075 知識
俺が視線を向けた先には、ソファに腰掛けた青い髪の美女がいる。
大胆に胸元の開いたロングドレスと、深いスリットから覗く脚線が、俺の視線を捕らえて離さない。
彼女は妖しげな笑みを浮かべたまま、口を付けた紅茶のカップをテープルに置いた。
そのために少し前屈みになると、底の見えない深い“谷間”が俺の目の前に現れる。思わずそこから柔らかい肌がポロリとこぼれ落ちたりしないのか、俺の方がハラハラしてしまった。
俺は自分がいつの間にか前のめりになっていたのに気付くと、視線を空中に泳がせてから咳払いをする。
「――コホン。
俺が――来ると判っていたのか?」
そう尋ねると、俺の一連の動作を見ていたレーネは、ニヤニヤと笑いながら口を開いた。
「フフフ――。
そんな“予感”がしただけのことじゃ。確信ではない」
それがどんな予感なのか気になったが――残念ながら、そこまでは話してくれなさそうだ。
何となく二人の間で交錯する視線が、静かな駆け引きを演じている。
どちらが先に口火を切るか――と考えたが、その均衡を先に破ったのはレーネの方だった。
「お主――まさか大した用も無いのに、ここに来たのではあるまいな?」
「――――。
――俺、そんな暇そうに見えるか?」
俺は顔を顰めて、微妙に抗議する。
「フッ――。
転移門はどうしたのじゃ? 叩くと言っていたであろうに」
レーネは自分が訊きたかったであろうことを、率直に尋ねてきた。
俺はその質問に対しては、特に隠すこともない。
素直に彼女の質問に答えていく。
「――二カ所、破壊した。
ロアール国内にもう一カ所あることが判っているが、そこには竜人が向かっている。
ヴァイスはあんたが頼れと言った男だ。無事破壊できると、俺は見ている。
そこが破壊されれば――取りあえず今認知されている転移門は、全て叩いたことになるはずだ」
俺が竜人の名前を出すと、レーネはその名前を自分の記憶から引っ張り出すように、一瞬動きを止めた。
「ヴァイス――そうか、“クローヴィス”か。
――あの“小僧”も偉くなったものじゃな」
ちなみに竜人はどう見ても、豹男より年上だ。
そして、豹男の年齢は四十七歳であることが判っている。
その竜人を“小僧”と呼ぶということは、レーネの年齢は――。
――いや、止めておこう。
どう考えてもその情報の追求は、俺にとって不幸な未来しか作らない。
「――そうそう、忘れていた。
竜人がレーネに宜しく伝えてくれと言っていたぞ。
その一方であんたとは“もう会わないだろう”とも言っていたがな」
俺は話を切り替えるように、竜人から頼まれていた言づてを思い出して伝えた。大した内容ではないのだが、言づてがあること自体にレーネは喜んだようだ。
「そうか、フフフ――。
しかし、私との記憶は、あまり楽しいものではなかったのかな」
それほどショックを受ける風でもなく、レーネはニヤニヤと笑っている。
「――あんた、竜人に何かしたんだろ?」
俺の追求に、レーネは若干気分を害したように反論した。
「お主――私を何じゃと思っておる。
あやつの父と少々面識があったのでな。父親に請われて、あやつが幼少の折に少々稽古を付けてやっただけのことじゃ。
それを感謝されることはあれども、その逆はない」
「なるほど――。
竜人が会いたくないと言った理由は、何となく理解できた」
俺は自分が体験したレーネの修練を思い返す。
竜人も――仮に同じような経験があるのだとしたら、相当に虐め抜かれたに違いない。
俺はある程度闘う術を知った大人の身でその修練を受けたが、幼少期にそれを受けたというのなら、恐らく死ぬほどの恐怖を味わったはずだ。三つ子の魂百まで――じゃないが、幼児体験がそれでは当然レーネに会いたいとは思わないだろう。
「――お主、まさかそんな話をするためにここに来たのか?」
自分が悪者にされて、すっかり機嫌を損ねたレーネが言う。
これ以上の無駄話は本来の目的を阻害しそうだ。俺は脱線はそこまでに、本題を切り出すことにした。
「済まん、余談が過ぎた。
――実は訊きたいことがあってここに来た。
レーネの――“敵”について知りたい」
「私の――“敵”じゃと?」
彼女はその言葉を意外そうに聞き直すと、眉間に皺を寄せる。それに合わせて眼鏡の位置が下がったのか、右手で自分の表情を覆うようにしながら、眼鏡の位置を直していた。
「事情があって言いにくいのだが――。
要するに、書庫に“アラベラの使徒”でなく、俺以外の――クランシーの――使徒――が現れたことがあるかどうかを訊きたい」
制約に阻まれ、俺の頭には鈍痛が走る。
だが、質問の内容はちゃんとレーネに伝わったはずだ。
「――急に来たかと思えば、可笑しなことを訊く。
全く、お主は変なヤツじゃ」
俺は呆れるレーネの表情を見ながら、それが真剣な願いであることを改めて強調する。
「唐突で済まない――。
だが、俺のこれからの行動を決めるための、重要な手がかりなんだ。答えてくれると助かる」
俺がそう言うと、ようやくレーネはその雰囲気を察して、真剣な表情で口を開いた。
「この書庫には、お主以外の“クランシーの使徒”は現れたことがない。
――これで満足か?
しかし、それがどうしたというのじゃ?」
俺はその答えを聞きながら、質問の意図を正確に伝えるために、一つの“単語”を口にする。
「レーネ、回りくどい質問で申し訳ない。
俺はあんたが護っているここの書物は『禁書』なんじゃないかと思っている。
そして、その『禁書』を“アラベラの使徒”だけではなく、クランシーの――使徒――も狙っているのではないかと踏んでいるんだ。
――俺の考えは間違っているか?」
俺はこの部屋にある“魔法陣で囲まれた書棚”を意識しながら、その質問を発した。
当然この質問を聞いたレーネが、俺を警戒しだす可能性も想定してのことだ。
だが――この時彼女が見せた反応は、俺の想像を遙かに上回るものだった。
俺が『禁書』という単語を出した瞬間、レーネの眉がピクリと動いた。
そして、俺の質問が終わった直後――彼女は大きく目を見開いて、その場にスクッと立ち上がる。
「――!!」
途端にメラメラと彼女の周りに魔力の渦が沸き立った。その魔力の渦は、途轍もない濃さの殺気に変わり、それを感じ取った俺の頭の中には、けたたましい警告が鳴り響く。
レーネの全身は見る見るうちに、魔力によって青く光り始めた。彼女の髪は、パチパチと魔力の火花を散らせて逆立っている。
――どう見てもヤバい。
周囲の空気が張り詰め、置かれたテーブルも紅茶セットも、そして周囲を取り巻く本棚さえもがブルブルと震え出していた。
目の前の“魔人”に、殺される――。
俺は正直最初に会った時以外、レーネを“魔人”だと意識したことがない。
だが彼女の変容を目にし、完全に気圧された俺は、一気にその考えが甘かったことを思い知らされた。
「お主、『禁書』のことをどこで知った――?
――いや、それはよい。
その名を聞いた以上、お主を黙って見逃す訳にはいかぬ」
レーネは全身に魔力の光を帯びながら、少しずつ俺に近寄って来る。
彼女の逆立った青い髪が、魔力を帯びて輝いていた。それがレーネ自身を何とも美しく、妖しく引き立てている。
俺は目の前に迫った命の危機に汗だくになりながら、何とか声を絞り出そうとした。
――この後の受け答えは重要だ。彼女との初対面の時と同じように、間違った答えは、俺の寿命を一気に縮めてしまいかねない。
俺は殺気を放ち、近づいてくるレーネをしっかりと見据えると、出来るだけ冷静に語りかけた。
「――レーネ、よく聞いてくれ。
俺は『禁書』を狙ってここに来た訳じゃない。
『禁書』を“狙っているのが誰なのか”を、正確に知りたいだけだ。
仲間や世話になった人が殺され、その仇を討つために“魔人”と闘うことと、俺が転移門を叩いて目指していることは、根本的に意味が違う。
俺は今、自分の中の勝手な正義感に従ってこの世界に現れる“魔人”――“アラベラの使徒”を追い詰めようとしている。
それが結果的に、この世界に住まう人たちのためになると思っているからだ。
――だが、本当に“アラベラの使徒”を追い込み、彼らがこの世界に渡ってくる手段を奪えば、この世界に忍び寄る脅威を払拭できたことになるのか?
それは単に“アラベラの使徒”による脅威を、退けただけに過ぎないんじゃないか?
本当にクランシーはこの世界の“ためになること”をしているのか――?
クランシーはこの世界の人々の――“味方”だと言い切れるのか?
俺はそれを、掴み倦ねている」
俺は自分の中の曖昧な迷いを、レーネにそのままぶつけていく。
殺気立っている彼女は厳しい表情のまま、俺の言葉を受け止めていた。
「邪気の塊が――もっともらしいことを言いよるわ」
レーネが唇の端を曲げて、吐き捨てるように言った。彼女の発する殺気は収まる気配がない。
だが、俺はその言葉の声色に、彼女の隠された慈愛が含まれているように感じた。
今の俺は、何とかそれに縋り付くしかない。
「――レーネ、言葉が足りずに警戒させてしまったのなら謝る。
俺は――俺にとっての 本当の“敵”が誰なのかを、見極めたいだけだ」
「――――」
レーネはやはり、俺を見つめたまま動かない。
俺は彼女の視線を受け止めると、自分の心に偽りがないことを証明するように、彼女の目を見つめ続けた。
――それからどのくらいの時間が経過したのかは判らない。
レーネは小さく溜息をつくと、苦笑しながら周囲に渦巻く魔力を霧散させていった。
俺は逆立つ彼女の髪が徐々に光を失い、元通りになっていくのを見て、心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「――己の甘さに嫌気が差す」
彼女は小さく呟くと、再びソファに腰掛けた。
俺はそれを見て、呪縛を解かれたように、大きく息を吐き出す。
仕方がないとはいえ――本当に綱渡りだ。
ソファに腰掛けたレーネは再び俺を見据えると、ハッキリとした声で俺に告げた。
「――ケイよ、“知識”のレダに会え。
私はお主の疑問に対する答えを持っておらぬ。
――だが、レダなら恐らくお主の疑問に答えることができる」
「“知識”の――レダ――」
俺は聞いたその名前を、無意識に繰り返す。
レダは――レーネの所属する、レダ派の“長”のはずだ。
「レダは――フロレンスにいるのか?」
俺の問いかけに、レーネはアッサリ断言した。
「フロレンスにいる。
レダはロアールの“塔の迷宮”の北にある、荒野を抜けた屋敷にいる。
屋敷の近くには、強力な幻影魔法の結界が張り巡らされておる。普通は屋敷の存在にすら気付くまい」
「そこへは、どうやって行けばいい?」
「これを持って行け」
レーネはそういうと、俺に小さな宝珠のようなものを差し出した。
宝珠は無色透明だが、中心に魔法と思しき黄色い輝きがある。
「“真実の宝珠”じゃ。これを持てば、結界には惑わされぬ。
ただし屋敷は侵入者を防ぐための護衛に護られているはずじゃ。
それは自らの力で何とかせよ」
その話に俺は思わず苦笑する。導き方が中途半端なのが、何ともレーネらしい。
俺は彼女の申し出をありがたく受け、彼女の手から真実の宝珠を受け取った。
「レーネは一緒に来てくれないのか?」
無駄とは思いながらも一応訊いてみる。
レーネはその質問に、如実に嫌そうな表情を作った。
「――あの男に会うのは御免被る」
「レーネはレダ派――だったよな?」
つれない返事に、俺は判りきったことを確認する。
「一応な。
だが、あの男とは偶々利害が一致しているだけじゃ。それ以上の関係には無い」
俺はその言葉に苦笑すると、彼女に感謝の言葉を述べ始める。
次に向かうべきところもハッキリした。そろそろ潮時だろう。
「――レーネ、助かったよ。感謝する」
それを聞いたレーネは、俺を見ながら面倒臭そうにヒラヒラと手を振り始めた。
「用が済んだのなら、さっさと立ち去るが良い。
――あと、お主は言葉以外の感謝の方法を考えた方が良いな。
たまには紅茶に合う茶菓子の一つでも持って来い。
次に来る時は、準備を怠るでないぞ」
露骨に手土産をせびるレーネに、俺は軽口を叩く。
「言葉で足りないなら――身体で払おうか?」
俺がそう言ってニヤリと笑うと、レーネは一気に冷たい表情に変わった。
「――お主、切り刻まれて死ぬか、穴を穿たれて死ぬか、どちらが好みじゃ?」
俺はその反応に苦笑する。
だが俺は、その答えに変な満足感を抱いていた。何となくこういう冗談を言い合っていると、レーネと会ったという実感が沸くのだ。
俺はレーネに向かって手を振ると、当然拒否の答えを返す。
「どちらも遠慮する――!」
若干悔しげな彼女の表情を見ながら、俺は彼女の言葉を待たずに開門の穴へと飛び込んで行った。
兵舎に戻った次の朝、俺たちの元に、竜人が戻ってきたという連絡が入った。
俺たちが揃って客間に集まると、それから間もなく鎧姿もそのままに、竜人が客間へと入ってくる。その後ろには豹男も従っていた。
「――おれの方が時間が掛かったか。
待たせてしまったようだな」
闘いに出る前よりも、心なしか竜人の声は大きい。その声色が、彼が持ち帰った結果を表しているようだった。
「いや、気にしないでくれ。
訊くまでもないかもしれないが、転移門は――?」
俺の問いかけに、竜人はニヤリと笑いながら答える。
「もちろん破壊した。
迷宮の探索と、転移門の破壊に時間を掛けてしまったがな」
「――魔人は出てこなかったのか?」
俺が続けてそう聞くと、竜人は若干神妙な表情になり、それに答えた。
「いた。強大な巨人の魔人だった。
残念ながら、闘いで犠牲も出してしまった。良い戦士だったが――。
だが、これで暫くの間、ロアールに魔人が出てくることは無くなった。
優秀な戦士を失ったが、ロアールにとって平穏な日々を獲得した意味は大きい」
「そうか――」
この闘いの切っ掛けを自分が引いている以上、犠牲が出たと聞くと、その責任を感じざるを得ない。その俺の沈み込んだ声を気にして、豹男が横から口を挟んだ。
「英霊は弔わねばなりませんが、闘いの勝利を祝うのも必要です。
早速ではありますが、ヴァイスさまの帰還と勝利を祝って、宴の準備をさせることにしましょう」
その言葉に竜人は笑みを浮かべる。
だが俺は、その宴に参加することができない。俺はその場の雰囲気を壊すことに恐縮しながら、何とか言葉を切り出した。
「済まない、それなんだが――」
俺の様子を見て、竜人は俺が何らかの事情を抱えることを理解してくれたようだ。
「――何か、やるべきことがあるのだな?」
「ああ。
俺の我が儘に近いことだが――。
ただ、どうしても確かめておきたいことがある」
「判った。構わんさ。
そもそも犠牲になった英雄の弔いを先にせねばならん。
喜ぶのはその後でも遅くなかろう」
「済まない、助かるよ」
俺は理解を示してくれた竜人に感謝を述べる。
すると竜人は笑みを浮かべ、俺に一言言い残してから客間を去って行った。
「ケイ、お前が帰って来てから酒宴にする。
――あまりおれを待たせるなよ」
その言葉は遠回しに「無事に帰ってこい」という意味を、俺に伝えていた。
客間に残ったのはグレイス、シルヴィア、セレスティア、ロベルトと俺の五人だ。
竜人たちが去ったことで、一瞬無言になった五人だが、その沈黙を破るようにシルヴィアが俺に尋ねた。
「ケイ、それで次は何処を目指して――?」
俺はその問いかけを聞いて、全員の顔を見渡してからハッキリとした口調で答えた。
「会っておきたい人物がいる。
その人物はロアールの“塔の迷宮”の北にいるらしい。
だが――本当にこれは、俺の我が儘に過ぎない。
正直みんなを巻き込むことじゃないと思っている」
俺がそういうと、ロベルトが即座にそれに異を唱えた。
「旦那――今更、水くさいですぜ」
それに同調するように、セレスティアが微笑みながら進み出る。
「そうだ、水くさい。
ケイがやろうとしていることは――この世界にとっても、無関係ではないのだろう?」
俺はセレスティアの問いかけを受けて、静かに頷く。
確かに完全に俺の主観にはなってしまうが――俺は、無関係ではないと信じている。
ロベルトとセレスティアを見て、次はシルヴィアが進み出た。
「ねぇ、ケイ。
――あたしたち、仲間でしょ?
何を遠慮することがあるの」
彼女の魅力的な微笑みに、思わず俺も笑みを返す。
そしてグレイスは――目を閉じて頷くと、そのまま一歩進み出た。
「行きましょう、ケイ。
“あなたの目指すもの”は、“わたしの目指すもの”です」
俺は笑みを浮かべたグレイスを見ながら、静かに頷く。
俺は再び全員を見渡しながら、改めて彼女たちに声を掛けた。
「判った。
ロベルト、セレスティア、シルヴィア――グレイス。
頼む、俺と一緒に来て欲しい」
「はい」
「もちろん!」
「了解した」
「任せてくだせぇ」
全員が、思い思いに言葉を返して来る。
その中でふと、ロベルトが俺に質問を投げかけた。
「ところで――。
“塔の迷宮”の北側なんていう辺鄙なところへ行って、旦那はどなたと会おうというので?」
俺はそれに、悪戯っぽく笑みを浮かべながら答える。
「“知識”のレダという、恐らく途轍もない強さを持った――“魔人”だ」
「ま、魔人――!?」
声を上げて驚いたロベルトを見て、俺は思わず笑い声を上げる。
「――あんたと旅してると、刺激には事欠かないわね」
そして、シルヴィアが呆れて言った言葉に――全員が思わず苦笑するのだった。