プライドの選択
第13話です。
―クラーマー研究員の研究室は三階に合った。
複数に分けられた共同の研究室の一つで、ちょうど午後の太陽が差し込む場所。
秋の足音が遠くから聞こえるようになったとはいえ、やはり会議前と変わらず輝く太陽の日差しは強い。
差し込む日差しとクリーム色の壁や床と相まって、灯りを点けなくても、十分部屋の中は明るかった。しかし、あまりに日差しが強いため、クラーマー研究員はカーテンを閉めた。吸血鬼が日光の陽に当たると灰になるというのは迷信であるとはいえ、吸血鬼族である彼女には夏の太陽の光は少し強いのだろう。
「すいません、少し散らかっているかもしれませんけど…」
「そんなことないですよ」
ベルが言う通り、研究室はきちんと整理整頓されていて十分清潔感があった。
数人で使っているという研究室には、向かい合うようにくっ付けられた四つほどの事務作業用のデスクと、資料や専門書が収納された本棚や、薬品が閉まってあるガラス張りの棚、そこまで危険ではない実験を行うための真っ白な作業台。
それに、デスクのすぐ側に談話室や休憩室にあるような、長方形のチョコレート色のテーブルと大きな背もたれが付いた椅子、簡単な料理ができるようキッチンがあった。
ほかの研究員がそうであるように、この部屋も綺麗に片付いていた。もっとも、薬品や魔力の匙加減一つで、大惨事にもなりかねない危険が常に付きまとうのが研究だ。片付いていて清潔なきちんとした場所にしなければならないのは、よく考えれば当たり前なのだ。
「ここに座ってください」
天井の灯りを点けたクラーマー研究員は、チョコレート色のテーブルの方へ案内する。ベルはその席の背もたれ付きの大きな椅子に座った。
『コーヒーと紅茶のどちらがいいですか?』と聞かれたので、ベルはいつも通り紅茶にしようと思ったが、先ほど会議の前に紅茶を飲んだことを思い出してコーヒーをお願いした。
クラーマー研究員はキッチンの方へ向かい、湯を沸かし始める。
ベルは最初、手伝おうとしたが、断られたので椅子に座ったままだ。
あまり品がよくないことであるが、ベルは部屋の中を興味深そうに見渡す。例えば、棚の中の薬品であったり、本棚の中の資料や専門書。
それらは、こちらの国の公用語のリヒター語が背表紙の本もあったが、多くは魔国製らしく背表紙には、魔国の公用語のシャテナ語が書かれていた。
ベルが事務作業用のデスクに目を向けると、くっつけられた四つの机には、ネズミの可愛い置き人形や、小皿に盛られたキャンディー、シンプルなデザインの文房具など、それぞれの机の使用者の人柄を表してるようだった。
その中でもとある一つのデスクにベルの目は釘付けになる。
きちんと整理整頓された、そこには一枚の栞と一つの写真。
栞の方は四つ葉のクローバーの押し花がされたもの。写真の方は写真立てに飾られており、そこには女性と男性と、それに子供が二人映っていた。
男性の方は褐色の肌にヤギのような角が生えた穏やかそうな男性。子供達の方は、どちらも男性と同じ褐色の肌にヤギのような角が生えた女児だった。一人はレナと同じくらい、もう一人は身長も小さく、もっと幼く見える。きっと姉妹だろう。
そして、女性の方はクラーマー研究員だった。
ルミエーダ王国の家屋とは違い、オレンジ色のレンガで作られた一軒家の前で、四人は笑みを浮かべていた。
「―そこの映っているのは、夫と娘たちです」
写真を見つめていたベルにアルトの声がかけられている。
クラーマー研究員はお湯を沸かす鍋の前で、マグカップに汚れがついていないか確認しながら、ベルの方へ顔を向けていた。
「色んな人に、意外と言われるんですよね」
クラ―マー研究員のその言葉が、結婚して家庭を築いたことを指しているのか、それとも自分の仕事場に家族の写真を置いていることに対してか分からなかった。きっとどちらもだろう。ベルには、クラ―マー研究員へ『意外』と言った人達の気持ちが良く分かった。
噂で聞く彼女と今日会議室で説明をしていた彼女は、とても理知的で完璧だ。しかし、同時にひどく人形のように硬質的で、生き物らしい柔らかさと温度を感じない人だった。そんな彼女がその他大勢の凡人と同じように、恋をしたり、結婚するなど、ハッキリ言って驚き以外の何物でもない。まして彼女が母親として子供に接する姿などベルには想像もつかなかった。
「意外だなんて、そんなことはありませんよ」
クラ―マー研究員に対してベルは言うが、取り繕った言葉しか出ない。失敗した、ベルはそう思ったが、鍋の火に注視したクラ―マー研究員は何も言わなかった。しかし、顔は見えないが彼女はクスリと笑ったような気がした。
その後、市販品のドリップ式コーヒーが淹れられる。コーヒーの匂いが研究室を漂い、ベルもまだ飲んでいないがその芳醇な匂いを堪能する。カフェのような本格的なコーヒーではないが、十分にいい匂いだ。
「お待たせしました」
「いえいえ、気を使って下さりありがとうございます」
白いマグカップに入ったコーヒーが、小分けされたクリームのカップと砂糖の瓶と共に、ベルの前に置かれる。その時に見えたクラーマー研究員の手は、病的に青白く、それが吸血鬼族の特徴なのだと、昔本で読んだことをベルは思い出した。
クラーマー研究員はベルの正面の椅子に座り、チョコレート色のテーブルに同じ白いマグカップと置いた。彼女が一口飲んだことを確認してから、『いただきます』と言って、ベルもコーヒーを一口飲む。口の中に香ばしい香りと苦みが広がった。美味しいと思ったが、これよりも美味しいコーヒーをベルは飲んだことがあり、なおかつ普段から紅茶派であるので、感動するというほどではなかった。
もちろんベルはそんなことを顔には出さず、『いい香りで、おいしいです』と無難な感想を述べた。それに対し、クラーマー研究員は『お口に合って何よりです』と、ホッとしたように言う
「私は、人が生み出した発明のなかで、最も素晴らしいものの一つが、コーヒーだと思っています」
「コーヒーがお好きなんですか?」
「えぇ。 夫と付き合ってた頃は、よくデートに、コーヒーがおいしいと評判のカフェを巡ったりしてたんですよ。 まぁ、娘たちが生まれてからはそんなこともできなくなりましたけど、このとおり、ドリップ式コーヒーとかをよく飲んでます」
相変わらず無表情であるが、会議の時とは異なり、感情が読み取りやすく彼女の人柄が見えるようだった。それと同時に、『彼女も人なんだ』と、ベルは失礼ながらもそう思ってしまった。
「魔国とこの国では、コーヒーの味とか違いはありませんか?」
「そこまでは…コーヒーの種類もほとんど同じものがそろってますし。 あ、ただ、魔国の方が、食べ物とかは、全般的に味が濃いかもしれません」
ベルはコーヒーの話を皮切にクラ―マー研究員と話を続けた。
内容はルミエーダ王国と魔国の魔術の違いから、ファッションや食べ物の違いまで、あらゆることを話した。この国と魔国と違う部分や同じ部分は当たり前ながらあった。特にローストビーフ味のキャンディーの話にはベルは驚いた。あちらでは一般の平民の間では罰ゲームの定番に用いられる食べ物らしく、こちらでは絶対にお目にかかれないし、ベルは絶対に食べたくないと思った。
こうして話してみると、彼女は理知的でありながら、とてもユーモアのある女性であることが分かる。そして、彼女自身、きっと人族に対して、特別敵意があるわけではないことも。
「―魔国では、このレネーダ同盟に対して、どのように考えてらっしゃる方が多いですか?」
ベルは思い切って質問してみた。初対面の人に政治に関することを質問することはタブーだとは分かっているが、ずっと気になっていたことだった。
クラーマー研究員は少し考える素振りを見せたが、すぐに答えた。
「様々です。 国民の過半数以上は、良いことだと考えていますが、人族と手を組むなんてと考えている人もいますし、エーディス大戦の世代は複雑な気持ちを抱いている人もいます」
「この国と、あまり変わらないんですね」
「ただ…私たちの国は、多民族国家ですので、民族的な政治問題も絡んでいて、余計ややこしいんですよ」
魔国では、魔族と獣人族、妖精族、龍人族、少数派の人族の、大きく分けて五つに分類される種族がいる。しかし、魔族と言っても一概には言えず、悪魔族やアラクネ族、吸血鬼族など多くの種族がいる。獣人族や妖精族、龍人族も同じだ。人族に至っても、様々な国籍やルーツを持つ者がいる。
そのため、ある意味で魔国は人種の坩堝なのだ。ルミエーダ王国も様々な種族や国の血が混ざった国であるが、魔国はそれ以上だ。民族的な政治の対立もあり複雑なのだろう。
「魔国の中でも、差別はあるんですか?」
クラ―マー研究員は『ありますよ』と、一口コーヒーを飲む。
「私たちの国では、今は魔族の中でも、悪魔族が王族として、国を統治してますけど、そこに至るまで、いくつも争いが起きています。 ハッキリ言って、血みどろの歴史なんですよ。 だから、歴史的に見て、悪魔族が嫌いなんて言う人もいます……。 お恥ずかしながら、私と同じ吸血鬼族の中にも、本当に少数なのですが、悪魔族を滅ぼせと、言っている人達もいるんです」
「特定の人種を嫌う人がいるのは、どの国も同じなんですね…」
「えぇ。 今では、そんな歴史なんか関係なく、多くの人達が平等の社会を目指そうとしていますが、やはり自民族中心主義者はいつの時代もいますね。 あと、種族によって生活習慣とか価値観が独特の人達もいるので、どうしても、同族が集まってしまいやすいんです…」
ベルの頭には、一週間前に、レナと一緒に行った西の地区を思い出した。あそこには、多くの他種族が住んでいる。それぞれの地区で人族と他種族の差別の話があっても、他種族同士での差別はあまり聞かない。きっと、全く同じ種族が集まってコミュニティを作れるほど、数がいないため、他の他種族を受け入れなければならなかったのだろう。
しかし、この国では他種族と表現される者たちも、魔国には大勢いる。そして、それぞれで種族ごとのコミュニティだって作れるほどいる。他の種族と強調できる者が種族の指導者であればいいが、もし排他的であった場合、結果起こるのは争いなのだ。
「あの、魔族の間だけでも、それだけの種族間の亀裂があるなら、魔国では人族は余計、差別の対象になりますか?」
「なります。 むしろ、私も差別されたことがあるので…」
ベルがその質問をすると、クラーマー研究員は頷いた。
「私は、父が吸血鬼族で、母が人族でした。 幸い、私と姉は吸血鬼でしたが、母が人族であったため、何回かそのことを理由に侮辱されたことがあります」
あまりにハッキリとした物言いだった。しかし、クラーマー研究員から怒りや悲しみは感じなかった。そこにあるのは淡々とした事実であった。
魔族や、獣人族、人族問わず、種族を超えて結婚をすると、生まれてくる子供は、どちらかの種族の形質を受け継ぐことになる。顔立ちや髪の色はそこまで関係なく両親の遺伝を受け継ぐが、種族だけは、二分の一の確率でどちらかに分類される。先ほど、隣になった王宮魔術師の先輩も、父親が人族で母親が獣人族で、本人は人族としてこの世に誕生した。
このクラーマー研究員に至っても、父親が吸血鬼族で、母親が人族だと言っていたが、彼女の姉と共に人族として生まれることも、どちらかが、吸血鬼族で、人族であった可能性もあったのだ。
まさにコインの表と裏の賭けのようなものであるが、その生まれてくる種族によっては差別されやすいか決まるのだ。ルミエーダ王国では、他種族だけでなく移民も差別されやすいが、魔国では、他の種族に比べても、人族が差別されやすいのだ。
そんな内容が内容であっただけに、悪いことを聞いてしまったとベルは思った。何を言えばいいか分からず。『そうだったんですか』と硬い口調で答える。
そんなベルに気を使ってか、クラーマー研究員は小さく笑った。
「そんなに気に病まないでください…。 私は全然気にしてないことなんです」
「そうなんですか…?」
「えぇ。 私の母や、姉や私をバカにした人達もいましたが…それ以上に全く気にしない人達がたくさんいました。 むしろ、母親が人族だからとバカするのは、大抵、常識がなかったり、社会的に見てもだいぶ残念に部類されるような人達なので、今では全然気にしてないです」
また一口、クラーマー研究員はコーヒーを飲む。
ベルも一口飲んだ。口に広がる苦みを感じながら、ベルは『個人的な話なのですが……』と口を開く。
「…私の知り合いに、獣人族の子供がいます……。 その子は人狼族の女の子で、とある不幸な事件に巻き込まれて、両親を亡くしました…。 その子はとてもいい子で、私になついてくれています…」
「……」
「ちょうど、一週間前に、二人で一緒にお買い物をしたんです…。 その時に、その子の知り合いに会いました… 。事件に巻き込まれる前の、その子のことを知っている人でした…。 そして、その人に、この国では、他種族であるせいで、その子は差別されるかもしれないと、言われました…」
ベルの頭には、一週間前に出会った果物屋の女性の顔が浮かんでいた。悲痛そうな女性の表情が、現実を物語っていた。
「今、クラーマー研究員の話を聞いて…私もその子に、いつかクラーマー研究員みたいに、割り切って欲しいと思ったんです。 たとえ、獣人族だからと、誰かに心無いことをされたり、言われても、獣人族に生まれたこと…両親と同じ人狼族に生まれたことを、悲観してほしくないと思いました…」
『その子には、そういう強さを持ってほしいんです』とベルは言葉を紡いだ。
クラーマー研究員は、その話を聞いて、顎に手を当て考える素振りをした。
そして、数秒後、
「私には、娘が二人いると言いましたね…。 たまにケンカしますし、こちらの言うことを聞かないことや、大人であるこちらにとっては、どうでもいいようなことに夢中になったり、自分の子供なのに理解できないことがたくさんあります。 …けれど、たくさんのことを私に教えてくれました。」
『それは、どれだけ書物を読んでも、知ることのできないことです』静かな声で、クラーマー研究員は言う。
「母親になって、いつも実感することは、子供は子供なりにたくさんのことを考えているし、大人が考えているほど無力な存在ではないことです…。 それに、周りの大人をよく見ています…。 娘たちは、たまに学校の先生のマネや、私や夫の口癖をマネているのですが、その度に思うんですよ……。 周りにいる大人がどんな人物であるかによって、子供はどんな大人にも成長できるんだってことに…。 それこそ、善人にも、悪人にも、子供はなれるんです…」
「善人にも、悪人にも…」
「だから、周りにいる大人がどういう人達か…それこそ、他種族も人族も関係なく、相手を尊重すべき存在と受け入れる人か、受け入れない人か。 …その違いによって、その子は、人狼族である自分を誇りに思うか、思わないか…他の誰かを受け入れる人になれるか、なれないか、変わってくると思います…。 だから、あなたみたいな大人が、その子を信じて、見守れば、その子はあなたが言う、‘強さ’を自然と持つことができるんではないでしょうか…」
「……」
「…すいません、偉そうに言いましたね。 本当なら、私がこんなことを言う資格はないのですが…」
クラーマー研究員は取り繕うように、コーヒーを一口飲む。
ベルは、そんな彼女に言葉をかける。
「いえ、さすが、子を持つ母親の言葉だと思いました」
「…さすがですか…。 私は、良い母親をしている自信はありませんよ…。 実際、夫に任せて、娘たちを魔国に置いてきましたから」
少し寂しげに笑うクラーマー研究員。
そのプレナイト色の瞳は、机の上の写真の家族に向けられていた。
「クラーマー研究員は、どうして、この国へ来たんですか? 国からの命令ですか?」
ベルの問いに、クラーマー研究員は『いいえ』と首を横に振る。
「私は、私の意志でこの国に来ました…。 私の下へ、このお誘いが来た時、断ることもできたんです…。 もちろん娘のことや、夫のことも考えて、悩みました…。 けれど、私は研究者としてのプライドを選びました」
「研究者としてのプライド…」
「……そうです。 私には、研究者としてのプライド以外にも、母親としてのプライド、妻としてのプライド、女としてのプライド、いくつものプライドがあります。 …それでも、政治的なものが絡んでいるとはいえ、長年、敵対してきた国と、技術提携をする、それは、私達の研究が未来へつながってることなんです…。 それは、どの研究員にとっても、夢です。 …私は、どのプライドも簡単に捨てられないものばかりで、たくさん悩みました。 けれど、夫が応援してくれたんです…。 自分も仕事があるのに、家事もやってくれると言ってくれて……。 結局、私はそれに甘えて、夢のために研究者としてのプライドを選択しました」
そう言った、クラーマー研究員のプレナイト色の目は、力強く光っていた。先ほど、会議室で見た、誇り高い戦士のような目だった。そして、同時に諦観したような目でもあった。
「私は、たぶん、娘たちからすると、いい母親ではないでしょう…。 下の娘は、まだまだ寂しがり屋で甘えん坊ですし、上の娘に至っては、そろそろ思春期になります…身近に頼れる同性が必要な大切な時期です…。 一応、私の母にも、娘たちのことはお願いしていますが、本当にひどいことをしていると思います…」
クラ―マー研究員は、栞に目を移した。四葉のクローバーが押し花にされている一枚の栞。まさに、子供の手作りという感じの栞で、それが娘たちが作ったものだと簡単に想像できる。
「私は、娘たちに、嫌われてもしょうがないと思っています…。 母親と思われなくても、しょうがないでしょう…」
「本当にそうでしょうか…?」
ベルは思わず口を挟む。
驚いたようにこちらを見るクラーマー研究員を見つめながら、ベルは記憶を頼りに言葉を紡ぐ。
「私の、知人の男性の話なんですけど…彼は、父親と母親の両親の下で、一人息子として育てられました。 ただ、昔から、二人はよそよそしくて、夫婦仲は悪くないけれど、決して良くはなかったらしいです…。 それで、ある日ついに母親の方が離婚したいと言って、家から出て行ってしまったんです…」
「子供も置いて行ったんですか?」
「えぇ…。それで、彼は母親に捨てられたとショックだったらしいです…。 けれど、捨てられたと思っていても、やはり母親として愛していたと言っていました…。 結局、彼は母親への愛を捨てられなかったんです…」
その話をベルは聞いた時、とても胸が痛んだのを今でも覚えている。
「だから、娘さんに至っても、たとえ、どれほど怒っていたとしても、きっと、クラーマー研究員を嫌いになりきれないと思います…。 心のどこかでは、あなたを愛しているんではないでしょうか…」
ベルのその話を聞くと、クラーマー研究員は一瞬だけ泣きそうに顔を歪めたが、すぐにグッと堪えて、口元をキュッと結んだ。
そのまま数秒が経つと、クラーマー研究員は、やっとのことで口を開いた。
「…ありがとうございます」
そう言いながら、プレナイトの宝石のような瞳は、なお揺るぎない強い意志を映した。
クラーマー研究員は研究者としてのプライドを持って、遠い異国の地であるこの国へ来た。それこそ、生まれ故郷から離れ、家族と一緒ではない。
しかし、彼女は自分が他種族であること悲観することも驕ることもなく、ただ一人の女性として堂々としている。彼女は研究者としてのプライド以外は、まるで捨てたように言うが、実際は違うとベルは思った。夫を信頼する妻として、娘たちを愛する母親として、彼女はこの場所にいる。
そんな、たくさんの大切なプライドに支えられているからこそ、ハンナ・プレナイト・デルラ・クラーマーという女性は、どんなに悪意に晒されようが、堂々と立っていることができるのだ。
―この人は、輝いているわ…―
ベルは、そう思ってしまった。
そして、あまりの眩しさに目を細め、直視できなくなってしまう。
それを誤魔化すように、ベルはコーヒーを飲んだ。口いっぱいに苦い味を感じる。
しかし、すぐに苦みが気にならないくらいの、深みのある落ち着いた匂いが広がった。
**********
―その後、ベルはクラーマー研究員の研究室を出た。
帰り際に、クラーマー研究員になぜ、自分を研究室に招待したか聞くと、
『ファーテン魔術師は、こちらに敵意が無さそうでしたし、女性だったので……。お恥ずかしながら、研究関係者以外で、この国には友人と呼べる人がいないんです…。なので、これからも私と親しくして頂けるとありがたいのですが…』
そう困ったように言うクラーマー研究員にくすぐったさを覚えつつ、ベルは『こちらこそ、お願いします』と返した。
そんな素敵な良い縁を結んだベルは、現在、魔術師団の本部へ戻るべく研究所の廊下を歩いていた。
塵一つない白い廊下の窓から外が見える。ちょうど温室が見えない場所で、少し離れた場所に、王宮の白い壁が見えた。相変わらず外はいい天気だ。
「お、ファーテン魔術師、久しぶり! 相変わらず別嬪さんだねぇ」
まるでキャバレーの女性に絡む酔っぱらいのように、ベルに声をかけるおちゃらけた声。
「お久しぶりです、カラヴェリ研究員」
カラヴェリ研究員と呼ばれたのは、茶髪とオレンジ色の瞳を持つ陽気な雰囲気の中年男性。彼はベルを見て、二カッと歯を見せて笑った。
『別嬪さん』など、若い女性への口説き文句としてはいささか古いものの、以前しつこかった男に言われた、口説いている自分に酔ってるとしか思えない、『君は薔薇の妖精のように可憐だ』とかいう、安い口説き文句よりは断然マシだろう。そもそもカラヴェリ研究員のその眼差しは、タイプの女性を見つめる熱情というよりは、年が離れた妹を見守るそれと一緒だ。
彼には二年前に一度、共同研究のチームで一緒になった時に気に入られ、その時から、王宮ですれ違った時に話しかけられたり、お菓子をもらったりと何かと可愛がられている。
ちなみに、クラーマー研究員を『真の天才』とベルに言ったのは、他でもない彼である。
「今日は、何の用事で来たんだ? 共同開発の会議か?」
「えぇ。 今年は、魔法陣担当者として、会議に出席してきました」
「あぁ、なるほどね…。 ご苦労さん。ちょっともめたと聞いたぜ」
「もう広まってるんですか?」
「おい、ここで起きたことだぞ? いくら、王立研究所がマイペースな奴らが多いからって、きちんと耳には届くわ」
カラヴェリ研究員は苦笑した。
「騎士様とクラーマー女史が一騎打ちしたらしいな」
「あれは、ケンカを売った騎士が悪いです…。 それに、一騎打ちなんて、カッコいいものじゃなくて、ママに叱られる悪ガキ、という図でしたよ」
「ハハッ、相変わらず、クソ野郎には容赦ないねぇ」
『おぉ~こわいこわい』と冗談めかしく、カラヴェリ研究員は言った。ベルは『別に、いつでも私は事実を言っているだけでしょう?』と返す。
「そういえば、カラヴェリ研究員の方はどうです?」
「あぁ、おかげさまでな。俺は、映写機の音とかが出る部分を改良したな…あとは、調整の段階だ」
『忙しいんだよなぁ』、と言いつつ、カラヴェリ研究員は嬉しそうだった。自分たち研究成果が表舞台に旅立つことほど嬉しいことはないのだと、研究員は口々に言う。クラーマー研究員も共同研究は未来へつながると言っていた。
たぶんカラヴェリ研究員もそう考えているだろう。
彼の妻は出稼ぎ労働でこの国へ来た、バンシーに部類される妖精族の女性だ。人々の意識が変わってきた四十年前から、この国でも他種族を差別することは悪だと言う常識が根付いてきている。人族と他種族での婚姻、はたまた男爵や子爵といった下級貴族でも、多種族と婚姻を果たすことも二十年ほど前から出てきており、当然平民同士の異種族恋愛も少なくない状態になってきている。もちろん移民に関してもだ。
しかし、全員ではないが、表立って差別はしなくても、心の中で他種族を見下したり、高位貴族は全て自国の民族で固められているなど、いまだに、差別や格差が根強く残っている。
まだまだこの国は、他種族や移民が生きづらい社会である事は間違いない
そんなこの国で、カラヴェリ研究員の妻も苦労したと聞く。だから、両国で友好関係が築かれ、この国で人族以外の他種族の地位が少しでも向上するかもしれないと思うと嬉しいのだろう。そういったことへの喜びというのはやはり当事者や、その近くの者が一番に感じるものである。
そんなことを思っていると、他の研究員が、カラヴェリ研究員を呼ぶ声が聞こえた。人と話す時はおちゃらけている彼も、一度研究に向かえば、周りが見えなくなるほど、とんでもない集中力を発揮する。彼も他の研究員と同様、妥協を許さない真面目な人間で忙しい身だ。
「俺、呼ばれちまったわ。 じゃあな、ファーテン魔術師。 また、一緒に共同研究しようぜ」
そう言って、カラヴェリ研究員は去っていく。彼の茶髪と、真っ白な白衣が小さくなっていくのを見送る。
ベルもさっさと自分の職場へ帰ろうとするが、視線を感じて、後ろを振り返った。
アメジストの双眸の先には、書類の束を抱えた、一人の女性研究員。
艶のあるダークブラウンの髪をひっつめにし、眼鏡越しにエメラルドのような緑の瞳をこちらに向ける、理知的な雰囲気の女性。その身に纏うのは、雫のモチーフに不死鳥が描かれた紋章が左胸を飾る白衣。地味な格好であるのに、野暮ったく感じないのは、彼女のその嫌味のない知性を匂わせる美貌のためだろうか。
しかし、その理知的な美貌の中から滲み出てしまう不快感。
ベルもその女性を見つめるが、一瞬頭をよぎるエメラルドの付いた懐中時計を思い出して、無意識に眉を顰めてしまった。
目が合ったのは、たぶん二秒ほどで、どちらが先とか関係なく、互いにすぐに目をそらした。
視界の端で白衣がくるりと翻ったのが見えた。
ベルも背を向けて、進もうとしていた方向へ歩く。
―きっと、あの人も……―
ベルは、今さっき目線を交わした白衣の女性―カテリーナ・エメラルド・ジーフイの姿を思い出す。
二年ほど前に、カラヴェリ研究員がいるチームで一緒に魔法陣の改良を行った者。それから、とても仲が良いと言うわけではないけど、会えば、必ず世間話くらいはしていた。それが、数か月くらい前から、急に無視をされるようになったのだ。
ジンから、王立研究所の女性研究員と仲が良くなり、その研究員からエメラルドの付いた懐中時計をプレゼントされたと聞いた時には、確証はなかったし、ベルはまさかとは思っていたが。
―元々、うんと仲が良かったわけじゃないけどね…―
元々、真面目な彼女は好ましかったし、彼女との会話もとても楽しかった。ふつうなら、友人同士になれたかもしれない。
しかし、そこまで仲良くはなれなかった。
その理由はベルの我儘でしかない、
―柑橘系だったのよね、彼女の好きな香り…―
ベルはバニラやフローラルの香りといった甘い香りが好きだ。しかし、爽やかな香りのレモンやシトラスといった柑橘系の香りが嫌いだった。その香りを嗅ぐと不思議なことに、胸や腹のあたりがむかむかして気持ち悪くなってしまう。ある日、そんな香をカテリーナが纏っていて、気分の悪さと共に、どうしようもなく噛み合わないと感じてしまったのだ。
そこから、もちろん態度には出さないけれど。彼女の言葉一つ、仕草一つにすら違和感を抱くようになってしまった。
それだけではなく、最近ある事が理由で、もっとその香りが嫌いになってしまった。
―性格悪いわね、私―
ベルは、今日、クラーマー研究員の姿を思い出す。彼女と会って、ひどく自分の弱さと醜さを改めて実感した。クラーマー研究員は、女である自分が嫉妬すら感じられないくらいに、強くて美しかった。
本当に宝石のように『輝いている』女性だった。
それに比べて自分はと、ベルは思った。
「―輝いてないわね、私…」
柑橘系の香りが一瞬、鼻をかすめた気がして、ベルの胸に重たい不快感が広がった。
しかし、すぐにクラーマー研究員と飲んだコーヒーの香りを思い出す。
職場に戻り、残りの仕事を片付けるべく、ベルは気を引き締めた―
お読み頂きありがとうございました。