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冷たく透き通った空気で、目一杯まで肺を満たし、思い切り吐き出す。
地上の天の川の星々が、忽然と湧いて出た気配を知らせるように、一斉に煌めきを増したように見える。
背後から近づいて来た雪を踏む音が、わたしのすぐ間近で止まった。
「よぉ」という聞き慣れた短い挨拶に、わたしはもう一度深く深呼吸をしてから、
「やぁ」と答えて振り向いた。
今、精一杯作っているつもりの笑顔は、ちゃんと自然に出来上がってるだろうか?
いつもと変わらない和希の表情から見て、多分違和感まではないんだろうと思う。
「すんごい星だなぁ。
ほら、あれはオリオン座。あっちは双子座。
あそこらへんが確か牡牛座かな」
「詳しいのね?」
「小学生の頃、天体盤もって夜に屋上登るのが好きだった」
星座の話をしながら、和希はベンチに座り、わたしも自然な流れでその隣に腰を降ろした。
肌に伝わる実体感が、やけに愛しく、やけに切ないのは、
多分これが、わたしが感じることのできる最後の彼の温もりだから。
嬉々として夜空を見上げるこの横顔を、こんなに近くで見つめることも。
「ほら、あそこに月があるだろ?
オリオンと月の神アルテミスは、本当は結婚を誓い合った仲だったんだよ。
でもアポロンに邪魔をされて、結局オリオンは命を落としちゃうんだけどね。
それでもアルテミスはオリオンに会いたくて、冬になるとああやって月がオリオン座を通過するんだってさ」
「ふぅん……大昔からずっと、変わってないんだね」
「何が?」
「男と女の悲恋。
どんなに科学が進歩したって、こればっかりはどうしようもないんだろなぁ」
和希の腕が、そっとわたしの背中に回され、肩を抱き寄せられた。
「俺は、遥香離さないから。
悲恋になんてさせないよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ。
本気でそう思ってんだよ俺は」
「うふふ……うん、知ってるよ。
和希は本気で、そう思ってくれてたんだよね。
だから今の和希も昔の和希も、どっちも嘘じゃない本当の和希なんだよね」
「……はぁ?
何それ、どうゆうこと?」
「わたしとあなたはね、結局結ばれないんだよ」
わたしの肩から手を離した和希が、まじまじとこちらを覗き込んでいる。
今のこの和希には、やっぱり衝撃発言過ぎたみたいだ。
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「え……どういうこと?
意味わかんないんだけど?」
「だろうねぇ」
「え、何?
もしかして……俺のこともう……」
「ううん、好きだよ。
すごくすごく、大好きだったよ」
「か、過去形?」
和希がこんなにも狼狽える顔を、わたしは始めて見たと思う。
こんなふうに慌ててくれる彼の態度は、ちゃんと心からわたしを愛してくれていた証なんだろう。
「ごめんね和希、意味わかんないこと言って。
でも今夜は、今のわたしの正直な気持ちを聞いて欲しいの。
だからこれから、もっと意味のわからない話をしていい?」
わたしを体から離し、完全に固まってしまった和希の顔は、頷く動作さえも硬直したみたいに動かない。
そんな彼から目を反らし、わたしは地上の天の川にでも語りかけるように口を開いた。
「ハンドバッグを見たの。
あなたと付き合う前から使ってた古いハンドバッグで、底のほうとかもうほつれてんの。
あなたに新しいハンドバッグプレゼントしてもらってからは、ずっと押し入れで眠ってたんだけどね」
「ハンドバッグ?
俺、そんなのプレゼントしてない」
「だから言ったでしょ?意味わかんないって。
まぁ、わかんなくていいから、最後まで聞いてみてよ」
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声を詰まらせた気配を横に、わたしは構わず続けた。
「ペンションのオーナーから、和希に関係ない物でも、ようくその物の経緯を思い出してみろって言われてね。
最後にたどり着いたのが、そのハンドバッグだったの。
わたしの就職祝いに、お父さんが買ってくれたものでね。
お父さん、日頃からブランド物なんて金の無駄だって馬鹿にしてるくせに、けっこう高いクロエのなんか買ってきてさぁ。
わざとらしく咳払いしながら、
──お前も社会人なんだからちょっとはマシなものを持て──なんて。
思わずお母さんと顔見合わせて、ニヤニヤしちゃったよ」
「遥香のお父さんが、遥香をすごく可愛がってるのはわかった。
でも、ペンションのオーナーがどうのこうのって行はわからない」
「ふふっ、そこはわかんなくていいとこ。
古いハンドバッグだったからさぁ、そのまんま入れっぱなしになってた、昔の物もけっこうあってさぁ」
あの時オーナーは、ひとつひとつの持ち物の思い出を辿れば、“道が開かれる”と言っていた。
決して、そうすることによって和希との思い出の品が見つかるとは言ってなかった。
今はその言葉の意味が、なんとなくわかる。
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「例えばね、バッグの中から、手のひらサイズの小さなノートが出てきたの。
中にはびっしりと料理のレシピが書いてあってさ。
大学で初めて親元を離れる時に、お母さんがくれたんだよね。
前に和希に作ってあげた、丸茄を土台にしたピザ風の料理あったでしょ?
和希めっちゃ気に入ってたやつ。
あれもお母さんのレシピから作ったんだよ。
あれのお陰で、だいぶ料理のレパートリー増えちゃったなぁ。
考えてみたらお母さん達って凄いよね。毎日毎日家族のために、1日3食作ってるんだから。
ちょっと大袈裟かもしれないけど、そのレシピ集がわたし達を育んでくれた愛情の記録みたいに思えてさ。
社会人になってからも、御守りみたいな感覚で肌身離さず持ち歩いてたんだよね。
あ、そうそう。
御守りって言えば、大学の時、わたしと同じゼミだった美穂覚えてるでしょ?
あの子からもらった神社の御守りも、内ポケットに入ってたよ。
なんか美穂の地元じゃあ、かなり有名なおっきい神社みたいでね。
わたしあの子に進路のこととかいろいろ相談してたら、わざわざ買ってきてくれたの。
あの子遠慮なしになんでもズカズカ言うから、あなたはちょっと苦手だって言ってたっけね。
でもほんとは、友達思いのすごく頼れる姉御肌って感じの奴なんだよね。
ちなみに由紀や早苗達とよく朝までだべってたファミレスのドリンクバーチケットも、だらしくなくグチャグチャになってけっこう入ってた。
今思うと、あの頃はみんな恐いもの知らずなくらい無知なんだけど、
なんだかんだ言いながらも、未来の期待に輝いてたなぁって思う。
あとはあれかなぁ。
やっぱ、お祖父ちゃんから貰った最後の御年玉袋。
あれジーンときちゃったなぁ。
お祖父ちゃんってば、わたしが社会人なってからも、毎年必ず御年玉くれるんだよね。
子供の頃から、いっつも決まって3千円。
そんでね、必ず御年玉袋に筆ペンでメッセージが一言添えてあってね。
最後のメッセージは、『遥か先まで君が香しく咲き続けますように』だった。
多分癌が末期まで進行してたお祖父ちゃんが、残された力を振り絞って書いたんだろうなぁ……そんなふうに思うような、いつもよりちょっと震えた字だったよ。
最後のメッセージに、わたしの遥香って名前が被せてあったから、多分お祖父ちゃん、もうお別れなんだって知ってたんじゃないかな。
亡くなった時はすごく悲しくて、もうお祖父ちゃんが永久にいなくなっちゃったなんて、信じることができなかった。
でもさ、後になって思うんだ。
お祖父ちゃん、今でもわたしの中にちゃんといて、わたしの一部になってくれてるって。
だってさ、お祖父ちゃんからは御年玉だけじゃなくて、目には見えないものもいっぱい貰ったと思うの。
ちょっと頑固だけど、ひたむきで真っ直ぐなところとか、
余計な干渉してこないけど、いつもしっかり家族を見守っててくれてるところとか。
お祖父ちゃんから貰ってきた影響は、今のわたしの人格とか体とかを作ってる要素のひとつに、ちゃんとなってるんだよなって」
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そこまで言ってわたしは、一旦話しを区切った。
今、隣にいる和希は、どんな顔でこの話を聞いてるんだろうか。
横からは時折短く息を吐く音がするだけで、あとは終始無言。
突然開いた2人の間合いを計り合うような、構えた沈黙が続いていく。
やがて、遠くで聞こえた微かな風音に促されたか、静寂を破ったのは和希だった。
「……わかんないよ。
今日の遥香、絶対変だよ。
俺に何か、言いたいことがあるんだろ?
遠回しに濁してないで、はっきり言ってくれよ」
今にも消え入りそうな力ない声に、わたしはようやく和希を見向いた。
うつ向き加減で、蒼白の色を滲ませた表情。
これじゃあなんだかまるで、わたしが昔の彼に、今の怨みを仕返ししてるみたいじゃないか。
確かにわたしは心のどこかで、彼がこんな顔してわたしとの別れを嘆く姿を願っていたかもしれない。
けれども、実際に目の当たりにした今、こんなに心が痛むなんて……
この人のこんな顔を見るのが辛いなんて……
やっぱりわたしは、この人のことが──
「和希……」
和希の顔から目を背けるため、わたしが咄嗟に選んだ方法は、そっぽを向くことではなく、
彼の首に両腕を巻き付け、強く抱きしめることだった。
終わらせよう、わたしのために。
終わらせよう、あなたのためにも。
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抱きしめた腕に力を込め、彼の頬に自分の頬を寄せた。
ここからのわたしの声は、彼の耳に想いの吐息を流し込むような囁きとなる。
「和希ごめんね。
わたし、勘違いしてたみたい。
古いハンドバッグに残ってたものは、全部わたしのかけがえのない宝物だった。
あなたと出会って、いつの間にかあなたしか見えなくなって……
わたしには、あなたしかいないと思ってた。
あなたを失ったわたしは、ひとりぼっちだって思ってた。
でも違った。
わたしはいろんな人に支えられて、いろんな人に愛情をもらって、いろんな人に影響を受けて、ここまで生きてこれたの。
もちろん、和希からもいっぱいいっぱい、数えきれないほどいろんなものを貰ったよ。
たくさん笑わせてくれてありがとう。
ドキドキするトキメキをありがとう。
人を想う優しい気持ちをありがとう。
そして、強くなるための、悲しみをありがとう。
わたしはあなたのお陰で、今よりももっと素敵な自分になって、新しい出会いを向かえられるんだって信じることにする。
もちろん、これで全てを吹っ切れるとは思わないし、あなたの事を思い出して泣いちゃう夜もあると思う。
でも約束するよ。
わたしはゆっくりでも、たまには立ち止まっても、ちゃんと一歩ずつ、前に向かって歩いていくって」
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僅かに震えていた和希の肩から、その振動が消えていった。
囁いていた和希の耳も、わたしの頬から感触が消えていった。
透けていくダークグレーのジャケット越しに、地上の天の川の瞬きが見える。
うな垂れた和希のシルエットが、次に来るであろう決定打を、ただ黙って待っている。
わたしはベンチから立ち上がり、彼を見下ろすと、出来る限りの笑顔を作った。
今度の無理した笑顔は、さすがに誰からみたって不自然なものだろう。
だって、こんなに笑ってるのに、
こんなに涙が零れてるんだから。
薄れ行くあの人の名残り。
もう輪郭しかわからない、あの人の表情。
やがてわたしが年を重ねるほどに、記憶の中のあの人の笑顔も、こんなふうにぼやけていくんだろう。
でも忘れない。
「和希、ありがとう」
一生消えはしない。
「大好きだったよ」
あなたから貰ったもの。
「あの人と、幸せになってね」
あなたもきっと、同じなんだよね?
「サヨウナラ……」
わたしはまだ完全には消えきらないあの人の影に背を向け、崖を後にする。
月明かりをはらんだ積雪が、導く路の先を示すように淡く発光している。
木々の列が、大きく曲がったカーブに差し掛かった時、
わたしは一瞬だけ立ち止まり、崖の上を振り返った。
あの人の姿はもうどこにもなく、
ポツンと見下ろす『恋人のモニュメント』が、緑青を纏った深い美しさを、温暖色のライトに映し出していた。
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