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丘の上のペンションは、二階建てとは言え、思ってたよりもこじんまりとした印象を受けた。
ベージュ色の木の壁と、鋭角的な屋根。屋根は雪に覆われてるものの、所々で橙色とわかる。
柵で囲われた庭には、家庭菜園程度の畑と花壇らしきものが、積雪の隆起でなんとなく認識できた。
玄関に続く道だけは丁寧に雪かきされており、不揃いな形の敷石が石畳として続いている。
ざっと周りを見回してみたけど、この付近にあるという『恋人のモニュメント』は、どこにも見当たらない。
けれどもここは、丘の上だけに見張らしも良く、もっと温かい季節に訪れたなら、さぞや気持ちのいい場所なんだろう。
そんな想像をした時でさえ心に痛みが走るなんて、わたしはもう、嬉しさや楽しさなんて感情も許されない人間なのだろうか?
この場所の春を楽しむわたしの空想の隣には、当たり前の顔して微笑む、あの人の姿があるのだから。
マフラーに顔を埋め、コートに片手を突っ込んだ悲壮感丸出しの女が、キャリーケースをガタガタ言わせて石畳を行く。
ぶち当たった焦げ茶色の扉はアンティークな彫刻が施されており、その横に何かの花を象った呼び鈴らしきものがついている。
ここまで来て今さら引き返すわけにもいかないから、半ば義務感のようにそのボタンを押していた。
綺麗にまとめたヘアースタイルなんか、わたしには不要だとばかりに、雪を纏った冷たい風が髪を乱れさせていた。
やがて、白髪の山姥みたいな頭になっても、なお開かない扉に対し、わたしの手は自然とドアノブをまわしていた。
鍵は開いていた。
おそるおそる覗いて見ると、中には屋根と同じ色のカーペットが敷かれたロビー。
丸い木のテーブルが1つと、椅子が何脚か。左奥には二階へと続く階段がある。
そして、なんといってもこの空間を心地よく印象づけていたのは、正面奥に設置された暖炉だろう。
赤々と燃える炎に吸い寄せらるように、わたしはロビーに上がり込んでいた。
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暖炉の炎は、わたしがこの町に来て初めて遭遇した熱のある躍動で、何故か生命感という言葉が頭に浮かんできていた。
ずっとその火を見つめていると、凍えたわたしの体と同時に、凍えた心さえも溶かしてくれるような気がしてくる。
肩で張っていた力がゆっくりほぐれていくにつれ、わたしの目はようやく、暖炉の隣に飾ってある数々の写真に気がついた。
多分ここのオーナーが撮ったんだろう。
この辺りの美しい自然や、動植物たち。
どうやらこの場所の自然は、さっきの空想を上塗りするほど美しいらしい。
すっかり見とれていたわたしの視線が不意に止まったのは、1枚の人工物の写真だ。
おそらくはブロンズ製。
2本の支柱が、だんだんと互いに寄り添い、複雑に絡み合い、やがて天を向いて離れていくような形の彫像。
間違いない。
これはわたしがネットの画像で見たのと同じもの。
これこそが──
「恋人のモニュメント……ですよ」
突然後ろから聞こえた声に、緩んでいた背筋が一瞬で跳ね起きる。
咄嗟に振り向くと、そこに立っていたのは白髪に白い口髭をはやした老人。
痩せぎみの体に、白いシャツと茶色のベストを着こなしており、どことなく滲み出る品の良さがある。
そしてなりより、わたしの緊張を再び溶かしたのは、老人の満面にたたえられた柔和な笑顔だった。
「ご予約頂いていた、根元遥香さんですね?
お待ちしておりましたよ。
僕はここのオーナーをしております、植野と申します」
「あ、ね、根元です。
どうもお世話になります」
植野さんは細めた目でうんうんと数度頷いてから、やがて気づいたように丸いテーブルへとわたしを促した。
「お客さんはあなたお一人だけですよ。
なんの気兼ねもなく、好きなようにお過ごし下さいね」
老人とは言え、曲がりなりにも男女が同じ屋根の下に二人きりらしい。
けれども何故か嫌な感じはなく、田舎のおじいちゃんみたいにすんなり受け入れられてしまう。
なんだか子供の頃に読んだ童話の中に身を投じているような感覚は、眉唾物のメルヘンなんかにすがりに来たためか。
それとも単に、疲れた心がもたらした現実逃避なんだろうか?
「今、宿張を持ってきますから、掛けてお待ちくださいね。
あ、ハーブティーはお好きですかな?」
わたしが黙って頷くのを見届けると、植野さんはニッコリと微笑んで奥の扉へと入っていった。
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テーブルにつき、再び誰もいなくなったロビーを見回してると、改めてここの不思議な安息を噛み締めてしまう。
内装も、ちょっとしたインテリアも、派手さはないけど、落ち着いた温かみがあり、あの老人の人柄をそのまま反映させた空間のようにも思う。
運転手さんが言っていたように、確かにここは気持ちを整理するには最適かもしれない。
そうなると、ますますモニュメントの伝説が安っぽい子供騙しに思えてくるけど……
「お待たせしました。
この書類にご記入願いますかな?」
オーナーの声に我に返った時、わたしの口は半開きの状態で、初めて欠伸をしていたことに気づいた。
そういえば最近、まともに眠った記憶がない。お酒の力を借りて無理矢理眠りについても、すぐに目が覚め、再び眠れない葛藤に襲われてしまうんだ。
「どうぞ、庭で栽培してるハーブのお茶です。まぁ、栽培と言っても、勝手に生え呆けてるだけですけどね」
そっと口に運んだ、土色のマグカップ。
鼻から抜けたハーブの香りが、そのまま涙腺まで抱きつつんでいくよう。
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それからわたしは、オーナーから受け取ったB5サイズの書類に、自分の名前を書いた。
もう、あの人の苗字には変われないであろう見慣れた字面が、取り残されたようにポツンと空欄に落ちた。
電話番号まで書き終えるのを見計らってから、植野さんはペンションの見取り図をわたしに手渡し、施設の説明に移っていく。
「部屋は二階の階段を上がって、一番奥になります。
食事は食堂で召し上がって頂きますが……まぁ、準備出来たらお呼びしますよ。
お風呂は夕方6時から10時までにお入りください。豪華天然温泉……とはいきませんけどね。
それから……」
そこまで言った後、オーナーが一瞬真顔に返ったように見えた。
「それから……山の気候は変わりやすく、足場も悪いです。夜の外出は危険ですので、くれぐれもお控えくださいね」
マグカップを持ちかけた手が、思わず途中で止まってしまう。
さっきの運転手でさえ、わたしがここに来た目的を察していたのだから、オーナーである彼が知らないはずはない。
植野さんはそれを見越した上で、敢えてわたしの行動に釘を刺してきたのだ。
つまり、ここを訪れた傷心者たちは、深夜0時のモニュメントの奇跡を試す間もなく、ただ自分を見つめて帰宅していたということか……
現実は、極めて現実的だった。
でも今は、それでもいいように思う。
苦悶をもたらすに違いないファンタジーなんかよりも、わたしはただ、この穏やかな空間に身を委ねていればいいのかもしれない。
窓の外の重い雲は、夕焼け色を映すこともなく、ただしっとりとわたしを夜の中に閉じ込めようとしていた。
もうたいして熱くもないハーブティーを溜め息で冷まし、何かに見切りをつけるように飲み干した時。
オーナーの声が、小さく「ただし」と付け加えられた。
「ただし……
何らかの事情でどうしても夜に外出しなければいけない時は、これをお持ちくださいね」
「え……?」
見取り図の横にゴトリと置かれたのは、よく光りそうな大きな懐中電灯だった。
そして今まで気づかなかったけど、懐中電灯の照光レンズは、見取り図の野外に記された『恋人のモニュメント』の位置に向いている。
驚いて顔を上げたわたしの前には、再び柔らかい笑顔をたたえた、白髪の老人の姿があった。
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