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モニュメント  作者: 青犬
4/10

※4※

.


研ぎ澄まされた冬の大気が、時間さえも凍結させたように感じられた。


なんの前触れもなく、当然のような顔をしてそこにいた男を、わたしは見知らぬ誰かのように凝視していた。


見慣れたダークグレーのジャケット。

色のあせかかったジーンズ。

眼鏡のフレームが今とは違う。あの形状は、確か2人が付き合い始めたばかりの頃のもの。


ずっとわたしの頭を占めていた幻が、実体となってそこに存在しているのだ。


信じられる訳がない。

自分の頭を疑うしかない。

感動?恋慕?恐怖?

入り乱れる様々な感情を打ち飛ばすのは、ただただの衝撃。



「な、なに?

俺、なんか変?」


戸惑った時に後頭部を触る癖もあの人のまま。

わたしが声も出ずに首だけ横に振ると、彼は安心したように近づき、ベンチの横に腰をおろす。


ジャケットの肘が、わたしの腕に触れた。


夢でも幻でもない物理的な実体感が、わたしをますます混乱させる一方で、妙な安心感も胸をかすめる矛盾。


懐かしくも得たいの知れない温もりを隣に、まるで初デートみたいに心臓が高鳴る自分がいた。

もちろん、それが単純な恋のトキメキとは違うものだと、重々承知はしているつもり。


でも、似ていた。


彼の体とそっと触れ合った時の、高揚と身の萎縮は、確かに過去に身に覚えのある感覚だった。



「和……希……?」



絞り出すようにして、やっと呼んだ名前は疑問形。

彼はそれを、何らかの問いかけと解し「ん?」と笑顔を向ける。


そんな瞳を直視できないまま、何とか見繕った言葉は、

「綺麗だね……夜景……」

という、当たり障りもないものだ。



「うん、大都市みたいな派手さはないけど、これはこれでいいなぁ。

夜景ってよりも、地上に出来た天の川って感じだよね」


地上に出来た天の川──案外ロマンチストな、いかにも彼らしい表現。


わたしの投げかけた疑問符は、今の彼の台詞だけで答えに満たされただろう。



間違いなく、


“この人は和希だ”



.


.


そこからどれくらいの時間かわからないけど、しばらく2人で夜景を眺めていた。


何をどうしたらいいかわからない複雑な心境は変わらないけど、少しずつ呼吸が落ち着いてもきていた。


こんな無言が気まずくならなくなったのは、いつからだったろうか。

この頃の彼ならまだ、今懸命に話題を探している頃なんだろう。


チラリと見た横顔の眼鏡には、夜景の光が映っており、

その光がぶれると同時に、彼は思い出したようにわたしを見る。



「あ、そう言えば金門橋の通りにパスタの専門店出来たの知ってる?

吉村達が行ったらしいけど、かなり美味しいらしいよ?」


「え、そうなんだ……」


「でも吉村が言うには、値段の割に量が少ないらしいけどね」



知っている。

あなたはチーズ入りのミートソース。

わたしはほうれん草のクリームパスタを頼んだんだ。


地中海の港の絵が飾ってあったパスタ専門店は、今は別のお好み焼き屋さんに変わっている。


時は着実に、そして無情に流れている。

そんな摂理を思い出すまで、わたしは少なからず幸せを感じていた自分に気がついた。


何年か後のこの人は、わたしを捨てて他の女のところに行ってしまう──暖まりかけた心に、チクリと刺さった氷の刺。


それを悟られまいと笑ってみせたわたしは、我ながらなんて滑稽な生き物なんだろう。


とっくに壊れてしまったこの時間を、今はまだ壊したくない……


.


.


続けて彼の声が1オクターブあがって出たのは、これもまたデジャヴを感じる話題だった。



「あ、そうそう。

そう言えばさ、吉村たち結婚するらしいよ。先週みっちゃんの両親んとこに挨拶行ったってさ」


「そうなんだ……」


「でもさ、あいつのことだからめっちゃガチガチに緊張したんだろな。目に浮かびそうで笑えてくる」


(あはは、ウケる。でも吉村くんて、子煩悩ないいパパになりそうだよね?)


当時のわたしは、こんな感じで返したはずだった。

でも今のわたしにできたのは、せいぜい「うん……」という相槌だけだ。


この話を聞いた時、あの時のわたしはもっと素直に喜び、2人を祝福できたはず。


それが今できないのは、時がわたし自身をも変えてしまったということなのか。


過去にはもっと盛り上がったはずの友達の結婚話が、呆気なく終息していくのを感じながら、わたしは思った。


もしもあの時、わたしから思いきってプロポーズしていたなら、未来は変わっていたんだろうか?


何せ付き合って間もない頃なんだから、いきなりそんな話に飛躍するのは不自然だけど……

タイミングというものは、案外ありそうでなかなかないという事を、この年になってようやく気づいた。


そうだ。

多少強引でも、多少引かれても、あんな女にこの人を取られるよりは100倍マシ。



「ねぇ、和希?」


「なに?」



この人に嫌われないようにと振る舞うよりも、もっと素直に自分の気持ちをぶつけていれば──



「あのさ……ねぇ、わたしたちも……」



今この人に自分の気持ちを伝えたならば、現実のあの人にも影響を及ぼすのだろうか。


いや、わたしは別に過去にタイムスリップしたわけじゃなくて、実際のあの人は現として同じ時間軸の中に存在している。


わたし以外の女に、この笑顔を振りまきながら、だ。



ねぇ、あなたは誰?


どうして今さらわたしに、優しく微笑んでくれるの?


あぁ……わからない。

頭の中がめちゃくちゃだ。


喉に詰まった声がなかなか出てこないわたしに、和希は軽く吹き出して言った。



「うん、俺たちも行ってみようよその店。今度の土曜日なんてどう?

俺仕事休みだし」



肩の力が一気に抜け落ちながら、わたしは小さく「うん」と返していた。



.


.


それから他愛ない話題がいくつ続いただろうか。

大学時代のゼミの教員の話と、和希の会社の変わった後輩の話。


喋るのはもっぱら彼の方で、わたしは聞き役一方。こちらから話題を持ちかけるという事が、どうしてもできないでいる。


でも、だんだんとわたしは、今のこの彼との空気に心を埋めていたみたいだ。


今この瞬間、彼はちゃんとわたしを見つめてくれている。それが妄想ではない現実として、体温の届く範囲に存在している。


もしかしたら、彼との別れのほうがむしろ悪い夢だったんじゃないだろうか?

そんな考えがチラリと頭をよぎったりもする。


しかし、どちらが現実でどちらが非現実なのか。その答えはやがて歴然とわたしの目に映ってきていた。


彼の横顔に次第に浮かび出してきた“動く模様”が、その向こうに振る雪だと気づいた時、わたしは慌ててスマホを確認していた。


0時23分──24分間という時間が、今のわたしにはあまりにも短すぎた。


和希はなに食わぬ顔で最近見たドラマの話を続けてるけど、どんどん体が透けていき、希薄になっていく実体感に、わたしは焦っている。


終わってしまう。

何か……何かを伝えなければ。


追い立てられたわたしが放ったのは、あの頃ならば絶対聞けなかったであろう一言。



「和希っ、わたしのこと好きっ!?」



かろうじて輪郭を保った影は、頭の後ろを手で掻きながら、おそらくは記憶にある照れた笑顔で、


「うん、好きだよ」


と答えた。





最後のあの人の言葉は、深々とした静寂の中に、いつまでも余韻となって残留していた。


脱力した体に、忘れていた寒さが思い出したように浸透していく。


頭だけが熱を持って、何度も何度も今の光景を反芻している。


これで何もかもが終わったと、そう吹っ切ることができたなら、どんなにか楽なんだろう。


わたしにとってこの24分間は、やっぱりあの人が好きだという事実を、再認識しただけのものにすぎない。



終われない。


終わりたくない。




重い体で立ち上がり、虚ろな目で『恋人のモニュメント』を見上げた。


その不可思議な形状に、ブロンズの仄かな光沢がヌルリと走った。



わたしはその像に向かって、もう誰も返してはくれない言葉を、そっと投げかけたのだった。




「和希、わたしも大好きだよ。

また、明日ね」




.

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