086 魔人の剣
空間に溶け込む黄金色の髪が、躍動する身体に合わせて大きく弾んだ。
飢えた野獣を想起させる無骨な刃が、流れる彼女の身体に追い縋ろうとする。
金髪の剣士は軽やかに重心を後方へと移し、襲撃を事もなげに回避して見せた。
直後、通過した刃が空気を寸断し、その勢いを象徴するような風切り音を立てる。
身体を沈ませ力を溜め込んだセレスティアは、反動を活かして前方へと踏み出し、思い切った突進に打って出た。
その意図に応えるかのごとく、盾を彩る青色の装飾が光を反射して、一際強い輝きを放つ。
まさに身体を丸ごと委ねるかのような盾の一撃に、小柄の魔人は慌てて後退ってしまった。
エイダは小柄とはいえ、魔人だ。
その身体は魔人化によって、戦士としての筋力を得ている。生半可な力では、押し返すことなどできない。
にもかかわらず、セレスティアの突進はエイダを一気に押し切った。
金属同士が擦れる耳障りな衝突音を発して、エイダは持っていた斧を完全に弾き飛ばされてしまう。
エイダは元々、武装と呼べるようなものは斧しか持ち合わせていない。
つまり、小柄の魔人は――これで丸腰だ。
「!!
――セレスッ!」
追い打ちを掛けようとしていたセレスティアへ、俺は慌てて警告の声を発した。
俺が彼女たちの闘いに目を奪われていたように、俺と対峙するジルベールもまた、彼女たちの闘いを視界に収めている。
俺が声を上げたのは、そのジルベールが大きく目を見開き、彼女たちに向けて何らかの魔法を吐き出したからだ。
だが警告の声も空しく、発せられた魔力の塊は、急速にセレスティアとエイダの身体を包み込んでしまう。
「何だ――!?」
「――?」
自身に迫った魔力に驚いて、セレスティアとエイダが身構えた。
だが、セレスティアに衝突した魔力の塊は、あっさりと弾き飛ばされて霧散する。
一方エイダの方は、そのまま魔力の塊を吸収し、身体に吸い込んでしまったようだ。
「セレス、無事か!?」
「ああ、問題ない」
セレスティアが俺の問いかけに、即座に返事を返してくる。
彼女は自身の無事を伝えながら、側に立つエイダの表情を観察しているようだった。
そのエイダの目は――どこか焦点が合わなくなってしまったように、見える。
『魅了』だ――と、俺はすぐに気がついた。
セレスティアは非常に高い精神耐性を持っている。いかに高いレベルの『魅了』であっても、抵抗してしまうことだろう。
しかしエイダはジルベールの『魅了』に、掛かってしまったようだ。
彼女は呆然とした表情のまま、ジルベールの元へと駆け寄って行く。
落とした斧は――拾おうともしていない。
「セレス、シルヴィア、こちらへ」
ジルベールはエイダが近づいてくるのを、どうやら待っているようだった。
それを見た俺は、全員に集結するよう声を掛ける。
俺は駆け寄るシルヴィアの傷を治療しながら、虚ろな表情のエイダをゆっくりと“凝視”した。
――やはり、エイダは『状態:魅了』になっている。
しかし、ジルベールはここまで、敢えてエイダを『魅了』していなかったはずだ。
ならば、今更エイダを『魅了』する理由は、どこにあるというのだろうか――?
俺はそれを突き止めるために、ジルベールに声を掛ける。
だが、その会話の半分は、仲間の回復と付与魔法の時間を稼ぐためのものだ。
「やっぱり集落の住人を魅了していたのは、あんただったんだな。
だが――今更そいつを魅了してどうするつもりだ?
そろそろ逃げる算段でも始めようって言うのかい」
元々この場で俺たちを待ち伏せていたのは、ジルベールの方だ。
それを考えれば、戦況が圧倒的不利にでもならない限り、ヤツの方から逃げるという選択肢を選ぶことはないだろう。
「フッ、笑わせる。
――お主はたかが結界一つ破った程度で、既に勝ったつもりなのか」
ジルベールの反応は、俺の想像を外していない。
会話が交わされる間、セレスティアは自分自身に回復魔法を掛けていた。
俺は全員の付与魔法を掛け直しながら、更に時間の引き延ばしを試みる。
「あんたの状況は有利か不利かで言えば、強力な結界を失った分、最初よりかなり不利になったはずだ。
一方の俺たちには、不利に倒れた要素がない。
であれば、このまま同じように闘い続ければ、あんたは更に不利になっていく。違うか?
それとも、あんたにはこの状況を打破できる、秘策でもあるって言うのかい」
俺の言葉を聞き遂げると、ジルベールはニヤリと唇の形を歪めた。
そして口元から笑い声を漏らし、次第にその音量を増していく。
「――フッ――ククク――アハハハ!」
大音声で笑うジルベールは、飛翔の魔法を解除し、呆然と立つエイダの向かい側へと回り込んで行った。
そして右手に持っている『禁書』を、わざわざ左手に持ち直す。
――瞬間、思い出したくなかった光景が、俺の頭に過ぎった。
俺の懸念が杞憂で済んでいれば、その後の展開は変わっていただろう。
だがジルベールは俺の想像を過たず――脳裏に浮かんだ光景をそのまま再現するように、悍ましい行為に及んだ。
「大して出来の良くない使徒を、ここまで連れていたのには理由がある」
ジルベールの得意げな言葉に、俺は思わず反応する。
「おい、あんたまさか――」
だがヤツは既に、俺の言葉の終わりを待とうとはしなかった。
これ以上ない邪悪な笑みを見せたジルベールは、エイダに向けて右手を高く振り上げる。
「それは――、
こうするためだ!!」
次の瞬間、ジルベールの右腕がエイダの胸元へと突き込まれた。
「なっ――!?」
「――!!」
一瞬何が起こったのかと、シルヴィアとセレスティアが大きく目を見開く。
俺の頭の中には、教会の神父に喰らわれたアスリナの姿が思い浮かんでいた。
魔人化しているとはいえ、エイダの見た目は少女とそう変わらない。
その姿が俺の中の――消せない記憶と、被る。
胸を破られたエイダは、悶えるように苦しんだ。
吐血しながらジルベールの腕を、何とか振り払おうとしている。
だが――『魅了』されたその身体は、彼女の意思には従わない。
周囲には大量の青黒い血液が飛び散り、エイダとジルベールの身体を染め上げていた。
ジルベールは構わず右手でエイダの身体を蹂躙すると、そこから何らかの臓器を掴み出す。
そして――ジルベールは邪悪な笑みを浮かべたまま、手にした臓器を喰らった。
血に濡れた老人の口元と、嫌に歪んだ唇の形が――その醜悪な行為を、俺の瞼に刻み込んだ。
――ドクン、という大きな魔力の鼓動が、周囲に響き渡る。
エイダは支えを失ったように膝を折り、その場に崩れ落ちていった。
彼女はもはや――ピクリとも動かない。
今、俺の目の前にいるのは、どちらも敵対する使徒だ。
その認識だけで言えば、目の前で繰り広げられた光景は――敵の同士討ちに過ぎない。
そして恐らくエイダは、オーバート派の魔人だ。
確証はないが彼女は、転生の秘術を受けている可能性が高い。
ならばエイダがこの世界で命を落としても、それは後の復活を見越した上でのことだろう。
だとすれば、俺は――この悍ましい行為を、見過ごすべきなのだろうか?
――いや、俺はこんな行為を、どうしても見過ごすことは出来ないと思った。
エイダは確かに俺たちと、命のやり取りをした敵だ。
それが残酷な目に遭っているからといって、感傷で助けるなどということは出来ない。
だが――だからと言って俺は、ジルベールがやったことを許す気にはなれなかった。
誰かの欲望のために、周りの誰かが犠牲になる――。
俺は多くの大切なものがあるこの世界で、そんなことを当然にはしたくないと思っていた。
――もちろん、俺の思考は途轍もなく、自己満足に満ちたものに違いないだろう。
だが一方で俺の中には、素直にその自己満足を肯定する“自分”がいる。
所詮、俺の手であらゆることを思い通りにできるなどという考えは、思い上がりにしか過ぎない。
だとすれば、俺は――。
俺は例えそれが手の届く範囲だけだったとしても、何もしない『偽善』より、何かを成し遂げる『自己満足』を選ぶ――!
ジルベールの体格は、魔力の鼓動に合わせて、見る見る内に変化していった。
老人なりに俺よりも小柄だった体格は、骨格の部分から大型化し、もはや俺よりも大柄な身体へと進化している。
肉感も、もはや老人のそれではない。決して年齢を感じさせることのない筋肉が、大型化した骨格を十二分に包み込んでいた。
髪と髭が真っ白なのは変わらないが、全体の筋肉量が増加したことで、顔の印象は壮年を想起させる程度に若返って見える。
――いや、筋肉に包まれた肉体の印象と比べれば、顔は老人のままで変わっていないと言った方が良いだろう。それが嫌にバランスが悪く、気味の悪さを助長させていた。
右手には新たに禍々しく波を打った剣を持ち、左手には変わらず『禁書』を握り締めている。
肌の色は黒っぽく染まり、身体の各所には複雑な文様が浮かび上がり始めていた。
そして――見た目の印象を決定づけているのが、額の左右から突き出た山羊のように曲がった“角”だ。
この姿を形容するならば――。
俺は魔人化したジルベールを睨み付けながら、頭の中でその姿を形容する言葉を思い浮かべる。
この姿は言うなれば、
『悪魔』としか、言いようがない。
俺は魔人化したジルベールを慎重に“凝視”し、その変化を確認していった。
中でも重要な変化は、飛翔と十分な効果時間が残っていたはずの防護結界が、解除されたことだろう。
もちろん防護結界に関しては、魔人化に伴う体格の変化によって、勝手に解除されてしまった可能性はある。
だが、ジルベールの右手にある得物を見れば――それは、意図的に解除したものであると想像できた。
「防護結界を解除したようだ。
恐らく物理攻撃を優先して来るに違いない」
俺からの情報に、グレイスとシルヴィアが頷きを返す。
防護結界は殆どの物理攻撃を防ぐが、同時に自分の物理攻撃も敵に届きにくくしてしまう。
ジルベールは姿を変化させると共に、これまで魔法一辺倒だった攻撃方法を、物理攻撃主体へと変化させようとしているのだ。
「任せろ。
どのような攻撃が来たとしても、私が受け止めて見せる」
セレスティアがジルベールの前に進み出て、自信の籠った台詞を吐く。
俺は彼女の凛々しい横顔を見て、小さく笑みを浮かべた。
――こういう時の彼女は、本当に頼もしい。
俺はセレスティアの後方へ下がると、もう一度ジルベールの状態をしっかりと確認する。
――ヤツの状態に表示されるのは、大部分が「不明」の文字ばかりで、得られる情報は僅かだ。
だが、見えている情報の中で、一つだけ重要なものが付け加わっている。
それは――『状態:老化』だ。
確かに魔人化によって体格は変化し、ジルベールは老人とは言えない筋力を持っているように見える。
だが、そもそも俺は、ヤツが決して若くないことを知っていた。
それは体型が変化し、多少若返って見えるということとは、別次元の話だ。
真っ白な髪に、真っ白な髭――。
そして、嗄れたヤツの声は、何も変化していないのだ。
その“実感”が、「不明」という文字ばかりが並ぶ状態において――『老化』という、ひとつの重要な情報を教えてくれる。
ヤツのレベルは70。
普通に闘えば、俺たちに勝算はないだろう。
だが、闘いはレベルや数値だけで決まる訳ではない。
そして一つ確実に言えることは、『状態:老化』などというものは、決して前向きなステータスではないということだ。
だからこそ俺たちには――きっと、勝機がある。
ジルベールは右手に持った剣を高く掲げると、無言のまま正面のセレスティアに向けて突進を仕掛けてきた。
体格が大柄に変化したことに加えて、勢いを増した攻撃だ。
セレスティアは最初から反撃を捨て、聖乙女の盾を両手で抱え持って、何とかその勢いを殺す。
激突した両者が反動で弾かれた直後、ジルベールは右手の剣で連撃を仕掛けて来た。
「くっ――!」
魔人化した膂力が繰り出す斬撃は、その威力も相当に凄まじい。
セレスティアは持てる力を結集して、それを何とか剣と盾で去なした。
だが、体格と勢いで劣る彼女は、自身のHPを落としながらジリジリと後退していく。
「グレイス、左へ」
「はい」
俺はグレイスに指示すると、ジルベールを挟む形になるよう左右に展開した。
視線を交わしながらタイミングを合わせ、それぞれ光刃と風刃をジルベールの足下に向けて放つ。
「その程度で――!」
ジルベールの嗄れた声と共に、放った魔法が二枚の透明の壁によって阻まれた。
「そんなの、飛び越えちゃえばいいのよ!」
続いて声を上げたシルヴィアが、透明の壁を飛び越えるように爆炎の魔法を放つ。
爆炎の魔法は打ち上げられた後に放物線を描き、言葉通りに透明の壁を越えてジルベールの足下に着火した。
燃え上がる火柱を前に、ジルベールは若干慌てるような仕草を見せて、その場から大きく飛び退る。
――何だ? 今の回避は少し、不自然だったような気がした。
セレスティアが後退したジルベールを追うと、ヤツはそれに応じて波打つ剣を構える。
両者の剣が激突した瞬間、金属同士が衝突する甲高い音が周囲に響いた。剣の重なる場所からは、魔法の火花が飛び散っている。
二人は一瞬の鍔迫り合いを演じたが、ジルベールが左手の『禁書』を振り上げ、そこから無色の砲弾を撃ち出した。
殆どゼロ距離に近い攻撃だ。セレスティアは砲弾を避けることが出来ず、まともに直撃を食らってしまう。
「ハッ――!」
真後ろに吹き飛んだセレスティアと入れ替わるように、グレイスがジルベールの前へと飛び込んだ。
ジルベールはグレイスの斬撃を、波打つ剣でしっかりと受け止める。
直後、シルヴィアが足元に土銃を放つが、ヤツが展開した透明の壁によって完全に防がれてしまった。
俺は突出したグレイスを庇うために、複数の炎弾を撃ち出していく。
普段であれば、使い慣れた魔弾や光刃を使う場面だ。
だが、俺は何となく思うところがあって、敢えて炎弾を選んだ。
ジルベールは俺が放った炎弾を確認した瞬間、回避行動を取り始める。
突出していたグレイスは、均衡が解けたことで無理をせず、後方へと下がった。
吹き飛ばされたセレスティアは、その攻防の間に自らを回復していたようだ。
HPを戻した彼女は、下がったグレイスと交代するように、ジルベールに向けて斬り掛かった。
勢い込んで振るわれた聖乙女の剣の一撃は、残念ながらジルベールに避けられてしまう。
だが、彼女はそのまま回転するように、左手の聖乙女の盾を横凪ぎに振るった。
その躍動的な動きに応えるように、盾が赤色の燐光を引きずって加速する。
「チッ――」
流石に、簡単に回避するような勢いではなかったのだろう。
ガキッ!という派手な音と共に、ジルベールは剣でシールドブロウを受け止めた。
瞬間、ジルベールはその口から、真っ黒な呪弾を吐き出してくる。
セレスティアはその魔力の塊を、右手の聖乙女の剣で受け止めようとした。
だが、ジルベールの大きな魔力は、反発力で聖乙女の剣を彼女の手から弾き飛ばしてしまう。
「セレス――!」
武器を失ったセレスティアを見て、シルヴィアが思わず息を飲んだ。
「まだ行ける!!」
盾だけになってしまったセレスティアは、肩から押し込むように盾の一撃を仕掛けると、ジルベールの動きを止めることに成功する。
セレスティアはそのまま盾を打ち捨て、気合の声を上げながら突進した。
「ハアアァァッッ!!」
「何!?」
その手には、盾の裏に忍ばせた“短槍”が握られている。
ジルベールは流石に、隠れた武器が出て来るとは思っていなかったようだ。見た目でヤツの回避が、明らかに遅れたのが判る。
短槍は串刺しのスキルを発動させ、光を放ちながら切っ先を加速した。
「グハッ――!」
光はジルベールの脇腹を掠り、ヤツの青黒い血液を撒き散らす。
短槍は付与魔法が掛けられていない分、大きなダメージに繋がらない。
だが、ジルベールはセレスティアの勢いに押され、数歩後ろに後退した。
そして――その後退した場所で、待ち受けていた“影”がある。
グレイスだ。
彼女は後方から不意打ちを仕掛けると、攻撃力に優れる運命の短剣でジルベールの背中を目一杯に斬り上げた。
「グアアァァッ!!」
腰から首近くまでを斬り裂かれたジルベールは、これまでで最も大きな悲鳴を上げる。
明らかに苦痛に顔を歪ませたジルベールは、憎しみを湛えた視線で後方のグレイスを睨み付けた。
俺はヤツの反撃を見越して、立て続けに氷弾を打ち込んでいく。
ジルベールはそれに気づくと、左腕を盾にしながら俺の魔法を防ごうとした。
盾代わりにした左腕に氷弾が張り付き、ヤツの腕を凍結させていく。
俺はある種の確信を持ちながら、ジルベールの状態を確認してみた。
やはり、思ったよりもずっとダメージが大きい。
それが、弱点なのかどうかは判らない。
だが間違いなく、ジルベールは“火”と“水”の属性攻撃に、何がしかのペナルティを抱えている――。
ジルベールは俺の氷弾をやり過ごすと、今度は俺に向き直って斬り掛かって来た。
それを追うようにセレスティアが、手にした短槍を側面から投げつける。
だが、流石にジルベールはその攻撃を食らう程、簡単な相手ではない。
セレスティアが放った短槍は、ヤツが振るった剣によって簡単に弾かれてしまった。
ジルベールは薄く笑みを浮かべながら、左手に持つ『禁書』で剣に付与魔法を施す。
何の付与魔法なのかは判らない。
ヤツの持つ波打つ剣はその魔法を受けて、刀身を真っ赤に輝かせていた。
俺は振り下ろされる斬撃を防ごうと、魔壁を二重に展開しながら賢者の杖を構える。
俺が杖を構えた瞬間――近づいて来たジルベールの表情が、ニヤリと動いたような気がした。
しまった――! と思った時には、もう遅い。
俺は赤く燃える刀身を見て、試練の塔で闘ったクルトの報復の短剣を思い出すべきだったのだ。
クルトは報復の短剣をして、「何でも斬ることができる」と豪語していた。
――そう、“何でも”斬ることができるのだ。
「止められはせぬ!」
得意げな台詞と共に振り下ろされた剣は、あっさりと二重の魔壁を斬り裂いてしまう。
そして赤く燃えた波打つ剣は、そのままの勢いで賢者の杖に激突した。
「くっ――!」
一瞬散った火花の後には、無残にも真っ二つに斬り折られてしまった賢者の杖が残る。
ジルベールの剣は、さらに俺の胸元を浅く斬り裂いた後、ようやく赤い光を散らせた。
俺は手の中に残った賢者の杖を見て、その事実に呆然としてしまう。
そして、右手と左手で二つに分かれてしまった賢者の杖は、一瞬小さな光を発した後に、跡形もなく消え去ってしまった。
「ケイ、賢者の杖は『宝物庫』に戻っただけです!!」
俺を気付けるように、グレイスの叫び声が飛ぶ。
その声に後押しされるように、俺は防護結界を張って後方へ飛び退った。
ジルベールは俺が結界を張ったのを見て深追いせず、後退して間合いを取る。
一瞬、賢者の杖を失ってしまった事実に、思考が完全に停止してしまった。
破壊されたのではなく『宝物庫』に戻っただけなら不幸中の幸いだが――問題はこの場に『魔人の武器』が存在しなくなったことだろう。
これで俺は同族の使徒であるジルベールを、倒す手段を失ったことになる。
ジルベールは俺たち四人に取り囲まれながらも、俄然余裕を取り戻した表情になっていた。
そして、俺を嘲るような笑みを浮かべ、先ほどのやり取りをなぞるような言葉を掛けて来る。
「――さて、どうする。武器もなく闘うか。
このまま闘いを続けたとて、この娘たちだけで本当に儂を倒せるのか?
もはや、お主らの不利は動かぬ。
それともまだ、闘う手段を残しているとでも言うのか」
状況は、先ほどとは完全に逆になっていた。
俺は禍々しい姿のジルベールを睨み付けながら、軽く唇を噛み締める。
ジルベールは俺たちに比べれば、圧倒的にレベルも攻撃力も高い。
そして、計り知れない力を持つ――『禁書』を所有している。
俺たちがヤツに打ち勝つには、基本的に不利である状況を変えるだけの“力”を持ち合わせる必要があった。
だが、大きな力を持つ賢者の杖は、俺の手から失われてしまっている。
有効な手段を失い、消沈した面持ちの俺たちには――ジルベールの問い掛けに対する答えがない。
誰もが無言のまま、発する言葉を失った時――。
その沈黙を破ったのは、俺の記憶を呼び覚ます“一言”だった。
「手段は――あります」
ポツリと放たれたその言葉に、俺は目を見開いて透き通る声の主を見る。
彼女は俺の視線を受け止めるように、決意に満ちた目で俺を見つめていた。
「グレイス――」
俺はその意図を汲み、即座に動き出して仲間に指示を出していく。
「シルヴィ、セレス、保たせてくれ!!」
シルヴィアとセレスティアは俺の言葉を聞いて、即座にその指示の意味を理解した。
「任せろ!!」
「了解!」
彼女たちの声色に、明らかに力が戻る。
全員がグレイスをカバーする布陣を取ると、俺は追加でシルヴィアに指示を出した。
「シルヴィ、火だ。火を使え!!」
「了解! ――フフ、良かったわ。
火を使うなって言われたら、どうしようかと思ったの!」
魅力的な笑みと共に、意外に余裕を感じる返事が返ってくる。
グレイスは戦線から後退し、隠者の長剣を真横に構えて目を閉じた。
俺はグレイスを護るよう傍に移動し、彼女を防護結界の範囲内に収める。
戦闘音の響き続けた迷宮の中に、グレイスの透き通る声が穏やかに紡がれていた。
「そう易々と行くと思うのか!!」
ここまで来ると、ジルベールも俺とグレイスが何をしようとしているのかに気付いている。
だが、ジルベールの動きを、セレスティアが割り込んで遮った。
「それはこちらの台詞だ!!」
セレスティアは斬撃と光弾を組み合わせ、ジルベールに応戦する。
「そうよ、ここは突破させないっ!!」
シルヴィアは俺の指示通り、派手に爆炎を周囲に放ち始めた。
地面に落ちた炎の塊が、セレスティアを巻き込む程の火柱となって、何カ所にも立ち上がっている。
ジルベールは突進の勢いを止められ、忌々しげに炎を避けようとしていた。
俺はグレイスの真後ろに回り込むと、静かに詠唱が終わるのを待つ。
グレイスの向こう側には、闘うシルヴィアとセレスティアの姿が見えていた。
俺は祈るような思いで、彼女たちの闘いを見守る。
グレイスは飽くまで静かに詠唱を続け、意識を集中させていた。
俺は一旦グレイスの肩に手を置くと、その身体を後ろから抱きしめるように、両手を伸ばしていく。
「――あっ――」
俺の手が触れる感覚に、グレイスが小さく声を上げた。
これまで一度の戦闘で、二度に渡って『魔人の武器』を取り出したことはない。
グレイスに掛かる負担を考えれば、正直積極的には採りたくない選択肢だ。
だが彼女は俺を信頼し、その身を預けてくれている。
彼女の肌はこぼれ落ちそうな程に、俺の手を柔らかく押し返した。
そしてその暖かさが、俺の手の平を通して直接伝わってくる。
俺はふと、その温もりがジルベールに奪われそうになっていたことを思い出した。
一瞬襲った胸を締め付けるような感覚に、俺は思わず柔らかな肌を掴む手に力を籠めてしまう。
俺はそれを誤魔化すように、後ろから彼女の身体を強く抱き締めた。
「ああっ――んっ――!」
俺の興奮に応えるように、彼女の中の興奮が、次第に固く尖ってくる。
俺は火照った指先で、その突起を小さく押し返した。
俺はこの温もりを、手放す訳にはいかない。
俺はこの暖かさを、誰にも奪われたくはなかった。
俺は目の前の女性を――この腕の中に、繋ぎ止めておきたかったのだ。
「はっ――ああぁ――ケイ!!」
詠唱が終わり、一際高く俺の名前が叫ばれた瞬間――。
周囲を真っ白に変える程の光の束が、その空間に立ち籠めた。
キラキラと輝く、目を背けたくなる程の強い光――。
その光の中にある俺の手に、確実な感触が生まれてくる。
グレイスを後ろから抱きしめていた俺は、その両手の中のものを、真上の方向へと引き出していった。
右の手にも、左の手にも――確実な柄の感触が存在している。
徐々に明らかになっていくその姿に、俺は彼女と歩んだ記憶を思い出していた。
そして、俺と彼女の記憶の中に――この武器は、ある。
それは俺とグレイスが初めて出逢った日に、
二人を救い、二人の“宿命”を決定づけたもの。
――魔人を倒す、『魔人の剣』。
俺の手には、赤く燃える炎帝の剣と、紫に凍てつく氷帝の剣が、握られていた。