不破フリオのきまりごと
ずるせずに きまりを守って あかるい社会
——千葉県某市の小学校標語コンクール入賞作品より
朝だ。
太陽が顔を出し、その辺のもの全てを照らす。見たくないものだって隠しておきたいものだって構わず照らす。
いつもきまって顔を出すのは太陽だ。たまには宍戸開が顔を出したっていいようなものだが、それは、まずない。
朝は太陽。それが、きまりだ。
曇や雨の日はどうなんだって、にやつき顔のおっさんがちょっかいをかけてきたって? やつは雲の向こうなんて想像したこともないんだから放っておきたまえ。
6時30分にセットしておいた目覚ましが、すやすやと眠る不破フリオを乱暴に叩き起こす。いつだって目覚ましはお構いなしだ。例え不破フリオが不眠に苦しんだ挙句、6時29分にやっとこさっとこ眠りの海へとボートを漕ぎ出したという時だって、6時30分にセットした目覚ましは6時30分になった途端、悪酔いしたサナダムシのように不破フリオの耳に執拗にからみついてくることになっている。それが、きまりだ。
6時30分にセットした不破フリオが悪い。
「今日のヒーローはこの人、無事に目が覚めました、不破フリオさんです!
おはようございます、不破フリオさん。目覚めの方はいかがですか?」
「そうっすね、決していいとは言えないですね。まあ、いつも通りです」
「実は昨夜は、遅くまでビデオゲームで遊んでいたとか。一体、どんなソフトで遊んでいたんでしょうか?」
「そうっすね、ウィッチャー3です。ポーランドかどっかのなんたらって会社が作ったRPGで、発売当初はもうこういうオープンワールド系は大概飽きたぜって感じだったんですけど、最近になってめっちゃハマりまして。こりゃ評価高いはずだわ、と。とにかく作りが丁寧なんです」
「なるほど。これから、仕事に出るわけですが、意気込みの方をお聞かせ下さい」
「そうっすね、仕事ももちろんそうなんですけど、まずは目の前の朝食と歯磨きに集中していきたいですね」
「では、最後に一言お願いします」
「今日もだるいけど頑張ります!」
「不破フリオさんでしたー!」
戸惑う人もいるかもしれないので一応言っておくが、以上の台詞は全て一人の人間、つまり不破フリオのものである。
決して気が違っているわけではない。不破フリオはそれなりに正常な精神と、ぎりぎり健康な肉体と、非難されない程度の道徳観を持ち合わせている男だ。なにも好き好んでこんな馬鹿らしいことをやりはしない。
毎朝、自分で自分にヒーローインタビューをする。これは、きまりなのだ。
不破フリオが朝食に何を食べたのか、どれぐらい歯ブラシを握りしめていたのか、腸の通りはどうだったのか、細かく説明してもいいのだが言う方も聞く方も面倒だと思うのでやめておく。だいたいきみと同じようなもんだと思ってくれていい。
おっと、そう言えば季節を知らせるのを忘れていた。今は春だ。
さて、不破フリオは毎朝電車に乗る。電車に乗るために駅まで歩いて行くのだが、その際にニワトリの真似をしながら行かなければならない。そういう、きまりだ。
「ケーッ、ケーッコッココッコッコッコッコ、ケーッ、ケーッ、クックドゥールドゥー」
これは流石にわかるだろうが、一応言っておく。不破フリオの台詞である。とは言っても、台詞自体に意味はないので、各々が思うニワトリの真似を当てはめてもらって構わない。私なんかはすこしばかり英語が堪能なところを見せつけてしまった。嫌味だったろうか。
さておき、不破フリオのニワトリの真似は、声だけではない。動きも真似なければならない。まあ、これもいちいち両手を羽に見立てて……などと細かく言うほどのことではないので、各自思い思いのニワトリの真似をしている人を頭に浮かべてくれればいいし、浮かばないのであればそれはそれでいい。
不破フリオは自宅から駅まで900メートルほどの道のりをただひたすらニワトリの真似をしながら進んで行く。当然、人目を惹くが、毎朝のことであるし殆どの人はきまりだと知っているので、今日も大変だななどと思う程度のことだ。
しかし、ここは東京なのだ。言ってなかったが、東京である。東京と言っても、視力のいい人か、首の長い人ならすぐそばに埼玉県が広がっているのが見えてしまうようなところだが、住所が東京都である以上は東京以外のなにものでもない。これもまた、きまりだ。
場所は東京で、季節は春。つまり、新参者が大勢やってくると言うことだ。
この春から、憧れの東京の大学に通う一人のかっぺ野郎が、今日初めて駅までの道を行く不破フリオを見た。かっぺの驚くの驚かないのと言ったら。
目をまんまるくして、口をあんぐり開けて、東京のものだったらカラスだろうが公衆便所だろうがなんだって、携帯電話にくっついたカメラでパシャパシャやってたのに、それすら忘れていたのだから相当だ。
きょろきょろとあたりを見回しても他の人達は何食わぬ顔で歩いているし、おらの頭がおがしくなっちまっだんでねが、と思ったかっぺは近くにいたサラリーマン風の男に、目の前の不思議な光景について尋ねてみた。ちなみにいつもなら訛りを気にして、このような大胆な行動をとることはできないのだが、今回ばかりはそうも言ってられなかったのだ。
「あのぅ……すんませぇん。あ、あのひどってぇ、なにすてるんすかぁ……?」
「ああ、彼ね。きまりなんだよ。初めて見た時はそりゃぼくも驚いたけど、まあ、きまりだからね」
なるほど、きまりか。かっぺは合点がいった。そして、自分の大胆な行動に気付いた。
おらは今、見ず知らずの東京の人間に、ごくごく自然に話し掛けることができた……? おらは……おらは……いや、おれは……この、おれは……東京モンだっ……!
その瞬間、訛りは消え失せ、故郷への想いも雲散霧消し、根拠のない自己評価の高まりを全身に感じながら、かっぺは死んだ。と同時に一人の東京人が誕生した。そう遠くない未来、埼玉県にほど近いことに気づき絶望した彼はこの街を去って行くに違いない。笹塚あたりに住むのではないだろうか。
そうこうしているうちに、不破フリオは駅に辿り着いた。毎度のことではあるが、ニワトリの真似をしながらの900メートルはなかなかにこたえる。不破フリオはすっかり汗びっしょりになり、ふうふう言いながら駅の階段を上がって行った。
改札を通って、電光掲示板を見た不破フリオはがっくりと肩を落とし、膝に手をついた。電車が止まっている。どうやら人身事故があったようだ。なにもそこまで落胆することはないじゃないかと思う向きもあるだろうが、これには理由があった。
不破フリオは深いため息をついた後、意を決したように2番ホームへ下りて行き、いつもの何倍も多く感じる人混みをかき分けて、ホームの真ん中あたりに立って、あらん限りの声で歌い出した。
一体どんな歌を歌っていたのかと聞かれても、歌詞と言うものは著作権やらなにやら色々とあるので詳しく紹介することはできないが、かいつまんで言うと、恋人と別れて辛い、と言う内容であった。そいつを引っ張ったりねじくったり引っくり返したり細かい細工を施したりして、誰でも聞いたことのあるような親しみやすく切なくも耳に優しい、そんな歌詞に仕立てあげるプロフェッショナルの仕事は実に見事であったが、不破フリオの歌はたいへんまずかった。
不破フリオとて自身の歌の実力くらいは承知しているので、歌いたくて歌っているわけではない。カラオケボックスでだってなるべく歌わないでいたい不破フリオだ。それでも不破フリオが歌っているのは、朝の電車が止まっている時は、切ないバラードを歌わなければならないと言うきまりがあるからだ。
数多くあるきまりの中でもこれは不破フリオにとって相当辛いきまりである。救いは毎日欠かさず実行しなくてもいいことだったが、やはり春だからか。不破フリオが歌うのはこれで三日連続だった。不破フリオは泣きたい気持ちで声を張り上げ歌っていた。
辛いのは不破フリオだけではない。通勤ラッシュの最中に電車が止まり立ち往生しているうえ、風呂場の排水溝に溜まったもじゃもじゃした毛の固まりのような歌を聞かされる人たちだって十分に辛かったが、きまりだとわかっているので皆必死に耐えているのだ。
時おり、きまりだと知らない人が不破フリオに向かってその不快な歌を今すぐやめるよう叫んだりしたが、周りの人がそっと耳打ちしてあげた。あれは、きまりなんですよ、と。それで大抵の人は大人しくなった。ならなかった人もいるにはいるが、そういう困った人はじりじりとホームの端へと追いやられ、やがてホームから落ちて消えていった。
きまりを守れない人間に存在価値はない。
やっとのことで電車の運転が再開した。もう歌わなくてよくなった不破フリオはほっと胸をなでおろしたものの、すぐに気持ちを切り替え深呼吸を繰り返した。電車に乗った時のために、今のうちに体内に酸素を多く取り込んでおこうという寸法だ。
やがて電車がやってきて、もの憂げなため息とともに一斉にドアを開け放った。その前が乗降客でぐちゃぐちゃのめちゃめちゃになる。今ならまだ会社に間に合うかもしれない。面倒な電話やら説明やら手続きやらをしなくて済むかもしれない。我も我もと浅ましく人々が群がるのは仕方のないことだろう。そんな中に不破フリオもいた。
なんとか電車の中に我が身を滑り込ませることに成功した不破フリオであったが、安心はしていられない。電車が走っている間は、必要最低限の呼吸しかできないきまりなのだ。
一体どう言うことかと首を傾げる人もいると思うので、詳しく説明する。
まず電車のドアが閉まる。閉まりきったその瞬間から、きまりはスタートだ。不破フリオはしばらく息を止めていなければいけない。もちろん、不破フリオには呼吸は必要不可欠なので徐々に苦しくなる。苦しくなって、苦しくなって、まだだ、まだまだ、まだいける、苦しい、もうダメ、いいやまだまだ、もう少し、あとちょっと、もう本当に限界です、となった時に初めて不和フリオは呼吸を許される。ただし、ひと吐きひと吸いだけだ。すぐにまた息を止めなければならない。これを電車から降りるまで繰り返す。
そんなの匙加減じゃないの、と思う人もいるだろう。限界なんて人それぞれ、不破フリオがまだまだ我慢できる状態であっても、限界だとして呼吸をすればいいと。なるほど過去の不破フリオもそう考えた。その結果えらい目に遭った。もう二度と不正はすまいと心に誓った不破フリオだった。やはりきまりは破るものではないのだ。
このきまりの厄介なところは、よく具合が悪いと勘違いされるところだ。見知らぬ人でも、真っ赤な顔で目を剥いて全身を小刻みに震わせていれば、心配になるのが人の情というものだ。結果、どこか具合でも悪いのかと尋ねられることが頻繁にある。不破フリオは息を止めていて話せないと言うのにだ。
そんな時は携帯電話を取り出し、相手に画面を見せる。そこには「きまりですので」という文字が書いてあって、それを見た人は、なんだきまりか、と納得するのだ。
不破フリオの一日はこんな感じの積み重ねだった。会社の最寄り駅からはすれ違う全ての女性にウインクをし続けなければならないきまりだったし、会社に着いたら着いたで業務の傍ら、午前10時になれば直立不動の姿勢で右手を挙げて「ハイ今日も元気です!」と大声で叫ぶきまりだったし、その他にも多種多様のきまりを不破フリオは守らなければならなかった。不破フリオはいささか疲れていた。
そんな中でも昼休憩中は奇跡的に何もきまりがない、言わば不破フリオの心のオアシスのような時間だった。もっとも、13時30分までには会社に戻るというきまりはあったが。
「うんざりしてくるよ。あれもきまり、これもきまり、きまり、きまり、きまり……面倒はごめんだからきまりは守ってはいるけど、それだけがおれの人生なのかってね」
昼食を終えた不破フリオは会社近くの公園のベンチに腰掛け、同僚の山田ダチトに愚痴をこぼしていた。いつものことだが、これはきまりではない。
「あんまり考え過ぎるなよ。この世界は悪い夢、ただし夢から覚めればもっと悪くなる、ってな」
山田ダチトが煙草の煙を豪快に吐き出しながら言った。
「なんだいそりゃ?」
「知らないのか? ああ、そうか……不破は深夜テレビは見ちゃいけないきまりだったっけ」
「時々思うよ」不破フリオが力なく笑って言った。「きまりとか全部うっちゃって、自由に生きてみようかな、とかさ。幸いおれは金にこだわるタチじゃない。無一文は勘弁っていうだけだ。きまりを無視したって、それなりには生きることはできるだろ。なにも無茶苦茶やってやろうってわけじゃないさ。ただ、これ以上無意味なことに振り回されたくないんだ」
「そのかわり誰にも相手にされなくなるぜ」山田ダチトは携帯電話をいじりながら言う。「お前だけじゃないよ。みんなそれぞれのきまりを守って懸命に生きてる。一見無意味に見えるきまりだって突き詰めて考えてみりゃそれなりに意味のあるもんだってお前もわかってるだろう」
「わかってるけど、おれはもう限界近いんだよ。このきまりいるか? ってどうしても考えちまう。そのきまりを律儀に守ってる自分が情けなく思えてしょうがないんだ」
頭を抱える不破フリオの横で、山田ダチトが立ち上がり言った。
「おれもそう思うよ。なんでおれが毎日毎日お前のつまらない愚痴を聞かなきゃならないんだ? その度に励ましてやらなきゃいけないんだ? 大して仲良くもないお前となんで毎日昼休憩を一緒に過ごさなきゃならないんだ?」山田ダチトが肩をすくめる。「しょうがない。そういうきまりだ」