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前編

 昨夜はかなり早くに寝付いたので、午前3時のアラームに起こされてもベッドから出るのがそれほど苦痛ではなかった。ベッドの側の照明が点き、明るい女の声が部屋の中に響いた。

「おはようございます。3月20日、土曜日です。本日は1月12日に予定されたライディングの日です。本日は全国的に晴れ、午後からは強い日差しが」

「もういい、もういい。…起きた、起きたから」

 何度か繰り返してやっと「AMIアミ」が黙った。音声入力の感度が良くないのは以前からだが、未明から大きな声を出していてはまた近所から苦情が来てしまう。

ベッドからもそもそと這い出て、昨夜のうちに用意しておいたティーポットに湯を注ぎ、電子レンジのボタンを押す。数分もしないうちにテーブルには濃い紅茶とブルーベリージャム付のクロワッサンが並んだ。このマンションに設置されている家電統御システム「AMI」は何世代も前のものなので情報端末しか動かせず、朝食の用意は自分でしなければならない。友人の話では、新築のマンションに標準装備の「デルフィナス」は子供の夜泣きにも対応していて、ベッドを揺らすやら音楽を流すやら、照明や電動式メリーまで総動員して完璧に寝付かせるらしい。おかげで朝までぐっすりだ、親の世代は僕たちにずい分手を焼いたらしいよね、などとケロリとした顔で言っていたが、その割に彼はこのところ寝坊による遅刻が増えている。

 バスルームへ入り、火傷する一歩手前ぐらいの熱い湯を全身に浴びせる。熱さにたまりかねて飛び出したくなるのを我慢し、普段の3倍の時間をかけて髪を洗う。今日着る服は全て昨夜のうちに用意して、バスルーム横のカゴに入れてある。下着は2年以上着古し、洗濯の繰り返しですっかり柔らかくなっているものから選んである。下着の選択を誤ると、少しでも汗をかいたとたんに肌がむず痒くなるし、汗を放散しにくいものを着ていると気温が下がった時に体温が一気に奪われてしまう。誰が何と言おうと、ライディングの最重要の装備は下着である。次にデザートサンド色のカーゴパンツを履く。リップストップ織のコットンは新品のうちはゴワついて膝や足首が擦られるようだが履いているうちに柔らかくなり、縦横どちらにも伸びてくれるのでとても重宝する。今日履くのは50年以上前の軍服のレプリカだが、同じ軍規格ミルスペックに準じて作ったはずの高額な復刻品のほうが先に膝が抜けてしまったことがあり、それからはレプリカの忠実度を優先した高価なものよりも、素地が厚くて織りが密なものを選ぶようにしている。戦場で兵士を支えるミルスペックの名が泣くぞと言いたくなるが、世界が戦争をしなくなり、どの国も軍備を縮小する流れがこの20年以上続いているのだから、スペックどおりのものが手に入りにくくなるのは仕方ないことではあるし、それだけ世界が平和だということだろう。

 部屋に戻ってクローゼットを開け、数年前から使っているエアヴェストを取り出す。バイクからライダーが転落した際、瞬間的に膨らむエアバッグ式のクッションが首と脊髄を守るプロテクションだが、内蔵の圧縮空気タンクとそれにつながったホースをいじっていて、ふと気になったことがあった。

「AMI」

「はい」

「規格適合の照会だ。ライドン社、セイフクルーズ、30年製。」

「お待ちください…お手数ですが、製品番号を正確にお願いします。」

「なんだ番号が要るのか、めんどくさいな…AMI、SCST-350、だ。」

「お待ちください…照合完了。2035年現在の道路交通法に適合していません。」

 セイフクルーズをクローゼットに放り込む。3年前の法改正はプロテクションの基準の引き上げに終始しただけなので社会的にはあまり注目されなかったのだが、使用期間わずか5年であえなくお払い箱となる哀れな旧規格品がここに出たというわけだ。バイクのプロテクションの現在の主流は「クイックリック」と呼ばれる、バイク本体のABSや突出式ライダーガードと連動する方式だが俺の相棒にはそんな賢い機能は無い。かといってこのまま未装備で出かけると厄介なパトロールにひっかかった時が辛い。クローゼットや部屋のあちこちを探していると、腰に巻くコルセット型エアバッグと、合成アラミド繊維製のインナージャケット型防護スーツ、通称「アーマー」が見つかった。どちらもつい最近買ったばかりだ。念のためにAMIに照合させたが、どちらも法的には大丈夫だった。

 オーバーパンツを履いたあと、下着を入れていたカゴからバンダナを取り出し、ゆっくりと時間をかけて頭に巻きつける。このバンダナは既に5年以上使っており、元のオリーブ色が抜けきって茶色に変わり果てているが、そのおかげで縫い目が肌にあたっても全く気にならないほど柔らかくなっており、もはや第2の皮膚と言ってもいいほど額やこめかみになじむ。それでも巻き方がまずいと運転中にヘルメットの中で頭を締め付け、首を動かすたびにずり落ちてきて不快なこと極まりない。3回ほどやり直してバンダナを頭に巻くと、アーマーを装着する。アラミドにタングステンを織り込んだ繊維は薄く軽いがとてつもなく硬いうえに汗を全く吸わず、風通しも悪ければ保温性もゼロとあってライダーからはおおむね不評だった。エアヴェストにかわる軽量でスマートなプロテクションともてはやされたのも数年前までで、クイックリックを標準装備した新型車に乗り換えたライダー達はすぐに手放してしまった。このアーマーも本来はかなり新しい上級モデルだが、中古屋では定価の3割以下で叩き売られていた。アーマーの上からごく薄いフリースのセーターを着て、コルセット型エアバッグを装着し、ようやくライディングジャケットに袖をとおす。ジャケットに仕込まれた胸、腕、肘、背中の保護パットとアーマーそしてコルセット型エアバッグで合わせ技一本というか、やっとOKになるのだから、まったく道路交通法はいつまでたっても二輪車にうるさい法律だ。

 部屋を出て、通りの反対側にある貸ガレージへ入る。寝静まった近隣に迷惑にならないようそっとシャッターを開け、照明も点けず半ば手さぐりでグローブとヘルメットとヘッドマイクを取る。バイクにかけていた鍵を3つ外し、後部シートにバッグがくくりつけられているのを確認したら出発だ。バイクのキーシリンダーに鍵を差し、ハンドルを両手でしっかり持ったらサイドスタンドを慎重に足で払う。ガレージ前の道路は走る車も無く静まりかえっているが、その中を、慎重にゆっくりと押していく。ガレージからそう遠くない先にある鉄道の高架下まで来ると、スタンドを降ろしてバイクを立て、大きく息をつく。高架下のピンクともオレンジともつかない照明の下で俺の相棒、2006年製ヤマキXRK1300が浮かび上がる。250キロの鉄の塊を、車輪が付いているとはいえ押して歩くのは決して楽なことではなく、手にはじっとりと汗がにじむ。夏場ならバンダナをもう一度巻きなおしたくなるほどだ。

 キーを回す。計器類が点灯し、ギアがニュートラルに入っていることを示すグリーンのインジケーターがとりわけ目をひく。周囲を見回し、誰も見ていないことを見届けて、エンジンのスタートボタンを押す。スチロールと革をこすり合わせるようなキャキャという甲高い音がしてエンジンが小さく揺れたと思うと、次の瞬間には車体が身震いし、エンジンが深い吐息とともに太く重い唸り声をあげる。思わず口元が緩む瞬間だ。車体の後部に回りこみ、マフラーから噴き出る排気の色をしばらく見つめる。あいまいな色調の照明の下でも分かるくらい最初は白く煙っていた排気もすぐに透明になり、あたりに漂ったガソリンの鼻をつく匂いはしばらくすると風に流されて消える。ハンドルの横に戻り、スロットルレバーを握る。絞り上げるようにじんわりと開くと、エンジンが精密に野蛮なポルタメントで応じ、車体が身をよじるかのように激しく揺れる。よし、これなら大丈夫だ。

「頼むぜ、楽しませてくれよ」

 気がつくとそんな言葉が口をついた。

 眼を上げると、通りを一台の車が走り過ぎた。たしか半年前にマンダが発売したニューモデルだ。ひと目でミッドシップエンジンと分かる平べったいシャシー、厚く野暮ったいバンパー、タイヤを露出させたフレームのデザイン、そして過去最高の充電量を実現したとかいうシロセルバッテリー。電気自動車の参入が遅れたマンダが完成に3年かけた自信作らしいと、勤め先の商事部の連中がやたら騒いでいたので憶えていたが、自動車に、正確には電気自動車に疎い俺にはどの車も同じに見えた。ガソリン車の生産終了は2025年を予定していたが実際はそれよりも早く、国産車は全て電気車しか販売されなくなり、TVのアナウンサーが電気自動車をEVと呼ぶようになり、それと同時に俺の部屋から自動車やバイクの雑誌、資料のほとんどが消えた。今では、空冷4ストロークDOHC直列4気筒排気量1300cc、40年前の化石のようなモンスターだけが俺の相棒だ。


 すっかり汗のひいた手にグローブをはめ、バイクにまたがる。サイドスタンドを左足で払い、左手はクラッチレバーを握り、右足は後輪ブレーキをしっかりと踏む。もう一度スロットルを開くと回転計の針はなんの苦も無くはね上がった。これ以上のウォーミングアップは不要だ。ただでさえアイドリングにうるさいご時世なんだ、すぐに走り出そう。ギアをローに入れ、クラッチを戻すとバイクは滑らかに走りだした。高架の照明で銀色に光って見えていたセルリアンブルーのタンクはすぐに夜闇に染まり、ヘルメットのウィンドスクリーンを下ろすとエンジン音すらほとんど聞こえなくなった。

 あまり繁盛していない中華料理店の角を曲がると6車線の広い道路に出る。この街を貫いて東西に延びる幹線道路で、俺のクルージングはほぼこの道路のこの交差点から始まると言ってもいい。3つ目の信号を過ぎる頃には対向車や後続車も少しずつ増えてきた。俺の前を走るワンボックスタイプのワゴンが左の車線に移ったのと同時に、バックミラーが後続車のライトの光できらりと光った。バックミラーをのぞくと俺の兄が乗っているのと同じ型のファミリーカーが映っていた。ヘッドライトがまた俺のバイクを照らしたが、先行する俺をハイビームで照らす無礼に気づいたかのようにすぐにロービームに切り替わった。車線の中心を、少しもぶれることなく一定の速度で走っている。と、バンパー下のライトがマリンブルーからオレンジに変わった。オートクルーズ走行からマニュアル運転に切り替えたサインだ。次の瞬間、眠りから覚めた魚のように俺のバイクに向かって急に加速し距離を詰めてきた。振り向くと、運転席のルームライトが赤々と灯り、ハンドルを握った父親と思しき男が助手席の子供のはしゃぐのをなんとかなだめようとしているのが見えた。ちっ、親子連れかよ、いやなもんに出くわしたぜ。独り言が口をつく。車線を変更してこのファミリーカーから逃れようとしたが、この街の早朝は都市間輸送の大型トラックに遭遇する確率が最も高い魔の時間帯でもある。逃げるのは諦めてそのまま車線を維持した。予想どおりファミリーカーは俺の後ろにぴたりとついた。バックミラーから眼をそらす。その直後、助手席の子供がケータイのカメラで、フラッシュを使って画像を何枚も撮りはじめた。この時にうっかりバックミラーを見ていると本当に眼がくらみそうになる。子供に悪意は無いのだろうが、止めさせる親は俺が知るかぎり皆無である。

 ファミリーカーは右隣の車線に移り、助手席の子供が俺のバイクに向かってウィンドウを叩く音を残して走り去った。どうせすぐにオートクルーズに戻すのだろう。そうすると決して法定速度以上には加速せず、しかも周囲の車との距離を適度にとろうとするから、俺よりも早い車線に移ったところでじきに俺に追い抜かれるはずだ。先ほどのスピードからしておそらく10キロ以内でまたあの親子連れに並ぶか追いつくはずだから、それまでに車線を変更しておこう。

オートクルーズの性能が凄まじい勢いで向上し、それにつれて交通事故は減ったが、ICC(Integral Cruise Control)、統合型クルーズコントロールと呼ばれる方式が道路交通法のお墨付きをもらった頃から、断言してもいい、車はその個性を失った。同じセンサーを同じ個所に仕込んだ車が同じ道路情報を受信し、見事なまでに法定速度を遵守して走行する。先ほどの親子連れのような運転に不慣れなサンデードライバーにはありがたい機能だろうけど、ガソリン車に乗って―もちろんICCどころかクリックリックすら無い、前世紀の遺物のごときガソリンバイクで走っていると、まるでどこかの工場のベルトコンベアに迷い込んだような錯覚に陥ってしまうことがある。仮に運転席に、缶コーヒー片手に寝ぼけ眼をこすっているドライバーがいたとしても、だ。

 ICCに反対した者たちは少なからずいたが、なかでも強硬な反対運動を長く続けたのがトラック運送業の組合だった。マニュアル走行よりICCを法的に優遇するようなことがあれば日常的に道路を走っているプロフェッショナル達が割を食うのは火を見るよりも明らかだったし、ICC走行ではとても輸送のスケジュールをこなしきれないという内情もあったらしい。通信社やネットメディアはほとんどこの問題を取り上げなかったが、彼らの粘り強い努力はバンパー下のライトを、ICC走行時はブルー、マニュアル運転時はオレンジに切り替えるという規定となって実を結んだ。ICCまかせでろくにハンドルを握らないドライバーには分からないだろうが、実際に公道を走る車のどれがICCでどれがマニュアルかがひと目で判断できるのは、どの車を避けどの車に付いていけばスムーズに走れるかが分かることを意味する。特に長距離を走るマニュアル派のライダーやドライバーにはありがたいことである。昨年の夏には元トラック運転手という肩書のロックヴォーカリストが、ICC走行ばかりの深夜の高速道路をうたった「Cold Blue River」という曲をリリースし、国内チャートでは8年ぶりのミリオンセラーを記録した。ただし、その夏はカッコつけたがりの若者が不慣れなマニュアル走行で起こす事故が多発し、レコード会社がお詫びの広告を打ち出す羽目になった。

 ガソリン車の生産は終了したが、公道での走行が禁止されたわけではない。法律を遵守しさえすれば走ることも出来る。しかし、低公害と安全を志向する世相と、その意を受けての度重なる法改正はあっという間にガソリン車を社会の片隅に追いやった。遠出の際には数少ないガソリンスタンドまでの距離と燃費を慎重に計算し、不安であれば今回の俺のように携行缶を持っていく。特にバイクには大変な逆風だ。クリックリックのようなプロテクションシステムの後付けキットも販売されてはいるが、取付のための構造上の余裕があるモデルなどほんのひと握りしかない。それでも警察は容赦なく違反を取り締まるから、ライダーは自分の身体をアーマーだのコルセットだのでアルマジロみたいに覆ってしまわなければならない。高回転時のエンジン音は騒音規制にひっかかりやすく、うっかり住宅街の夜道を走ったりするとかなりの確率で住人に通報されてしまう。鉄道や高速道路の高架下でのウォームアップを教えてくれた職場の先輩は、昨年ついにBWGの96年製R1100GTSを手放してしまったらしい。これでカミさんのガミガミから逃れられる、と年賀状にはあったが、あんな名車、俺のマンションを3つ売り払っても今後は手に入らないだろう。2020年には国内メーカーが一斉に電気バイク(EB)を発売し、その10年後には全機種がEBとなった。同時にEBの最高速度が時速100キロに設定され、それまではいろいろと抜け道のあったスピードリミッターの解除も実質的に不可能になった。加えて衝突時のライダー、歩行者両方の被害を軽減する為に車体を覆う外装パーツにクラッシャブル構造の導入が義務づけられたが、この基準があまりにも曖昧だったため各メーカーとも設計にひどく苦慮し、そのせいで2030年型モデルとして発売されたEBはどれも珍妙なデザインばかりだった。ヨーロッパの権威あるバイク雑誌『ユーロバイク』の、この年の日本のモーターショーを「悪夢」という見出しで痛烈に批判した号は今も手元にあったはずだ。そのような実情もあって、ガソリン車時代の無骨でメカニカルな雰囲気を再評価する声が二輪業界でもあるそうだし、子供向けの変身ヒーローものでも久しぶりにバイクが活躍する傾向があるそうだ。もちろん劇中に登場するのはガソリン車ではなく、EBをそれらしくみせるように加工した架空のモデルらしいが。 

 俺の右横の車線をBWGのスポーツカーが駆け抜けていった。国内ICC対応モデルをいち早く発売した会社だけあって、ICC走行とは思えないほど滑らかな加速が目をひいた。ただし、妙にけばけばしい、パステルカラーのようなカラーリングがいただけなかった。EVのモーターが非力だった頃、自動車会社は車体の軽量化に苦心したのだが、樹脂を多用した薄っぺらい外装にあえてポップで明るいカラーリングを施すことを考え出したデザイナーがいた。そいつが生み出した出来損ないの樹脂模型みたいなEVがその年の国内最優秀デザイン賞をもらったのが5年前だ。それからというもの、EVのショウルームに足を運ぶ気がすっかり失せてしまった。あれでは遊園地かおもちゃ屋だ。俺は自分のバイクのタンクを見た。00年代のXRK1300で最も多かった、濃いセルリアンブルーに黒の四角を並べた「ストロボグラフィック」だが、これが今になって人気が出てきているらしく、この前立ち寄ったバイク用品店ではヘルメットにストロボの模様を転写するシールなんてものが売ってあった。

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