085 隔絶
無色透明の魔力の塊が空間を切り裂き、走り抜ける。
ジルベールに到達した魔法の砲弾は、周囲にドスンという重い衝突音を響かせた。
周囲の空気が、その威力を表すように震えている。
今の衝撃は、決して小さくない。
だがその攻撃は――老人の身体にまで、到達していなかった。
ジルベールの身体を半ば包み込むように展開された“見えない壁”が、老人を護り、魔力の塊を霧散させている。
辺りに散った魔力が、行き場を失って周囲の空気をビリビリと軋ませているのが判った。
ジルベールが展開した透明の壁は、重い衝撃を受けてもヒビひとつ入っていないようだ。
壁は魔弾・特大を受け止めた後も、磨かれたガラスのように僅かに周囲の光を反射し、存在感を示していた。
俺は、ジルベールの状態を確認したことで、ヤツの属性に関する情報を既に得ている。
目の前の老人は――俺が初めて対決する、無属性の魔法使いだ。
今ジルベールの身体を護ったのは、俺の無属性魔法である魔壁に相当する防御魔法に違いない。
そして――俺がそうであるように、無属性の魔法使いは使える“属性”に縛られない。
この闘いにおいては六つある属性魔法の、どの魔法が飛んできたとしても不思議ではないということだ。
見ればジルベールはその場から全く動いておらず、不敵な笑みを浮かべて表情も変えていない。
俺は正面にいる老人に改めて狙いを付けると、賢者の杖を掲げた。
直後、込められた魔力が光刃と魔弾になって、ジルベールへと撃ち出されていく。
だが、ジルベールは飛翔の効果で浮き上がったまま、避ける素振りすら見せていない。
弾速の違う二つの魔法は、光刃が先に、魔弾が後になる形で、順に老人へと襲い掛かった。
光刃がジルベールを護る透明の壁に激突した瞬間、無色透明の壁はカシャンという小気味よい音を立てて崩れ落ちる。
そして後から到達した魔弾が、今度こそジルベールの身体に激突する――。
はずだった。
「無効化した――?」
ジルベールを護る透明の壁は、破壊できていた。
だが、その壁の内側にもう一枚、ジルベールの身体を包み込む結界が現れて、俺の魔弾を完全に遮断してしまった。
この世界においては、同族同士の攻撃が無効化されてしまうのは知っての通りだ。
だが、今の魔法は同族使徒を傷つけることができる賢者の杖を通して放っている。
つまり俺の魔法が遮られた要因は、別に存在するのだ。
「ケイ、あの水晶球――!」
シルヴィアが指摘した先には、ジルベールの左手に握られた妖しげな水晶球がある。
見ればその水晶球は、明らかに魔法の光と思われる輝きを湛えていた。
シルヴィアがその働きを確かめるように、ジルベールに向けて炎弾を叩きつける。
だが――結果は同じだ。
やはりジルベールの身体の周りには、見えない球形のフィールドがある。
シルヴィアが放った炎弾は、そのフィールドに遮られて簡単に掻き消されてしまった。
「魔法を無効化する――魔法の道具のようだ」
自分自身の言葉を聞いて、俺は大鬼の王が持っていた“魔法の腕輪”を思い出す。
『竜の狩り場に至る迷宮』の中で対決した大鬼の王は、全ての魔法を無効化する“腕輪”を持っていた。それに相当するものが、あの水晶球なのかもしれない。
ジルベールは俺とシルヴィアが仕掛けて来ないのを確認すると、若干痺れを切らしたように光刃を放ってきた。
俺は咄嗟に魔壁で遮ったが、魔壁は一撃で粉々に砕け散ってしまう。
光刃は本来、物理的な衝撃を伴わない魔法だ。
だが、純粋な魔力だけで魔壁を一撃で破るのだから、ジルベールの魔法力は相当高いに違いない。
「シルヴィ、魔法攻撃は意味がない。
ひとまず護りを固めていてくれ」
「了解」
俺がシルヴィアにそう言うと、赤毛の美女は俺に片目を瞑りながら応答した。
迷宮内には、ジルベールが『禁書』を用いて展開した結界が張られている。
ジルベールの言葉が真実なら、この結界は空間魔法を封じるためのものだ。
結界の内と外を跨いだ転移はもちろん、恐らく結界内を移動するための戦闘転移も封じられていると考えた方がいいだろう。
だが、賢者の杖を持った俺には、もう一つの転移方法がある。
光の属性魔法である、光の転移だ。
俺は自分とシルヴィアに行動加速の魔法を掛けると、倍化した速度に乗ってジルベールの方へと駆け出した。走る俺が手に持つのは賢者の杖であって、物理攻撃に向いた支配者の魔剣ではない。
――ダメージの大小ではないのだ。
物理攻撃が有効な手段かどうかを、俺は確かめる必要がある。
俺が突進の勢いそのままにジルベールに躍りかかると、ヤツはその場から全く動かず、防御の構えすら見せようとしなかった。
これも“無駄”だというのか――!?
俺の脳裏に、この後の闘いの厳しさを予期する言葉が過ぎる。
俺は両手で振りかぶった賢者の杖を、構わずジルベールに叩きつけようとした。
しかしその攻撃は、老人の身体に到達する前に、水晶球の結界とは“別の結界”によって遮られてしまう。
「防護結界か――!」
ジルベールを包む防護結界に賢者の杖が激突し、火花のような光が飛び散った。
空中で受け止められた杖は、力を込めてもこれ以上押し込むことができない。
だが――防護結界は、物理攻撃を防ぐための一般的な魔法だ。
わざわざこの魔法を併用しているということは、水晶球によって展開されている結界では、物理攻撃を防げないからだろう。
つまり水晶球の結界は、魔法しか防ぐことが出来ないのだ。
手を伸ばせば届くほどの距離に俺が近づいたことで、ジルベールは流石に反撃を仕掛けてくる。
ヤツが持つ『禁書』が俺に向かって掲げられると、それを中心にしてゆらりと大きな魔力が生まれてきた。
この至近距離では、魔壁の展開が間に合いそうにない。
俺は意識を集中し、光の転移の魔法でその場を逃れようとするが――。
「チッ――!」
光の転移は発動しなかった。
空間魔法だけではない。光属性魔法であっても、空間を行き来する魔法は全て無効化されてしまっている。
俺は仕方なく、直後に発射された岩弾を、身を捩って避けようとした。
だが回避は間に合わず、岩弾は俺の左肩を容赦なく打ち付ける。
通常、俺が受ける痛覚と衝撃は、大部分を審判の法衣が軽減してくれる。
とは言え今回は喰らった魔法の威力が大きい。
俺はダメージを受けた左肩を中心に、激烈な痛みを感じた。
「ケイ!」
シルヴィアが声を上げながら、炎弾でジルベールを牽制する。
俺は行動加速の加速に乗りながら、後退して自分に大回復を掛けた。
「――物理攻撃もダメだ。
更に結界内は、空間魔法も光の転移も、無効化されている」
俺の呟きを聞いて、シルヴィアの表情が厳しく引き締まる。
ジルベールは後退した俺を見ながら、嘲るように言い放った。
「フッ――。
その杖があれば、儂を傷つけられると思っていたか」
俺はその言葉には反応を返さず、改めて目の前の老人の状態を見極めようとした。
――ジルベールが展開している防護結界には、何と四〇分近くの効果時間があるようだ。
防護結界は、術者の練度や込める魔力によって、効果時間が延びる性質がある。
俺が展開できる防護結界は最大でも五分。そこから考えれば、この魔法に対するジルベールの練度は、並大抵のものではない。
そして、ヤツが左手に持つ魔法の道具は、『隔絶の水晶球』と呼ばれるもののようだ。
その『隔絶の水晶球』だけを更に“凝視”すると――この魔法の道具に関する詳細が、目の前に浮かんでくる。
そこには、「八分間、自ら放った魔法を除いたあらゆる魔法を隔絶する結界を張ることができる」という説明文が表示されていた。
――説明文から解釈すると、ジルベールから放たれる魔法は俺たちに届き、俺たちが放つ魔法は結界に阻まれるという、非常に都合の良い結界であることが判ってくる。
その結界が――八分間。
八分という時間を心に刻み込むと、あの時の情景が昨日の出来事のように思い起こされた。
魔人クルトの罠に嵌まり、捕縛を受けてしまった時。
あの時の“八分間”――。
クライブは最後まで、俺たちを守り抜いてくれた。
俺は彼の真面目で優しげな表情を思い起こし、改めて自らの決意を心の中に抱く。
俺は、この八分間を闘い抜かなければならない。
望むべくはクライブ――ほんの、少しでいい。
俺に――俺に、闘い抜く力を貸してくれ――!!
「どうするの、ケイ!?」
有効な攻撃手段が見出せない状況に、シルヴィアが焦りの声を上げる。
「兎に角、時間を保たせるんだ。
時間が稼げれば、きっと糸口が見つけられる」
俺は厳しい表情でシルヴィアに答えながら、エイダと闘い続けるグレイスたちの様子を窺った。
グレイスたちの状況を確認すると、どうやらエイダはこれまでとは違って、グレイスを執拗に追い立てているようだ。
だが、エイダが仕掛けている攻撃は、大袈裟で荒い。
グレイスは振るわれる斧を、それ程苦もなく回避し続けている。
恐らく隙をついて反撃をすれば、グレイスはエイダにダメージを与えられるだろう。
しかし彼女は無理をせず、回避に専念しているように見えた。
そのエイダの後方からは、セレスティアが攻撃を仕掛けている。
エイダがグレイスを追いかけ続けているため、セレスティアとエイダの間には、どうしても剣の間合いよりも広い距離が空いてしまう。
彼女はその距離を埋めるために、聖乙女の剣から放たれる光弾を使って攻撃していた。
次々に光弾を喰らうエイダの背中には、ダメージを象徴する黒焦げが何か所にも広がっている。だが残念なことに、それが致命的なダメージに繋がるとは思えなかった。
それでもセレスティアは、偶にエイダの足が止まるタイミングを計って聖乙女の剣で直接斬りかかっている。しかしそれも、与えているダメージは切り傷程度に過ぎない。どちらの攻撃も、やはり有効打には見えなかった。
俺の注意がエイダの方に動いたのに気付いたのか、ジルベールから風刃が飛んでくる。
進み出たシルヴィアが、それを岩壁で防ごうとしたが、俺はそれを押し止めて、光の結界を発動した。
光の結界は俺と側にいたシルヴィアを包み込み、ジルベールが放った風刃を完全に吸収してしまう。
正に時間稼ぎという形でしかないが、確実に攻撃を防ぎ、時間を稼げる策を選択した格好だ。
ジルベールは俺が安全策を採ったのを見て、薄く嘲笑を浮かべた。
不敵な笑みを浮かべる老人の背中側には、グレイスの姿が見えている。
そのグレイスの姿は、背中を見せたジルベールに向かって、斬りかかろうとしているように見えた。
「グレイス、無理よ――!!」
グレイスの狙いに気づいたシルヴィアが、思わず声を上げる。
ジルベールは防護結界を展開しているため、物理攻撃を受け付けない。
そして、グレイスの後方にはエイダが居て、彼女に追い縋ろうとしていた。
このまま行けばグレイスは、振り返ったジルベールとエイダに、挟み撃ちにされてしまうだろう。
グレイスの動きに気づいたジルベールは笑みを崩さないまま、振り向きざまに炎弾を放った。
その攻撃は、背中側から斬りかかってくる彼女の位置を完全に特定してしまっている。
――だが、どうやらこの状況は、グレイスの狙い通りだったようだ。
グレイスは前へ滑り込むように回転しながら、ギリギリの距離で炎弾を回避した。正に、間一髪だ。
そして外れた炎弾は、真後ろでグレイスを追っていたエイダを直撃する。
「ガアアァァッ!!」
味方であるはずのジルベールの魔法を食らったエイダは、一瞬火だるまになって、叫び声を上げながらその場に転がった。
上手く同士討ちを誘って、有効打を与えた格好だ。
威力の高いジルベールの魔法を食らって、流石にエイダはかなりのダメージを受けている。
だが彼女たちの攻勢は、それで終わった訳ではない。
今度はエイダの後方から迫っていたセレスティアが、未だ立ち上がれないでいるエイダとジルベールの間に滑り込むように割り込んだ。
「ハアアァァッ!!」
セレスティアが気合の籠った声を上げ、足下の地面に聖乙女の剣を思い切って突き立てる。そこへ目一杯の魔力を込め、セレスティアが光の暴発のスキルを発動させた。
次の瞬間、地面に突き立った聖乙女の剣が放つ光の束が、周囲を巻き込んで大きく爆ぜる。
残念ながら、『隔絶の水晶球』と防護結界で身を固めるジルベールには、その衝撃は届いていない。
だが、倒れて立ち上がれないでいたエイダは、そのスキルをまともに食らう形になった。
「グアアァァッ――!」
エイダは起き上がりかけていた身体を再び叩きつけられて、もんどり打って仰向けに倒れ込んだ。
グレイスとセレスティアの連携攻撃が決まり、見事にエイダに対して大きなダメージを与えた。
二人の活躍を見たシルヴィアの表情が、パッと明るくなる。
その様子を見ていたジルベールは流石に笑みを消し、苦々しげな表情を作った。
「そうそう好き勝手にはさせぬぞ」
ジルベールは倒れたエイダがなかなか起き上がって来ないのを確認すると、セレスティアに向けて風刃の魔法を放った。
至近距離ではあったのだが、セレスティアはしっかりと反応してその魔法を盾で防ぐ。
だが、飛び散った風刃の余波が、セレスティアの身体に無数の切り傷を作った。
「チッ――」
「セレス、ダメだ! 距離を取れ!!」
俺はジルベールからの更なる追撃を予期して、舌打ちするセレスティアに向けて警告の言葉を投げかける。
俺の声に反応するように、シルヴィアが岩弾を放ってジルベールを牽制した。
間に合うか――!?
不安を抱きつつも行動加速で強化された速度に乗り、俺はジルベールへと突進する。
だが俺と老人の間には、刹那の時間では埋めきれないだけの距離が存在していた。
ジルベールは俺の存在など意に介さずに、右手に持った『禁書』をセレスティアに向けて振り上げる。
それに応じるように『禁書』には、これまでにない程の魔力が集中し始めた。
「何だ――!?」
その異常な魔力の集中を見て、思わずセレスティアは立ち尽くしてしまう。
「セレス、下がって!」
動きの止まったセレスティアを庇うように、グレイスが声を上げながらジルベールに斬り掛かった。
俺は直感的に、まずいと思った。
直後、ジルベールはセレスティアに向いていた『禁書』を、グレイスに向かって振り下ろす。
「グレイスッ!!」
俺の声も空しく、彼女は目に見えない巨大な棍棒の一撃を受けて、迷宮の壁近くまで吹き飛んだ。もはや回避や防御など関係のない、強烈な一撃だった。
吹き飛ばされたグレイスは苦痛の声すら上げられず、回転しながら壁にぶつかって、ようやく止まる。
彼女は即座に手をついて、何とか起き上がろうとした。
だが、その場で蹌踉めいて、口の端から吐血してしまう。
「グレイス――!」
ひょっとしたら、まだ命があっただけ幸いだったのかもしれない――。
少なくともグレイスの状態は、このまま戦闘に加わり続けるには無理があるように思えた。
そして――それを絶好の機会だと捉えたものがいる。
魔人エイダは徐に起き上がると、立っているのがやっとの状態のグレイスに襲いかかろうとした。
「させるか!」
それを見たセレスティアが割り込んで、エイダを何とか盾で押し止める。
俺は突進した勢いのままグレイスの側へと寄り添い、虎の子の賢者の祝福で完全な回復を試みた。
見る見る内にグレイスの状態は立ち直ったが、ふらつきまでもが即座に治まった訳ではない。
俺はグレイスの身体を光の結界の範囲に収めながら、エイダを魔弾で狙い撃った。
セレスティアと力比べになっていたエイダは、それを綺麗に回避することができない。
断続的に放った四つの魔弾は半分が外れたが、もう半分はエイダの身体に衝撃を与えた。
エイダは俺から受ける魔法を嫌うように、セレスティアとの対峙を解いて後退しようとする。
すると、怯んだエイダを逃がさないように、セレスティアがシールドブロウを放った。
エイダは斧を両手持ちに変えて何とか受け止めたが、セレスティアは続けて聖乙女の剣で斬撃を放つ。
ガチッ!という大きな接触音を周囲に放ちながら、エイダは聖乙女の剣を斧で受け止めた。
そしてその勢いのまま、二人は互いの武器を介して鍔迫り合いを始める。
俺はエイダの動きが止まったのを見て、これが最大の好機だと感じた。
俺は賢者の杖を掲げると、エイダに向けて意識を集中していく。
「――!?」
これまでに感じたことのない魔力に気付いたのか、エイダがキョロキョロと周囲を見渡した。
途端、エイダを取り巻く空間から黄金色の鎖が飛び出し、彼女の身体に纏わり付いていく。
「――ほう――」
ジルベールから感嘆の声が漏れたのが判った。
俺はその声を無視しながら、エイダを聖なる檻によって捕縛していく。
エイダは自分の身に纏わりつく鎖を引き千切ろうと、鍔迫り合いをやめてメチャクチャに暴れ始めた。
しかし――もう遅い。
まさに雁字搦めとでもいう形で、エイダの身体は無数に現れた黄金の鎖によって、その場に繋ぎ止められた。
「――その杖を持てば、そこまでの魔法を使いこなせるようになるか。
だが、さすがにそれは都合が悪い」
ジルベールは飛翔で浮きながら移動すると、エイダの側にいるセレスティアに向けて風刃を放った。
セレスティアは迫る魔法を回避して、エイダから離れて距離を取る。
ジルベールはエイダの側に近寄ると、『禁書』を掲げて魔力を集中し始めた。
すると、老人の求めに応じるように『禁書』から薄い光が漏れ、エイダを縛った黄金の鎖が無効化されていく。
聖なる檻を解除したジルベールは、得意気な笑みを浮かべて俺を見た。
俺は無言のまま、その視線を受け止める。
――『禁書』が持つ力は計り知れない。
このままでは、この闘いはかなり厳しい。
ジルベールの余裕は、『隔絶の水晶球』と『禁書』の組み合わせによって生まれている。
『隔絶の水晶球』がなければ、ジルベールは魔法防御に不安が生まれる。
そして『禁書』がなければ――ヤツは、俺を傷つけることができない。
つまり、『隔絶の水晶球』か『禁書』か――このどちらか一方を何とかできれば、この闘いには突破口が生まれるはずだ。
「さて――どうする。
まだお主に闘う手段はあるのか?
抵抗をやめ、お主が大人しく儂の“糧”になるというのであれば、そこの女どもの命は助けてやらんでもないが」
急にジルベールから提案された内容を理解して、俺は思わず鼻で笑ってしまう。
「フン、冗談抜かせ。
あんたの目的を考えたら、俺だけじゃなく少なくともグレイスも生かしておけないはずだ」
ジルベールは俺の回答を聞いて、ニヤニヤと品の悪い笑みを浮かべた。
「そうか。
ならば、その自尊心を叩き折るしかあるまいな。
お主が泣きながら許しを請うて、女の命乞いをするようにしてやろう」
俺はジルベールの得意げな言葉を聞いて、そこはかとない不安を感じた。
――何だろう? 何か、途轍もなく良くないことが起こる気がする。
生理的に受け付けない視線を浴びながら、俺は無意識のうちに半歩、後ずさった。
「グレイス、下がっていてくれ」
「――判りました」
グレイスは光の結界の有効範囲内にはいるが、ジルベールとの距離が近い。
俺は動きに不安の残る彼女を離脱させようと、後方に下がるよう指示した。
ジルベールはそれを見ると、次の瞬間、全く別方向にいるシルヴィアへ向けて炎弾を放つ。
「こっち!?」
シルヴィアは優先して自分が狙われるとは思っていなかったのかもしれない。
彼女は慌てた声を上げながら、放たれた炎弾を岩壁で受け止めた。
直後、ジルベールは氷雨でシルヴィアを追撃する。
広い範囲に攻撃ができる氷雨は意識の集中を必要とするため、発動中はどうしても移動が困難だ。戦闘中はそれが決定的な隙に繋がってしまうため、使いどころが難しい。
だが、ジルベールは隙を見せたところで、俺たちの攻撃を全く受け付けないのだ。
ヤツは懸念など感じずに、氷雨をシルヴィアに向けた。
「ちょっ、待って――やだ!」
シルヴィアは何とか魔法の効果範囲から離脱しようと、岩壁を次々に展開する。
しかし威力の強いジルベールの魔法は、簡単に岩壁を突き崩してしまった。
俺が駆け込んで光の結界で庇うには、距離があり過ぎる。仕方なく俺は魔壁でシルヴィアの防御をサポートした。
だが――それでもシルヴィアの離脱まで、持ちこたえることができない。
離脱の叶わなかったシルヴィアは、岩壁を突破した氷の礫によって、大きくダメージを受けてしまった。
「きゃああああっ――!」
「シルヴィア!」
防ぎきれなくなった氷雨を身体に受けて、シルヴィアはその場にバッタリと倒れ込んでしまう。
俺は何とかシルヴィアの側に到達すると、彼女を大回復で癒やそうとした。
それを隙だと認識したのだろう。ジルベールは回復魔法を発動している俺に向けて、風刃を放って来る。
具合の悪いことに、光の結界の効果時間が切れてしまった。俺は仕方なく大回復の発動を止め、慌てて魔壁を展開する。
何とか直撃は防いだのだが、細かく飛び散った風の刃が、俺と横たわるシルヴィアの身体にいくつもの切り傷を作った。
「ケイ、危険です!!」
グレイスの声に視線を上げるが、俺は今ほど受けたダメージに思わず目を顰める。
見ればジルベールが『禁書』を振りかざし、こちらに魔法を放って来ていた。
“光の輪”のようなものが三つ――。
それが、何の魔法かは判らない。初めて見る魔法だった。
俺は光の輪を魔壁で防ごうとするが、そのうちの一つが魔壁を迂回し、右足に直撃してしまう。
途端、光の輪は俺の右足と地面を結びつけるように変形して絡みついた。
「――――」
ダメージはない。だが、その場に拘束され、動きを封じられてしまった。
シルヴィアは、ジルベールに対して背を向け、俺に向かい合うようにして倒れている。目を閉じて、意識を失っているように見えた。
セレスティアがエイダと一対一の対決を演じているため、今動けるのはグレイスだけだ。
そして、そのグレイスも万全な行動は取れない。
ジルベールは俺が拘束されたのを見て、満足そうな笑みを浮かべた。
にやついた表情が、何とも生理的に気持ち良くない。
そして、その印象を確実なものにするように、ジルベールは俺が想像したくもない行動に出始めた。
「――そのまま、そこで見ているが良い」
老人の笑みが微妙に好色な色を含んでいるように見える。
そして、ヤツが向かったのは――グレイスの方向だ。
「貴様、まさか――!」
グレイスは自分に向かってくる老人の表情を見て、明らかに表情を曇らせた。
勘のいい彼女のことだ。自分自身に迫っている“危険”を察知したに違いない。
グレイスはジルベールの動きを警戒しながらも、追い込まれないようにその場から移動し始めた。
「儂は狙った獲物は、逃がさぬ質でな」
ジルベールはそう言いながら、グレイスに向けて光刃と風刃を放つ。
それらはグレイスに当てるために放ったものではない。
グレイスを“追い込む”ために、放ったものだ。
グレイスは矢継ぎ早に放たれる魔法によって退路を断たれ、次第に迷宮の壁際へと追い詰められていく。
ジルベールはニヤニヤと唇を歪めながら、ジリジリとグレイスへの距離を詰めていった。
「グレイスッ!!
――ジルベール、おい、やめろっっ!!」
俺は何とかジルベールの動きを制止しようと、声の限りに叫ぶ。
ジルベールは焦る俺を振り返ると、哀れなものを見下すように俺を見た。
目の前にいる敵は、齢七〇を超えようかという老人だ。
それだけを考えれば、こういう危険性は決して高くはなかった。
だが、ジルベールが見せる強い欲望は、性欲というものにも通じていたのかもしれない。
ジルベールはグレイスに向けて『禁書』を振りかざすと、俺に放ったのと同じ光の輪をグレイスに向けて放った。
光の輪はカーブを描いてグレイスに命中し、彼女の左右の腕と、左の太腿をガッシリと壁に固定してしまう。
「折角の美しい娘だからな。
ただ単に殺してしまうだけでは実に惜しい。
儂がお主の前で、存分に味わってやるわ――ヒヒヒ」
漏れ出た下卑な笑い声を聞いて、俺は目の前が暗くなるような錯覚に陥った。
確かに以前、王都へ至る検問でもこうした危険に遭遇したことがある。
だが、今まさに俺の目の前で危機に瀕しているのは、俺と肌を合わせ、心を通わせた女性なのだ。
「ケイ――」
彼女の縋るような視線を受けて、俺は自分の唇を食い破りそうになりながら、胸を締め付けられる思いに駆られる。
ジルベールはその意に反して、グレイスへとにじり寄っていた。
俺の心は、次第に煮えたぎるような感覚に支配されていく。
――ふとその時、闇に支配された俺の脳裏に、クライブの顔が浮かんだような気がした。
憎しみを募らせ、怒りに打ち震えるだけでは、この状況は打破できない。
彼は、決して諦めなかった。
最後まで、俺たちを守り抜いてくれた。
考えろ。手段はきっとあるはずだ。
俺は――、
俺は、諦める訳にはいかない!!
俺は即座に自分の状態を確認する。
今俺が動かせないのは、光の輪を食らった右足だけではない。左足も動かすことが出来ていない。
状態を見れば、その表示は「状態:拘束」となっていた。
自分の状態に載ってくる以上、この拘束は賢者の祝福で必ず抜け出せるはずだ。
だが、俺が単に拘束を抜け出しただけでは、この状況を変えることはできない。
俺はジルベールとヤツの持つ魔法の道具を改めて“凝視”し――あることに気づく。
そしてそれを確実なものにするために、シルヴィアの状態を確かめた。
――と、その時、俺の足元でシルヴィアがピクリと動く。
彼女の目は見開かれていた。
既に意識は取り戻していたが、倒れたまま動かず、俺と向き合う形で戦況を窺っていたようだ。
俺は一瞬シルヴィアと視線を交わし、直後に彼女の左腕にある“腕輪”を強く凝視した。
伝わるだろうか――?
俺は彼女が持つ、“装備スキル”に期待を寄せている。
いや、もはや疑うまでもないだろう。
俺は心を通わせた彼女たちを――、
仲間を信じている――!
その意図を汲むように、シルヴィアは普段杖を握る右手を、そっと左腕の腕輪――明星の魔法盾に添えた。
見れば、グレイスは近づくジルベールの顔を避けようと、首を傾げて顔を背けている。
ジルベールはグレイスの側に近づくと、『禁書』を左脇に抱え、枯れ木のような右手をグレイスの胸元に掛けた。
その手が引き下ろされれば――グレイスの肌は、老人の目の前で露わになる。
グレイスは口惜しさを滲ませ、顔を背けたまま目を強く瞑った。
「――ハハ――」
俺は視線を地面に落としながら、笑い声を上げる。
その声を聞いたジルベールは、流石に動きを止め、俺の方へと振り返った。
「――アハハハ――アハハハハッ!!」
俺は次第に声を高め、怪訝な表情を見せる老人を視界に収めながら、大きく笑う。
流石に俺の笑い声が気になったのだろう。
ジルベールはグレイスから手を放し、『禁書』を持ち直して俺の方へと向きなおった。
「――何が可笑しい?
さては女を奪われそうになって、気でも触れたか」
俺はジルベールの言葉に、さらに嘲るような返答をする。
「いいや――そうじゃない。
俺はあんたのバカさ加減に呆れて、笑ってるのさ」
この状況で、そんな言葉を浴びせられると思っていなかったのだろう。
ジルベールは俺に、明らかに気分を害した表情を見せた。
「何だと?」
「あんた、その水晶球で結界を張っているようだが、そいつの効果時間は残りどれだけだ?
――どんな魔法にも制限はある。例え結界がある間は無敵だとしても、どうしても結界を張り直すタイミングには隙が生じる」
「――――」
「あんた――俺に隙を見せるまで、あとどれくらいの時間がある?
女をいたぶっている余裕があるのか?
時間が過ぎるごとに、あんたは俺に隙を見せる機会が増えていく。
だが――俺はそう簡単には死なない。
そうだろう?
あんたが、俺を、そうしたんだ」
ジルベールは俺の言葉に、不満そうな表情を作る。
ヤツは当然この闘いで、自分が負けるような未来は描いていない。
実際ジルベールが欲する『宝物庫』と『俺』というピースが、それぞれ単独でヤツと対峙していれば――なす術もなく翻弄されていたことだろう。
だが、今ここにはその二つのピースが組み合わさって存在している。
それは両方を欲するジルベールからすれば、同時に二つを手に入れられる好機でもあるのだろう。
しかしながら一方でそれは、『同族を傷つけることができる成長したクランシーの使徒がいる』という、ヤツの身にとっての危険性を孕んでいるのだ。
ジルベールの心の中に、その危険性に対する懸念が少しでもあれば、ヤツは俺の発言を無視することはできない。
俺はそこに――付け入る必要があった。
「お主、儂を挑発するつもりか」
俺の意図を推し量るように、ジルベールが言葉を返してくる。
俺は額から汗を滲ませながらも、できるだけ不遜に見えるように笑った。
俺の心に余裕はない。
だが、俺の頭は余裕を見せろと命じている。
――そうだ、俺はジルベールを“挑発”しなければならない。
「あんた、この状況を楽しんでいるように見えて、ひょっとしたら俺を倒すだけの実力がないんじゃないか?
そもそも俺の力を奪おうとしている時点で気づくべきだったが――。
実はあんた、それほど強くないんだろう?
そもそも他を圧倒できる強さがあれば、俺の力を奪うなどという発想は必要ないはずだ」
ジルベールは静かに目を閉じ、直ぐには反応しなかった。
だが即座の反応がないだけに、ヤツの中で渦巻いた怒りが大きいものであることを想像することができる。
「お主、進んで儂の怒りを買おうというのか。
――ならば望み通り、優先して処分してやるわ。
お主が死んで、絶望に苛まれる女を甚振るというのも、悪くはないだろうしな」
悪辣な台詞を吐き出しながら、ジルベールは俺の方へ『禁書』を掲げた。
ヤツの左手に『隔絶の水晶球』が握られているのは変わらない。
直後、『禁書』に大きな魔力が集中し、渦巻いた魔力がそのまま砲弾となって放たれた。
周囲の空気を押し破るように、透明の砲弾が真っ直ぐ俺に向けて突き進んでくる。
それはまるで、俺が使う魔弾・特大の強化版のように見えた。
まともに食らえば、当然無事では済まない。
だが、俺は迫り来る魔力の塊を見て、思わず笑みを漏らした。
――こんなに簡単にいくとは思わなかった。
こんなに簡単に、“引っかかって”くれるとは思っていなかった!
次の瞬間、目の前で倒れていたシルヴィアがスクッと立ち上がり、俺の前方に割って入る。
身体は満身創痍のままだった。破れたローブとチュニックが、魅惑的な彼女の肢体を惜しげもなく露出させている。
だが、彼女の目は自信に満ち溢れ、自分の役割をハッキリと認識しているように見えた。
シルヴィアはその手に杖を持っていない。
彼女が両手で掲げたのは、左手の腕輪――明星の魔法盾が展開する魔法の盾だ。
これ以上ない程の魔力を受けて展開された魔法盾は、シルヴィアの半身を覆い隠すほどに大きくなり、真紅の光を帯びて輝き出す。
シルヴィアは得意気な表情のまま、迫り来る魔法の砲弾を明星の魔法盾でガッシリと受け止めた。
砲弾と盾が接触した瞬間、高圧の電力が弾けるように、空気を劈く閃光が駆け巡る。
「お返しするわよ!!」
そして――彼女の言葉の通り、盾と衝突した砲弾は、まるで鏡にでも当たったかのように進行方向を一八〇度転回した。
「――何!?」
魔法の弾丸はまったく逆の軌道を描き――ジルベールへと一直線に襲い掛かる。
ヤツの焦りに満ちた表情が、これが想定外であったことを表していた。
ジルベールは当然、俺やシルヴィアから何らかの攻撃を受けることは想定していたはずだ。
だが、ヤツには『隔絶の水晶球』と防護結界がある。
例え俺やシルヴィアがどんな攻撃を仕掛けたとしても、結界がある間はヤツを傷つけることはできなかっただろう。
だからジルベールは、それ以上に身を護る手段を講じる必要がなかった。
そして、俺はジルベールとの会話の中で、結界が切れた“後”がジルベールの隙になることを示唆した。
逆に結界がある間は、ジルベールが安全であることを刷り込んだ。
結果としてヤツは、結界の効果が切れた“後”の対処に意識を向け、結界がある間のことに意識を向けようとはしなかったはずだ。
――そう、ヤツは『隔絶の水晶球』で作られた結界の効果時間中に、結界を突き抜けて来る攻撃があることを、全く想定していなかったのだ。
ジルベールが放った魔法の砲弾は、明星の魔法盾の装備スキルである『反射壁』によって跳ね返され、そして『隔絶の水晶球』の「“自ら放った魔法を除いた”あらゆる魔法を隔絶する結界」をアッサリと通り過ぎて、ジルベールに襲いかかった。
次の瞬間、身を捩ったジルベールの近くから、硝子の割れるような破壊音が響き渡る。
見れば地面に落ちた『隔絶の水晶球』が、破片を鏤め、周囲の光を乱雑に反射していた。
直後、ヤツを護り続けていた結界が――消える。
俺は賢者の祝福を使って拘束を抜け出すと、駆け込みながら光刃と風刃を立て続けに放った。
ジルベールはグレイスから離れながら、それを何とか回避しようとする。
だが、これまで結界に護られていたジルベールは、十分な回避行動を取ることができなかった。
「――ぐっ!?」
風刃がジルベールの顔を掠め、切り裂かれた頬から青黒い、魔人の血液が噴き出す。
ジルベールは表情を怒りに変え、俺とシルヴィアを睨み付けた。
「おのれ――!!」
俺は賢者の祝福でグレイスの拘束を解くと、ニヤリと笑いながらジルベールの前へと進み出る。
「さあ、第二ラウンドと行こうじゃないか」
俺は闘い抜く決意を胸に――、
賢者の杖を、改めて強く握りしめた。






