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昼過ぎから降り続いた大粒の雪が、ブロンズの彫像に厚く積もっており、
複雑に入り組んだ中央部は、支柱どうしの隙間がすっかり塞がれてしまっていた。
わたしはこのモニュメントに願でもかける思いで、届く範囲の雪を払い、銅肌を露出させていった。
その過程で、ひとつ発見したことがある。
近くから見るまで気づかなかったけど、左の支柱には菱形を主体とした模様、右の支柱には曲線を主体とした模様が彫り込んであるのだ。
それぞれの支柱の模様は中央部の激しく絡み合う部分で、互いの模様を己の肌に共有しあい、やがて離れていっても互いの刻印を宿したままにしている。
この模様はいったい何を意味するのか?
左右の支柱を男と女に例えたとして、絡み合うことで移る情愛のことかとも考えてみたけど、なんとなくしっくり来ない。
とりとめのない考えを巡らしてるうちに、いつの間にか自分のほうがすっかり雪に覆われていたみたいだ。
手袋を持ってこなかったから、手が冷たさでジンジン痛い。
息で暖め、コートのポケットに入れてから、模様の意味の解釈を諦めて後ろを向いた。
今夜も夜景が綺麗だった。
なるほど、地上の天の川と言われれば、そのほうがしっくりくるかもしれない。
夜景特有の規則的な窓明かりの配列なども見受けられず、なんだか本当に色とりどりの星屑を不規則に散らしたようだ。
あるいは本当にそうなのかもしれない。
地上に天の川なんかできないと、誰が言い切れるのか?
だってわたしは、ここであの頃のあの人に会えたんだもの。
理屈では説明できないようなことでも、ここでは何があっても不思議じゃない。
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間もなく0時になる。
コートのポケットの中で、ずっと握りしめていたメイク落としを取り出した。
昨日の玩具とは違って、この物自体には何の愛着もなく、捨てることへの躊躇もない。
でも、こんな未練の欠片もないような物で、あの人が現れてくれるのか少し不安でもある。
かといって、今さら迷ってる時間もないんだけど……
0時ジャスト。
わたしはそれを、崖に向かって思い切り投げ捨てた。
静寂の中で響き渡るのは、昨日と同じ心のざわめき。
くまなく周囲を見回し、その愛しい影を探す。
呑み込まれるような暗闇の中に、動くものは雪、雪、また雪。
あの人はどこ?
早く出て来て。
低く鳴った風の音に耳をすましたけど、あの人の声は混じっていない。
入り交じる不安と焦燥を一瞬で弾き飛ばしたのは、突然自分の頭に感じた触感だった。
優しく叩かれてるような、撫でられてるような感触に、わたしの全神経が跳ね上がった。
「あーぁ、こんなになっちゃって。白髪の婆さんみたいだぞ?」
背後でする懐かしい声が、わたしの頭についた雪を払い除けてくれている。
続いてその手がコートの肩の雪を払い始めた時、
わたしは振り向くと同時に、思い切りその人にしがみついていた。
一瞬「お?!」と声を上げ、僅かに和希が仰け反るのがわかった。
その頃のわたしからしたら、こんな大胆な行動は予想もしなかったろうから、驚くのも無理はない。
けれどもわたしは、最初から決めていたんだ。
たった24分間という短い時間、この人の存在の全てを、しっかりと体に焼き付けてやるんだって。
和希の腕が初め困惑しながら、やがてしっかりと、わたしの体を抱きつつむ。
安息と高揚に囲まれた空間は、もう無くなったと思っていたわたしの“居場所”。
ダークグレーのジャケットの襟元が、涙で滲んでゆく。
「遥香……どうしたの?」
「……会いたかった……」
「なんか嫌なことでもあった?」
「……寂しかった」
数秒の間を置き、和希の手が子供でもあやすように、わたしの頭を撫で始めた。
「大丈夫だよ、俺はここにいるから」
「……本当に?」
「うん」
「本当に?」
「本当だってば」
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覚えている。
こうやって抱きついた時に、頬に当たる鎖骨の位置。
髪をくすぐる吐息と、回された腕の質感。
そして服越しに伝わる体温は、まぎれもなくこの人が幻なんかじゃない証。
しかしその一方で、こうやって別の女を抱く和希が現実に存在していることを思った時、
わたしは抱きついた腕に渾身の力を込めていた。
「どうした?
遥香、なんかあったんだろ?」
「ううん……怖い夢を見ただけ」
「夢?どんな?」
「和希が、いなくなっちゃう夢」
「俺が?
馬鹿だなぁ、俺はどこにもいなくなったりしないよ」
「ずっと、わたしの側にいてくれる?」
「もちろん。ずっと遥香の側にいるから」
──嘘つき──
思わず漏らしかけた言葉を、無理矢理飲み下していた。
今は余計なことは何も考えたくなかった。
ただひたすら、無条件の信頼を親によせる幼子のように、この胸に甘えていたかった。
過去を思うと苦しくて、2人で歩む未来は存在しないのなら、
世界の時間よ、どうか止まって欲しい。
いつまでもいつまでも……
2人がこのままの姿で息絶え、物言わぬブロンズ像になってしまってもかまわないから。
たいして会話もなく、身じろぎもない2人の周囲を、
大粒の雪だけが、止まらない時を示した砂時計みたいに、上から下へと流れ続けていた。
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この温もりを決して離したくないと、強く握りしめていたジャケットの背中。
それがスルリと抜け落ちたのは、かじかんだ手が感覚を失ったからだと思っていた。
けれども、再び掴もうとした手はまたしても空を切り、嫌な予感を感じたわたしは、一旦顔を離した。
嫌な予感は、たいがい当たる。
和希の体が、もううっすらと透けて来ているではないか。
「いやっ!」
運命に抗うように、強く抱き締めた体には、まだ人肌の質感と温度が残っていた。
「行かないで和希っ!」
さらに強く、強く。
五感の全てに彼の生命感を刻み込むように。
無情にも過ぎ行く時間を、力づくで引き止めるように。
困惑気味の苦笑が、耳の近くでフッと鳴った。
「大丈夫、俺、どこにも行かないから」
「嘘っ、だってっ……!」
「嘘じゃないって」
「…だって!」
だってもう……和希の体温、感じられないよ……
和希の体が……わたしをすり抜けてるよ……
精度の悪いポログラフィのように、薄く透けた和希はそれでもまだわたしの目の前にいた。
どんどん霞んでいくその笑顔に、爆発した感情が、わたしの体を突き動かした。
爪先立ちになって顎を上げ、少し高い位置の唇を一直線に目がける。
目は全部まで閉じない。
すでに和希の唇の感触なんてないんだから、キスの実感を得るのは目視でしかない。
それでも確かに、和希の輪郭をかろうじて保った影は、わたしを抱き寄せ、唇を受け入れてくれていた。
長い、長いキス。
和希の姿がすっかり消え失せてからも、まだ見えない彼がそこにいてくれる気がして、わたしはその体制をなかなか崩すことができなかった。
唇に落ちた冷たいキスは、幻夢から覚ますようなひとひらの雪粒。
深く吐いた真っ白いため息が、体から抜け落ちた魂みたいに、モニュメントをかすめて消えていく。
それをぼんやりと眺めていた虚ろな目が、
不意に炎を宿した。
いやだ、消したくはない。
もう“いい子”でいる必要なんかない。
わたしは今、なりふり構わず運命に抗おうとしたじゃないか。
もう、あの頃のわたしじゃない。
胸に灯った決意を、見えない和希に向かって語りかけた。
「和希、また明日も来るからね。
ううん、明後日も、その次の日もずっと……
ずっとずっと……一緒にいようね」
わたしの燃える決意は、熱にも増して、凍るように冷たい響きをしていた。
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