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モニュメント  作者: 青犬
5/10

※5※

.



「ほう、もう一泊、宿泊をご延長なさりたいと?」



少しまごつきながら申し出た女を、オーナーは意外そうな様子もなく眺めた後、やがてやんわりと頷いてよこした。



「お客様がそう望まれるのならば、僕には拒む理由もありませんからね」



そう言って微笑みを残し、ロビーを立ち去ろうとする老人の背中を、わたしは尚もひき止める。



「植野さん、待って下さい」


「はい、なんでしょうか?」


「これはいったい、なんなのですか?」



わたしの指差した暖炉脇の写真を、オーナーはゆっくりと見定め、白い口髭を弄った。



「恋人のモニュメント……ですな」


「はい。いったい誰が、何の目的で建てたものなんでしょうか?」


「さあね。

ただのちっぽけな銅像ですよ。

どこぞのセンチな人間が、恋人との思い出にでも建てた記念碑なんでしょうなぁ」


「ちっぽけな記念碑?

そんなありふれたものじゃないことは、植野さんが一番よくご存知なんじゃないんですか?

知ってますよね?

わたしが昨夜、恋人のモニュメントに行ったこと」


「はい、知ってますよ」


「あんな……あんな不思議なこと、どうして起こるんですか?」


「不思議なことなんて、世の中にはいくらでもありますよ。

例えばこの山の動物達の生態、植物達の生育……よくよく観察してみれば、科学で解明されてないことなどたくさんある」



暖炉の炎は赤々と燃えており、熱せられた蒸気が、老人の白髪をゆらゆらと揺らした。


この人は、どこまでも惚け抜くつもり──そんな色を見て取ったわたしの口は、そこから先の出かかった言葉を呑み込んでしまう。


目の前の腑に落ちない顔をじっと覗き込んでいた植野さんは、再び目線をモニュメントの写真に戻し、さりげなく論点を反らしたのだった。



「しかし、青銅というものは、なんとも不思議な素材ですなぁ。

真新しいツルツルの肌も悪くはないが、長い年月を経るほどに、なんとも味わい深く変色していく」



.


.


青銅の話なんか、今のわたしにはどうでも良かった。

そんなことよりも、わたしはモニュメントで起きた不可思議な現象について知りたいのに……


背後で口を尖らせる女なんか意にも関せず、オーナーは穏やかに続ける。



緑青(ろくしょう)と言いましてな。

ブロンズを変色させていくのは、特有の“錆”なんですよ。

錆とは酸化してしまった金属の、言わば(しかばね)

屍を自らにまとえばまとうほど、底深い美しさを身につけていくとは……なんとも興味深い素材だとは思いませんかな?」


「……わかりません。

わたしはどちらかと言えば、ツルツルの新しいほうが好きです」


「はっはっは。

若い人はだいたいそう言いますなぁ」



はぐらかされたと憮然としつつも、なんとなく胸に留まる話。



どちらにしても、今はこの人にこれ以上の追求は無駄なんだろう。


そんなことよりわたしは、今夜もあの人に会いに行かなければいけないんだ。

そのためには、投げ捨てる思い出の物を探さなければいけない。



部屋に戻るなり、キャリーバッグをひっくり返す。

まさか2回もあの人に会うなんて想定してなかったから、予め用意していた物なんかはない。


もちろんあの人から貰った物、思い出の色濃く残る物は他にもたくさんあった。

でも彼がわたしから離れてからというもの、彼の残像を感じるものを意図的に遠ざけていたところがあった。


このハンドバッグも、わたしが昔使っていた古い物。彼から誕生日プレゼントにもらったものは、目につかないところに封印してある。


そう言えばこのTシャツのデザインを、あの人から可愛いと言われたことがある。

この充電器は、あの人と一緒にコンビニに行った時に買った。


そこはかとなく彼の記憶の残る物はあるんだけど、どれもいまひとつ弱い気もする。



あれこれと手探っていたわたしが目に止めたのは、どこにでも売っている、至ってありふれた物。

旅行用のバスポーチの中にあった、使いきりタイプの小さなメイク落としだった。


でもそんな他愛もない物が、わたしの神経をたちまちのうちに逆なでしていく。



.


.


思えばそれは、わたしがもっとも考えることを拒絶していたことかもしれない。


その思い出が甘ければ甘いほど、狂おしさは何倍にも増して跳ねかえってくるもの。


バスポーチにあるメイク落としは、あの人と行ったブティックホテルから、持ち帰ってきたアメニティ品だった。


そう。

わたしは化粧だけじゃなく、人としての装いというメイクまで全て落として、あの人に“素”を委ねてきたんだ。


なのに、あの肌が。

あの息が。

あの囁きが。

今は全て別の女のところにあると思うと……


黒くて熱い感情が、心の奥から一気に噴き出してきた。


それを抑えつけようと、自ら抱き締めた両腕に深く爪が食い込んでいく。


この心の痛みを身の痛みに転化できなら、どれほどマシだろうか。


嫌だ、考えたくない。


でも知っている。考えないように努めることは、逆にそれを意識すること。


ほら、脳裏をかすめるあの人の腕には、あの女の長い髪が絡みついて離れない。



息が苦しくなってきていた。


吐き気もしている。



衝動的に部屋の窓を開け放つと、寒風と一緒に、本降りになった大粒の雪が吹き込んできた。


こんなやり場のない苦しみは、いったい誰に救いを求めればいいのか?


今さら意地の悪い神様になんか、すがりたくもない。


あの人はもう、わたしに優しい手を差し伸べてはくれない。


わたしは独りぼっち……



いや違う。


“もう一人のあの人”は違う。


今夜もあの頃と変わらない笑顔で、わたしを温めてくれるはず。


そうだ、わたしには“あの人”がいるんだ。




早く……


早く和希に会いたい……



.

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