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やっと降り立った見知らぬ田舎町には、初め、音というものが存在しないように思えた。
いや、よくよく聴けば、さっきまで乗ってきた電車が遠ざかる音。
車のエンジン音。
3人の女子高生たちが、バスを待ちながら話し込む声。
そんな音たちが確かに存在するのに、すべてがくぐもって聞こえるのは、一面を覆った雪が空気の振動を吸収するからだろうか。
それとも、今のわたし自身の心が、厚ぼったい雪に覆われているからだろうか。
それならば着信音を聞き逃した可能性もあるとでも思ったのか、
わたしが無意識に取り出していたのは、やっぱりスマホだった。
長年使ってた待ち受け写真を外してからもうだいぶ経つのに、未だにこの無味乾燥な画面には違和感を感じることがある。
そして、外した写真と深く関わる人物からは、当然のように何の音信も入っていない。
さんざんわかりきっていたはずのことなのに、わたしの奥では、まだ彼に何かを期待しているものがあるんだろう。
そんな実感が、悲しくて、悔しかった。
やたらと白いため息が、宙を迷いながら雪景色の中へと同化していく。
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ロータリーに停まっていた2台ばかりのタクシー、そのひとつにわたしは向かった。
自動で開いた後部のドアに、コートの雪を払いながら乗り込むと、
浅黒い顔の運転手が、白髪混じりの頭を少しだけ振り向かせてきた。
「お客さん、どこまで行きましょうか?」
わたしが用意していたメモを渡すと、彼は「あぁ…」と一言呟き、そのままサイドブレーキを解除する。
道路の雪轍を踏み潰しながら、タクシーはゆっくりと発進していった。
僅かばかりの煤色のビルや、うらぶれた商店街、遊具の錆び付いた児童公園などが、重い白で抑圧されながら車窓を通りすぎていく。
駅前という体裁を辛うじて保った町並みの先には、農地ばかりのますます閑散とした景色が広がっていた。
そこは草木の緑色も空の青色もなく、本当に“無”を思わせる白だけの世界。
先程感じた音の欠乏がいよいよこの身に染み入ろうとしていた時、
短い低音域の“音”が、ふとわたしの耳に触れてきた。
「お客さん、あんたぁまだ若いし綺麗だ。出会いなんて、まだまだあるよ」
抑揚のない静かな声なのに、その内容に思わずわたしの目が開いてしまった。
「お客さん、恋人のモニュメントに行くんだろ?」
図星を突かれて息を呑み込んだわたしと、運転手の細い目がバックミラー越しに合う。
彼の目は笑いもせずに、言葉を続ける。
「そりゃあ、あのペンションは冬場に行ったところで何もない。スキー場にも遠いしね。
ましてや若い女性の一人旅となれば、それ以外の目的なんて思い付きませんね」
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『恋人のモニュメント』──ネット上で囁かれる噂は、いかにも子供騙しじみた都市伝説だった。
“その像のある崖から、深夜0時に心の離れてしまった恋人との思い出の品を投げ捨てると、24分間だけ、愛し合っていた頃の恋人がそこに現れる”
平常のわたしならば、即座に鼻で笑うようなガセメルヘンだろう。
それなのに、掲示板に書き込んであった幾つかの体験談に信憑性を感じてしまったのは、ひとえにわたしの心がすっかり病んでしまっていたから。
そんな自己分析の果てにも、とうとうこんな所まで足を運んでしまったのは、ただ辛かったからだ。
苦しくて、夜が来るのが怖くて、自分ではもう、どうしたらいいかわからなくなっていたから。
間もなく三十路に突入するといういい大人が、そんな絵空事にすがろうとしている姿は、さぞや惨めで、情けないものだろう。
けれどもバックミラーには、呆れも嘲りもしない運転手の眼差し。
「前にさ、あそこに行った後で自殺しちゃった子がいましてね。
おせっかいとは思うけど……いや、お客さんは大丈夫と思うけど」
この人は、わたし以外にも何人かの人を恋人のモニュメントまで運んでいる──そうわかったら身を乗り出さずにはいられないものもある。
聞くも愚かな質問でさえ、この人なら受け止めてくれそうにも思えた。
「あの、運転手さん……
その人達は本当に、愛し合っていた頃の恋人に会えたのでしょうか?」
「さぁね、そんなファンタジーな話、俺は信じられませんがね。
でもあそこは静かでいい所です。自分の気持ちを整理するにはうってつけ。
その過程で心に傷を負った人々は、かつての頃の恋人と向き合うんじゃないでしょうかね。
まぁ、これは俺の解釈ですけどね」
運転手の考察は、当然と言えるほど常識的でまともだった。
なんだかますます自分の馬鹿さ加減を痛感してしまい、胸が締め付けられる。
だいたいわたしは、あの頃のあの人に会って何がしたいんだろう?
未練がましい女が楽しかった頃の思い出にもう一度浸ったところで、
夢が覚めたら、いっそうの地獄が待っているはず。
運転手の言う“自殺しちゃった女の子”の心境も、痛いほどにわかる気がする。
わたしは、自分の気持ちさえ、何もかもがわからない馬鹿だ。
こんな馬鹿だから、あの人はわたしを離れ、別の女のところに行ってしまったんだ……
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窓の景色は、気づけば山あいのものへと変わっていた。
いつの間にか雪が降りだしていたことで、相変わらず白一色の無の世界にも、静かな動きが加わっていた。
降りしきる雪のスクリーンの中に、考えたくなくてもあの人の顔が、声が、ちらついている。
その笑顔が、優しい台詞が、雪のような冷たい痛みを伴って、胸に突き刺さっていく。
無理にでも、あの人の辛い表情を思い出してみた。
わたしと離れたあの人は、今あんな顔して苦しんでいる──
今のわたしと同じように、思い出に浸って泣いている──
そんな都合のいい妄想は、すぐに別の女の顔に掻き消されてしまった。
あの人とあの女と、幸せそうに腕を組んだその背中が、振り返る素振りもなくわたしから遠ざかっていく。
視界が滲み、空も大地も地形もない、ただ濁った白色の中に、
いっそのことわたしの存在自体も、埋もれて消えてしまったらいいのに──
「ほらお客さん……ティッシュ使って下さいよ」
後部シートにポンと箱ティッシュが置かれた。
数枚を引き抜く擦れた音に、運転手の低い声が重なる。
「俺だってね、こう見えても忘れられない別れの1つぐらいあるんですよ。
身悶えて、酒に溺れて、自分の全てを否定したくなった。
でもね、もし叶うならば、もう一度だけ彼女とゆっくり話してみたい……そう思うことは今でもたまにあるんですよ」
「運転手……さん……」
「もし本当に会えるのなら、会ってみたらいい。もしかしたらそれは、過去にすがるんじゃなくて、今のあなたに必要なことかもしれないから。
ほら、あなたの泊まるペンションが見えてきましたよ。
あなたが昔の恋人に会えるのを、お祈りしてますから」
「こんなファンタジー、信じてないくせに……」
「はい。でも、あなたの未来は信じてますよ」
バックミラー越しの彼の目が、その時初めて笑ったように見えた。
タクシーが向かう丘の上。
寒々しい白ばかりの世界の中に、ポツンと1つ。
温暖色の家があった。
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