FE1 新しい朝へ 05 ★
騎士章に伸びかけたセレスティアの手は、直後その動きを空中でピタリと止めた。
オルガもケイも、その後のセレスティアの動きに注目するが――彼女は、そこから微動だにしようとしない。
ケイが視線を向けると、セレスティアは目を見開きながら、何とも形容しづらい追い込まれた表情になっていた。
彼女の視線は完全に騎士章に固定されているのだが――それが彼女自身の行動と、結びついていないのだ。
ケイはそれを見て少し苦笑すると、オルガに向けて口を開く。
「――殿下。
突然のことで、セレスも混乱したかもしれません。
なのでセレスに少しだけ、考える時間を与えていただけないでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、セレスティアが両目を固く閉じて、動かなかった右手をギュッと固く握り締めた。
「良いでしょう」
ケイは即座に出てきた返答を聞いて、オルガは最初からこうなることを予期していたのではないかと思った。だが見ても彼女は何ら表情を変えることなく、穏やかな仕草を崩していない。
オルガは徐に手で合図をすると、騎士章を持った女官を執務室から下がらせた。
「今夜は王宮に泊まっていきなさい。
残念ながら私は一緒に夕食を取ることは出来ませんが、二人をもてなすよう伝えておきます。
それと――セレス。折角ここへ来たのですから、皆に元気な姿を見せるよう」
「はっ――」
そのやり取りで会話の終わりを見たケイとセレスティアは、再び礼をして執務室から退出することにした。
相手は恐らくハーランドで、最も忙しい人物の一人だ。元々それほど多くの時間を貰えている訳ではない。
だが、そうして二人が執務室を出ようとした瞬間――その背を追いかけるように、和やかに微笑んだオルガがセレスティアに声を掛けた。
そしてそれはどこかしら、迷うセレスティアの心を見透かしたような言葉だった。
「セレス、自分の気持ちに正直になりなさい。
それが貴方にとって、最も幸せな選択なのでしょうから――」
その日の夜、ケイの姿は王宮内に割り当てられた客間にあった。
当然ながら客間は男女同室という訳にはいかないため、ケイとセレスティアのためにそれぞれ別の部屋が用意されている。
セレスティアは騎士団に顔を出すために、オルガとの面会の後、ケイとは別行動を取っていた。
まさか夜に至るまで帰って来ないということを想定していなかったのだが、そこから考えるに恐らく王宮に詰める親衛隊だけでなく、王宮外にある西方騎士団支部も含めて訪ね歩いているのだろう。
暫くしてケイが紅茶を楽しみながら寛いでいると、客間の扉をノックする音が響いた。
「――ケイ、済まないが少し相談したいことがある」
声の主はセレスティアのようだ。ケイは扉を開けて彼女を部屋に招き入れると、自分の向かいの椅子に座らせた。
そして、そのままセレスティアの分の紅茶を淹れ始める。
チラリと腰掛けた彼女を窺い見ると、何とも思いつめた雰囲気の横顔が見えた。
だからそれを見たケイは、この後セレスティアが「フェリムに戻らず、王都に残りたい」という台詞を吐き出したとしても、それほど驚かない心の準備が出来ていたのだ。
ところが彼女の口から出た言葉は――ケイが想像していたものとは異なる。
「ケイ、覚えていると思うが――。
内務卿カーティスとここアンセルで対決した際、私たちは一人の敵を取り逃がした」
「一人の敵――?」
その単語を聞いてケイは思わず、セレスティアの言葉の真意を確かめようとした。
ケイたちが過去アンセルの王宮で魔人カーティスと対決した時、正確には二人の敵を取り逃がしていたからだ。
一人は魔人クルト。
そして、もう一人は――西方騎士団の副団長でもあった男。
名前を、レドモンド=レイナーという。
ただし魔人クルトはその後サリータの塔における対決を経て、この世から消滅してしまっていた。
つまりここで彼女が言う『一人の敵』とは、後者を意味している可能性が高い。
ケイはその後者の人物に対して、セレスティアがある種特別な感情を抱いていることを理解していた。
ただその感情は、決して男女の情愛や情念といった類のものではない。
もっと深い悔恨や執念に似たようなもの――そんな何か筆舌に尽くしがたいような想いを、彼女はその人物に対して抱いているに違いなかったのだ。
だが、飽くまで今のセレスティアは、『一人の敵』という言葉を淡々と口にしている。
「まさか――見つかったのか?」
ケイがセレスティアにそう問い掛けると、彼女は小さく首を横に振った。
「いいや――確実な話ではないんだ。
ただ、先ほど騎士団から聞いた情報によれば、最近になって片腕のない男が、サンの漁村で目撃されたという証言がある」
レドモンドは逃亡の際、グレイスの一撃を腕に受けて片腕を失っている。
「サンの漁村――?」
ケイはセレスティアが口にした地名を、改めて尋ね直した。彼にとってその名は、聞いた覚えのないものだ。
「ロアールとの国境近くにある海沿いの小さな漁村だ。
西方騎士団の本拠地であるエイヴィスからは、国境の川を北へ下った場所にある」
「なるほど――」
「ただその目撃情報によれば、片腕の男はサンの漁村から国境の川を渡ろうとしていたのだという」
サンの漁村がセレスティアの言う位置にあるのだとすれば、国境の川を越えればそこはハーランド王国ではない。獣人の国だ。
「国境の川を――?
となると既にその男は、ロアールに密入国している可能性があるのか」
「ああ、その可能性が高い。
仮にサンの漁村あたりからロアール方面へ国境の川を越えたのだとすれば、到達するのはロアールのセイリアという港町だ」
「セイリア――。行ったことのない町だな」
その言葉にセレスティアも頷く。その頷き方はセイリアが、彼女にとっても未踏の地であることを意味していた。
「サンの漁村に比べれば、それなりに規模の大きい町らしい。
ただ国境近くにあるファリカと違って、日常から人間がうろつくような町ではないという。
だから――」
「獣人たちの中を片腕の男が歩いていれば、さすがに目につく――か」
その言葉にセレスティアが頷く。
レドモンドは人間であって、決して魔人という訳ではない。
それから考えれば彼が姿を変えて町に侵入するにしても、ある程度限界というものがあるだろう。何か特殊な魔法でもなければ、全くの別人や獣人のような姿に成ることは出来ないのだ。
もちろんそれで言えば、魔人でもない片腕を失った人間が、今後ケイたちにとってどの程度の危険度を生み出すのかという疑問もある。
友好か敵対かで言えば、魔人クルトに協力していたレドモンドは間違いなく、ケイたちに敵対する存在だろう。
だが、魔人クルトが消滅してしまった今、レドモンド一人に何が出来るというのだろうか――?
正直なところ――ケイにはその判断が難しい。
とはいえハーランド王国に刃向かった男を、このまますんなり見逃すのかという観点は存在する。
ただしその場合彼を追い詰めるべきなのは、ケイや軍籍のないセレスティアではない。
ハーランド王国自体が、レドモンドを捕らえるべきなのだ。
「私は――」
ケイはセレスティアがそう切り出した時、その後に続く言葉を簡単に予測することが出来た。
そしてこの話が既に、誰が何をすべきなのかという話から違う次元にあることを認識した。
これはセレスティアという人間が今、何をすべきなのかという話ではない。
彼女自身が自分の意思で、何をしたいと考えているのかという話なのだ。
「私は、その人物を追いたいと思っている。
それでケイ、あなたに相談というのは他でもない。
私と一緒に――レドモンドを、追って貰いたいんだ」
強い決意に満ちた視線を受けて――。
ケイは無言のまま、静かに頷くのだった。






