078 証明
自分の現在地を、上手く認識することができない。
自分がどうなっているのかを、的確に説明することができない。
だが、俺の身体がその場に“倒れている”ことは、容易に判断することができた。
全身に感じる、石造りの床の――冷たい感触。
それが俺に、“お前は倒れているんだよ”と、教えてくれるからだ。
緩やかに五感が戻る中、“視覚”が俺の居場所を、ゆっくりと示唆してくる。
俺はまだ、目を開いた訳ではない。
ただ目を開く前から――少なくとも周囲が、“暗闇ではない”ことを伝えてくれるのだ。
俺は“世界と世界の狭間”から、光差すフロレンスの世界へと戻ってきた。
ゆっくりと眩しげに目を見開くと――俺は、真っ直ぐ顔を起こして、目の前にあるものを見上げる。
俺の目に飛び込んで来たのは、一体の石像だった。
俺はこの石像を――過去に見たことがある。
ただ、目の前の石像と俺の記憶の中の石像には、相違点があった。
俺はその場にふらりと立ち上がり、目の前の“石のかたまり”を改めて見上げる。
「クランシーの――石像か」
間違いない、それはクランシーの石像だった。
だが、石像は損傷していて完全な形を保っていない。本来四本あるはずの腕は、二本が欠損し、二本が残っている状態だ。
何故この場にクランシーの石像があるのか――? 様々な疑問が、矢継ぎ早に俺の頭に浮かんでくる。
そして、その答えを探ろうとしていたところに俺の後方から、男の声が投げかけられた。
「――大丈夫かい?」
俺は後方へ振り返ると、その“金髪の男”を視界に入れる。
「ああ――大丈夫だ」
何となく問いかけに即答してしまったが――。
ひょっとしたら金髪の男の質問は、“身体的に”大丈夫かという問いかけと、“精神的に”大丈夫かという問いかけの、二重の意味を成していたのかもしれない。
レダは俺の側に近寄ると、石像の向こう側にある出口らしき扉を指し示した。
――どうやらここは、屋敷の中の一室のようだ。
俺は無言のまま、彼の催促に従って、その扉に向かおうとする。
気分は――あまり良くない。身体的にも、精神的にも。
ただ、だからと言って、それを表に出すことは極力しない。
みんなで抱えるべきことと、俺自身が抱えるべきことは、違うと思うからだ。
レダから聞いた後半の話は、俺自身の問題だ。
その問題をスッキリさせるためには――きっと俺自身が自分の心に折り合いをつけ、何らかの答えを出さなければならない。
俺が無言のまま、扉に向けて歩き始めようとした瞬間、レダが声を掛けて来た。
「ところで――興味本位に聞くのだが、キミは“深層”とどういう関係なのかね?
そもそも“深層”の導きということ自体が珍しいことだが、どうも私の知識欲が掻き立てられてしまってね――」
レダは本当に興味津々という体で、俺に笑いかけてくる。
一瞬、下衆の勘繰りだな――という言葉が思い浮かんだが、レダはここまで俺の話に付き合ってくれたのだ。それを考慮して、俺はその質問に素直に答えることにした。
「深淵の迷宮の最下層に落ちて、そこで知り合っただけだ。
ただ、そこから抜け出すのにひと月以上掛かってしまったが――」
俺がそう言うと、レダは意外なところに食いついた。
「ひと月以上――?
まさか、その間ずっと“深層”と一緒に居たというのか?」
「ああ、そうだが――?」
俺の答えにレダは感心したように言う。
「よくそれほどの長期間、“深層”が我慢し続けられたものだ。
ひと月もの間、目の前にクランシーの使徒が居れば、その力を奪いたくなる衝動は相当なものだからな。
特にそれが異性ともなれば、力だけでなく、性的な欲求も高まる」
「――――」
思わず俺は、固まって無言になった。
それを見てレダは、ニヤリと笑いながら言葉を続ける。
「まあ――それはないか。
“深層”はああ見えて、身持ちは堅いし、全く浮いた話がなくて有名だったからな。
そんなことがあれば、まさに一大事だ」
その発言に、俺は思わずレーネとの間に起こったことを思い出してしまった。
もちろん、あれは俺の方に欲求があったのは確かだが――。拒まない彼女にも理由があったということなのだろうか?
ただ、そういう理由でああなったとは、思いたくはない。
「正直、男性に縁がないようには見えないが」
俺が若干小さめの声でそういうと、レダはそれを拾って小さく首を振った。
「女は身近に偉大な者がいると、意識せずともそれと比べるようになってしまうからな」
偉大な者――?
そうか――レダ派は魔人の王の意思を継いでいる訳だから、偉大な魔人の王を身近に見ていたということなのかもしれない。
俺は気を取り直して、レダが指し示した扉に近づいた。
そしてふと後方を振り返った瞬間に、あることに気付く。
――あれ?
先ほど見たクランシーの石像は、確か腕が二本だったはずだ。
だが、今見えているクランシーの石像は、どう見ても――腕が三本あるように見える。
「どうかしたか?」
呆然と石像を見ていた俺は、レダに声を掛けられてハッとする。
「いや――」
恐らく見間違いだろう。崩れた像がどういう状態にあろうと、正直俺に関係するとは思えなかった。
俺は扉から出ると、ようやく自分の現在地を理解した。
俺は屋敷に入った直後の階段ホールに、直結した部屋に居たのだ。
「ケイ!!」
立ち上がった大きな声に、俺の視線が吸い寄せられる。
そこには俺の帰りを待っていたであろう、グレイスたち四人がいた。
「済まない、待たせてしまったようだな」
俺はそう言って、集まってきた四人に謝罪の言葉を掛ける。
「ううん、無事で良かったわ。
それで――話したいことは話せたのかしら?」
シルヴィアが俺と、俺の後方にいるレダの姿を見比べながら言う。
その表情で判るが、レダに対する警戒心を解いていないところが彼女らしい。
「ああ、みんなのお陰だ。
ただ――それで判ったことだが、残念なことに転移門はもう一つあるらしい。
俺は、それを破壊しなければならない」
そう言うと、すかさずセレスティアが俺の発言を訂正した。
「“俺は”ではなく、“俺たちは”――だろう?
しかし、これで次の目的地がハッキリしたことにはなるな。
それだけでもここに来た甲斐がある」
彼女の言葉は、俺が一人ではないことを再認識させてくれる。
俺はその言葉に小さく微笑みながら頷いた。
「そういうことだ。
それと――済まないが、それ以外のことについては、少し自分なりに整理してから話したい。
後でちゃんと話すことは、約束する」
俺がそう言って全員の顔を見渡すと、グレイスがニッコリと笑って言った。
「ええ、判りました。
では――後はサリータに戻ってからにしましょう」
俺はそれに頷き、早速サリータへの開門を開通させる。
レダの方を振り返った俺は、改めて彼に感謝の言葉を伝えた。
「レダ、俺が聞きたかったことはちゃんと聞かせて貰った。感謝する」
俺がそう言うと、彼はそれが大したことでもなかったように両手を挙げた。
「何、この程度のことなら構わんさ。誰にも伝えることのない“知識”など、無用の長物でしかないからな。
どちらかというと、こちらの頼み事の方が大きいだろう。
では――転移門は、頼んだぞ」
「ああ」
俺はそういうと、サリータへと続く開門の穴へと飛び込んで行った。
首都サリータの兵舎では、俺たちの帰りを、竜人が今か今かと待ち構えていた。
闘いで没した英霊を弔い、俺たちの帰りを待っていたことで、楽しみにしていた祝宴を先延ばしにしていたのだ。
竜人が俺の姿を捉えたときに見せた眼差しは、まるで飢えた狼のようだった。
「良く帰ってきた!!
もう祝宴は先延ばしにせんぞ。
レンツ、今すぐエルキュール邸の準備をさせろ!」
さすがにその言葉に困惑したように、豹男が諫める。
「ヴァイスさま、今からと仰いましても、まだ陽が落ちるまでには時間があります」
「構うものか。陽が高い時間に酒宴を開いて、何が悪いというのだ!」
「今の時間では料理人が揃いません。
ヴァイスさまのお好きな料理は並びませんが、よろしいのですか?
――今晩の手配としますから、それまではお待ち頂きますよう」
それを聞いた竜人は、ムムムッと唸ってしまった。
そこまで竜人が宴会好きだと思っていなかったのだが、俺はそれに上乗せして申し訳ない内容を伝えなければならない。
「実はそれなんだが――。
本当に済まない、ヴァイス。
――祝宴はまた先延ばしかもしれない」
「何だと!?
どういう意味だ?」
竜人は気色ばんだ様子で、俺に詰め寄ってくる。
俺はその勢いに圧されながら、言葉を続けた。
「“四つ目”の転移門があることが判ったんだ。
それもロアールの国内じゃない。
ハーランドの東、“フェリム”という場所だ」
俺の発言に合わせて、側に居たグレイスがハッとなり、俺の顔を見る。
その視線を見た瞬間、俺は何故この地名に引っかかりを覚えたのか、気がついた。
そう、確か――以前聞いたグレイスの故郷は、“フェリム”という名前だった。
転移門という言葉を聞いた竜人は、流石に神妙な面持ちに変わる。
「――なるほどな。
お前はそこへ――向かうというのだな?」
「そのつもりだ」
俺は竜人の問いかけに、迷いなく即答した。
転移門を叩く――レダとも話して確信したことだが、この点に関しては俺の中に強い信念がある。
竜人は決意に満ちた俺の表情を見て、観念したように両手を挙げた。
「そうか。
――残念ながらおれの立場では、自由にハーランドに入国することは出来ん。
となればケイ、その転移門の対処は、お前を頼るしかないということだ」
元よりそのつもりだった俺は、その言葉を聞いても特に表情は変えない。
だが、無言のままの俺を見て、竜人はニヤリと笑って再び口を開いた。
「――よし、やはり宴は予定通り開くこととしよう。
祝宴とはいかないが、これはお前たちの“壮行会”だ。
どうだ? それぐらいはさせてくれてもいいだろう?」
その言葉に、グレイスとシルヴィアが思わず吹き出す。
結局どんな理由であれ、酒宴は開きたいらしい。
俺は苦笑して――呆れながらも、静かにゆっくりと頷いた。
その日の夜、首都サリータにあるエルキュール邸に、多くの明かりが灯っていた。
決して大人数の酒宴という訳ではなかったが――それでも宴というだけに、豪勢な食事がその場には並ぶ。
竜人は、もはや壮行会を言い訳にしたことを、隠そうともしていない雰囲気だ。彼のお気に入りらしき酒が進んでいくと、もはや俺たちなど視界に入っていない。彼はどうやら仲が良いらしき数名の武官たちと、好物だと思われる肉料理を食べては、騒いでいる。
俺はその様子を見て苦笑しながら、セレスティアたちと静かに談笑していた。
翌日を考え、あまり深酒もしていない。食事もある程度に抑えていた。
そこへふと、豹男と会話していたロベルトが、豹男を後方に伴いながら近づいて来る。
ロベルトの顔には笑みが浮かんでいるのだが――俺にはそれが、どうにも強ばっているように見えた。
「――旦那、実はお話ししなきゃいけないことがあるんです」
俺はそう切り出したロベルトの顔を見て、彼が今から言おうとしている内容を想像することができた。
「申し訳ありませんが――次の転移門には、ご一緒できません」
その言葉を横で聞いていたセレスティアが、思わず表情を堅くする。
「ロベルト――」
「いやあ、行きたいのは山々なんですけどね。
レンツさまと相談したんですが、やっぱり獣人はハーランドに入れないってことで――。
こればっかりは、無理そうです」
ロベルトの言う通りだ。
もちろんセレスティアのように、軍籍を捨てて、冒険者になってしまうという手もある。
だが、冒険者の身分であれば獣人が自由にハーランド国内を闊歩できるかというと――ハーランド内でほとんど獣人を見かけない以上、それは恐らく難しいように思えた。
「そっか、ロベルト――」
同じくして彼の発言を聞いたシルヴィアも、神妙な顔つきになっていた。
恐らくロベルトも覚悟を持って、この話を切り出したはずだ。
俺は変に噛み付かず、彼の決断を尊重すべきなんだろうと思った。
「――判った。
ロベルト、今までありがとう。感謝する。
あんたが居てくれて本当に助かった。それに――楽しかった」
俺がそう言うと、ロベルトは照れるように頭を掻く。
「いえいえ、自分は一応監視役のはずだったんですけどね。
何だか、途中からそんなことは忘れちまいましたよ。へっへっへ。
――賢者と一緒に旅が出来て、これからみんなに自慢ができます。
月並みですが、この後の旅の成功を――お祈りしていますよ」
ロベルトはそう言って笑った。
俺は彼が無理に笑顔を作っているように思えて、目一杯の笑みを浮かべながら声を掛ける。
「ありがとう。
だが――何も、今生の別れということでもないさ。
ロアールに再び戻って旅をすることがあれば、その時はぜひ案内してくれよ」
俺がそういうと、ロベルトはパッと表情を明るくした。
「勿論です!
――そうだ、今度ロアールにいらっしゃったら、自分の妻と子供をご紹介しますよ」
後半は、彼にしてみたら調子に乗って出した発言だったのかもしれない。
だが、その内容には俺たち全員が驚いた。
「ええっ!?
ロベルト、まさか結婚してたの!?」
シルヴィアの質問を、ロベルトはアッサリと肯定する。
「ええ。
妻一人、子一人ですけどね」
「そ、そうなんだ、子供まで――。
何というか――意外だわ」
微妙にシルヴィアがショックを受けている感じがするが――理由はまあ、訊かないでおこう。
一方のロベルトは、酒が回って気分が良いのか、饒舌に家族のことを話し始めた。
「ちなみに自分で言うのも何ですが、それはもう超!美しい自慢の妻なのです」
「そ、そうなのか?」
差し引いて受け取らないといけないと思いつつも、さすがにそこまで強調されると、正直興味が湧いてくる。
俺はその真偽を確かめるように、事情を知ってそうな豹男の方へと視線を投げかけた。
豹男はニッコリと微笑むと、ロベルトの話を素直に肯定する。
「ええ、ええ。ロベルトの言っていることは本当ですよ。
彼の妻は美人でとても有名ですからね――蜥蜴的に」
――ちょっと待て。
何だ、最後の“蜥蜴的”という聞いたことのない修飾子は?
ロベルトは豹男の発言を聞いていたのか聞いていなかったのか、さらに調子に乗り始めた。
「あ、旦那――紹介すると言っても、誘惑しちゃダメですからね? 約束ですよ!
――まったく、旦那は女癖悪そうだからなぁ。へっへっへ」
「いやいやいや、何を根拠にそんなこと言っている!?」
俺は必死に否定するが――ダメだ、既にシルヴィアとグレイスが「ほら、やっぱり」という視線になっている。
というか、蜥蜴的に美しい蜥蜴の妻とか守備範囲外だから!
俺の反応に、周囲のみんなが笑い声を上げつつ――。
そうして宴はゆっくりと、その帳を下ろしていくのだった。
酒宴の後、俺の姿はエルキュール邸の中に与えられた、個室のバルコニーにあった。
この世界の人々の夜は早く――その分だけ、朝も早い。
元の世界では普通に人が活動している時間であっても、この世界においてはほとんどの人が寝静まっているのだ。
故に、このエルキュール邸の中も、既に静寂が支配していた。
夜の闇は深く、その闇が深い分、星々の光は強い。
輝く月や星を見ていると――闇だと思っていた夜が、実はこんなにも明るいということを気付かせてくれる。
やはり星座も、元の世界とは違うんだな――。
俺は詳しくもない星の軌跡を辿りながら、そんな些細なことを考えていた。
見上げた情景に意識を傾けていた俺は、自室の扉が小さく叩かれる音に、まったく気付かないでいた。
ガチャリ、という扉を開く音が響いたことで――俺は初めて自室の入り口の方へと振り返る。
「一応、ノックはしたのですが――。
いらっしゃったのですね」
そう言って姿を見せたのは、グレイスだった。
俺はそれには答えず、そのまま再び星空の方へと視線を移す。
グレイスは部屋の入り口で、俺の言葉を待っていたようだ。
だが、それが一向に返ってこないことに気付くと、そのまま部屋の中へと入ってきた。
彼女は部屋に置いてあった果実酒を開け、二つのグラスに注ぎ入れると、バルコニーにいる俺にその片方を差し出した。
俺は彼女の手からグラスを受け取ると、やはり何も言わずに星空を見上げる。
「あの屋敷で――何か、あったのですね」
グレイスはそう言って、俺の横顔をじっと見つめた。
俺は彼女の方を見ることなく、少しだけ笑みを浮かべてその言葉に答える。
「そう、思うか?」
それに対するグレイスの言葉は明快だった。
「ええ、思います。
レダと話されてから、普段通りに装っているようには感じますが――。
少し気を抜くと、今のように、考え事ばかりしているように見えます」
俺が彼女を振り返ると、グレイスは俺にニッコリと笑い掛けて来る。
その笑い方が――あなたのことなど、お見通しですよ――と言っている気がした。
俺は彼女の表情を見つめながら、小さく笑い声を上げる。
「フッ――グレイスには敵わないな。
ホントによく、観察してる」
「フフフ――」
俺が観念してそう言うと、彼女は少し誇るように笑みを浮かべた。
俺は手にした果実酒を呷ると、大きくひとつ、息をついた。
これから話す内容を考えた時――お酒の力が借りられればと、素直に思ったからだ。
「レダから聞いた。
その昔、フロレンスを支配しようと争ったのは、アラベラの使徒だけではない。
クランシーもまた、フロレンスの支配を掛けて争い――彼らもアラベラの使徒と同じように、『魔人』と呼ばれていた」
「――――」
俺が唐突に話し始めた内容を、グレイスは無言で受け止めている。
俺は彼女がその話をどう理解したかは気にせず、そのまま言葉を続けていった。
「フロレンスの人間や獣人たちには、自分たちの世界を護るために、“異物”である『魔人』を取り除く権利がある。
そして俺は、僅かであっても、その手助けができればいいと思っていた」
俺がグレイスの方に顔を向けると、一瞬彼女と視線が交錯する。
彼女は飽くまで無言のまま、俺の言葉に耳を傾けていた。
俺はそれを見て、若干自嘲気味な笑みを浮かべながら、星を見上げて言葉を続けていく。
「だが――どうやら俺は、そんな立場にはないらしい。
そんな権利を――持ち合わせては、いないようだ。
何故なら俺は――。
俺は、フロレンスの人々にとって取り除かれるべき“異物”――『魔人』だからだ」
ひょっとしたら、この言葉は制約に引っかかるかもしれないと思っていた。
だが、俺の声はしっかりと発音され――そのままグレイスの耳に届く。
その彼女は俺の言葉を聞いて、より一層俺の横顔を、注視しているように思えた。
「俺はこれまで、自分が何者なのかをちゃんと理解せずに、闘ってきた。
フロレンスの人々の権利を代行する“英雄気取り”で、『魔人』たちを排除してきた。
だがそれは所詮、俺の“同類”を、自分の価値観で“身勝手に”排除していただけのことだ。
それは結局誰のためでもなく、俺の心を満たすだけの――自己満足だったのかもしれない」
俺がそう言い切ると、グレイスは手にしたグラスを置いて、俺に言った。
「自己満足では――ダメなのですか?」
「グレイス――」
彼女が発した端的な言葉に、俺は思わず振り返る。
その彼女の強い眼差しが、一瞬月明かりを反射して、鋭く輝いたように見えた。
グレイスは真っ直ぐに俺を見つめると、静かに、そして強い言葉で話し始める。
「権利がなければ、主張してはいけないのですか?
自分の価値観を、信じてはいけないのですか?
自分のために――闘ってはいけないのですか?
ケイは『魔人』を追い、転移門を叩くための闘いは、自分の“身勝手”なんだと仰っていました。
それを――、
『魔人』を倒し、転移門を破壊して来たことを――後悔しているというのですか?」
思い詰めた表情になったグレイスを見ながら、俺はその発言を明確に否定した。
「――いいや。
俺は自分の行いが間違っていないと、信じている。
どう考えても、転移門から現れる使徒の善悪によって運命が決まる世界が――フロレンスの人々にとって、適切な世界だとは思えないからだ。
そして、俺はこの後もまた、残された最後の転移門を破壊する。
例え、それをフロレンスの人々が――望まなかったとしても、だ」
グレイスは俺の言葉を聞き遂げると、フッと小さく笑った。
そして飽くまで優しげに、そして静かに俺に言葉を掛けてくる。
少し伏せた睫毛の先が、微妙な間隔で揺れていた。それが彼女の感情の起伏を表しているように感じる。
「答えは――。
答えは、きっと出ているんだと思います。
――わたしの父は、自らが背負った責務を、わたしに一方的に押しつけた張本人です。
その“身勝手さ”に、過去のわたしは父の存在を恨んだことすらあります。
ですが――今のわたしは、父の存在を誇りに思っているのです。
父は恐らく自分が信じた“この世界のためにすべきこと”を、必死に実践しようとしたんだと思います。
自分の子供に批判されることを恐れず――正しいと思うことを、信じて突き進んだのです。
『魔人』である父には、もちろんそんなことをする権利などありません。
それに、誰かに評価されるということもありません。
それどころか――自分の子供にすら、批判されたのです。
そんな中で、自分が信じた道を突き進んだ父は――今のこの世界を作る、一端を担ったのだと思います。
そして、わたしは――。
今や、その父の“身勝手さ”に、感謝したいとすら思っています。
何故なら、父が残した『魔人の剣』は――」
グレイスはそこで言葉を切り、ゆっくりと俺の両手を取った。
しなやかで繊細な指が、俺の両手に重なっていく。
「――あなたとわたしを救い、結びつけてくれました。
わたしが『魔人の剣』によって、『魔人』を倒す“宿命”を背負ったのと同じように――。
わたしがあなたと出会い、共に旅を続けていくことになったのも“宿命”なのだと――わたしは信じています」
グレイスは言い切ると、そうでしょう?とでも言うように、少し首を傾げて微笑んだ。
その魅力的な表情に、俺も思わず笑みを返す。
「“宿命”――か」
俺が実感しながら小さく呟くと、グレイスがゆっくりと頷いた。
「権利などなくても――あなたが考えることを、変えるとは思えません。
それが自己満足だとしても――あなたが成すべきことを、放棄するとは思えません。
きっとあなたは――、
誰に止められても、最後は自分が考え、正しいと思ったことに、突き進むのだと思います。
例え、色々なことに悩んで、遠回りをしたとしても。
例え、それを誰かに批判されて、落ち込んだとしても。
でも、忘れないでください。
あなたは一人ではありません。
誰かに寄りかかりたくなったら――、
わたしが傍で支えます。
自分が正しいのか不安になったら――、
わたしが傍で“証明”してみせます。
あなたが正しいということを――」
「グレイス――」
俺は重ねた両手を引き寄せると、そのままグレイスを抱きしめた。
彼女はそれに、何ら抵抗をしない。
俺が引き寄せるまま、抱き寄せるままに――それに応えるように、背中に腕を回し、強く俺の身体にしがみついていた。
柔らかく、そして思ったよりも華奢な彼女の身体が、俺の身体に包み込まれている。
グレイスは、俺の胸に頭を預けたまま、少し掠れるような声で言った。
「『魔人』であっても――いいじゃないですか。
あなたが何者であろうとも――ケイはケイでしょう?
『魔人』であることを、気に病む必要なんかありません。
だって――。
わたしだって――『魔人の子』なんですよ?」
そう言いながら、グレイスは俺を潤んだ目で見上げてくる。
その瞳を見て、俺は胸が締め付けられそうな気持ちになった。
その柔らかな唇を見て、どうしようもなくそれを奪いたくなった。
身体に触れる彼女の柔らかさを――もっと感じたくなってしまった。
「――あっ――」
少し強引に唇を重ね合わせ、俺はその身体を更に強く抱きしめる。
小さく上がった彼女の声を聞いて、俺の中に抑えようのない興奮が駆け巡った。
「んっ――ケイ――!」
俺は彼女の口腔に舌を割り込ませ、グレイスの引き締まった身体を、手で感じる。
何だかずっと前から――俺はこうしたいと思っていたような気がした。
俺は彼女を抱きかかえると、そのまま部屋に入り、ベッドにその身体を横たわらせる。
すると、窓から差し込んだ月明かりが、グレイスの恥ずかしげに上気した顔を照らし出した。
こんな表情もできるんだ――という、何だか新しい発見をしたような気がする。
「ケイ、お願い――。
優しくしてください――」
彼女が勇気を出して発したであろう言葉に、俺は顔を近づけ、真面目な表情で答えた。
「ああ、もちろんだ。
――でも、悪いが自信がない。
何故なら俺は、グレイスをメチャクチャにしたいと思っているからだ」
「ケイ――」
グレイスはさすがに覚悟を決めたのか、静かにその目を閉じる。
俺はそれを見て優しく――、
――そして力強く、彼女を抱き寄せた。