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研ぎ澄まされた冬の大気が、時間さえも凍結させたように感じられた。
なんの前触れもなく、当然のような顔をしてそこにいた男を、わたしは見知らぬ誰かのように凝視していた。
見慣れたダークグレーのジャケット。
色のあせかかったジーンズ。
眼鏡のフレームが今とは違う。あの形状は、確か2人が付き合い始めたばかりの頃のもの。
ずっとわたしの頭を占めていた幻が、実体となってそこに存在しているのだ。
信じられる訳がない。
自分の頭を疑うしかない。
感動?恋慕?恐怖?
入り乱れる様々な感情を打ち飛ばすのは、ただただの衝撃。
「な、なに?
俺、なんか変?」
戸惑った時に後頭部を触る癖もあの人のまま。
わたしが声も出ずに首だけ横に振ると、彼は安心したように近づき、ベンチの横に腰をおろす。
ジャケットの肘が、わたしの腕に触れた。
夢でも幻でもない物理的な実体感が、わたしをますます混乱させる一方で、妙な安心感も胸をかすめる矛盾。
懐かしくも得たいの知れない温もりを隣に、まるで初デートみたいに心臓が高鳴る自分がいた。
もちろん、それが単純な恋のトキメキとは違うものだと、重々承知はしているつもり。
でも、似ていた。
彼の体とそっと触れ合った時の、高揚と身の萎縮は、確かに過去に身に覚えのある感覚だった。
「和……希……?」
絞り出すようにして、やっと呼んだ名前は疑問形。
彼はそれを、何らかの問いかけと解し「ん?」と笑顔を向ける。
そんな瞳を直視できないまま、何とか見繕った言葉は、
「綺麗だね……夜景……」
という、当たり障りもないものだ。
「うん、大都市みたいな派手さはないけど、これはこれでいいなぁ。
夜景ってよりも、地上に出来た天の川って感じだよね」
地上に出来た天の川──案外ロマンチストな、いかにも彼らしい表現。
わたしの投げかけた疑問符は、今の彼の台詞だけで答えに満たされただろう。
間違いなく、
“この人は和希だ”
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そこからどれくらいの時間かわからないけど、しばらく2人で夜景を眺めていた。
何をどうしたらいいかわからない複雑な心境は変わらないけど、少しずつ呼吸が落ち着いてもきていた。
こんな無言が気まずくならなくなったのは、いつからだったろうか。
この頃の彼ならまだ、今懸命に話題を探している頃なんだろう。
チラリと見た横顔の眼鏡には、夜景の光が映っており、
その光がぶれると同時に、彼は思い出したようにわたしを見る。
「あ、そう言えば金門橋の通りにパスタの専門店出来たの知ってる?
吉村達が行ったらしいけど、かなり美味しいらしいよ?」
「え、そうなんだ……」
「でも吉村が言うには、値段の割に量が少ないらしいけどね」
知っている。
あなたはチーズ入りのミートソース。
わたしはほうれん草のクリームパスタを頼んだんだ。
地中海の港の絵が飾ってあったパスタ専門店は、今は別のお好み焼き屋さんに変わっている。
時は着実に、そして無情に流れている。
そんな摂理を思い出すまで、わたしは少なからず幸せを感じていた自分に気がついた。
何年か後のこの人は、わたしを捨てて他の女のところに行ってしまう──暖まりかけた心に、チクリと刺さった氷の刺。
それを悟られまいと笑ってみせたわたしは、我ながらなんて滑稽な生き物なんだろう。
とっくに壊れてしまったこの時間を、今はまだ壊したくない……
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続けて彼の声が1オクターブあがって出たのは、これもまたデジャヴを感じる話題だった。
「あ、そうそう。
そう言えばさ、吉村たち結婚するらしいよ。先週みっちゃんの両親んとこに挨拶行ったってさ」
「そうなんだ……」
「でもさ、あいつのことだからめっちゃガチガチに緊張したんだろな。目に浮かびそうで笑えてくる」
(あはは、ウケる。でも吉村くんて、子煩悩ないいパパになりそうだよね?)
当時のわたしは、こんな感じで返したはずだった。
でも今のわたしにできたのは、せいぜい「うん……」という相槌だけだ。
この話を聞いた時、あの時のわたしはもっと素直に喜び、2人を祝福できたはず。
それが今できないのは、時がわたし自身をも変えてしまったということなのか。
過去にはもっと盛り上がったはずの友達の結婚話が、呆気なく終息していくのを感じながら、わたしは思った。
もしもあの時、わたしから思いきってプロポーズしていたなら、未来は変わっていたんだろうか?
何せ付き合って間もない頃なんだから、いきなりそんな話に飛躍するのは不自然だけど……
タイミングというものは、案外ありそうでなかなかないという事を、この年になってようやく気づいた。
そうだ。
多少強引でも、多少引かれても、あんな女にこの人を取られるよりは100倍マシ。
「ねぇ、和希?」
「なに?」
この人に嫌われないようにと振る舞うよりも、もっと素直に自分の気持ちをぶつけていれば──
「あのさ……ねぇ、わたしたちも……」
今この人に自分の気持ちを伝えたならば、現実のあの人にも影響を及ぼすのだろうか。
いや、わたしは別に過去にタイムスリップしたわけじゃなくて、実際のあの人は現として同じ時間軸の中に存在している。
わたし以外の女に、この笑顔を振りまきながら、だ。
ねぇ、あなたは誰?
どうして今さらわたしに、優しく微笑んでくれるの?
あぁ……わからない。
頭の中がめちゃくちゃだ。
喉に詰まった声がなかなか出てこないわたしに、和希は軽く吹き出して言った。
「うん、俺たちも行ってみようよその店。今度の土曜日なんてどう?
俺仕事休みだし」
肩の力が一気に抜け落ちながら、わたしは小さく「うん」と返していた。
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それから他愛ない話題がいくつ続いただろうか。
大学時代のゼミの教員の話と、和希の会社の変わった後輩の話。
喋るのはもっぱら彼の方で、わたしは聞き役一方。こちらから話題を持ちかけるという事が、どうしてもできないでいる。
でも、だんだんとわたしは、今のこの彼との空気に心を埋めていたみたいだ。
今この瞬間、彼はちゃんとわたしを見つめてくれている。それが妄想ではない現実として、体温の届く範囲に存在している。
もしかしたら、彼との別れのほうがむしろ悪い夢だったんじゃないだろうか?
そんな考えがチラリと頭をよぎったりもする。
しかし、どちらが現実でどちらが非現実なのか。その答えはやがて歴然とわたしの目に映ってきていた。
彼の横顔に次第に浮かび出してきた“動く模様”が、その向こうに振る雪だと気づいた時、わたしは慌ててスマホを確認していた。
0時23分──24分間という時間が、今のわたしにはあまりにも短すぎた。
和希はなに食わぬ顔で最近見たドラマの話を続けてるけど、どんどん体が透けていき、希薄になっていく実体感に、わたしは焦っている。
終わってしまう。
何か……何かを伝えなければ。
追い立てられたわたしが放ったのは、あの頃ならば絶対聞けなかったであろう一言。
「和希っ、わたしのこと好きっ!?」
かろうじて輪郭を保った影は、頭の後ろを手で掻きながら、おそらくは記憶にある照れた笑顔で、
「うん、好きだよ」
と答えた。
最後のあの人の言葉は、深々とした静寂の中に、いつまでも余韻となって残留していた。
脱力した体に、忘れていた寒さが思い出したように浸透していく。
頭だけが熱を持って、何度も何度も今の光景を反芻している。
これで何もかもが終わったと、そう吹っ切ることができたなら、どんなにか楽なんだろう。
わたしにとってこの24分間は、やっぱりあの人が好きだという事実を、再認識しただけのものにすぎない。
終われない。
終わりたくない。
重い体で立ち上がり、虚ろな目で『恋人のモニュメント』を見上げた。
その不可思議な形状に、ブロンズの仄かな光沢がヌルリと走った。
わたしはその像に向かって、もう誰も返してはくれない言葉を、そっと投げかけたのだった。
「和希、わたしも大好きだよ。
また、明日ね」
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