079 願い
まだ、夜が明ける時間ではない。
周囲は飽くまで静かに、暗闇を湛えている。
重なった身体の輪郭を強調するように――窓辺からは、月と星の光が差し込んできていた。
身体に寄り添った、柔らかくしなやかな肢体を感じることができる。
俺を背中から抱きしめるように、嫋やかなグレイスの手が、俺の胸を擽っていた。
背中には何とも言えないボリュームの、柔らかい感触がある。彼女はそれを容赦なく押しつけるように、俺の身体に回した腕に力を込めた。
「何だか――不思議な気分です」
背中から、ポツリと声が聞こえる。
「――そうか?」
俺は背後から抱きしめられるままに、それに答えた。
「いいえ、こうなったことが不思議だという意味ではなく――」
何を取り繕うとしたのか判らないが、微妙にこうなったのは自然だと断言されているようでもある。
グレイスは、自分の言ったことに小さくフフフと笑うと、そのまま言葉を続けた。
「――フフ、怒らないでくださいね。
ケイは何となく――似ているんです。
――わたしの父に」
俺はそれを聞いて、思わずグレイスの方へ振り返る。
顔を合わせると流石に恥ずかしいのか、彼女の頬が上気するのが判った。
「お父さん――?
――ユルバンか」
「ええ。
顔がソックリということではないのですが――。
ちょっと自信家で、でも脆さも持っていて――最後には自分が信じたことを成し遂げる人。
背丈も声色も、喋り方も少し似ています。
そして――優れた魔法使いであるところも」
俺はユルバンに似ていると言われたことよりも、彼女の父が魔法使いだったことを意外に思った。何となくだが――ユルバンは、戦士だと思っていたのだ。
「ユルバンは――魔法使いだったのか」
俺がそう言うと、グレイスは少し微笑んで、俺に一つの問いかけをした。
「ケイは、“宝物庫”から現れた魔人の武器の――“名前”を覚えていますか?」
「――ああ」
俺はそう答えると、これまで手にしてきた武器の姿と名前を、順に頭に思い浮かべた。
そして、まるでそれをなぞっていくように、グレイスがその名前を読み上げていく。
「炎帝の剣、『フランチェスカ』。
氷帝の剣、『ヴァイオラ』。
雷斧、『ジーベルト』。
宝剣、『アレクサンダー』。
水晶剣、『アガト』。
魔弓、『イシュメル』。
――ですが、一つだけ違うものがあるのです」
俺の頭の中にあって、グレイスが読み上げなかった名前が一つあった。
「――『賢者の杖』か」
俺がそう言うと、グレイスはニコリと微笑む。
「正解です。
『賢者の杖』には、“固有名”がないんです。
“宝物庫”に収められた魔人の武器には、それを元々持っていた『魔人』の名前が固有名として付けられています。
ですが、『賢者の杖』にはそれがありません。
何故なら――『賢者の杖』は、父が使っていた武器だからです」
ユルバンの武器――。
つまり、“宝物庫”を受け継いだ本人の武器ということだ。だから武器を識別するための名前が付いていなかったということか。
「――父は“闇属性”でした。ですので光属性の魔法を習得することはできません。
優れた魔法使いだった父は、光属性以外の全ての属性を習得し――、
そして、最後の光属性魔法を、『賢者の杖』を持つことで、使うことができたのです。
その杖を持つことで、六つの属性全てを使いこなせるようになった父は、人々から『賢者』と呼ばれるようになりました。
そして、父を『賢者』たらしめる杖を――『賢者の杖』と呼んだのです」
聞いてみれば、名前一つにちゃんとした理由があることが判る。
「なるほどな――。
でも、グレイスの親父さんはどうだったか知らないが、俺はどうも『賢者』と呼ばれるのが、くすぐったくてな――」
俺が眉を顰めながらそう言うと、グレイスはニッコリと笑みを浮かべた。
「――やっぱりケイは、父に“似ています”」
その実感を込めた言葉に、俺も思わず微笑んだ。
――だが、俺は何となくその言葉に、引っかかりを覚える。
あれ、“似ている”?
どこだっただろう、どこかで同じ台詞を聞いたことがあったような――?
俺は思い返しながらグレイスの顔を見て、短時間でそれが思い当たる瞬間を探し当てた。
――そうだ、レーネだ。
彼女が俺に、“詰まらぬところが似ている”と言ったんだ。
誰と似ているかは言ってくれなかったが――声色からも、それは彼女にとって大切な人であるような気がした。
俺の中にレーネの台詞が甦った時、頭に思い浮かべたレーネとグレイスの顔が、一瞬被るように重なって見える。
そう言えば、レーネが眼鏡を取ったときの顔は、グレイスと似ているようにも思えた。
――そう考えた瞬間、俺の頭の中に“まさか”という考えが過ぎり、それをあまりよく考えずに、発言してしまう。
「グレイス、ちょっと訊きたいんだが――。
まさか、グレイスの母親って、“レーネ”って名前じゃないよな?」
俺が唐突な話を振ったせいか、グレイスは俺の質問に一瞬目が点になっている。
「いいえ、違いますが――」
その想像は、即座に否定された。
――だが、よく考えれば当たり前のことだ。
グレイスの母親は『魔人』ではない。人間だ。
それに彼女の母親は無属性という話だったはずだ。レーネは水属性であって、無属性ではない。
だからレーネが母親であるはずがないのだ。あまり良く考えずに、思わずバカな質問をしてしまった。
――ところがその後グレイスが見せた反応は、俺の予想にないものだった。
「ケイ――まさか、“レーネ”に会ったのですか?」
「――へっ?」
俺はそのグレイスの発言に、思わず裏返った声を返してしまった。
今、彼女は何と言った? グレイスは、レーネを知っている?
ところがその直後に出てきたグレイスの発言は、更に俺を驚かせるものだった。
「レーネは――、
レーネは、父の“妹”、
つまり――わたしの“叔母”なのです」
「えっ――。
えええええええええっっ!?」
夜中に大きな声を上げてしまったことに気づき、俺は思わず自分の口を両手で押さえる。
世間が狭いどころの話ではない。とんでもない家系図を知ってしまった。
レーネが言った「似ている」という発言は、俺が彼女の兄に似ているということだったのだ。
俺の様子に、グレイスは神妙な表情になりながら、改めて質問の答えを求めてきた。
「やはり、レーネに会ったのですね」
「あ、ああ――。
深淵の迷宮の最下層で、『魔人』に会って話したと言っていただろう?」
「そうですか、あそこに――」
俺は確かにレーネの仕草を見て、グレイスのことを思い浮かべたことがある。
紅茶の趣味も――よくよく考えたら、同じだ。
偶に見せる俺への冷たい視線は――本人たちは否定するだろうが、よく似ているな。
何より二人とも切れ目の美人で――オッパイがデカい。
――何だ、よく考えてみたら、結構共通点があるじゃないか。
思わずニヤニヤしてしまった俺の顔を見て、不審に思ったグレイスが問いかける。
「ケイ、“まさか”、とは思いますが、叔母と――」
俺はそれを聞いて、慌てて言葉を返した。
ただ――若干、慌て過ぎたかもしれない。
「へっ!? いや、待て、ななな何のことだ!?」
「――――」
グレイスは、布団の中で俺の腕を抓った。思いっきり。
「痛てぇ! ご、誤解だって!」
「――もう」
グレイスがむくれて、背中を見せてしまう。
さっきまで抱きしめ合っていたのに――これじゃあ台無しだ。
俺が俯せになって自己嫌悪に陥っていると、グレイスが振り返って、苦笑しながらそっと俺の身体を抱きしめた。
「実は――、
わたしは父から“父親の違う妹がいる”と話を聞いただけで、叔母には会ったことがないのです。
だから、レーネの名前を聞いて――本当に驚きました」
俺はグレイスの顔を見て、彼女の身体を抱きしめ返す。
「そうなのか。
なるほど、父親が違うから兄妹で属性が――。
――どうする? 深淵の迷宮には楔が打ってある。
何なら開門ですぐに会いに行けるが」
だが、グレイスは微笑みながら首を横に振った。
「いいえ――。
その時が来れば、きっと運命が巡り合わせてくれるような気がしますから」
会いたくないと言っているのではない。
だからきっとこの先、この二人はどこかで会うことになるのだろうと、俺は根拠もなくそう思った。
「そうか、判った。
最後の転移門の場所は――ハーランドの東、“フェリム”にある。
“フェリム”は、グレイスの故郷なんだろう?」
「はい――。
何もないところですが、ご案内できます」
俺はそれを聞いて彼女の額に口づけすると、小さく彼女に「頼む」と言った。
グレイスは俺の言葉を聞いて頷きながら、名残惜しそうに俺と肌を合わせ、温もりの中で、微睡むのだった。
翌日、竜人、豹男、そしてロベルトと挨拶を交わした俺たちは、開門を介してハーランド王国の王都であるアンセルに移動していた。
アンセルは俺が開門で移動することができる、この世界で最も東にある場所だ。
ここから先は、俺が開門の魔法を覚える前に旅していた場所になる。従って開門の転移に必要な、楔が打たれていない。
アンセルでまず最初にやらなければならないのは、宰相のオルガのところへ報告に向かうことだろう。宰相は『魔人』を止めるために西へ向かった俺たちを見送って以降、何の報告も受けていない。
無事であることはもちろん、転移門の破壊についても、報告をしておくべきだった。
――ただ俺は、フェリムに向かう前に、どうしてもやっておかなければならないことがある。
「済まない、実はちょっと所用があるんだ。
出来たら王都で待機していてくれないか? 恐らく、昼には戻れると思う」
俺がそう言うと、セレスティアがその雰囲気を察したように、俺に返答を返した。
「判った。
では、私は先に王宮へ報告に行く。オルガさまにはすぐに会えないかもしれないが、グレイスとシルヴィアも出来れば一緒にどうだ?」
「んー、それも良いけどあたしはパス。あとでケイと一緒に行くわ。グレイスはどうする?」
「わたしはセレスと共に参ります。
――では、ケイ、後ほど」
手を振って三人と別れた俺は、まずはアンセルの露店を歩き、身近な店に顔を出した。
そこで適当に店主と会話し、アンセルで何が評判の名物なのかを聞いておく。
俺は情報を元にいくつかの商品を買い集め、それを一つの洒落た小さな籠に入れた。
もちろん品物を“凝視”して、間違いないものであることを確かめるのは忘れない。
そして、路地の物陰に隠れ――開門を開いて目的の場所に転移する。
俺が開門を通り抜けた瞬間、聞き慣れた声が、背中の方から聞こえた。
「――まぁた、お主か。
何の用かは知らぬが、都合良くホイホイと現れおって――」
俺が笑みを浮かべながら振り返ると、そこには椅子に腰掛けて本を読む、青い髪の美女がいる。
俺は無言のままテーブルに小洒落た籠を置くと、ゆっくりとソファに腰掛けた。
レーネはさすがに、俺に似つかわしくない籠の中身が気になったようだ。
近づいて籠を興味深く覗き見ると、その中の一つに手を伸ばして、早速口の中に放り込んだ。
「ふむ――今回は、最低限の礼儀を弁えたと見えるな」
――よし、取りあえずは成功だ。茶菓子程度でご機嫌が取れるなら、安いものだ。
ただ、味には五月蠅そうだから、今後も持ち込むモノには気をつけなければならない。
「それで――レダには――会えたのか?」
茶菓子を頬張りながらの彼女が、途切れ途切れに問いかけてくる。
子供じゃあるまいし、食べきってから話せば良いと思うのだが――。
とはいえ余計なことを言って、ご機嫌を損ねては意味がない。
俺は彼女の問いかけに、真面目に答えを返した。
「ああ、会えた。
俺が知りたいことはもちろんだが、俺自身の“正体”まで教えてくれたさ。
その上で俺は――これから最後の転移門を叩きに行く」
そう言って俺がレーネを鋭く見つめると、彼女は俺が強調した“正体”という言葉を完全に回避して、それに返答した。
「ほう――。
で、次の行き先が決まっていて、わざわざここに来た理由は何じゃ?」
反応を見るに、レーネは俺が『魔人』であることを気付いていたのは言うまでもないだろう。
だが、今更それを詰ったところで意味はない。俺はその追及は早々に諦めて、取りあえず来訪の目的を告げることにした。
「――レダはレーネも転移門を叩くことに賛成していると言っていた。
それに、最後の転移門を破壊することは、レダからの頼みであるとも。
彼の発言に、間違いはないか?」
レーネはその問いかけに、紅茶を淹れながら答える。
つい先ほど淹れたばかりなのか、カップからは暖かそうな湯気が立ち上った。
「先の魔人の王の思想を受け継ぐ我らにとって、確かに転移門の破壊は利することではある。
それが――例え、根本的な解決に繋がらなかったとしても、な」
「だとしたら――レーネ、俺が転移門の破壊に向かう上で、あんたにひとつ手伝って欲しいことがある」
俺がそう言ってニヤリと笑うと、途端にレーネが胡散臭そうに首を傾け、眉間に皺を寄せる。
「手伝って欲しいこと?
――お主のことじゃ、また碌でもないことなのじゃろう?」
俺はそれを笑いながら否定した。
「ハハハ、そんなことはないさ。
ただし、こんなことは恐らくレーネにしか手伝って貰えない。
――だからこそ、ここに来たんだ」
俺は紅茶を啜る彼女に見せつけるように、茶菓子の入った籠を移動させる。
「まったくお主は、あざとい男よ。
――何を手伝えというのか? 言ってみよ」
流石にそこまで言われれば、俺が話そうとする内容に興味が湧いたのかもしれない。
レーネは俺の言うことを、静かに聞こうという姿勢になる。
「それは――」
俺はニヤリと笑いながら、目の前の美女に、頭の中にあったことを伝えた。
ゴツゴツとした岩肌が、俺の全身を刺激している。
今日のベッドは――昨日のそれとは大違いだ。
何度も何度も叩きつけられた堅い寝床に、俺は若干愛着のようなものすら抱き始めていた。
俯せに倒れてしまい、すぐには動けない俺の上から、魔法の輝きと思われる光が差したのが判る。
俺は荒い息を吐き出しながら、大慌てで仰向けになり、両手を上げた。
「待った待った!! 死ぬ死ぬ!」
俺の声を聞いたレーネは、明らかにガッカリしたような表情になる。
「――何じゃ、もう終わりなのか?」
「もう終わりなのかって――。
十分に酷い扱いを受けた気がするんだが――」
俺がそう言うと、若干彼女は気分を害したのか、くるりと背を見せた。
俺の目の前には、形の良い引き締まったお尻が見える。これはこれで、役得だ。
「ならば、もう用とやらは終わったのじゃろう?
まったく、何を手伝えと言うのかと思ったら――すっかり草臥れてしまったわ。
私は戻って寝ることにする。散々人を扱き使いおって――」
何となくさっきまでノリノリで俺を痛めつけていた気がしないではないが、レーネは面倒臭そうに俺に文句を言い始めた。
だが、俺の用事はこれで終わった訳ではない。もう一つ重要なことが残っている。
「――待った。
レーネ、そう言えば俺とあんたが初めて会った時のことを覚えているか?」
まさに今更な話を持ち出されたことで、レーネは冷たい視線を俺に投げかけた。
「――何の話じゃ?」
「覚えているだろ? 最初に、俺と“勝負”をしたことを。
そして、俺が勝ったらレーネは何でも一つ、言うことを聞く約束だった。
――そう言えばあの約束、まだ果たして貰ってなかったよな」
俺が言った内容に、レーネは悔しげに舌打ちする。
「――チッ、詰まらぬことを覚えているものよ」
俺は身体を起こしてニヤリと笑うと、そのまま言葉を続けた。
「まあ、そう言うなって。
ただ――約束は約束だからな。果たして貰うぞ」
「早く言え。
ただし、理不尽な願いなど叶えぬぞ」
俺の頭の中にある内容は――決して理不尽などではないはずだ。
ただ、それを伝えた時に、レーネがどう反応するのかは、想像が付かなかった。
「いいか、俺がレーネにやって欲しいことは――」
俺はそうして彼女に、細やかな“願い”を伝えた。
開門を潜り、首都に戻る。
時間はまだ昼日中だ。何とかみんなに伝えた通りの時間に、戻ってくることができている。
俺がみんなと待ち合わせた食堂に入っていくと、そこには既に三人の姿があった。
「ケイ、お帰りなさい。
丁度よかったです。フェリムへ向かう道ですが、どういう経路で向かうのか、相談しておきたかったので」
俺は早速三人の輪に加わり、グレイスが言った内容を確認する。
「フェリムの位置は判るか?」
「簡単な地図を描きました」
グレイスが差し出した地図は、手書きの本当に簡単なものだったが、必要な要素は書き込まれている。
フェリムの位置は――首都アンセルの北東、港町アシュベルの東になるようだ。
そこまでは決まった街道がないのか、馬で移動するのは難しそうな場所に見えた。
「ここから先は開門で移動できるところがない。
まずは街道を北に上り、宿場町を経由して港町へ行こう」
俺がそう言うと、セレスティアがそこに補足を付け加える。
「オルガさまが馬車を手配してくれるそうだ。
これから立っても、日が暮れるまでにアシュベルに到達できるだろう」
「それは助かる。
それで、港町まで行ったら――悪いが、一旦カリスに寄りたい。
そして、そこからフェリムへ向かう」
カリスという地名に、グレイスが無言で俺の顔を見つめる。
カリスは――俺とグレイスが初めて出会い、ともに闘った場所だ。
「グレイス、カリスからフェリムへの道は、案内してくれるな?」
「――ええ、もちろん。
少し森は深いですが、問題なく抜けられます」
その答えに、俺は満足したように頷いた。
「ではその経路で行こう。
オルガに挨拶を終えたら、馬車を借りて早速出発する」
俺の宣言に、三人の美女が笑みを浮かべながら頷いた。
首都アンセルより港町アシュベルへ続く街道に、馬車が走る。
傾き始める太陽から逃れるように、その馬車は北へ北へと向かっていた。
俺の中には、もはや迷いはない。
この先に待ち構えるものが何であれ、この先に生まれる結果が何であれ――。
それが俺の選択した道なのだと思った。
俺は傍にいるグレイスの吸い込まれそうな瞳を見つめながら、自らの選択に、自信と責任を持ち続けたいと考えていた。
(第七部 了)