切れない罪悪感が、ベルの胸に広がるのだ。きっと、忘れてはならないことなのだと、ベルはバラ色の口紅を引いた、形のいい唇を噛んで、すぐに緩めた。


 この誘拐事件とは関係ないが、人の意志を無視して、理不尽に物として扱おうとする点はどちらの事件も同じだ。


 「子ども達、無事だといいわね…」


 ベルは祈るように呟いた。それに対し、ムッとしたようにジンは言う。


 「無事じゃないのが、当たり前に言うなよ。きっと、子ども達は大丈夫。生きてるよ」


 『今は、俺たちがやれることを尽くそう』とジンは、真剣な顔でそう言った。しかし、彼の中で、無事という言葉の意味が『命が無事であれば』という意味である事に、少しだけベルの中に反感が生まれる。


 たとえ、命が無事であっても、身体が傷ついている場合もある。命に別条がなくても、自分より弱い存在の子供を、犯人たちがどう扱うか。欲望のまま、どのようにおぞましいことを子供に行うか。


 ベルの頭に、学生の頃の初めての実地訓練の時が思い出される。無残に死んだたくさんの人々。その中でも、果実をつける前の寂しいオレンジ畑で、裸に剥かれた死体の少女が強烈に思い出される。当時、学生であったベルとあまり変わらない歳と思われる、十代半ばくらいの少女。カッと見開いたままのオリーブ色の目。乾いた白いもので汚れた体。助けを求めるように口が開き、その死に顔が恐怖に歪んでいたのが、今でも忘れられない。


しかも、あの時、少女のような最期を迎えたのは、一人や二人ではなかった。その上、王宮魔術師になってからは、そんなケースを老若男女問わずもっと見た。


 子供達が生きているか死んでいるのか、思い出の中の少女たちと同じ扱いを受けているかは、まだ分からない。ただ、言えるのは、たとえ、生きていても、犯罪に巻き込まれた子供達の心には大きな傷が残ることには変わりないということだ。


 この認識の違いは、ジンが男であるせいか、それとも平和な場所で育ったせいか、それとも悲惨な犯罪の場数を踏んでいないせいか分からない。


 ベルはレオノーラを見た。ジンと共に前を歩くレオノーラは、厳しい表情でありながらも無表情で無言だった。誘拐された子供たちの現在を、彼女がどのような予想を立てているかは、読み取ることはできない。


 そんなことをベルが考えていると、向こうの煙草屋の角から、同じ捜査に関わっている、聖騎士候補の男が片手を挙げて走って来た。


 「誰か一人、こっちに来てくれ!」


 捜査に何か動きがあったのだろうかと、ベルが思うと、すぐに『俺が行くよ』とジンが向こうへ行った。


 その場に残されたのはベルと、無表情のレオノーラ。


 「………」


 「………」


 ―気まずいわね…―


 ハッキリ言って、ベルは今の状況が気まずくてたまらなかった。


 早くジンに帰って来てほしいが、彼はやって来た聖騎士候補と何やら話し込んでいる。しばらく終わりそうにない。


 恋敵であるから、気まずいということもあるが、レオノーラとは合同演習の件があったせいでもある。


 ベルはレオノーラがせっかく同じ土俵で戦いに来たのに、嫉妬に負けて感情のままに、魔術を使った。彼女に暴力を振るってしまった。それは、レオノーラの努力を踏みにじってしまったということでもあった。


 ―…私、この子に、謝らなきゃいけないわ―


 広場で八つ当たりの道具に使ってしまったレナを謝る時と同様に、ベルは対峙することから逃げていた。この逃げ癖は、髪を無意識にいじるのと同じくらいの悪い癖だ。一先ず、この事件が終わったら、謝ろうとベルは思った。


 そんな中、


 「…ファーテン魔術師」


 ずっと黙っていたレオノーラが口を開いた。


 少女の面影のあるその顔をこちらへ向けて、そのサファイアのような目で、こちらを真っ直ぐに見つめる。自分の顔に、まだ回収されていない洗濯物の影がかかっているのを気にするそぶりもない。


 レオノーラはそのまま、ガバッと頭を下げた。実に彼女らしい模範的なお辞儀だった。


 「先日の合同演習では、私利私欲のために、あなたに戦いを持ちかけて申し訳ありませんでした…」


 それは紛れもなく謝罪だった。


 「ちょっと…ッ!頭を上げてちょうだい。別に、私、あなたに謝らなきゃならないことされた覚えないわよ?」


 もちろん急な謝罪にベルは慌てるが、レオノーラはその姿勢をやめず、話を続ける。


 「私は、あの日、八つ当たりのためにあなたと勝負をしたんです…」


 「え…」


 「私は許せなかったんです…。私は日頃からアイツと一緒にいるのに、私よりも先にアイツと出会ったことや、アイツに魔術を教えられること、アイツに信頼されていること…。いつだって、私の前にいて敵わないこと…。あなたのそういうところが許せなかったんです」


 『アイツ』とはジンのことだろう。レオノーラは手が白くなるほど拳を握った。


 「だから、私は、合同演習が、あなたに、攻撃ができる機会だと思ったんです…それで、有効そうな魔術も練習しました…」


 己の罪を懺悔するように言うレオノーラ。言い訳も取り繕うこともなく、素直に彼女は、ベルを攻撃したかったのだと告げる。


 レオノーラのその姿に、『あぁ、彼女も自分と同じではないか』とベルはそう思った。同じようにジンが好きで、曖昧な関係を続けていて、相手が気に食わない。そんな相手を攻撃できる機会があったから、感情のままに暴力を振るった。ただ、レオノーラはベルに明らかな敵意を示したかった。一方でベルは、自分が相手より上であることを示したかった。その違いはあれど、ほとんど同じだった。


 しかし、恋敵と自分が同じだからと言って、なんだと言うのだ。『あなたも同じなのね』と互いに傷を舐めあい、笑いあえばいいのか。ベルは、レオノーラと自身が同じであることを気づいた、誰でもない自分自身を嘲った。確かにそうなれば、さぞかし美しい女の友情に見えるだろう。しかし、そんなことは不可能だ。


 「別に、レオノーラさんが謝る必要はないわよ…。それに、私も、あなたと戦っていて、途中から、嫉妬全開で戦ってたもの…」


 ベルは笑みを浮かべて言った。身内や友人、親しい人には決して見せない、余所行き用の笑顔だった。それは、商人が自分の内面を晒さないための仮面だ。


 「しかし…」


 「しかしじゃないわよ。こっちもごめんなさいね…本当、大人気(おとなげ)なかったわ」


 そう言って、レオノーラの顔を見ると、今も苦しそうな顔をしていた。そして、


 「ファーテン魔術師が、アイツを好きなのは知ってます…。リリナとかも、ヒルデガルト殿下も、リュシエンヌ様も、他の奴らも…」


 「………」


 「それでも、やはり、私はアイツが諦めきれません…」


 「…任務中よ。この話は、もうおしまいにしなさい」

 

 自分でも驚くほどの、重くて低い冷淡な声がベルの口から出た。レオノーラは何か言いたげだったが、そのまま黙る。彼女の顔の上で洗濯物の影がゆらゆらと動く。目が覚めるような青色の瞳に暗い影が落とされる。


 急に、『今の、ノーラは恋という酒に酔っぱらっているようなもんです』という、言葉を思い出す。一か月ほど前の合同演習の日に、医務室でカルロス・アウィン・アミスターが言った言葉だ。似たような言葉で、ベルが少女だった頃に読んだ恋愛小説に、『恋愛をすることは、薬物でダンスをするのと同じ』という言葉があった。ちなみにあれは、悲恋小説で、ハッピーエンドの物語が好きなベルにとっては納得のいかない物語だった。


 ベルはローブの襟元を再び正す。


 空では、灰色の雲が王都を飲み込まんとすぐ側まで迫っている。ちょうど左前のアパートメントの部屋の窓に、赤毛の子供が、母親らしき赤毛の母親が見えた。彼女たちは、一生懸命に洗濯物を回収しているようだった。


 王都の外からやって来る湿った風はベルの黒髪と、レオノーラの青い髪を揺らす。湿気のせいか空気は重く、ただどこまでも、気まずい二人。二人の視線の先には思い人のジン。彼は、今も聖騎士候補の男と、真面目な顔で話し込んでいる。何やら深刻そうだ。


 そう思っていると、ジンが駆け足で戻って来た。そして、顔を寄せるようジェスチャーで示す。そして、語られるのは、衝撃の内容だった。


 「さっき、犯人を確保したんだけど、思いっきり暴れて逃げたらしい…。それで、この近辺にいるかもしれないって…」


 犯人逃亡。その単語が頭に浮かんでベルは顔が青ざめる。サーっと自分の顔から、血の気が引くのが分かった。自分の悪事がバレていると発覚し、なおかつ、捜査の手がすぐ側まで迫っていると分かっていて、冷静な犯人など、ベルが知る限りごく少数を除いて見たことがない。


大抵かなりの興奮状態になっていて、火事場の馬鹿力というやつか、どこにそんな力があるのだと言わんばかりの抵抗を見せる。それに人質を取るなど、無差別に一般市民を傷つける恐れも十分あるのだ。レオノーラもその考えに至ったのか、同じように顔が青い。


 「このこと他の人も知ってるの?住民はどうするの?」


 「さっきの奴が、今、他の班回ったりしてる。あと、住民には屋内に避難って言って注意をしてるって…」


 それにしても、かなりの非常事態だ。一般人に被害が出る前に捕まえなくてはならない。


 「相手の武器は?犯人の状態はどうなってるんだ?」


 「武器は分からないけど、相手が、かなりヤバい状態らしい」


 「なんだそれ、犯人は薬物中毒者なのか?」


 「だから、それも分からないんだよ!」


 少し苛立ったようにジンが言った。それに対し、レオノーラはチッと舌打ちをした。非常事態に焦り、苛立っているのは分かるが、少なくても貴族令嬢がする仕草ではない。


 「私達は、ひとまずこの近辺の住民に、屋内に避難するよう回りましょう」


 ベルは提案する。そして、移動しようとしたその時だった、


 「イヤッ!誰かッ助けてぇ!!」


 それは、ちょうど、一本隣の道からだった。その声は、甲高い女性の叫び声。ベルたちは急いで声のする場所へと向かう。


 灰色の雲の影がかかるバウール通りを走り、クリーム色の壁の大衆食堂の角を曲がる。キャバレーや酒の広告が張られた、薄暗くて狭い道を抜けると、まず目に飛び込んできたのは女性。次に、女性と対峙する男、そして、男に長い髪を掴まれている子供。おまけに、その三人を取り囲む、数人の騎士と魔術師。


 怯える女の子の髪を掴んで離さない男は金髪で、すぐに、誘拐事件の犯人が、逃亡して、たまたま通りがかった母娘を襲ったのだと、近くにいた魔術師が駆けつけたベルたちに説明する。そして、騎士と魔術師に抵抗するために子どもが人質に取られたのだという。周りの騎士と魔術師は動かない。いや、犯人が人質を取っているという、極めて危険な状態のせいで動けないのだ。


 「お願いッ、娘を返して!」


 母親らしき女性が泣きながら犯人に懇願する。膝下丈の白色のスカートは血が付いており、犯人に襲撃された際に、膝を擦りむいたのかもしれない。しかし、そんなことを気にもせず、女性は必死に何度も、犯人に子供を返してくれと懇願していた。


 一方で、犯人は血走った目で、支離滅裂に叫び続けていた。


 「神はぁっ栄光にして偉大!人族にィ祝福をぉッ!!」


 二十代後半くらいに見える犯人の男は、上層部の予想通りに、人族至上主義者だった。その上、どうやら過激で偏った考えのグロリアーダ教徒だと分かる。


男は髪を掴んでいる手により力を入れる。人質に取られた女の子は、『ヒッ』と小さな悲鳴を上げた。母親の方も、女の子の方も見た所人族だ。皮肉にも、初めて魔族以外の、しかも人族の子供に危害を加えたため、犯人が正気でないのが良く分かる。


 「子供を開放しろ!その子は関係ないだろッ!」


 周りにいる正義感が強い騎士が叫ふ。その騎士を、聖騎士候補のアマートが手で静止する。


 「お前の望みは何だ?言ってみろ、もしかしたら、叶えられるものもあるかもしれないぞ!」


 怒りや焦りを見せず、落ち着いた様子で大きな声で言うアマート。しかし、その言葉は興奮した犯人には届いていない様子で、『あぁっ神よぉッ、今こそ罪人たちに鉄槌をッ!』と叫んでいる。犯人一人だけが、下品なクラブの乱痴気騒ぎの中心で踊っているようだった。他の騎士や魔術師と共にベルはその様子を見守るが、隣のジンがスッとその輪から離れて行くことに気づく。


 「ジン…?」

 

 ベルが声を出すと、レオノーラも気づいたようで、


 「おい、お前、どこに行く?」


 二人の言葉は虚しく、ジンは輪から外れてどこかへと姿を消した。一体、どこへ行ったというのか、ベルは不安になった。


 そして、また、犯人の方へ目を向ける。


 「この国は穢れたぁッ!狡猾で非道な悪魔達ィ!今こそ裁きを!」


 変わらず叫び続ける犯人、もはや狂っている。薬物やアルコールのせいか、溜まりすぎた不満が原因のせいか分からないが、狂人にしか見えない。そんな狂人の捕らわれた女の子と、対峙する母親。人質が取られている今、これは狂人もとい犯人にとっては持久戦で、人質という要塞で敵の進行を防ぐ籠城戦だ。


 そして、ベルたち魔術師や騎士にとっても、体力と精神力、集中力を使う戦いだ。女の子を無事に助け出して、犯人を捕まえる。こちらも持久戦であり、そして救助だ。女の子の身も、犯人の確保も、どちらも大事だ。長い戦いになる、ベルも含めた誰もがそれを覚悟した時だった。


 ―アパートメントの上から紺色の何かが飛んだ。


 それは、放物線を描くように犯人の真上に振って来た。いや、飛びかかった。


 真上からの奇襲に驚いた犯人は、思わず女の子の髪を離す。女の子はすぐに駆け寄って来た魔術師に保護された。


 暴れる犯人の上には、紺色の服と、腕には十字架が描かれた黄色の腕章。聖騎士候補を表す装いをした男。それは、ジンだった。


 ジンは、犯人ともみ合いになりながら、犯人へ拘束の魔術をかけようとするも、激しい抵抗に何度も呪文が中断される。その上、魔術を行使しようとするたびに、ジンの膨大の魔力がコントロールできず、そのまま攻撃として魔力が犯人の体に叩きつけられるので、犯人の抵抗は余計激しくなる。悪循環だ。


 「ジン!今すぐ、魔力の放出を止めなさい!」


 ベルは叫ぶ。ジンはその言葉に、ピタッと魔力の放出をやめる。


 「ジェニ()ルゥ(麻酔)キージュ()アロス()ハディー(硬い)!」


 犯人の周りから、いくつもの黒い鎖が出現する。ジンはすぐに犯人の上から退き、距離を取る。体の重しが取れた犯人は、迫りくる黒い鎖から急いで逃げようとするが、あっという間に絡めとられ拘束されていく。


 「神よッ愛を!なぜェッ、あぁあ正しき楽園にぃいッ!!」


 意味の分からない言葉で、変わらず過激で偏った神への愛を叫ぶ犯人。いや、そんな綺麗なものではなく、神へのドロドロとした執着と依存だ。犯人は自身に巻き付く黒い鎖を、暴れてガチャガチャと鳴らす。その姿だけなら、異国のミイラの姿にも見えなくもないが、陸に挙げられた黒い魚が、ビチビチと跳ねているようにも見える。その狂った悲鳴は聞くに堪えない。しかし、少しずつベルの魔術により、言葉に勢いを無くし、抵抗が薄れていく。そんな男をベテランの騎士と魔術師が捕縛していった。


 捕縛された犯人を見送り、ベルが周りを見渡すと、周囲の騎士と魔術師は動き始め、人質の女の子とその母親は感動の再会を果たしていた。


 良かったと、その光景を見てベルは安堵するが、すぐにまだ誘拐された子供たちの安否は分からないのだと思いだし、心が沈んだ。誘拐された子供たちは今頃と、最悪な結果を想像して、口紅を引いた唇を噛む。ベルはすぐにローブの襟元を正した。何度目か分からぬ仕草だった。


 ジンの方へ目を向けると、彼は騎士団の上司から物凄い勢いで叱られているようだった。相談もせず独断で勝手な行動を取ったせいだ。結果的に、犯人を逮捕でき、人質を救助できた。しかし、もしかしたら失敗して、人質の身がより危険に晒される可能性もあったのだ。ちなみに、ジンと同じ班だったベルとレオノーラも、彼の独断行動を止められなかったことを理由に、二、三個の小言をもらった。そこまでひどくはなかった。


 「ジン…」


 『アイツ』でも、『お前』という代わりの言葉ではなく、彼の名前を呼ぶレオノーラ。彼女は、青い髪と紺色の団服の裾を揺らして、お説教が解放されたジンの下へ行く。


 おそろいの腕章に、おそろいの団服を着た男女が隣に並ぶ。距離も近くて、顔も近い。親密な雰囲気まで流れていて、同じ職場で働く恋人同士に見えた。


 空を見上げると、いつの間にか灰色の雲が空を覆っていた。掴めないのに、重たくて、嫌な感じの雲。空気は湿って、肌に触れるたびにベルの神経を逆立てる。


 灰色の下には、レオノーラ・サファイア・エクエスという女が持つ、目が覚めるような青い瞳と髪。その色が無性に腹立たしくて、先ほど発見した、レオノーラと自分は同じであるのだという事実は、何の意味もないことだと改めて思う。今更、相手に共感したからと言ってなんだ。共感でつながるには、あまりにも汚い感情を抱きすぎた。嫉妬も憎悪もグチャグチャに混ざり合って、グロテスクな感情。


もはや互いが恋のライバル(好敵手)なんて可愛いものではない。互いが攻撃の意志を持ち、隙あらば排除しようとする敵同士なのだ。


 ベルは鼻で笑うように、息を吐く。その時、ポタッと頬に雫が落ちた。雨がついに降って来たのだ。頬だけでなく、手や肩、髪に容赦なく降る。その天からの恵みとも、神様の涙とも言える雫は冷たく、土臭くて、少しだけ秋の匂いがした。



**********


 ―結局、誘拐事件は良い結果とも、悪い結果とも言えなかった。


 正しく言えば、一部のごく少数のある者にとっては最高の結果で、その他大勢の者にとっては最悪の結果だった。


 誘拐された子供の三人は、親の下へ帰ることができた。しかし、子供の二人は永遠に親の下へ帰ることができなかった。


 誘拐事件収束から一週間。休日である今日、ジンの家に向かっていたベルは、あの事件の後のことを思い出す。


 ―犯人の自宅のアパートメントから、不審な人物とやり取りした手紙や、国の規定を守らない違法クラブや違法バー、違法風俗店の場所を記した地図がいくつも見つかった。そこから調べて、過激な人族中心主義者組織と人身売買に関わったことが判明し、その組織の構成員と関係者を逮捕した。


 そして、集会に使っていたという違法風俗店の一室から、誘拐された子供のうち三人と、他にも多くの子供が発見された。どの子供も明らかに人族とは異なる特徴を持ち、今回誘拐された子供以外は、戸籍を持たない移民の子供だった。そして、今回の事件で誘拐された残りの二人の子供は、別の部屋で変わり果てた姿で発見された。


 先月誘拐された一件目のオーガ族の男児と、二件目の悪魔族の女児だった。二人は別の部屋―冷凍室で、身元の分からない他の子供達に混ざって発見された。とても、直視できない姿だったという。その時の様子を報告書と共に、悲痛な表情の上司に説明された時、『これが、人のすることか』とベルは、犯人たちへ激しい怒りを覚えた。


 そして、魔術師団の本部でミーナと会った時、彼女は実際に、誘拐された子供達の親を見たのだとベルに話した。生還できた子供の親も、もちろん生還できなかった子供の親も。


 『報告書を作るために、先輩達と一緒に治療院の病室に入ったんですよ、そしたら、子供達が、お母さんやお父さんと感動の再会をしてたんですよ。子供も親も、もう大泣きしながら…。でも、それって感動や喜びの涙なんですよね…。』


 『次に、死んじゃった子供のお母さんとお父さんのところに行ったんですよ。男の子の方のお母さんは泣きながら、‘どうして?’って、何度も言ってて。お父さんは、発見された時の、息子さんの遺体の写真を握って微動だにしないんです…。女の子の方のお母さんは、泣いてなかったけど、今に死んじゃうんじゃないかって思うくらい、生気がなくて…。お父さんは、そんなお母さんを支えながら、泣きながら何度も娘さんの名前を呼んでるんですよ…』


 『片方は感動の涙を流してるのに、もう片方は悲しみの涙を流してる…。どうして、みんな生きて親の所に帰してあげられなかったんだろう…。私達ができたこと、できることは何だったんだろうって、思ったんです…』


 そう言ったミーナの顔は青白く、疲れ切った表情だった。


 一部の者―生きていた子供と、その親にとっては、生きて再会できた。それだけで最高の結果だった。しかし、とてつもない恐怖と苦痛を与えられ、人としての尊厳を踏みにじられて殺された子供と、そんなふうに愛しの我が子を悲惨な形で失った親にとっては最悪な結果だった。もちろん、そんな結果を出した騎士団と魔術師にとっても。


 元々、他の種族を疎んだりする自民族中心主義者はこの国には一定数いる。自民族中心主義者ではなくても、現状に不満を持っており、理性と狂気の危ういバランスを持った、危険性を孕んでいる者だっている。


しかし、大抵は欲望のまま悪いことをしたら、自分に利益はないと我慢して、何も起こらない。だが、世の中の風潮が、数が多ければ現状は変わる、数が多ければ黒も白になると言う風になっているのではないか。現在のこの国は、そうなりつつあるのではないか。


それこそ、今までは発芽できなかった種が、栄養を与えられ‘植物’になって土から顔を出す。繁殖力は高く、その根は土の中で張り巡らされ、大地を覆い尽くそうとする。そして、その植物は強烈な毒性を持っている。


 そんな事を想像して思ってベルは、恐ろしさを感じた。


 しかし、白い壁のアパートメントが見えてきて、その想像をかき消す。中央街の南に位置するも中心地に近い、少しくすんだ白い壁のアパートメント。その一人暮らしの人向けの、四階建てのアパートメントに立つと、階段を三階まで上がり、二つ目の部屋の前で止まる。ここがジンの部屋だった。


 ベルはトントンと戸を軽くノックする。元々、今日来ることはジンに連絡していたので、いるはずだ。いや、扉の向こうから複数の女性の声がするので、ほぼ確実にいるだろう。


 案の定すぐに扉が開き、ジンがいた。


 「いらっしゃい、ベル!」


 「お邪魔しますジン。はい、これ。次から気をつけなさいよ」


 部屋に入り、リリナやラウラ、マリア、アンジェラ、今日は仕事が休みのレオノーラがいるなか、ベルはジンに書類を渡す。今日来たのは、ジンが昨日、魔術師団に書類を受け取りに来た際に、その書類を忘れるという、かなりドジなことをしたためだった。幸い、さほど重要な書類でもなく、家に持ち帰ってもいい書類だったので、ベルはそれを届けに来たのだ。あと、理由はもう一つある。


 「ねぇ、レナは今いるかしら?」

 

 件の誘拐事件により、ベルは獣人族であるレナのことが心配になった。


今回は魔族の子供が標的となった誘拐事件だったが、他の誘拐事件はどうであるかは分からない。獣人族も、耳や尻尾などを持ち、特徴的な種族だ。人族であれば大丈夫とは言わない。しかし、獣人で人狼族のレナは、十分そういった犯罪の標的になりえるのだ。そういった心配は、赤の他人の自分がするのは余計なお世話だと思った。しかし、過保護だとは思わない。レナに、きちんと気を付けるべきことをレクチャーしたいとベルは考えた。


 「隣の部屋にいるよ」


 ジンは、そう言って、女性陣の群れに入っていく。彼の気を引こうと一生懸命な彼女達と、明らかに異性の友人同士の戯れを超えているのに、拒もうともしない彼。そのどちらにも、一瞬どす黒い感情が沸いたが、すぐにレナに会うのだと、抑える。


 ジンの部屋はトイレやバスルームを除いて二部屋がある。一人暮らし用のアパートメントにしては、そこそこ広い。ジン達が今いるのは、キッチンもついたリビングだが、隣の部屋は寝室兼、物置部屋だ。


 ベルは、その隣の部屋に入った。


「失礼します…」


 カーテンの引かれた薄暗い部屋には、シーツの引かれたベッドと、三人掛けのソファ。それに衣装タンスに、複数の箱や四つの棚。


四つの棚のうちの一つ。その上には、紳士を模した木製の可愛い置き人形。引き出しの取っ手には、チェーンに繋がった十字架がぶら下がっている。ちょうどクロスする部分に、落ち着いた黄色のトパーズの宝石が埋め込まれており、一目でレナの私物だと分かる。宝石が埋め込まれた十字架は、洗礼の時に与えられるもの。宝石も、洗礼名と同じ宝石を使うのが主流だ。


 そして、その棚のすぐ側に、一つの椅子がある。それは背もたれと、ひじ掛けがある木製の椅子で、ちょうど後ろと左右の横には板が付けられており、四方ならぬ三方が囲まれる形の椅子。


 その椅子にレナは座っていた。フリルに飾られた少女趣味なワンピースを着たレナ。彼女は横に座った状態で、赤いドレスを着たクマのぬいぐるみと共に、足を抱えている。背もたれに体を預けて眠っていた。


 「レナ…」


 ベルはレナを呼んだ。足を抱えて眠るレナの姿が、いつも人に気を使い、大人びた姿からは想像がつかないくらい子供っぽい。ベルは少し笑ってしまった。


 まるで、友達とかくれんぼでもしていて、隠れているうちに眠ってしまったかのようだ。


 ―レナも、友達とかくれんぼするのかしら…?―


 そんな事を考えて、ベルは急にハッとした。それは、まるで頭の思考回路が急につながるような、機械の歯車が急に動き出すようなそんな感覚だった。そして、思い出されるのは、二週間くらい前に、レナと買い物をした日のこと。


 ―あの子もね、小学校が終わると、よく友達と遊んでいて、おやつにここのフルーツを買うんですよ。…―


 ―たぶん友情の証なんですよ…。ほら、あれくらいの子供って、秘密とか持ったり、共通の好きな何かで、集団になりたがり始める年頃じゃないですか?―


 果物屋シンシアの店主の言葉が思い出される。そして、レナが持つ、『森のお茶会シリーズ』の赤いドレスを着たクマのローズ―レナの友達だとジンが教えてくれたナナ。しかし、あのぬいぐるみはレナの友達ではなく、他の子供達が、特定の何かで友達とつながるように、本当は彼女にとっても友達との絆を深める道具だったのではないかと、ベルはあの日思った。


 言いようのない不安と恐怖が、ジワジワとベルの胸のなかに広がっていく。あの時も、当たり前すぎて見えない何かを見落としている気がして、恐ろしくなった。


 頭の思考回路が何本もの道を開通するように、動き出した歯車が他の大小様々な歯車を次々と動かす。そんな風にベルは様々なことが思い出されていき、自然と思考されていく。


 両親が殺される前、レナは普通の女の子だった。


 愛する両親がいて、大好きな友達がいる女の子。昼間は学校に行って、他の子供がそうであるように、きっと勉強や宿題よりも、友達と遊ぶことが好きな女の子。人に趣味嗜好があるように、フルーツのイチゴと、森のお茶会シリーズのクマのローズ、それにきっと歌手のクローディア・オルコットが好きな女の子。ベルと友人たちがかつてそうであったように、現実が見え始め、少しだけ生々しい恋愛を知り、男と女の違いが嫌でも目に付くようになり始めた、十歳の女の子。


 そんなどこにでもいるような普通の女の子が、レナ・トパーズ・コリツィという女の子だったに違いないとベルは思う。


 しかし、今のレナはどうだろうか。


 今彼女は両親がいなくて、魔力が取り込めないという理由のため、代わりにジンというまだまだ若い男に育てられている。彼はリリナという幼なじみと暮らしながら、他の複数の女性たちと曖昧な関係を続け、その女性たちは牽制しあっている。その姿を否応なく見せつけられているレナ。


 それに、レナは現在、学校に通っていない。ジンがレナは傷ついているから、行ける状態ではないと判断したためだ。王都の子供が全員、それぞれの教区の小学校に通うわけではない。貧しさを理由に行かない者もいれば、裕福であるため家庭教師を雇う者もいる。親の教育方針により、独学で学ぶ者も少なくないので、ジンやリリナが教育すると言っていた。


 また、レナの口から友達の話を聞いたことがないので、たぶん随分と会っていないのではないか。


 「レナ…」


 ベルは再びレナの名前を呼んだ。彼女はぐっすりと眠ったままだ。本当に夜に寝ているのかと疑いたくなるほど、彼女は熟睡していた。それに、この前、一日お買い物した日と比べても、痩せたように見える。


 ―レナは、傷ついてるから、学校に行かせられる状態じゃないよ…。大丈夫。一応、学校に行かない子供向けの問題集とかあるから、何とかなると思う―


 ―あのクマのぬいぐるみはナナって言って、レナの友達なんだって。それに、レナは、すごい素直なんだ。本当に純粋無垢って、あんな子を言うんだなぁって、いつも思う。あんな事件があったけど、本当にまだまだちっちゃな子供なんだよ―


 ―レナは、俺のことたまに睨んだりしてるけど…なんだかんだ言って慕ってくれてるんだなって思うんだよ―


 ―最近さ…レナが、人形遊びをするようになったりして……やっと子供らしさが戻って来たんだって、安心したんだよ…―


 ―…例えば、俺とレナが家にいるとするだろ、人形で遊んでいると思って、俺が別のことをして目を離すと、気づいたら、人形を持ったまま、ぼーっとしてて…―


 ―あと、人形遊びしてない時も、ぼんやりしてるかな…あと、食欲もないみたいでさ……変な病気だったら、どうしよう…―


 ジンの言葉が、次々と蘇る。頭の中を思考回路が張り巡らされていくように、たくさんの歯車が噛合って回すように思考が進む。頭の中で警鐘が鳴り響いている。


 一か月以上前、街中でジン達とレナがはぐれて広場へ行った時、あの時レナは襟ぐりの開いたパフスリーブの涼し気なワンピースを着ていた。しかし、レナと二人でお買い物することになった時、あの日彼女は、詰襟で七分袖のワンピースを着ていた。夏の暑い日にだ。その日も、レナはぼーっとしていて、普通の状態ではなかった。


 『気づけ、考えろ』と、頭の片隅で自分の声がする。


 女の子、ぼんやり、露出のないワンピース、学校、ナナ、子供っぽい、夏らしいワンピース、友達、里親、大人びた、ローズ、食欲ない、クマのぬいぐるみ。様々な言葉や場面が、警鐘を鳴らしながら次々と浮かんで絡み合い、一つの思考を進めていく。頭の回路が回って、歯車が噛合って動く。


 そもそも、ジンの話すレナの姿と、ベルが見てきたレナの姿が、なぜこんなにも違うのだろうか。


 ベルは、椅子で足を抱えて眠るレナを観察する。学生時代に授業で使った人体の教科書、とあるページに乗せられている、とある図―母親の子宮の中で育まれる胎児の図。そんな図に今のレナの姿が重なる。安心しきったその寝顔がひどく幼くて、まるで赤子みたいだ。


 そして、一緒に買い物した日、お昼に行ったカフェで、饒舌にしゃべり始めたあの日のレナ。こちらの心情を考えず、自分のことをしゃべり続ける十歳の子供はいる。しかし、いつでも相手のことを気を使うことのできるレナは、年の割に大人びている子だ。そんなレナが、あの日は自分の家族のことを夢中になってしゃべり続けた。レナにしては、とても幼い行動。


 ベルはそれが、ひどく違和感だった。ひどくアンバランスな印象だった。


 大人のように振る舞ったり、年相応に振る舞ったり、幼い子供のように振る舞ったり、一体どれが本当のレナなのか。


 ―それに、食欲がなくて、ぼんやりしてるとか…。その上、露出を避けるなんて…まるでアレをされた時の特徴にピッタリじゃない……―


 その時、パチッとレナが起きて、トパーズ色の瞳と視線がぶつかる。


 「え?ベルッ…なんで?」


 起きたら、目の前にベルがいて、レナは驚いたようだった。レナは立ち上がって、そのキャラメル色の耳と尻尾がピンと立つ。


 「ちょっと、レナの顔が見たくてね…。ごめんなさい、起こしちゃった?」


 ベルがレナに無意識で顔を近づけると、レナは後ろへ後ずさった。


 「レナ…?」


 ―どうして、この子はこんなに警戒しているの?―


 ベルは、レナは自分になついてくれていると思っていた。そして、少なからず信頼してくれるとも。そんなレナが自分を拒絶して、怯えた顔をしている。そして、何か悪いことして、隠しているような感じでもあった。


 「レナ、どうしたの?」


 ベルはレナに尋ねる。そして、『何でもないよ』と言いながら、レナがしきりに左の肩を気にしていることに気づいた。まさか、と思って、ベルはレナに手を伸ばす。レナは『あ…』と焦った声を出すが、ベルは抵抗される前に、フリルの服に隠されたレナの肩を晒す。


 ―そこには、赤い痣。


 鬱血痕のそれは、紛れもなくキスマークだ。


 ―ジンは、この子にまで…?―


 その事実を目にして、ベルは声を詰まらせる。そして、一瞬、胸を満たしたのは、ジンへの怒りでも、レナへの憐憫でもなく、激しい嫉妬だった。しかし、すぐに、『レナは違う!この子は傷つけられた!』と頭の片隅から、自分の声が聞こえて、ベルは嫉妬をした自分が恥ずかしくなる。


 そして、より怯えた表情のレナへ、優しい笑みを浮かべる。


 「…無理やり、ごめんなさいね…。レナ、お詫びにジェラート奢るわ…。それと、今日は私の部屋に泊まりなさい」


 ただ、レナとジンを引き離さなければならない。そうベルは思った。


お読みいただきありがとうございました。

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