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ロビーから暖炉の左脇の通路を進むと、左右にそれぞれ、食堂と浴室へ続く扉がある。
さらにその突き当たりにある扉の部屋は、オーナーである植野さんの居住空間であるということを昨日知った。
その扉の前で小さく深呼吸してから、2度ほどノックしてみる。
すぐに「はい?」という短い返事が返って来た後、
少し間をおいて「どうぞ、開いてますよ」と聞こえてきた。
「失礼します」
会社の重役室にでも入るような、多少の緊張をもって開けた扉の先。
重役室とはかけ離れた思ってもいない光景に、わたしは思わず目が点になってしまった。
中央の床の上に座っているオーナーは、木彫りで何かを作っており、シートの上には削り節やノミ類が散乱している。
部屋中を取り囲む棚の上には、たくさんの彫刻がずらりと並んでいる。
あれはウサギ、あれは魚、あっち鳥は……カワセミだろうか……
木彫りばかりではなく、中には粘土細工のようなものや、金属的なもの、自然界から拾ってきた石や枝をそのまま積み重ねたようなものもあるみたいだ。
それにしても、1つ1つがすごく精巧でリアルだった。
素人目で見ても、その出来栄えの見事さには感嘆せざるをえない。
ここへ来て初めて垣間見た、オーナーの意外な一面。けれどもそれは違和感でもなく、これまでの所作振る舞いから、むしろ納得してしまう美的センス。
すっかり目を奪われていたわたしに、このミニチュアの自然界に流れるせせらぎのような、たおやかな声が言った。
「ここの経営の他に、少しばかり創作も生業としてましてね。
まぁ、ご覧のとおり、繁盛しているペンションでもありませんから、何かしらで小銭を稼がないとね」
「これ全部オーナーが作ったんですか?
すごいです……まるで生きてるみたい……」
「はっはっは、彫像は決して動きませんが、見る人の心の中で動き回ってもらえたら嬉しいですなぁ」
そういえば、ロビーやわたしの部屋にも小さな木彫りが飾ってあったっけ。
わたしの部屋の花にとまる蝶々も、きっとオーナーが作った物なんだ。
それぞれの造形をじっくりと観賞するうち、どうやらわたしは、ここへ来た目的を束の間忘れてしまっていたようだ。
オーナーに言われて、改めて我にかえる。
「ところで……何かご用でしょうかな?」
「あの、オーナー。
もう一泊、宿泊の延長をお願いしたいんですけど……」
オーナーの目から、ふっと笑みが消えたように見えた。
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オーナーの瞳が、わたしを透視するかのようにじっと見つめている。
明らかに昨日とは違う反応に、わたしの目は虚をつかれてウロウロ泳ぐ 。
「明日は……お仕事ではなかったのですかな?」
「休みます。
有給がけっこう残ってるので、ここで使いきります。
あとでロビーの電話をお借りしてもいいですか?」
「それはかまいませんが……
ここで有給を使いきる?
しばらくここに滞在するおつもりですかな?」
「はい。
もし上司に文句を言われたら、会社を辞めたっていいんです」
「それは随分と極端な……
お仕事を辞めてしまっては、あなたの生活が困りますでしょう?」
「わたしにとっては、あの人がいない生活なんてどうでもいいんです。
だから宿泊費の続く限り、ずっとここに……
あ……でも一度だけ自宅に戻ると思いますが、またすぐに戻ってきます」
「思い出の品を……かきあつめてくると?」
「はい、そのつもりです」
全てを受け入れてくれるような、あの微笑みはなく、不安になったわたしは戸惑いつつも念を押してみる。
「大丈夫……ですよね?」
「…………」
「オーナー?」
「……流転という言葉をご存知ですかな?
万物は全て時に沿って流れ続け、生命の営みを繰り返している。
花はやがて枯れることで実を結び、次の花の芽を育みます。
過去にばかりしがみついていては、その流れが滞ってしまいますぞ」
それは、すっかり心を許していたとばかり思っていたオーナーに、突然突き離されるような言葉だった。
つまりは、「もう帰れ」
遠回しにそう言っているのだ。
背後の彫像達の視線が、急にこちらを睨みだしたように見え、後退る。
「遥香さんと言いましたね?
貴女はまだ若い。まだまだこれから先、美しく咲く蕾を持っているはずですよ」
「若くなんてありません、もうすぐ30です」
「30がいかに若かったか、40になった時に思い知る。
40がいかに若かったか、50になった時に思い知る……そういうものです」
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年代物の石油ストーブの後ろで、窓がガタガタと音をたてている。
外は、かなり風が出てきているみたいだ。
オーナーは1つ鼻で息をついてから、座った姿勢のまま真っ直ぐわたしを向き直って言った。
「人と人とは出会った瞬間から、別れのカウントダウンが始まっているものです。それが数十分後に訪れる者もいれば、1年の者いる。中には数十年後の者だっていますがね。
いずれにせよ、人と人とはいつか必ず別れなければいけません」
「でもっ……」
でもあの人との別れは、あまりにも唐突で悲しすぎる──
そう言おうとした口は、更なるオーナーの言葉によって塞がれてしまう。
「中には胸が引き裂かれるほどに辛い別れもありますが……
出会いも別れも、決して偶然ではなく、あなたの人生にとって何かしらの意味を持つものなのですよ」
「意味?
わたしの経験した別れに、どんな意味があるって言うんですか?」
「それは僕には解りません。
おそらく今のあなたにもわからないでしょう。
しかしいずれ、必ず解る時はきます。その出会いと別れがあなたに与えてくれた、あなただけの美しい“模様”にね。
そのためにもあなたには、前へ進んでいただきたい」
「わたしだって……わたしだって、忘れたいんですっ!
でもそれができないから、こんなとこにまで来たんじゃないですかっ!」
だったら何故、ここにあんなモニュメントが存在するんだ!
だったら何故、オーナーは、わたしがあそこへ行くことを許容したんだ!
あれこそが過去に追いすがるために存在するようなものじゃないか!
外で唸りをあげた風が、雪を伴いながら窓を叩きつけた。
沸々と沸いてくる激情は、わかったふうな説教を垂れる老人に対しての怒りだろうか。
それとも、オーナーの言うことが頭ではわかっているのに、どうしようもできない自分への苛立ちだろうか。
気づけばわたしは、外の吹雪にも負けないほどに声を荒げていた。
「あなたに何がわかるって言うんですかっ!
わたしにはあの人しかいないのっ!
あの人に会いたい!
あの人と一緒にいたいっ!
あの人が好きなのっ!」
これまで幾度となく叫び続けた心の声を、こんなにもはっきりと声に出したことがあっただろうか。
声帯を通して耳に届き、再び自分の中に帰って来た想いは、まるで第三者から再認識させられた惨めさみたいで、急に鼻の奥が熱くなってくる。
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溢れる涙を両手で隠した。
込み上げる嗚咽は、隠しようがない。
そしてわたしの弱さや未熟さも、もうこの人の前では隠しようがないんだろう。
しゃくりあげ、震える体を鎮めるような、温かい手が背中に置かれた。
優しく背中をさすってくれながら、オーナーは再びあの穏やかな空気でわたしを包んでいた。
「あなたの想いは、ようくわかりましたよ。
もう僕は止めませんから、あなたの好きなようにしたらいい」
ここで出た意外な反転の言葉は、わたしに対する呆れか諦めか。
でもその優しい音色に一気に心が爆発したわたしは、それこそ大声を上げて泣きじゃくってしまう。
今まで溜め込んでいた悲しみや苦しみ、葛藤──
それらを全部吐き出すように、わたしはずいぶんな時間、泣き喚き続けた。
体裁もかなぐり捨てた大きな子供の背中を、辛抱強くさすり続けたのち、
わたしが少し落ち着いたのを見計らってからオーナーは言った。
「さあ、部屋に戻って、思い出の品をお探しなさい。
まだ、ありそうですかな?」
「……わかりません。
昨日さんざん探したけど、たいしたものはなさそうでした……」
「そうですかな?
1つコツを教えましょうか」
「……コツ?」
「はい。
それはね、1つ1つの持ち物に意識を集中してね、その持ち物に宿る物語をようく思い出してみることです。
一見、その人となんの関係もなく思えるものでもね。
1つ1つ、じっくりその物を見つめて、それがあなたの元へ来た経緯、それに纏わる記憶を思い出してみてください。
そうすればね、“道が開かれますよ”」
「……わかりました……やってみます。ありがとうございます、オーナー」
我ながら、出会ったばかりの他人に醜態を晒したとは思う。
けれども思い切り泣いたら、少し気持ちが軽くなったのも事実だった。
わたしは部屋へ戻ると、昨日から開け広げたまんまのキャリーケースをじっと見下ろした。
Tシャツや充電器など、あの人との思い出が微弱に残るものは、あるにはあった。
でもこれ以上、一体何があるんだろうか?
オーナーは、一見あの人に何の関係のない物でも、それに宿る記憶を辿ってみろと言っていた。
宛もない以上、今はとりあえず素直に、それを試してみようと思う。
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