後編
次の信号を超えるとこの街で最も大きな河と、それを渡る橋に出る。風が一段と冷たくなってきたのは気のせいではない。と、はるか後方から、やたらと低音を持ち上げた耳障りな音楽が聴こえてきた。今どきの高校生でも聴かなさそうな安っぽいダンスミュージックを鳴らしているのは車載オーディオのようだが、スピーカーを固定する金具がたてる軋みが電気信号に混ざるノイズはEB特有のものだ。
「くそう、こんな時間にあの手の連中に出くわすとは…今日はついてないな。」
不運を呪う言葉が口をつく。ガソリン車と違ってもともと音が静かなEBでどうしてもバカでかい音を鳴らしたい奴らがとびついたのがオーディオだ。EBのモーターの消費電力はたかが知れているから、有り余る電力を音響機器に振り分けてやればいくらでも大音量のサウンドシステムを構築できる。モーターが非力なEBに無理して重量のかさむ機器を載せるなんて理解しがたいが、俺としては別に連中のことなんてどうでもいい。問題はもっとやっかいなのだ。
信号待ちをしている俺の後ろ、EVを2台挟んで連中の3台のEBが停車した。停車時にはオーディオの音量を下げる装置がEBには標準装備されているはずだが、あいつらは当然のごとく外しているようだ。スピーカーから発せられる低音が低周波となって俺の背中を揺さぶってくる。同じように信号待ちで停車しているEVのバンパーが次々にオレンジに切り替わり、ルームライトが点灯する。EBの1台がクラクションを鳴らしだし、俺が振り向くと他の2台も続いた。ヘッドライトを囲むように増設したピンクのLEDイルミネイションをめちゃくちゃに点滅させ、激しいアクセルでエンジンを軋ませ、喚かせる。あいつらは俺に、正確には俺のバイクを煽っているのだ。若くいきがっているEBライダーにありがちな、ガソリン車への憧れと妬みが混ざり合ったコンプレックス。時速100キロの上限値を押し付けられ、脳髄を揺らすようなエンジントルクを奪われた者達の行き場のない鬱屈。それらが何の関係も責任も非も無いガソリン車オーナーの、たまたまこの橋の手前で遭遇した俺に向けられているというわけだ。
もうすぐ信号が変わる。俺の右隣にいた小型車の運転席にいた20代くらいの女の子は先ほどから俺のほうをしきりに見ていたようだが、やがてマニュアル運転に切り替え、そそくさと隣の車線に去っていった。信号が青になった。その直後、俺の前にいたEV達はまるで申し合わせたように次々と隣の車線に移り、EBどもは喜び勇んで前に出ようとした。仕方ない、無違反で走りたいが、降りかかった火の粉は払うしかない。この橋の前後には車道の監視カメラが他のエリアよりも多く設置されているのを俺は知っていた。こういった悪質な連中にからまれた場合の違反は、警察に画像の確認を申し出ればほとんどの場合で情状酌量になるはずだ。警察はEBよりもガソリン車のほうが高速性能に優れていることぐらい当たり前に知っているのだが、クリックリックのようなプロテクションの無いガソリン車が公道で事故を起こすことは現行法の細かな不備を突かれることにつながるので何とか防ぎたいらしく、こうしたライダー同士のいざこざが起きた時には全面的にガソリン車側に有利になるように取り計らうのが慣例となっている。普段は色々と肩身の狭い思いをさせられている現在のガソリン車ライダーにとっての数少ない、ほぼ唯一といってもいい特権といえるだろう。
前を行く車が右隣の車線に移ったのを見計らって、ギアを第三速に入れる。エンジンが一瞬トーンを落とすが、スロットルを開けると回転計の針が5000近くまで上がり、同時に俺は背中や腰をググッと押されるような力を感じた。バイクは橋にさしかかり、川面を渡る風が右から吹きつけてきた。俺のXRK1300にとっては何でもないのだが、俺を追ってきたEBの3台の中の、一番後ろの奴が風にハンドルをとられてふらついた。振り向くとそいつが橋の継ぎ目にある小さな段差で大げさにバウンドし、よろけたはずみにガードレールに車体を何度か擦りつけた。ウインカーが砕けたのが遠目でもはっきりと見えた。
仲間が事故ったというのに他の2台はなおも俺の後を追ってきて、俺の真後ろにはオーディオのうるさい奴が付いてきた。どうやらホンドの、フリーレーンという不人気機種の、しかも10年近く前の型らしいが、アクセルを回すたびにヘッドライト横の増設LEDがため息をつくように暗くなった。充電池の容量を計算せずに改造したせいだ。そんなざまじゃな、俺の相棒には敵うわけないぜ、と半ば呆れながら俺はスロットルを開ける。フリーレーンは見る見るうちにバックミラーの中で小さくなった。速度計に眼をやる。針は時速60キロを指していた。追い風に変わったらしく、肩や首が風を切る音が止んだ。橋の半ばまでさしかかったとき、3台目のEBが俺の後ろに迫ってきた。他の奴らほどとんちんかんな改造は施していないらしく、俺とほぼ同じ速さを無理なく保っていた。しかも、右隣の車線に移ったかと思うと、聞いたこともない甲高いモーター音をたてていきなり俺のバイクに並んだ。合法かどうか定かではないが、何か特殊な加速装置を付けているのは明らかだった。
橋を渡りきってしばらくは信号が無い上に車線が減少する。他の道を行こうにも、住宅密集地が続くこの辺りの道をガソリン車で走るのはどう考えてもまずい。俺は隣を走るEBを見た。どぎついメタリックパープルの塗装に真紅のLEDをまとわせた車体は路面をこすらんばかりに低く、ひと昔前に流行ったローライダー(low-rider)を真似たつもりのようだが、そのためにサスペンションをかなり短く切ってあり、先ほど橋の継ぎ目の段差を乗り越えられたのが不思議なぐらいだった。サングラスをかけているので分かりにくいがおそらく20歳ぐらいだろう、ヘルメットもエアヴェストも着けず、ジーンズに厚手のレザージャケットを着こんでいた。日が昇る直前の夜闇の中、耳元のピアスと、首にかかった何本もの太い銀のネックレスが橋の照明を反射して光っていた。今この小生意気なEBを振り払っておかないと、万が一こいつが俺の前に出ると、どんな危険な乗り方をして俺を邪魔するか分からない。それに、そう、ここで俺の相棒の実力を見せてやるのが、この世間知らずのバカEBどもを黙らせる最善策だろう。
前を向き直り、小さく息を吐いた。スロットルを開け、回転計が7000に上がるのをしばらく待った。速度計がすかさず反応し、針がそろそろと時速80キロを踏み越えた。今だ。左手のクラッチレバーを握り、ほぼ同時に左足のシフトレバーをつま先で上げる。クラッチレバーをゆっくりと戻すと、いったん75まで降りた速度計は気を取り直したように動きだし、何のためらいもなく80を超えた。第四速に入れたのは一年半ぶりだった。俺の前を走っていたEVのバンパーがオレンジ色に切り替わり、慌てた様子で右隣の車線に移った。スロットルをじわりと開く。先ほどまで全く感じられなかった風が一気に巻き上がり、指先を、首筋を、腋の下を流れていく。電子制御ではなく機械式のキャブレターはエンジンによく冷えた空気と濃厚なガソリンを流し込み、それを喰らったエンジンは精巧な機械から炎の獣へと変貌し、俺の膝のすぐ前で戦慄き、猛った。バックミラーまでもがエンジンの唸りに応じて小刻みに震えた。
手のひらにじわりと汗がにじむ。歯をくいしばり、両足でステップを踏みしめるが、それでも体の力がどこかに流れ落ちてしまうような感覚に襲われる。どこからか声が聞えるようだった。焦らず、恐れずだ。怖いなら膝でしっかりとバイクを挟め。ニーグリップさえ確実なら、バイクはどこまでも連れて行ってくれる。今思えばそれは、恐怖に抗いたい俺自身の声だったかもしれない。
俺の横にいたパープルのEBは、しばらくは俺の横についてきたが、時速が95キロを超えたあたりで離れていった。違法改造に手を染めていたとはいえ、さすがにスピードリミッターを外していなかったのだろうか。それとも時速100キロ超の世界で俺と、旧世代の化け物と渡り合う気になれなかったのかもしれない。ま、どちらにしろ賢明ではある。
スロットルを絞り、第三速までギアを落とす。バイクの切る風が弱まると同時に、それまで後方に流されていたエンジンの熱が立ち上ってきた。腋の下や腕、ヘルメットのウィンドスクリーン越しの頬にも感じられるくらいの濃い熱気だった。冬の気配をいまだに残す夜の風とエンジンの熱、オイルとガソリンの匂いとほのかな潮風が混ざり合って俺を包んだ。そうか、もうすぐ海か。あと信号を2つ超えて、青いガラス張りのビルを左折すればこの道は海岸に出るはずだ。早朝の海風はエンジンを冷やすのにちょうど良い。どうやら、今日はついているみたいだ。頬が緩んだ。バックミラーに眼をやると、ビルの向こうの空が淡いルビー色に染まっていた。夜明けはもうすぐだ。




