楽しい一日(後編)
大変お待たせしました。私事でバタついてしまい後編の投稿が遅れてしまいました。
また、前話で知らずに下ネタに部類される言葉を使ってしまいました。今はその言葉は訂正し、別の言葉が使われていますが、ご不快になられた方もいらっしゃったかと思います。大変申し訳ありませんでした。
―お昼を食べ終わると、ベルとレナは、広場まで戻る道を歩いていた。
市場の道ではなく、先ほどまでいたカフェがある通りと繋がる道だ。カフェがあった付近は、少し古い大きな店が並んでいたが、今歩く道は、それに加え、少し古く貫禄のあるアパートメントや一軒家、簡素な造りの木製の露店が所々に並んでいる。
その店たちは、ホットサンドの屋台、若手の画家の絵と、職人の工芸品を売る店、移動販売をしているジュース屋など、市場の店と内容は同じだ。しかし、こちらの店は、大きな声で客寄せをすることもなく落ち着いた印象だった。きっと、通りの雰囲気もさることながら、住民の暮らしの一部に含まれる店だからこそだろう。
上を見上げると、午後の青空に、輝く太陽が君臨している。しかし、背の高い建物の列のおかげで、二人が歩く石畳の道の端には、影がかかっている。日があたらないだけでも十分に涼しい。
街灯が並ぶ石畳の道の上には、様々な人々がいた。この近くに住んでいるのであろう、幼い子供を抱いた買い物中の主婦達。道の脇で井戸端会議に勤しむ魔族の老人達。店の使いか、忙しく走る従業員。のんびりと散歩をする妖精族の青年。道の端のベンチに座り、大声を挙げながらおもちゃの兵隊で遊ぶ、幼い子供達。鮮やかな異国の伝統衣装に身を包む、移民の女性。そんな様々な者達と、ベルとレナはすれ違う。
ここでも、二人はと手をつないでいた。そして、レナは反対の手で、しっかりとクマのぬいぐるみを持っていた。
「日陰になっていて、涼しいわね」
「うん」
ベルの言葉にレナは頷いてみせた。
ベルはレナの歩調に合わせ、石畳の道の上を白いヒールで、カツカツと鳴らしながら歩く。石畳の道の上をヒールで歩くのは、本来なら、簡単ではないが、ベルは気にせずスムーズに歩き続ける。
そういえば、昔、幼なじみから『たとえ、不便で不自由でも、おしゃれを優先する女の感性が分からない』と、言われたことをベルは思い出す。その時に、『おしゃれのためなら困難すら打ち破る。それはガサツな男には、分からない繊細な女心』と、大人ぶって言い返したことがあった。あの頃は、今のレナと同じくらいの年だった。ちょうどベルにとっては大人ぶりたい頃で、一人の女性として扱われたかったのだ。
それは、ベルだけでなく、同じ年頃の同性の友人たちもそうだった。皆、ベルと同じく商店経営者の子供や、王宮勤めの職員の子供、高等教育機関で教鞭をとる学者の子供など、平民の中でもかなり裕福な部類の者。
彼女たちと遊ぶのは、必ず誰かの家や静かな公園、教会の裏など、誰にも秘密を邪魔されずに共有できる場所。そこで女の子の夢が詰め込まれた恋愛小説や、少しだけ生々しさを含んだ現実の恋の話、好きな舞台俳優の話などに盛り上がった。
あの頃は大人と子供、現実と夢、女と少女、そんな真逆の世界を行ったり来たりする時期だったのだ。
今では、すっかり大人になり、良くも悪くも現実に生きる女の一人に、ベルも同性の友人たちも仲間入りしてしまった。大人になり、ベルは王宮魔術師になったが、彼女たちも今では、衣料品を主に扱う商会に嫁いだり、男爵家に嫁ぎ男爵夫人になったり、婿を取って実家の手助けをしたり、はたまた女学校を卒業して貴族令嬢の家庭教師を務めていたりなど、それぞれ別の道を歩んでいる。
今もたまにあったり、手紙でやり取りはしていて、気やすい友人関係を続けている。だが、やはり、あの頃の曖昧な時期は格別なもので、幼なじみとは異なる形の友情があった。そして、その時期に秘密を共有しながら、共に過ごしたということは、まるで大きな計画をやり遂げた共犯者のような連帯感があった。
そんな、共犯者達も今では、皆が結婚して子供を産み、寝る前に我が子に子守唄と共に、善悪を説く良き母親になっている。実家に跡取りの兄がいるため、そして周囲の人間に恵まれたために、結婚を自由にしていいと言われているベルと、彼女たちは違う。
彼女たちは富を持つ者の義務として、あるいはさらなる高みを求めて、いわゆる政略結婚をした。夫婦生活とか、子育てが大変そうであるが、彼女たちはなんだかんだ言って幸せそうで、生き生きとしている。彼女たちは『輝いている』とベルは思ってしまう。
そんなことを考えながらベルは歩く。白いヒールがリズムを変えて、アップテンポにカツカツと鳴り響いてることに気づき、慌ててレナに歩調を合わせる。途中、道に捨てられた新聞を踏みそうになるが、とっさに避ける。一瞬目に入った見出しには、『反レネーダ同盟団体、市民と衝突』と、書かれている。最近起きた事件の記事だ。記事に使用されている写真が全体的に暗いので、大衆向けのアルテア新聞社だと、ベルは推理した。しかし、そんなことは関係なく、通りすぎる。
手をつないで歩くレナに目を向けると、下げた視界に入るのは狼の耳が生えたキャラメル色の頭。そのキャラメル色の中に、赤いバラが刺繍されたクリーム色のリボンが、踊っているように揺れている。
―買ってよかったわ―
ベルがそう思った時、
「―あ……」
手をつないで歩いていたレナが、急に立ち止まる。
そのトパーズ色の視線の先には、移動式のフルーツパーラー。
大きな店が並ぶ道の脇にある、安っぽい飾りで装飾されているキャンディーの店や、香ばしい匂いのする串焼きの屋台、屋根の付いたブロマイド店などの、露店の中の一つ。
木製の荷台の上には、派手な色のレプリカのフルーツが飾り付けられ、そこには『果物屋シンシア』と店の名前の看板があった。そんな荷台を引く店主は、五十代くらいの恰幅の良い女性。彼女はこちらに気が付くと、一瞬驚いたように目を張ったが、すぐにこちらに向けて、快活そうな人の良い笑みを浮かべて、荷台を引っ張りながら早足で近づいてくる。
「こんにちは、久しぶりね。新鮮なフルーツはいかが?」
店主はこちらへ来ると、真っ先にレナの方へ屈んで視線を合わせながら聞いてきた。
レナは強張ったように固まったが、その店主に恐怖心を抱いているわけではなさそうだった。
後ろめたさ、まるでレナ自身が何か大きな罪を起こしたかのような、そんなものを何故かベルは感じた。
「レナ、どうする? お昼デザート食べなかったから、ここで食べる?」
固まったままのベルがそう助け舟を出す、すると店主はその言葉に便乗して、
「今日のおすすめは、デザートにもピッタリの珍しい南国のフルーツのマンゴーよ。それとも、いつも通り、イチゴがいいかしら?」
「…イチゴ…食べたい…」
「はい、毎度あり!」
店主は元気な声を上げると、荷台の蓋を開ける。内部の貯蔵庫は金属で作られており、二つの仕切りがあった。片方が売れ残ったフルーツ数点と、もう片方は残り少ないビタミンカラーのジュースのボトルが数本。貯蔵庫には保存や、持ち運びのために冷却魔法が施されているだろう。商品をできるだけ多く詰め込んだり、頻繁に外で使う必要があるため、衝撃に弱く壊れやすい魔石は不向きだ。たぶん、呪文か魔法陣が施されているのだろう。
そんな風にベルが魔術師の視点で観察する中、店主は大粒のイチゴが五つくらい刺さった串を取り出す。その串の持ち手部分には、女の子だったら喜びそうな、可愛らしい桃色のリボンが結んであった。しかし、店主はそのリボンを解いた。代わりに、赤いリボンを手早く結びなおし、満面の笑みでレナに差し出す。
「はい、お待たせいたしました! 八十リタになります。ほら、ちゃんと赤いリボンだからね」
「…シンシアのおばさん、ありがとうございます…」
レナはイチゴの串とお金を交換し、お礼を言うと、逃げるように三軒隣のブロマイドの露店へ駆け込んだ。ベルは一瞬追わなければと焦るが、こちらチラチラと伺いながらも、商品のブロマイドにも意識を集中させるレナを見て、少し様子を見てみようと思った。
それにベルは、気になることがあった。
「あの、少しお話を聞いてもいいですか?」
ベルは、フルーツパーラーの店主へと顔を向けた。
「えぇ、大丈夫ですよ、ちょうどこの地区の分はさっき終わったところなんで。少しどころか、たくさん聞いて下さい」
何の曇りもない、心の底からの笑みを浮かべる店主。『この人は、正直な人だ』と、商人の娘の血がベルにそう教えてくれた。
「あの子と…レナとは知り合いなんですか?」
「えぇ、あの子が小さい頃から、それこそお母さんやお父さんに抱っこされるくらいの、ちっちゃな頃から知ってますよ」
レナの父親は、左手で重たいものを持てないと言っていた、彼女を右手だけで抱っこできるくらいと言ったら、本当に幼い頃という訳だろう。
「私は、この屋台で西の地区のあちこちを回ってるんですけどね、そこのセレーナ地区…あの子と、あの子のお父さんとお母さんが住んでいた地区でね、そこでも私は果物とジュースを売ってるんです。そこでね、よく週末の礼拝の後とか、お父さんとお母さんとだったり、学校の後に友達と一緒に、あの子はこの店に買い物に来ていたんですよ…」
「…常連だったんですね、レナは…」
「そうですね、長年の可愛い常連さん…あの子のお父さんとお母さんも、いいお客さんでしたよ…」
店主は『ちょっと、長い話をしてもいいですか?』と聞いてきたので、ベルは『どうぞ』と返した。
「この仕事をしていると、色々な人に出会って、色々な人生の一部に触れることができるんです。 たかが、果物屋が何を、と思うかもしれないですけど…毎回買う果物や、好きな果物、嫌いな果物、注文の仕方、お金の渡し方…そんな何気ない一つ一つのこと……そこから私は、お客さんの人生に触れてきました…。 あの子はね、昔からイチゴが大好きで、そればかり買うんです。 だけど、反対にマンゴーとかパイナップルみたいな南国のフルーツが嫌いで、どれだけ、こっちが珍しいからっておすすめしても、絶対食べないんですよ…」
『あ、バナナだけは別で、あの子南国のフルーツでもバナナは喜んで食べるんです』と、店主は心の底から懐かしそうに事実を語っていく。
フルーツの好き嫌いだとか、いつ、誰と買いに来ていたか、たったそれだけのこと。しかし、そのたったそれだけのことすら、ベルはレナのことを何も知らないのだと、改めて痛感した。先ほど、お昼を食べている時も、同じことを感じたはずなのに、今の方がベルにはずっと痛かった。
そんなベルの心の内を知らない店主は、話を続ける。
「あと、うちは食べ歩き用のフルーツは、串に刺して売っててね、そこにいろんな色のリボンを結んでるんでて、好きな色選んで買うんです…。 あの子もね、小学校が終わると、よく友達と遊んでいて、おやつにここのフルーツを買うんですよ。 あの子は必ず赤いリボンのついたイチゴの串ですけど、他の子も必ず紫のリボンとか、ピンクのリボンとか、青いリボンとかそれぞれ決まってるんです…。 ただ好きな色にしては、何となく熱心に見えるから、なんでかなぁって思ってたんです。 …それでね、ある日それがあの子たちが遊んでいる時に持っているぬいぐるみと同じだって気づいたんですよ! ほら、今、流行っているらしい森のお茶会のぬいぐるみ…そのドレスの色とあの子たちが選ぶリボンの色が一緒なんです」
「他の友達も、同じようにぬいぐるみを持っていたんですか?」
「えぇ、そうですよ。 たぶん友情の証なんですよ…。 ほら、あれくらいの子供って、秘密とか持ったり、共通の好きな何かで、集団になりたがり始める年頃じゃないですか? 今まで、男の子も女の子も一緒に走り回ってたと思ったら、急に大人みたいに特定の人間とつるみたがる…。 きっと、それが成長なんでしょうけど、女の子は特に早い。 子供なのに、ふとした瞬間に大人の女の片鱗を見せるんですから…。 たぶん、私達からすると、あの子たちが持つぬいぐるみも、たかが子供のおもちゃですけど……きっとあの子たちの世界を覗いた時に、私達の口紅やハイヒールと同じ役目を果たしてることに気づくんですよ…」
店主は寂しげな笑みを浮かべる。
ベルはその笑みが、自分たちがそんな複雑な時期を経験したからこその共感だと分かった。
そして、それは誰しもが大人になった時に、苦笑交じりに懐かしんで語るようなこと。
勿論ベルにとっても、先ほども思い出していたその頃の友人達との思い出は、苦笑どころか決して他人には話せないことだっていくらでもある。それでも、お祭りにおそろいで髪飾りを買ったことや、大好きな舞台俳優が結婚すると知り、互いに慰め合ったこと、秘密で友人の恋愛相談を受けたことなど、それら一見特別でもない普通の思い出。しかし、その誰にとっても当たり前の思い出が宝物だった。
誰にとっても当たり前のこと。しかし、そんな当たり前のことを忘れていたベルにとっては、店主の話は、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
―レナにとって、ナナは友達じゃないの…?―
確かに十歳の子供が人形遊びをし、友人と認識していることに違和感はあった。その上、ベルにとってレナは大人びた子どもであったため、余計だ。しかし、レナは両親が目の前で殺されるという、あまりにも悲惨な出来事を体験しているため、ある種の防衛反応として幼児退行をしているのだとベルは考えていた。だから、そのような一面があっても仕方ないのかもしれないと思っていた。いや、ベルはそう思い込んでいた。
しかし、それが本当は違うとしたらどうだろうか。
もし、店主の話通りなら、ナナというクマのぬいぐるみは、あの事件が起きる前のレナにとって友人との仲をつなぐ道具だったのだ。決してぬいぐるみが友人ではなかったのだ。
―その認識を今も持っているとしたら?―
普段のレナの様子を見ても、そちらの方がずっと違和感がなく、自然に感じる。
しかし、それが事実であるなら、ジンの説明は違うことを意味している。ジンは嘘を吐くような人間ではないので、きっとあのクマのぬいぐるみがレナの友人と信じている。
では、なぜジンはそう信じているのか。
―どうして、レナは何も言わないの?―
沸きあがる疑問。
ベルは急に恐ろしくなった。
自分が何か重大なことを、当たり前過ぎて見えない何かを、見落としている気がして、思わず食後に口紅を引き直した唇を触った。すぐに手を離すと、指先に血の色みたいな赤がついていた。
一瞬、なんて不吉な色なのかと、そう思ったが、すぐにお気に入りの化粧品ブランドのタチアナの口紅だということ思い出して、嫌な気持ちを塗りつぶした。
「お客さん、これをどうぞ」
ハンカチで指を拭いているベルへ、突然店主がコップを差し出した。中には並々と注がれた黄色の液体。
ベルがお礼を言いながら受け取り、鼻の近くまで持っていくと、甘い香りがして、すぐにリンゴジュースだと分かった。
ベルはそれに口をつける。
「おいしい…!」
リンゴジュースは少し果肉が入り、とろりとしているものの、リンゴ本来の甘さが引き出されていた。しかも、ただ甘いだけではなく、酸味もあってジュース全体の味を引き締めており、飽きの来ない美味しさだった。
ベルがジュースに感動していると、店主はおかしそうに笑う。
「そんな良い反応をしてくれると、商売人として冥利に尽きますよ」
「すいません…お金払いますね、いくらですか?」
ベルは顔に出ていたことが恥ずかしいと思いながらも、まだ代金を払っていないことを思い出す。
しかし、店主は、
「いりませんよ…これは私からすると、教会への寄付と同じつもりなんですから」
その言葉の意味が分からなくて、困惑するベル。そんなベルに店主は『昔の話なんですがね』と再び語り始める。
「私が子供の頃はね、エーディス大戦からまだあまり年月経っていない時代でした…その頃はね獣人や魔族みたいな人族以外の差別がすごかったんですよ…。 想像がつきますか? …私達は、彼らは神の教えから背く敵だ、人族以外は悪者なんだって、たくさんの大人から教えられてきました…。 その頃の演劇やラブロマンスの小説でもね、獣人や魔族だけじゃなくて、妖精族とかは、頭が悪くて、必ず人族に暴力を振るったり、食べたりする、野蛮な悪者だったんです…。 それで、物語ではヒロインを攫うんですけど、最後は必ずヒロインを助けに来たヒーローに倒されて、ハッピーエンドで締めくくられる……。 …子供だった私は、そんな物語に夢中になってたんですよ…」
「………」
「でもね、大人になって、どんどん時代が他種族平等の世の中になっていきました。 物語には、野蛮な悪者として他種族を登場させないし、それどころか、他種族と人族のときめくような恋愛とか、異類婚姻譚が人気になって……教会でも、聖書に出てくる人々を誑かす悪魔を獣人や魔族みたいな姿で描かなくなりました…。 それに今では、人族も他種族も普通に結婚をするし、下級貴族くらいなら他種族と結婚する人も出てきました…。 世の中が、獣人族も魔族もほとんど自分達と変わらないって気づいたんでしょうね」
『まぁ、今でも、他の種族は敵だっていう人はいますけどね』苦笑交じりに、店主は付け足す。
「そんなふうに、時代と共に私は、考えが変わっていきました…。 私は果物を売ってますけど、色々な人を見てきた。 魔族も獣人も、妖精族も龍人も……人族じゃないけど、上品で優しい人がいたり、子育てに悩んでいる人がいたり、オレンジがあればご機嫌な子どもがいたり、気難しいけど生徒思いの学校の先生がいたり…。 まぁ、たまにそうでもない下品で野蛮な奴らもいますけど、それは人族だってそう…他種族だろうが、人族だろうが、いい人と悪い人がいる…。 あの子の、レナちゃんのお父さんと、お母さんはいい人でしたよ」
「…二人は、どんな人達だったんですか…?」
「普通の人達ですよ…。 お父さんの方は、眼鏡をかけていて知的な雰囲気の人で、とても物腰の柔らかな人でした。 下品で野蛮な獣人とは真逆ですよ、荒事には向かない人です…。 お母さんの方は、物静かだけど、穏やかで優しい人でしたね…。 お母さんは子沢山の家庭を作りたかったみたいなんですけど、一番目のレナちゃんが生まれてから、なかなか妊娠しないことをよく私に愚痴ってたんですよ…。 だから、二番目の子供を妊娠したってわかった時は喜んで報告しに来たんです…。 レナちゃんも、弟か妹か分からないけど、兄弟が生まれることを楽しみにしていて、立派なお姉ちゃんになるんだって…。 私にね、お父さんとお母さんには内緒で、絵本の読み聞かせを練習してるんだって、こっそり教えてくれたんですよ…」
「…そうだったんですか…」
「あとね、セレーナ地区は敬虔なグロリアーダ教徒が多くて、あの子の家族も信心深いグロリアーダ教徒でしたよ…。 それに、レナちゃんやお父さんが言うには、お母さんはめったに怒ることはないけど、一度起こると、聖書に登場する魔王が降臨したみたいにとっても怖いって言ってました…。 まぁ、家の中で母親が強いなんてどこもそんな感じだろうけど……。 あぁ、話がそれましたね…、そんなふうにあの子の家はどこにでもある、幸せな平凡な家庭だったんですよ…」
そう言って、一旦店主は、黙って息を吸った。それが溢れそうになる感情を飲み込むための動作だとベルは気づく。
アメジストの視線を動かすと、会話の渦中にいるレナの方はというと、食い入るようにブロマイドを見ているようだった。
『私はね…』と店主が言葉を切り出したので、再びベルは店主の方へ目を向ける。
「…私はね、最初、あの子の家族が事件に巻き込まれたって聞いた時、信じたくなったんですよ…。 どうして、あんないい人達殺されなきゃいけないのか、どうしてあんないい子が両親を奪われなきゃいけないのか、どうして普通の家庭が、身勝手な悪者に壊されなきゃならないのか、そんな理不尽が許せなかったんです…」
「………」
「でもね、事件が報道された新聞記事を読んでるとね、不思議なんですよ…。 最低な犯人に幸せな家庭が理不尽に壊されたんだって書けばいいのに…被害者について、獣人であるのに教養があって、中央街に住む信心深い市民だってことを強調してるんですよ…。 まるで、獣人族だけど同情すべきだって言わんばかりね。 それで、納得しちゃいましたね、あの人達は、こんな考え方しかできない社会のせいでひどい目に遭ったんだ。 ……社会があの家庭を壊したんだって…!」
そう言い切った店主は、再び感情を飲み込もうと大きな息を吸う。先ほどよりも大きな動作だった。
ベルは、何も言えなかった。
一瞬、自分の髪の毛を無性に触りたくなったが、それは失礼にあたると思いベルは思いとどまる。
数回感情を飲み込む動作を繰り返した店主は、またベルに語りかける。
「結局、怒ろうが何しようが、私はあの子の行きつけの果物屋の店主でしかないんです…。 私は子供たちどころか、孫が三人もいる。 あの子を引き取って親代わりになる金も気力もない。 …だから、それこそ神様に祈るような気持ちで、誰かに、あの子を幸せにしてくださいって、祈るしかないんですよ…」
店主は、ベルへ頭を下げた。
「こんな社会じゃ、他種族は生きづらい…。 あの子も獣人というだけで、これから辛い目や悲しい目に遭うかもしれない…。 だからこそ、子供にとって、何が正しいのか間違っているのか、そういう価値観や幸せになる方法を教えてくれる大人は、神様と同じなんです…。 お願いです、あの子が大人になるその時まで、どうかあの子をよろしくお願いします…」
自分よりも、長い年月を生きている人生の先輩から頭を下げられている状況。
店主はベルがレナの保護者だと思っている。
ベルは、まさか自分が保護者ではないのだとは言えなくて『分かりました、最大限努力します』と答える。
店主は、感激したように何度も『ありがとう』とお礼を繰り返した。
そして、店主は一度商品を補充してから、別の地区で商売しなければいけないと言って、荷台を引いて去っていった。
ベルはレナを迎えにブロマイド店の方へ行く。
一人でも組み立てられるタイプの簡素な屋根付きの屋台。曲がると細い道に繋がる、アパートメントの角にあるその店には、様々なブロマイドや写真が貼られていたり並べられていた。ブロマイドに映し出されているのは有名な舞台俳優や歌手、あるいはキャバレーの花たちや高級娼婦。はたまた現王や王弟だけでなく数代前の王族。麗しいと噂の貴族男性や女性。一方で写真に写されているのは王都でも歴史ある教会や観光名所、地方の田舎の綺麗な風景や有名な湖だ。
ブロマイドの方の王室や貴族の写真はどこから入手するのか疑問に思うが、写真業界には独自の流通があるらしく、ブロマイドにされた者達も金が入るらしい。
ちなみに店主は、髭を蓄えたのんびりとした感じの老人だった。老人は、ベルに気づくと『後三十分で、表の市場に移動するからね』と言う。こんな場所でブロマイド店を開くことが果たして儲けに繋がるか疑問に思っていたが、どうやら、先ほどのフルーツパーラー同様、あちこちを移動して稼いでいるという訳かと、ベルは合点がいった。
そんな店で一人商品を見ていたレナ。
ベルが近づくと、レナが見つめているのは、シルキーに部類される妖精族の歌姫、クローディア・オルコットのブロイマイドだと分かった。
絹のような銀髪を持ち、ワインレッドの赤い口紅をつけた蠱惑的な女性が、写真越しに挑発的な笑みを浮かべてこちら見つめる。
レナはこの歌手が好きなのだろうかと、彼女の知らない部分にベルはまた触れた気分になる。
「レナ」
ベルはレナを呼ぶと、彼女はこちらを振り向く。ぬいぐるみを持つ反対の手には、いつの間に食べたのかイチゴが消えた赤いリボンが結ばれた串を持っていた。
「お話し終わったから、行きましょう」
レナは『うん』と首を縦に振る。
そして、ぬいぐるみを持つ手とは逆の方の手を取ろうとするが、串が邪魔になる。
「あっちに、ごみ箱あるわよ」
少し離れた道の脇に、金属製のごみ箱を見つけてベルが指をさす。レナは駆け足でそこへ行き、一瞬ためらったかのように見えたがちゃんと捨ててきた。何故ためらったのかベルには分からなかった。
しかし、そんなことを指摘はせず、ベルはレナに手を差し出すが、レナはその手を取らない。
「あのさ、ベル…」
「ん、どうしたの?」
「さっき、シンシアのおばさんを見て、逃げちゃったけど…シンシアのおばさんはとてもいい人なの…。 だけど、すごく久しぶりで、どうすればいいか分からなくて、逃げちゃったの……」
悪いことをしたみたいに俯くレナ。ベルはレナが逃げた理由はそれだけではない気がしたが、先ほどのレナの行動によりフルーツパーラーの店主が悪者として認識されることを彼女は心配していたのだと分かった。
「大丈夫よ、さっきはね、果物屋さんからレナのお話しを聞いてきただけなの」
「え…どんな話…?」
「それは秘密よ」
「シンシアのおばさん…怒ってなかった?」
「どうして怒るの? 大丈夫よ。ただ、あなたのことを心配してることと、あなたのこと可愛い常連さんって、話してたわ」
『そう』とレナは少し安心したような表情を浮かべる。
そうして、今度こそ、レナはベルの手を取った。
歩き始めると、ベルはアメジストの目を何気なく、アパートメントの角を覗いた。薄暗い遠くの壁に、以前見た、あの不思議な悪魔の落書きがここにも描かれていた。
聖書で人々を不幸に陥れる悪者として描かれる、恐ろしい悪魔。
だけどこの落書きの悪魔は、カラフルな髪で舌を突き出し、泣きながら自分を抱きしめている。
なんとなく、自分を守る術を持たない子供が、必死に虚勢を張る姿に見えて、全く恐くなかった。
**********
―二人が向かったのは、広場だった。
楽しい一日の出発地点。
そこに二人は今いる。
太陽の照り付ける夏の午後だというのに、大道芸人やダンサー、列をなす露店、行き交う市民など、様々な者達が相変わらずここに集まる。
いつも通りの広場の光景。
たくさん歩いたので、適当に木陰になるところで、座って休み、その後レナをジンの家に送り届けようかとベルは考えていた。二人は木が植えられている場所へ向かおうとする中、噴水の近くに、先日の青緑の髪のピエロと赤髪のピエロを見つけた。
彼らは観客の歓声に包まれ、おどけた笑みでパフォーマンスを披露していた。
午前中は広場のどこにもいなかったが、どこか他の場所でパフォーマンスを披露したり、休んでいたのかもしれない。
レナも彼らが気になるのか、そちらに視線を向けている。
「ちょっと見ていく?」
「いいの?」
「もちろん。今日はとびきり楽しい一日にするんだから、最後も楽しいことで締めくくらなきゃ」
ベルは雑貨屋でリボンを買った時と同じようにウインクする。ジンとの楽しい一日になるはずだった今日。それが叶わない今、ベルはレナを楽しませるピエロになりたかった。
二人は、ピエロの芸を見守る観客の輪へ合流する。
今日、彼らがしているパフォーマンスは、複雑に七個ほど積まれた椅子の上で、様々なポーズをとることだった。
青緑の髪のピエロは椅子の城の頂上で、逆立ちをしたり、座って足を組んでみたり、片足になりでジャグリングをするなど、自由に振る舞っていた。一方で赤髪のピエロは、椅子の城から落ちるのが恐いのか、上から二個目の椅子の所にしがみつき、大げさに顔をゆがめて震えている。
それを、椅子の城が崩れても安全な離れた場所から、観客は食い入るように見つめる。ある者は青緑の髪のピエロのおどけた姿に対して、称賛の言葉をかけたり、またある者は不安そうにハラハラ見守ったり、またまたある者は赤髪のピエロの間抜けな姿に応援の言葉をかけたり、はたまた、大笑いしながら指を差したりなど様々だ。
皆の視線の中、青緑の髪のピエロが椅子の上で、片足立ちでダンサーみたいにくるくると何周も回る。それを見る赤髪のピエロは目が回ってしまい、くらりと頭を大きく反らし、手を離す。皆が、『落ちる』と思う中、その足はしっかりと椅子に引っかかっており、赤髪のピエロは逆さまで宙ぶらりんになる。よく考えたらすごいことであるが、何とも言えない間抜けな姿に観客は大爆笑する。
「すごいわね…」
ベルも笑いながら見る。とぼけた表情の間抜けな姿は確かにおかしいが、ドジなことをする間抜けなピエロが、本当は芸の上手なピエロであるとベルは知っている。
一見すると、青緑の髪のピエロの方が上手なピエロであるように見えるが、どれだけドジをしても、決してケガをしない赤髪のピエロは、同じくらい、もしかしたらもっと上手なピエロのはずだ。
これは、けっこう一般的に知られていることだ。しかし、中には赤髪のピエロが本当に芸が下手だと信じている者もいる。ベルも幼い頃は、ドジなピエロは本当に芸が下手なのだと信じていた。今も観客の中にヘタクソと指さす子供と、それを窘める母親がいた。子供は本当に芸が下手なのだと信じているが、母親は本当は芸が上手いのだと分かっているらしい。
ベルは、レナを見る。レナは笑うことも不安そうな顔もすることはなかったが、興奮で頬を染めながら夢中になって二人のピエロを見つめていた。キャラメル色の耳と尻尾がわさわさと揺れる。
レナなりに楽しんでいると分かって、ベルは嬉しかった。
そんなことを考えているうちに、赤髪のピエロは再び椅子の城にしがみつく。観客は必死なその姿に大笑いする。
青緑の髪のピエロも赤髪のピエロも、素顔が分からない道化師特有の派手な化粧をしている。真っ白な白粉を塗りたぐり、原色に縁取られた目元。そして、別に笑っていなくても、笑顔に見える口紅。
―ピエロは、本当は、何を考えているのかしら…?―
大昔のピエロや芸人は貴族の家に召し抱えられたり、有力者のパーティーでパフォーマンスを披露したという。その多くが、故郷を持たない者や訳アリの者で、権力者の機嫌を損ねれば、命を奪われる。つまり一歩間違えれば迫害される立場になる者ばかりだったのだ。そのため、彼らがパフォーマンスを披露するのは命がけだった。それこそ、化粧で笑顔を作らなければならないほど。
現代ではそんなことはもちろんないが、やはり化粧で作った笑顔の裏で何を考えているのか考えてしまう。
その時、青緑の髪のピエロが一回転しながら華麗に着地し、急いで降りようとする赤髪のピエロが下から三番目の椅子の高さで尻餅をつく。大爆笑のなかパフォーマンスは幕を閉じた。
これから、ピエロ達は観客へキャンディーを配り始める。そのキャンディーは誰が貰ってもいいと言われているが、暗黙の了解でもらっていいのは十二歳までの子供だ。
「ほら、レナ、キャンディー配ってるわよ。 行かなくていいの?」
「うん…」
レナは一瞬ためらったが、すぐにキャラメル色の耳と尻尾をわさわさと揺らし、ピエロの前に並びに行く。
他の子供も並び始めようと動くなか、すごい勢いで大きな黒い物体が先頭に並んだ。
それは黒いローブを着た、大人の男だった。
ウイスキーみたいな色の金髪のその男は、琥珀色の瞳を爛々と輝かせ、子どもよりも先にピエロの前に立った。当然、周囲の観客はギョッとする。
ベルも思わず瞠目してしまった。
幼い子供を連れた親が一緒に並ぶことはあるが、その男は子供連れでもない。
明らかに不審人物にすら見えるその男へ、青緑の髪のピエロは臆することなく笑顔でキャンディーを渡した。
キャンディーを受け取った男がピエロの前から離れると、子ども達は恐る恐ると並び始める。子供は結構多くレナは随分と後ろの方にいた。
一方で、キャンディーをもらった男はベルと目が合うと、なぜかニヒルな笑みを浮かべてこちらへ近寄って来た。
かつては夜道で痴漢を撃退したことや、王宮魔術師の仕事で魔物退治に駆り出されたり、凶悪な犯罪組織撲滅作戦にも参加したこともあるベル。しかし痴漢でも、魔物でも犯罪者でもないこの変な男に対して、どのように対応するべきか分からず、ベルは動けないでいた。
「こんちわ、初めましてー」
「…こんにちは」
こちらへ挨拶をしてきたその男。背が高いその男は若かった。それに歩いていたら、女性が目で追うくらいには整った顔立ちをしている。しかし、それを上回るだけの変なオーラが漂っていた。ちなみに周りにいる者は大人も子供も関わりたくないと言わんばかりに、顔を背けていた。
ベルはなぜ話しかけられなければならないのかと、うんざりするも男を観察する。一般的にローブを着るのは、魔術師や薬剤師、治療師などの専門の知識を持つ者、あるいは獣の耳や角を持つ他種族などの中で差別を心配する者だ。頭にフードを被っていないこの男は見たところ人族であるため、何か専門の知識を持つ者なのだろうか。
ベルが首をかしげると、男は虹色の紙で包まれたキャンディーを角ばった大きな手に乗せ、こちらへ差し出した。
「キャンディーいる?」
「いりません…」
「あ、そう。 じゃ、俺が食べる」
『何なんだ…この男は…』とベルは頭痛がした。どうして、急にキャンディーを欲しいのかと聞く意味不明な会話になるのか。
「そんなに、食べたそうにしてましたか?」
ベルが尋ねると、男は両端を捩じって留めただけの虹色に輝く包み紙から、白いキャンディーを出していた。
「食べたそうっていうよりは、羨ましそうにしてたかな…」
そして、白いそれを口に運ぶ。
虹色の包み紙が、男の手の中でぐしゃりと潰れた。
ピエロが配るキャンディーは何故か昔から虹色の包み紙と決まっている。どこから入手しているのか知らないが、ベルはそれが子どもの頃読んだ絵本に出てくる、虹の糸で作られた妖精姫のドレスみたいだと思っていた。そのため、子供の頃はピエロからキャンディーをもらうことが好きだった。
もちろん北の地区で売っている宝石みたいな高級な飴玉も好きだったが、妖精姫のドレスと同じ色に包まれたキャンディーは特別な感じがした。。
『そういえばさ…』と、男は話を切り出す。
「人狼族のあの子、ちゃんと、ジン・オーブ・バナーレとかいう男と合流できたみたいだね…」
「レナとジンを知ってるの?」
思わずベルは敬語を忘れてしまい、慌てるが、『いいよ、気にしない。つーかあんまり年、変わらないと思うから、敬語はいらないよ』と男は言う。
「うーん、その二人を知っているというよりは、アンジェラを知ってる感じかな? 俺ら友達なんだよ…。 この前、町でバッタリ遭った時、男一人と女三人と一緒に、必死に人狼族の子供探してたんだよ 。俺、その何分か前にたまたま、ここの噴水近く通りがかってさ、母親と娘には微妙に見えないアンタたちを見かけて、妙に印象に残ってたんだよね…。 それで、アンジェラにそのことを教えた」
この前というには、レナがジンとはぐれ、ベルと広場でジェラートを食べた時のことだろう。確か、その時にジンはレナの居場所をアンジェラの友達に教えてもらったと言っていた。
つまり、今目の前にいるこの変な男がアンジェラの友達ということかと、ベルは合点がいった。そして、同時に、アンジェラは友達を選んだ方がいいのでは…とお節介なことを考える。
しかし、そんなことを微塵も出さず、ベルは素直にお礼を言う。
「そうだったの…ありがとう」
「いやいや、お礼はいらねぇよ。 アンジェラにもすごい感謝されたし…アンジェラ、レナちゃんのことすごい心配してたからさ…」
「アンジェラが…?」
ベルにとって、アンジェラはレナ以上に表情を変えることも、自己主張もしない少女だった。教会で一緒に暮らしているというマリアの側に付きっきりで、思いを寄せているジンには受動的に従うイメージの、本当に人形みたいな少女だった。
だから、アンジェラがマリアやジン以外の者を心配する姿を想像つかなかった。そして、それが本当なら、ベルが八つ当たりしてしまったことは本当に悪いことしてしまったと改めて思う。
「そうなの…ねぇ、あなた名前なんて言うの? 今度、アンジェラにあった時に、あなたのことも話したいから」
「あ?俺? …俺は、ローラン・アンバー・スクレ」
「それ、スクレ商会で慈善事業を担当している人の名前でしょ?」
「そう、その本人」
男は胸を張って見せたが、ベルはすぐに嘘だと思った。
彼女は商家の娘として、以前大規模なパーティーに参加した時に、王都でも有名な大商会のスクレ商会の者へ挨拶をしたことがあった。
その時に教会の孤児院への寄付や職業訓練所などの慈善事業を担当している、ローラン・アンバー・スクレに挨拶させてもらった。その時の彼は、確かにこの青年のように、ウイスキーのような金色の髪と琥珀色の瞳を持ち、背が高く恵まれた容姿をしていた。しかし、彼は物腰が柔らかく上品で、紳士的。いかにも少女が夢見そうな大人の男という感じだった。間違っても、子供よりも先に子供専用のキャンディーをもらい、一人称が『俺』というような男ではなかった。
だから、目の前の自称・ローランと以前あったローランは別人だとベルは結論付ける。
「あなた、あんな聖人って名高い人を騙るなんて、罰が当たるわよ」
「ハハッ!生憎俺は、無神論者なんで、怖くもなんともないね」
愉快そうに自称・ローランは笑った。
そして、彼は少し間を置いて、ベルを琥珀色の瞳で見つめると、いきなり
「神とか世間体とか、常識とか、そういうのに縛られて、本当の感情を殺しちまう奴は可哀想だね…」
なぜ自分にそんなことを言うのか、ベルは理解できなかった。思考が止まったベルに、自称・ローランは、
「じゃあ、俺は行くから、もし、アンジェラに会ったら、よろしく」
そう言って彼は去っていった。黒いローブの姿が小さくなっていく。
ベルは、先日、合同演習の医務室でカルロスと話した時と同じように、珍獣に遭遇したような気分になった。
そんななか、
「ベル!」
気が付くと、レナが戻ってきていた。
クマのぬいぐるみを持つ反対の小さな手には、虹色の包み紙のキャンディー。
レナは何を思ったのか、ベルにそれを差し出す。
「いる?」
「…いいわ、レナがもらったんだから、レナが食べなさい」
自称・ローランに続いて、レナまでもかとベルは肩を落とすが、
「ねぇ、ベル…今日、一日ありがとう」
「別に、お礼なんて必要ないわ…レナのおかげで、今日は寂しい一日にならずに済んだんだもの」
「でも、今日、楽しかった…色々な店を回ったり、リボンも買ってくれて…私、すごく楽しかった」
無表情であるが、トパーズ色の目を輝かせながら興奮したように言うレナ。
それだけで、今日一日がとても有意義なものに感じてきた。
「…私も楽しかったわ、一日一緒にいてくれてありがとう…レナ」
ジンとのデートができなくなって悲しかった。しかし、今日はレナのおかげで、ベル自身が楽しかった。
結果的に素晴らしい一日になったこと、それだけで心の中が幸福で満たされていく。
レナの手の平にある、キャンディーの包み紙が夏の日差しを反射して、虹色に輝いていた。
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