楽しい一日(前編)
新年あけましておめでとうございます。相変わらずの遅筆ですが、今年も本作品をよろしくお願いします。
また、今回は長くなったので、前編、後編に切ります。後編は後日投稿しますので、ご了承ください。
―楽しみにしている時間は意外とすぐに来た。
三週間という、本来なら待ち遠しいと思うような長い時間も、王宮魔術師という激務を抱える役職の前では、仕事を終えるためのタイムリミットでしかない。
それくらい多くのやるべきことがあった。特に最近は、治安が悪化しているため警備の面での仕事が増えた。
また、同盟直後は何かと問題があり、スムーズに行かなかった魔国との交流が、形になり始めた。それによる、技術提携や秋祭りのパレードの企画といった、接待のための仕事が増えている状態だ。
それらにより王宮魔術師だけでなく、王宮の組織全体が、現在進行形で慌ただしいのだ。
確かにまだまだ忙しいし、自分が所属する王宮魔術師団も皆が大変そうだ。しかし、だからと言って、自身の職務以上のことをするのは的が外れている。この時期が忙しいのは、ある意味必然であったのだと、今日という、デートの日を絶対に潰したくなかったベルはそう考える。
ジンとの観劇デートの日の今日、ベルは約束通り広場で待ち合わせをしていた。以前は食事などジンと二人きりで出かけることもあったが、最近では全くしておらず、数か月デートなどしていない状態であった。
そのためベルの心は弾んでおり、今日来ている服も、以前友人と遊びに行った際に褒められた、パステルパープルのシンプルなワンピースだ。少し長い裾と七分丈の袖は、咲いたアサガオのように広がり、胸や腰、二の腕の、女性ならではの部分はピッタリとフィットするように出来ている。ベルのスタイルの良さを引き立てていた。
ベルは、きちんと汚れがないことを確認した、シンプルな白いハイヒールを鳴らす。
―今日の格好、大丈夫よね?―
少女であった頃は、おとぎ話のヒロインたちが着るようなフリルやリボン、花の飾りがついた服装に憧れを持ち、世間から容認される程度の、装飾の付いた服装や靴を身に着けていた。しかし、だんだんと好みが変わり、少女から女性になった今では、さりげないデザインや、無駄のないシンプルなデザインのものを好むようになった。
ベルは、今のシンプルな服装は、さすがに似合ってはないことはないと思っていたが、ジンが自分の姿を見て、どう思うか、弾んでいる心の中に少しだけ不安が滲んだ。彼女は普段の仕事の時とは異なり、下ろしている自慢の黒髪から覗くピアスの存在を、確かめるようにいじった。金色の金具に繋がれた透明な石は、流れる涙のようで、細長い指の動きに合わせ、ゆらゆらと動く。そうすることで少しだけベルの中で安心感が沸いてきた。
ジンとはこの広く、多くの者がいる広場のどこで待ち合わせするかという話はしていない。しかし、大抵の者は、広場での待ち合わせと言えば、広場の西の方にある、『宝石の乙女像』の前と決まっている。
宝石の乙女とは、四百年前に南のジェーマ王国から、この国へ嫁いできたエヴリーヌ王妃のことだ。鉱山資源に恵まれたジェーマ王国と、ルミエーダ王国の政略結婚であったものの、その当時のこの国の最高権力者フェリクス王と、美しきエヴリーヌ王妃の結婚には国中が沸き熱狂に包まれたと言う。
そして、エヴリーヌ王妃の祖国、ジェーマ王国では、宝石には特別な力が宿っているという言い伝えがあり、国民の洗礼名にも宝石の名前を用いる習慣があった。ちなみにエヴリーヌ王妃の洗礼名は『クリスタル』で水晶という意味だった。
そして、その習慣がエヴリーヌ王妃と共にこの国にやって来て、以来、ルミエーダ王国でも多くの者が、洗礼名に宝石の名前を用いるようになった。そのような歴史があるためか、エヴリーヌ王妃は死してもなお、『宝石の乙女』として、今も語り継がれているのだ。
そんな、今も人々を魅了する女性の銅像の前で、他の待ち合わせの約束をする人々同様に、ベルもいた。銅像の周りは、少し雑音ともいえる人の声で騒がしいし、照り付ける太陽に、気温も上がってきている。しかし、それらの煩わしいものも、宝石の乙女はまるで関心がないと言わんばかりに、憂い顔で真夏の青空を見つめていた。百年も前の、有名な彫刻家が作ったという銅像の、そのポーズは何のひねりもない直立不動で、彫刻家がやる気がなかったのか、彼の芸術的センスに凡人が着いていけないだけなのか、それは誰にも分からない。
ベルは、周りを見た。銅像の前に待ち合わせの約束して集まる者や、約束していた相手が来てその場から離れる者。様々な者達が入れ替わる。待ち合わせは九時だったのに、あまりにも楽しみで十五分も前に来たベルは、その様子を銅像の気分になって見守っていた。
例えば、楽しそうに騒いでる、授業をサボっているのだろう学生の集団。真面目そうな男性と、快活そうな雰囲気の女性のカップル。着飾った中年くらいの女性と、同じように着飾った手を振る女性の友人。体の大きな人虎族男性と、ハイヒールを鳴らした人猫族女性のカップルなど、様々な者達がいた。自分の中に確かな余裕があるからか、ベルは周りの者達を観察する余裕があった。
ベルは財布や化粧直し用の道具など、必要最低限の物しか入れてない小さな手提げバッグから、小さな懐中時計を取り出した。成人のお祝いに、昔父親からプレゼントされたその懐中時計。繊細な模様が彫られ、小さな一粒のアメジストの宝石がついた蓋をパカッと開ける。
―時刻は八時五十五分。
約束まであと五分だ。
「ベル!」
自分を呼ぶ声の方向へらベルが顔を向けると、こちらに向かい走ってくるジンがいた。
息を切らしながら走って来たジンは、ベルの前に行くと、息を整え始める。彼の額には汗が滲んでおり、急いできたと分かるが、これではデートの前から疲れてしまうではないか。
「ジン、おはよう。そんなに慌てる必要なかったのよ」
ベルは内心、ジンが自分のために、急いで来てくれたことが嬉しくてたまらなったが、それを表に出さないようにしながら、心配そうに彼へ言葉をかける。
ジンの服装は、七分丈の袖の白いワイシャツに、黒の細身のズボンという没個性的であるが、清潔感がある格好だった。今日の装飾品は、耳にはオニキスのピアスと、首にはターコイズのネックレス、オパールの腕輪。この前と同様、やはりアメジストのチョーカーがなかったが、ベルは気にならなかった。
「あのさ、ベル」
ジンは、少し辛そうな表情をして、ベルを見つめる。これから楽しいデートのはずなのに、それに似合わない雰囲気のジン。
ベルは、得体の知れない違和感に襲われた。そして、彼が爪を食い込むほどの拳を握った瞬間に、違和感はハッキリとした嫌な予感に変わった。
『ジン』とベルが彼を呼ぶよりも先に、彼は勢いよく頭を下げた。
「ごめん、行けなくなった」
その言葉の意味をすぐに理解できなくて、ベルは『え?』と言葉を出してしまった。
―せっかくの、デートなのに?―
そんな声には発せらない言葉が、感情よりも先にベルの中に浮かんだ。
「出かける直前になって、リリナが手をケガしたんだよ…。一応、近所の診療所には連れて行ったけど、けっこう傷が深くって。……今日は、リリナの側にいようと思うんだ…」
『本当にごめん』と、再びジンは謝罪の言葉を口にした。頭を下げているので、彼の顔は見えないが、きっと本当に申し訳なさそうな顔をしているとベルは思った。
「そう、なら仕方ないわね…」
信じられないほどに取り繕うだけの言葉が、すんなりと出てきた。ベルの顔には自然と笑みが浮かぶ。それらは、意識的なものでも努力を必要とするものでもなかった。ベルが思う以上に、口と表情筋は優等生だった。ただ、ベルの心の中は、荒ぶっている訳ではなかったけど、決して穏やかとは言えない。
「私は大丈夫よ…。その代わり、ちゃんと今度埋め合わせしなさいよ」
『あと、リリナにも、お大事にって伝えておいて』と付け加えることも、ベルは忘れない。それに対し、ジンは安心したように何度も『ありがとう』と繰り返した。
「じゃあ、俺戻るから…本当にありがとう、またな」
ジンはそう言って駆け足で去っていった。行先は今更言うこともなく、リリナの下。
その遠くなる後ろ姿を見つめながら、宝石の乙女像の前で残されたベルは、バックを持つ反対の方の手で、自慢の黒髪をいじり始めた。髪が揺れるたびに、イヤリングの雫型の石も揺れてしまうくらいに少し乱暴だが、そんなことも気にせずにベルは、その動作を繰り返した。
先ほどは荒れていなかった気持ちも、時間が経つにつれ、波風が立つ。ベルは、ジンが会いに向かったリリナを思い出して、ただひたすらに、彼女の飴玉のように綺麗な桃色の髪を毟りたくなった。
―今日、先に約束したのは、私なのに!―
そう思うと、余計腹立たしさと悔しさが沸いて来る。そして、同時に誰も自分に会いに来ないのに、今ここで他の者達と同様にいることは、ベルにとって惨めでしかなかった。
ベルは大袈裟にヒールを鳴らして、歩き始める。大きな動作に髪が揺れる。ただ、そうして、この場から急いで離れることでしか、荒だった気持ちを落ち着かせる術をベルは思いつかなかった。
**********
―ベルの足は自然と、広場の噴水近くへと向いた。
噴水は広場の南側にあり、先日レナと座ったベンチの近くだ。『せっかくおしゃれしたのに』とか、『なんで今日に限って』とか、不満でいっぱいで、そのうえ、ベルは迷子のような気分だった。このまま、一人で買い物や、おしゃれなカフェテリアに行って時間を潰すことも考えたが、そんな気分にもならない。
周りを見ながら、噴水に向かい歩くと、大道芸やダンサーなどの芸人、美味しそうな匂いを振りまく露店が目に入る。バニラの匂いがするジェラート店と、リンゴなどの果物の模型が飾ってあるジュース屋は、この前と同じくあった。しかし、青緑色の髪のピエロと、赤色の髪のピエロはどこにもいない。
娯楽と楽しみを買う客や、その側を歩く恋人たち、友人同士たちを見ると、今一人でいるベルはまた惨めさを感じた。
このまま、自分が住むアパートメントにも帰って寝てしまおうか、そんな考えすらベルの頭には浮かぶ。
しかし、そんな気持ちは噴水の近くにある人物を見つけて、消え去った。
「…レナ?」
噴水近くのベンチには、なんとレナがいた。
特徴的なキャラメル色の髪と耳、尻尾を持つレナ。彼女は先日一緒に座りジェラートを食べたベンチに座っていた。少し遠いので詳しくは分からないが、彼女は襟の詰まった首元と七分丈の袖の、落ち着いた薄紅色のワンピースを着ている。彼女の膝には、赤色のドレスを着た、クマのぬいぐるみが座っているようだった。
ベルはレナに声をかけるため、正面から近づくが、彼女はそれにまるで気づいていないようだった。
ふいに、ベルの頭に、先日ジンが教えてくれたレナの異変について思い出された。最近ぼんやりしているという、レナ。彼の言う通り、彼女はベルがだんだんと近づいているのに、ぼんやりとしていて全く気付かない。むしろ、ベルだけでなく、ここの広場にいる者達が目に入らないようにすら思えた。それくらい微動だにすることも、視線が動くこともなかった。
そういえば、初めてレナと出会った時、彼女の両親が殺された時だった。その時のレナは、現実から切り離された場所にいるような、そんな印象だった。そして、今のレナも、まさにそういう感じ。さらには、彼女の膝の上に乗っている、クマのぬいぐるみだけで、世界が完結しているようにすら思えてきた。
「レナ」
レナの真正面に立ち、ベルは声をかける。レナはハッとしたように、視線を動かし、ベルを見る。そのトパーズの瞳に自分が映っていることにベルは安心した。
「ベル…?」
「おはよう、久しぶりね、レナ…。元気にしてた?」
ベルは微笑みながら、レナに聞く。彼女は、ベルの問いに答えなかった。いきなりベルが現れたことで、驚いているようだった。
「今日は、ナナも一緒なのね」
ベルは屈んで、レナの膝の上の、クマのぬいぐるみに目線を合わせた。まるで動物や人のように扱ったのは、ジンが以前、このぬいぐるみは、『ナナ』というレナの友達だからと教えてくれたからだ。その時にベルは、レナの前では、なるべくぬいぐるみも一つの生き物として扱うことを決めたのだ。
「あ、うん…。私の、大切な物だから…」
レナは少し言いづらそうに言った。その表情と言動に、ベルは少しだけ違和感を覚えたが、あえて指摘するような真似はしない。
ベルはレナの隣に座った。レナを見ると、彼女が着ている薄紅色のワンピースは、襟元が詰まるタイプだし、袖も七分丈で露出が少ない服装だった。乳白色のボタンが前についているが、子供が着るにしては少しシンプルなデザインだ。
大人の目線から見れば、とても良く似合っていて可愛らしい。しかし、思わず、『その服で熱くないの?』、とか『もっと飾りのある服も似合うんじゃない?』とかお節介なことを考えてしまう。それに、レナは、リリナがケガしたことを知っているのだろうか。
しかし、そんなことを考えるよりも先に、ベルはやることがあった。
「ねぇ、レナ、この前はごめんなさいね…」
ベルはこの前ここで、彼女をを八つ当たりのために、利用したことをレナに謝っていなかった。今まで大人げなく逃げていたが、ちゃんとするべきだと、改めて思ったのだ。
「この前、ここで、あなたのためにジンを怒っていたはずなのに、途中から自分のために怒っていたこと…本当にひどいことをしたと思っているの…。ごめんなさい」
ベルは頭を下げた。レナには今、頼れる大人が少ないことを考えると、本当にひどいことをしたと思っている。あれは、もしかしたら、最悪、大人を信用できなくなるかもしれない程のことだった。謝るには遅すぎたかもしれないけれど、きちんとベルは謝りたかった。
頭を下げるなか、レナの顔は見えないが、体制をこちらに斜めに向けた彼女の膝の上の、クマのぬいぐるみが視界いっぱいに入る。
赤い薔薇が刺繍されたフリルやレース。そのフリルやレースに飾られた鮮やかな赤いドレス。それを身に纏ったクマのぬいぐるみは、今、女の子たちの間で流行っているという『森のお茶会シリーズ』のぬいぐるみ。様々な動物の女の子がおり、それぞれが違う花の名前を持ち、それをイメージした色のドレスを着ているという設定。
レナの持つぬいぐるみは、赤いドレスを着たクマの『ローズ』。それは感情を感じられない目で、こちらをうかがっていた。
「別に、ベルがひどいことしたなんて思ってないよ」
ぬいぐるみとベルの間に、レナの声がこぼされた。
ベルが顔を挙げると、彼女は何とも思ってないように、けろりとしている。いつも無表情だが、本当のようだ。
あまりにも、あっさりと許されて、ベルは少しだけ拍子抜けしてしまう。そして、同時に、なんとしてでもレナに何かをしたくてしょうがなかった。
「そういえば、レナ…今日、リリナが手をケガしたこと知ってる?」
「知ってるよ」
首を縦に振り、平然と答えるレナ。
「リリナがケガしたから、ジャマにならないように外に出たの。あと、今日はお昼ごはん、ジンの家じゃ用意できないだろうからって、ジンからお金ももらったの」
その説明に、ベルはレナが今ここにいる理由を理解した。自分もレナもリリナのケガが原因で暇人という訳だ。
ならばと、ベルは、
「ねぇ、レナ、今日は一日、私と色々な場所に行って遊ばない?ご飯を食べたり、可愛い小物屋さんとかでお買い物するの」
その言葉に、レナは少しだけ思案顔になるが、数秒後『行く』と答えた。
「よし、じゃあ、今日はとびきり楽しい一日にするわよ!」
ベルは声を張り上げて、ベンチから立つ。ヒールが愉快気に音を鳴らした。
そして、馬車から降りてくるお姫様をエスコートするように、レナの方へ、ベルは手を差し出す。
彼女は、おずおずとベルの手をとるが、そのトパーズの瞳がこれからの楽しい一日を予感しているように、煌めいていた。
**********
―ベルとレナは西の大通りへと向かった。
「わぁ! 相変わらず、人が多いわね~」
ベルは感嘆の声を漏らした。
ベルが、レナと共に遊ぶ場所に選んだのは、西の大通りだった。この場所は商業の街として栄えた場所だ。お洒落なカフェやレストラン、大衆向けの市場や、異国情緒ある店が並ぶルミエーダ王国最大の商業地区。
そんな街の市場の前に、ベルとレナは現在いた。
「久しぶりに来たけど、すごいわね」
「本当、久しぶり…」
ベルとレナは呟く。
どちらも『久しぶり』だと呟くが、それぞれで意味がまるで違う。ベルの方は一人暮らししているアパートメントが、王都の北の地区にあるため、あまり西の方には来ないという意味だが、レナの方は、元々西の地区に住んでいて、久しぶりに来たという意味だ。
彼女は西の地区に住んでいたが、どちらかと言うと大通りから離れた場所に住んでおり、そこは獣人族や魔族、移民などの少数派がごく普通に暮らす住宅街だ。王都にはそういった少数派が暮らす地区が点在しているが、西の地区は特に多い。そして、西の地区は、少数派の中でも、そこそこ裕福な者達が住む場所だ。住民は経済的にも余裕があるため、西の大通りへ買い物に行くこともしばしばあるそうだ。
今も、ちらほら異国語で商談する店主と客や、商人と買い物客のなかに龍人や、妖精、獣人族がいる。中には未就学児を連れた魔族の夫婦もおり、レナもこうして両親と買い物をしていたのだろうかと、ベルは思った。
「何か買いたいものはある?」
「特にないけど、歩き回りたい」
『かしこまりました』と、ベルはイメージにある従者の真似をして、レナと手をつなぎなおす。
パプリカやトマトなどの、色とりどりの野菜を売る八百屋。燻製肉やベーコン、生肉を売る肉屋。珍しい異国の小物や、鮮やかな装飾品を売る雑貨屋など、石畳の道の上に、様々な店が立ち並ぶ。その様子を見るだけで楽しい。
多くの者が行き交うなか、ベルは、レナとはぐれないようにしっかりと手をつなぐ。レナはその反対側の手で、ぬいぐるみをしっかりと持っていた。
二人は市場の様々な店を回る。途中で、おかしなお面がたくさん売られたお店を見つけて、二人一緒になって、顔の近くまで持っていった。串焼きのお店では、女らしさとか気にせず、タレのついた肉を頬張った。絵が売られているお店では、鑑定人になったつもりで、二人でまじまじと絵を見つめた。
そして、とある雑貨屋へ来た時、無表情ながらもレナが目を輝かせた。その店に、並べられてるのは、模様が彫られた鏡や櫛、小さなお花が描かれたティーセット、刺繍入りの淡い色のハンカチ―それらは、まさしく女の子のための商品だった。
レナは気になった商品を一つひとつ手に取り、熱心に見ている。そんな姿にベルは、『やっぱり女の子ね』と思わず頬がゆるんだ。
そして、そんな商品のなかの一つをみつけて、レナはさらにトパーズ色の目を輝かせる。クリーム色の生地に、小さな薔薇の花が刺繍がされたリボン。それは、レナが手に持つクマのぬいぐるみの、ドレスのフリルやレースを連想させるものだった。。
「それが欲しいの?」
ベルが聞くと、レナはすぐにハッと我に帰り、悲しそうに首を横に振って『いらない』と答えた。
「…買っても、もう、意味がないから…」
その言葉の意味がベルにはよく分からなかった。『もう』とは一体どういうことだろうか。そう考えたが、悲しそうな顔をしながらも、レナがあまりにも、欲しいと言わんばかりに見ているので、そのリボンをベルは手に取り、店主へ持っていく。
「ベル!」
レナは声を上げるが、ベルはちょっと気取ってウインクした。
「今日、付き合ってくれた、ささやかなお礼よ」
そう言うと、微笑ましそうにこちらを見ていた若い女性店主に『すぐに使いたいので、包装はいいです』と断りを入れる。お金を払い終わるとベルは、すぐそばにいるレナに『髪を少し触らせて』と声をかける。レナは言うとおり、キャラメル色のボブヘアを触らせ、ベルはレナの左側の髪に買ったリボンを結んだ。
「あ、ありがとう」
ベルが何をしたか理解したレナは、少し落ち着きなくお礼を言いながらも、『似合う?』と聞いて来た。ベルは『もちろん』と頷く。レナはリボンにそっと触れた。
「ローズのイメージにピッタリのリボン…」
『ナナ』のぬいぐるみを持つ手に、一層力を込めながら、呟かれたその言葉はベルには決して聞こえなかった。
**********
―その後ベルとレナは大通りから数本外れた通りを歩いていた。
西の地区ということもあり、それなりに賑やかであるが、大通りほど人が多いわけでもない。
大通りでは市場など小さな店で賑やかだったが、この通りにあるのは、おしゃれな雰囲気のカフェや、既製品を売るだけでなく、注文を受けて服を作るブティック、文学作品を中心に取り扱う本屋など、それなりに大きな店ばかりだ。所狭しと並ぶ白系統の色の壁が、たとえ、ひび割れていたり、くすんでいたとしても、それすら魅力だと思える。少しだけ歴史を感じるような、落ち着いた雰囲気の通り。
「あそこで、昼食を食べましょうか」
ベルはその通りのカフェに入った。以前来たこともあるが、値段も手ごろだし、それなりに量もあったので、また今度行こうと思っていた店だった。白い壁と季節ごとの花が咲いた花壇がある、女性向けのお店で、今は黄色のヒマワリが植えられていた。まるで、おもちゃのミニチュアのような可愛らしい店。
ベルはレナの手を引く。店内は明るい内装。壁際に可愛い花の鉢植えや、刺繍されたテーブルクロスが引かれた白いテーブル、猫足の椅子など、女性が喜びそうなデザインだ。ベルとレナは、窓際の二人掛けのテーブル席へと座る。ちなみにぬいぐるみは、荷物と一緒に荷物入れのバスケットにいれてある。ウェイターがメニュー票と水を持って来ると、真剣な顔でレナは料理を選び始めた。
「好きなもの頼んでいいわよ、私が払うから」
ベルはそう言うが、レナは首を横に振った。
「ジンから多めにもらってるから、大丈夫」
きっぱりと断るレナに、『これは折れないな』、とベルは何も言わなかった。そして、レナはやっとミートソースパスタとサラダに決め、ベルも同じものを頼むことにした。そして、先ほどのウェイターに声をかけ注文する。ウェイターは頭に角があり、肌が褐色の魔族の若い男性だった。
ベルは、喉を潤すために水を飲む。多くの店があり日影が多いとはいえ、夏の日の外は熱い。冷気の呪文のおかげで、ベルもレナも汗だくという訳ではないが、歩き回ったので、それなりに汗もかいている。もうすぐで、夏も後半に入り、暑さも和らぐと新聞に気象学者の記事が載っていたが、輝かしい元気な太陽を見ていると本当なのかと問いかけたくなってしまう。
そんなことをベルが考えながら、窓の外を見る。向かいの店が立ち並ぶ中に、一つのとある店を見つけた。
「あら、あれは何かしら?」
その店は、戸は空いているし、商品も外から見える。一つ一つ包装されていたり、瓶に入っているらしいが、この距離からはそれが何なのか良く分からなかった。そして、その店の看板は、異国語で書かれている。
「何のお店かしらね?」
「茶の店ひだまり…って書いてる。たぶん、お茶とかハーブティーとか、売ってるんじゃないかな?」
レナの答えに、ベルは思わず驚いた顔をする。その顔を見てレナは慌てて、
「パパがスペリサ人で、少しだけ教えてもらってたの…」
あれは、スペリサ語だったのか。スペリサ国はルミエーダ王国とも近い、自然豊かな小さな小国だ。そして、隣国とも近いために、侵略に十数年対抗した国だった。戦争の激化に伴い、一時期は存続を危ぶまれたが、その危機を乗り越え、今は国内情勢が改善しつつある国だ。そして、獣人や妖精族などの少数派も多い国でもある。レナの父はその国からの移民だったのかと、ベルは知らなかった事実に少し驚いた。
そして、自分はレナの家族のこと、事件が起こる前のレナのことを何も知らないのだと思い知る。
「パパは、スペリサで生まれて、勉強して薬剤師になったけど、隣の国のせいで、戦争になったから、戦争に行かなきゃならなかったんだって。…そこで、兵隊のお医者さんのお手伝いをしてたみたい…」
こちらは聞いていないが、レナは自身の父親の話をし始める。
ベルにとってレナは、自分から何か話題を出すことや、口を開くことはない、非常に自己主張の弱い子供だった。そのために、彼女が自分から話をする姿にベルは驚いた。しかし、きっと良い事なのだと、ベルはそれに耳を傾ける。
彼女の話から、父親は、戦争により徴兵という形で兵役を課されたスペリサ国民。そして、薬剤師の資格を持っているために、医療の知識があると判断され、軍医の補佐と言った仕事を与えられたのだと、ベルはそう理解する。
「でもね、パパが待機していた場所が、隣の国に攻撃されて、パパも左肩に矢が刺さって、兵隊じゃなくなったの…」
「そう、大変だったのね…」
兵役を課された国民には良くある話だ。そして、負傷したために義務から解放される。レナの父親もそのタイプだろう。
「うん…それで、パパはその時のケガのせいで、左腕で重たいものを持ったり、左の方の肩が上げられないの…。だから小さい頃、私を抱っこする時は右手だったし、頭を撫でるのも右手だったの…」
いつもよりも饒舌に喋るレナは、懐かしそうに目を細める。その雰囲気がどことなく寂しげだった。
「レナは、たとえ、そうでも、お父さんが大好きなのね」
ベルが思ったことを正直に言うと、レナは一瞬きょとんとするが、すぐに、
「私は…パパだけじゃなくて、ママも大好きだよ」
ちょっとだけ不服と言わんばかりに、レナはそう言った。
そして、彼女の話は続く。
「パパは、兵隊を辞めた後に、家族と、この国に逃げてきたの…。あ、家族っていうのは、パパのお父さんと、お母さんと、弟さん…。パパ以外は、みんな同じ病気になっちゃって、死んじゃったって言ってた…」
「………」
「…パパはよく言ってた…。もし、隣の国が戦争なんてしなかったら、パパのお父さんも、お母さんも、弟さんも病気がひどくなる前に発見できて、すぐに治せたのにって…。だから、戦争は悪者だって、よく言ってたの」
「確かにそうね…」
戦争は悪者という言葉が、ベルにとってはひどく痛かった。王宮魔術師であるために、ベルは何かあれば、兵士として戦場へ行く。その時に『悪者』である戦争を行うのだ。
戦争は兵士の命を奪うことはもちろん、非日常であるため、戦場ではないはずの場所でも、命が奪われる。その多くが普通の日常であれば、すぐに解決できて、救われるはずの命なのだ。レナの父親の家族も、そうであったのだろう。
ベルはまた、一口水を飲んだ。
レナも思い出したように水を飲むが、喋ることを止めない。それは何となくであるが、今のレナには、必要なことなのだとベルは思った。きっと、それは喉が渇いたら水を飲むのと同じくらいに必要なことなのだ。
「それで、お父さんは、ひとりぼっちになって、いっぱい泣いたけど、家族の分まで頑張って生きようって決めたんだって…。そして仕事場でお母さんに出会ったの」
レナの母親も薬剤師だ。きっと出会いの場所は薬局だったのだろう。同じ人狼族だから、話や価値観も合ったのかもしれない。レナの両親には会ったことはないが、楽しそうに語り合う人狼族の男女の姿がベルには自然と思い浮かんだ。
「…ママは、小さい頃は寝る前に、よくグロリア―ダ教の神話とか、おとぎ話をお話してくれたの。…最近だと、それもなくなったけど、よく私のことを可愛い宝石とか、私の洗礼名のトパーズは、幸せの石なんだって、言ってた……。それに、生まれてくる赤ちゃんにはどんな名前がいいかとか、洗礼名は何の宝石を使おうかとか、ママと私で話してたの…」
その時、ウェイターが注文した料理を運んできた。トマトソースの匂いが食欲をそそる、ミートソースパスタと、レタスやトマト、パプリカに白いドレッシングがかかった、シーザーソースのサラダ。ベルとレナは、美味しそうな食事を前に一旦話を辞める。
レナは、食事前の口頭の儀式を始めて、ベルもそれに倣い一緒にする。現代だと、敬虔なグロリア―ダ教徒以外は、食事前の儀式はやらない家も多いが、レナの家ではしていたらしい。先日ジェラートを食べるときはしなかったが、レナの言葉は自然で、生まれた時から何度も食事前に、祝福や感謝の言葉を唱えていたと分かる。魔術の呪文に似たその儀式が終わると、レナはすぐにフォーク持ってサラダを食べ始めた。ベルもサラダから食べ始める。
チーズの香りがするサラダを食べながら、行儀よい動作と、美味しそうに目を細め食べる、無邪気なレナの姿をベルは見つめる。その姿だけで、彼女の両親が、どういう人物であったかが伝わってくるようだった。
それに、先ほどレナが話した『可愛い宝石』という言葉に、昔、祖母に同じように言われたことをベルは思い出した。今は、亡くなった祖母だが、彼女は自分を確かに愛していたとベルは思っていた。そのため、レナの話の中から、感じるのは娘から両親への愛だけなく、両親から娘への愛も感じられたのだ。
自分は、レナのように、家族の愛を誰かに語ったことがあるだろうか。少しだけ、ベルは恥ずかしくなった。確かに家族には感謝していた。家族は自分を可愛がってくれたし、彼らのおかげで今の自分の姿があるのだと、ベルは理解していた。
愛さないわけがない。しかし、それを本人たちや、他人に伝えたことは、一度でもあっただろうか。たとえ、伝えるにしても、今更、家族にそれを伝えるのは気恥ずかしい気もする。
しかし、もし、誰かに家族の話をする機会があれば、ちゃんと、自分を愛してくれた家族の素晴らしさ、そして、自分は家族を愛しているのだということが伝わるように話したい。少し味の濃いミートソースパスタにも手を付け始めたベルは、そう思った。
お読み頂きありがとうございました。