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必要最低限の物しかない簡素な部屋は、なんとなくキャンプ場のコテージや登山に使う山小屋を連想させられた。
けれどもそれは造りとしての印象だけであり、器物1つ1つのシックなセンスや清潔感のあるカーペットは、女性客が泊まるにも申し分ない。
テレビなどはなく、携帯の電波も圏外とあれば、否応なく自分を見つめ続けるしかない個室。
そんな環境があの人の面影を湧きあがらせ、胸の苦しさを再沸させていた。
『ごめん。
遥香の幸せをずっと願ってます。』
もう二度と開きたくなかったLINEには、何度見返しても変わらない、あの人からの最後のメッセージが残っている。
随分昔に届いた言葉のように思えてたけど、まだ3週間しか経っていないのには少し驚いた。
それほどその後の1日1日が、長かったということなんだろう。
少しやりとりを遡ると、まだ平穏を装っていた頃のあの人の言葉。
さらに過去までスクロールさせようとした指が突然止まり、次の瞬間、わたしはスマホをベッドに投げつけていた。
何が“幸せを願ってます”だ。
嘘つき。
裏切り者。
わたしはあんたの幸せなんか願わない。
あんな女とはさっさとダメになり、わたしみたいに泣き喚けばいい。
あの人に浴びせた罵倒が、そのまま自分に返ってくる無様さの中で、わたしは今スマホを取り出した本来の目的をすっかり忘れていたことに気づいた。
わたしは時間を確認しようとしていたんだった……
熱を持って回らない頭のまま、再び手に取ったスマホには、23時12分の時計表示。
見取り図を見る限りペンションから歩いても5分程度に思えたけど、このままここでじっとしているのも耐えられない。
わたしはのそりと立ち上がり、投げ捨ててあったコートを無造作に羽織った。
別にあの人になんか会いたくもない──いや、そもそもそんな非現実なことなんかあるはずがない──仮にあの人に会えたとしても、多分どうしたらいいかわからない──いい年した大人が、いったい何をしようとしているんだ──
ぐるぐると回り続ける自問自答が、いつまでも結論にたどり着けないまま、わたしの体はいつの間にか部屋を出ていた。
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玄関の鍵が開いていたのは、オーナーのさりげない計らいだろう。
懐中電灯で照らした範囲に、まだ多少ちらついた雪が映っている。
そんなに風はないものの、やはり丘上の寒気はひときわに厳しかった。
手にした見取り図を照らして見れば、モニュメントはペンションの向かって右奥。
ここよりも少し小高くなっている場所に道が確認できたから、多分あの上なんだろう。
積雪を一歩一歩と踏み締める音に、自分の心音が被っていた。
強張った体は寒さのためか緊張のためか、どちらとも判別がつかない。
やがて昇り傾斜の細い道を進み、大きく右にカーブした道を曲がると、雪の葉を重そうにたたえた木々の向こうに小さな光が見えてきた。
それが『恋人のモニュメント』であることはすぐにわかった。
こんな誰も訪れないような所の、しかも深夜にもかかわらず、ご丁寧にもフットライトでライトアップされてるらしい。
懐中電灯の光の円の中で佇む像は、存在感を放つというよりも、景色の中にひっそりと溶け込んでいるように見え、
その周囲を飛び舞う雪が、意思を持って像に群がる光虫のよう。
そんな虫の中の1匹みたいに、フラフラと吸い寄せられて行ったわたしの目は、意想外にもモニュメント以外の所に釘付けとなる。
像の対局にある、崖の下だ。
おそらくここへ思い出の品を投げ捨てるんだろうけど……
赤……青……黄色……ピンク……
なんと眼下には、息を呑むほど美しい、街の夜景が広がっているじゃないか。
それはまるで宝石の欠片を敷き詰めたような、幻想的な星の海。
1つ1つの光の瞬きが、研ぎ澄まされた大気の中で、小さくも鮮烈な輝きを放っている。
“綺麗”──心の底から素直にそう思えたのはなんだか随分久しぶりで、わたしはしばらく寒さも忘れて夜景に見入っていた。
でも、こんな何もない田舎町に、深夜でも眠らない街なんかがあっただろうか?
そういえばこんな夜景を、あの人と見たことがあったっけ……
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やがて思い出したように振り返った『恋人のモニュメント』は、写真で見たとおりの造形をしていた。
いったいこれの何が“恋人”なのかは知らないけど、見れば見るほど不思議な形だ。
石の台座に乗っているから見上げなければいけないけど、思ったほど大きなものでもない。
素材はやはりブロンズ製で、風雪にさらされた年月が青錆となって深い味わいを醸し出していた。
とうとう来てしまった、という実感。
自分に対する呆れた嘲笑と、張りつめた緊張感が半々くらいだろうか。
スマホを見ると、時刻は23時36分。
モニュメントの脇に丁度人2人くらいが座れそうなベンチがあったので、雪を払って腰をおろす。
お尻が冷たくて落ち着けないまま、わたしがコートのポケットから取り出したのは“投げ捨てる思い出の品”だった。
まだ付き合う前、わたしがあの人から初めてもらった物で、実に取るにも足らないちっぽけなオモチャ。
けれども、わたしにとって、あの人との思い出の原点とも言うべきもの。
子供向け番組に出てた犬型のキャラのプラスチック人形で、
大学のサークル仲間だったメンツと久しぶりに飲みに行った帰り、あの人が回したガチャガチャの景品だった。
(これ、カワイイのかぁ?
じゃあ根元にあげるよ、ほら)
ポンと手渡された時、あの人の指がわたしの手に触れた感触。
あの時のあの人の表情も、声も、雨上がりの空気の匂いだって、今でも鮮明に覚えている。
以後このちっぽけなオモチャは、あの人と付き合うまでの間、あの人の身代りとしてわたしの気持ちを慰めてくれたっけ。
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手の中で愛おしむようにもてあそびながら、犬型の人形のおどけた顔をじっと見つめていた。
(こんなもんまだ持ってたの?)
とかあの人に言われたこともあったけど、わたしにとっては“こんなもん”が宝物だった。
でも……今日でお別れ。
「さよなら……」
そっと呟いた言葉の意味も知らずに、人形は変わらずのおどけ顔。
あと3分で0時。
あと2分。
あと1分のところで、人形についた雪粒を払い、もう一度その顔を目に焼き付ける。
これを捨てることは、あの人との大切な過去を捨てるということになるだろう。
でも、それによって過去のあの人と再開できるなんて、なんて皮肉な伝説なのか。
いや、そんな非科学的なことがあるはずがない。わたしはただ、捨てるだけ。
あの人の温もりも、浮かれていたあの頃の自分も。
そう、これはお別れの儀式。
再会の儀式なんかじゃないんだ。
サヨウナラ……
サヨナラ、和希っ!
わたしはそれを、崖下に思いきり投げ捨てた。
闇に消え行く中空で、一瞬だけ人形の大きな瞳がライトの光を照り返した。
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あれほど大切にしていた人形を呆気なく呑み込んだ闇は、落下音を返す気配すらもなかった。
底知れない暗黒の遥か向こうで、夜景の光達もまた、無言で輝き続けていた。
世界の時間が再び動き出したみたいに、わたしは止めていた息を大きく吐く。
単に人形を失っただけではない喪失感が、束の間忘れていた寒気と一緒にジワジワ体に染みてくる。
懐中電灯の光円の中には、どこを向けても舞い散る雪。
そして『恋人のモニュメント』が、惚けたような沈黙でわたしを見下ろしている。
もちろん、あの人の姿なんてどこにもなかった。
最初から、来るはずなんてなかった。
そんなのとっくにわかってたのに……何をわたしは今さら……
“終わった”という脱力感が、地球の重力を何倍にも増して、わたしの腰をベンチに崩した。
立ち上がる気力も、もうない。
そのまま茫然と座り込むわたしが、無意識のうちに浮かべていた笑み。
久しぶりに笑えた顔は、冷たく自分を嘲る笑みだ。
これでわたしは、何かに区切りをつけられたんだろうか?
そんな実感もどこにもなく、空虚さだけが心を支配している。
夜景の色とりどりの光が、焦点を失った視界で雑多に混じりあっている。
かつてここを訪れた後、自ら命を絶ってしまった女の子は、たぶん今のわたしと限りなく近い心境だったろう。
なんだかもう、何もかもがどうでもいい。
このままここで雪に埋もれて、消えてしまえばいい。
“遥香”──誰かがわたしを呼ぶ声は、あの世からのお誘いのよう。
“遥香”──ほら、呼んでいる。
きっと崖の闇の中から、わたしを手招きしている。
「おい遥香ってば!
遅れてごめん。道路渋滞しててさぁ」
「えっ!?」
弾かれたように振り向いたわたしに、
あの人は驚いて眼を丸くしていた。
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