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夢を見ていたように思う。
あの人のアパートにわたしが一緒にいて……2人で何をしていたろうか?
はっきりとは覚えてないけど、特に何もしていない感じの映像だけは、頭に残っている。
あの人は、寝転がって雑誌を見ていた。たぶんまた、パソコン関係の雑誌なんだろう。
わたしはベッドに座り、壁に背をもたれてスマホをいじっていた。
お互いに会話はなく、ただゆっくりと、時間だけが過ぎてゆく夢。
冬になると炬燵に早変わりする黒いテーブルと、
その上に乗っかってる、いつもの美濃焼きのマグカップ。
本棚に置いてある、なかなか埃の払えない軍艦のプラモデルや、
壊れて雑誌の置物台になっているプリンター。
レースのカーテンから、オレンジ色の陽射しが柔らかく射し込み、
それら部屋中の器物を、みんなセピア色に染めていた。
何でもないようなそんな時間が嬉しくて、だけどちょっと切なくて。
このまま日が暮れていくにつれ、この部屋そのものがゆっくりとフェードアウトしていくような、そんな不安も感じていたと思う。
目が覚めた時、窓の外はもう真っ暗で、昼間の吹雪も嘘みたいに無くなっていた。
あの人の部屋の、あまり意識してなかった部分さえも鮮明に夢に見たのは、
わたしがいつの間にか眠ってしまう直前まで、ずっとあの人の写真を見ていたせいだろう。
あの人が離れてしまってから、ずっと見ることが出来なかったスマートフォンのアルバムだ。
自分ではそんなに写真を撮りまくるほうじゃないとは思うけど、それでも要所要所で撮影したものが、けっこうな枚数あった。
あの人は実に表情豊かに、わたしは実に愉しそうに、切り取られたその瞬間が、さも永遠みたいに記録されている。
頬に伝った涙の跡を拭い、わたしは立ち上がって衣服を着込んだ。
0時にはまだだいぶ早かったけど、あの崖の上から例の夜景を、ゆっくり眺めていたかったのだ。
そうだ。
あのモニュメントの下で、もう一度だけ写真をじっくり見直してみよう。
そうすれば、あの人に伝えられるかもしれない。
さっき喉まで出かかって、でも声に出すのを躊躇われた、
──この言葉を。
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ペンションから一歩外へ出た直後、思わずわたしを立ち止まらせたのは、夜空だった。
冬の大気の清澄さもあるだろう。
街灯も何もない、山奥という条件もあるだろう。
とにかくわたしは生まれてから今まで、こんなにも満天に輝く星空を見たことがあっただろうか?
壮大なスクリーンを、今にも降ってきそうなくらいに埋めつくした大小様々な光。
それらはわたしに、何かを語りかけるかのようにシラシラと瞬いており、
大宇宙という圧倒的荘厳さの中に、今、自分が包まれている感覚。
星々の声なき声は、確かにわたしに届いており、胸の奥底を震わせていた。
人は小さい。
わたしも、あの人も。
新雪を踏むサクサクとした音を噛み締めながら、わたしは出来るだけゆっくりと歩く。
崖へと続く細い坂道を、足場をひとつひとつ確認するように登っていく。
闇を照らす恋人のモニュメントの明かりと、眼下に見えてきた夜景。
ベンチの雪を払いのけ、持ってきたビニールを敷いて腰を下ろし、
そしてわたしは、深く息を吐き出した。
今夜の夜景は、これまでとは少し趣が違っていた。
空を覆う一面の星と、地上にできた天の川との対比は、それこそファンタジーさながらに幻想的で、
どこか人智を越えた世界にでも迷い混んだかのよう。
魂が吸い込まれたように見入っているうち、わたしの中に、ふとメルヘンチックな仮説が生まれた。
もしかしてあの夜景の光は、空へと昇れなかった星達なんじゃないだろうか?
目指すべき所へは届かなかったけども、確かに輝きを放っていた、恋人達の想いなんじゃないだろうか?
わたしみたいな愛を失った人達が、ここから投げ捨てた思い出の品。
それが全部、あの夜景を形成する光の一粒一粒になるとしたら──
ねぇ和希、わたしの説は子供っぽい?
だって、地上にできた天の川って、最初に言ったのあなただよ。
わたしはスマホをポケットから取り出し、アルバム写真を開いた。
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まず初めに出てきたのは、海の写真だった。
まだ海開きされる前の春のことで、目的は2人で、テレビで放送された近海のお店の海鮮丼を食べに行ったんだ。
ごっそり乗ったウニを頬張る和希の姿も、次の写真にちゃんと残っている。
放映された直後だからか、店はすごく混んでいて、ゆっくり時間を過ごせる雰囲気じゃなかったけど、
それでも海鮮丼は豪華ですごく美味しかった。
和希ったら慌てて食べたものだから、最後にご飯だけがけっこう残ってしまい、わたしが甘エビなんかをあげたっけ。
そしてこれは、4日遅れのクリスマスの時に撮った写真。
仕事の都合で当日は会えなかったけど、今日が2人のクリスマスにしようっていう名目。
かと言って特別な事と言えば、フレンチのレストランに入ってケーキを食べたってことくらいだ。
会話だっていつもと変わらない他愛のない雑談ばかりで、世の乙女達が憧れる甘い雰囲気なんてまるでない。
せめてクリスマスって言う雰囲気を残したくて、お店の入り口の木に設えてあったページェントの前で撮った1枚。
和希の腕にしがみついて笑うわたしは、この先何度も、こんな些細なクリスマスが訪れると思ってたんだろう。
これは、古民家カフェで撮った写真。
これは、地元の漫画家の記念館で、イベントがあった時の写真。
これは、寝ている和希を隠し撮りしてやった写真。
これは土手沿いの桜並木──
どの写真もじっと見つめていると、その時の2人の会話が今にも聞こえてきそうな気がした。
わたしと和希が、確かに同じ時間を共有して来たのは、幻なんじゃない──そんな証拠でもあった。
最後にスワイプしたのは、テーブルの上に乗っかった、どんぐりの写真だ。
和希が“お土産”と言ってポケットからジャラジャラと取り出したのが、このどんぐり達だった。
なんでどんぐり?──とわたしが聞くと、和希は少し宙を見上げてから、
なんかいっぱい落ちてて、なんか可愛いかったから──
と答えたっけ。
これ拾ってきてどうするの?って、わたしが聞いたら、和希はちょっと困って、苦笑いしながら言ったんだ。
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(うーん、どうしよう……
とりあえず、眺めておこうか)
(ぷっ……変なの。子供みたい)
(でもほら、ツルツルで帽子被ってて、なんか可愛いだろ?)
(まぁ、確かに、可愛いって言われれば可愛いけど)
(だろ?
こいつらこんなに可愛いのに、これがいつか大きな木になるんだよな。
こんな小さな体の中に、でっかい未来が詰まってるってすごくない?)
(そう言われれば生命の神秘だねぇ。ちょっと大袈裟な気もするけど)
(よし、こいつらが木になるまで、ずっとこうやって眺めてようか)
(あはは、無理無理。
わたしたち、お爺ちゃんとお婆ちゃんになっちゃうから。
そもそも土に埋めたら眺められないでしょ)
(そっかぁ、残念だ)
(あはは、でもなんかほっこりしたかも。お土産ありがとね)
どんぐりの写真を見つめていたら、自然に口元が綻んでいるのに気がついた。
ほっこりしたのは、どんぐりにじゃなくて、こんなものをのんびりと2人で眺めていた空間が、可笑しくて温かかった。
わたしもこのままずっと、こうやってどんぐりの写真を見ていたいけど。
でもごめんね。
もう0時だ。
わたしは意を決してスマホの電源を切ると、SDカードを引き抜いた。
このカードの中には、日中、あの人の写真の全てを移しておいた。
これを捨てたとしても、わたし達が共に歩んできた日々が消えてなくなるわけじゃない。
地上の天の川の光のひとつとなって、いつまでも遠い所で輝き続けるんだ。
時計のデジタル表示に、これまで積み重ねてきた数字をリセットするみたいに、0が3つ並んだ。
吹けば飛ぶような小さく薄いカードを、わたしは崖下へと落とした。
あの向こうの天の川に、大事に育てた稚魚を放流するみたいに、そっと、優しく、手から離した。
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