073 必中
頬から流れる血を拭うこともせずに、サイラスは頭を傾けながら笑う。
ウェーブの掛かった金髪が乱れている。その歪んだ唇が、どうにも気味が悪い。
ヤツは表情をそのままに、剣と盾を構え直した。
「ウアアァァァッ!!」
直後、サイラスは奇声を上げ、再び俺の方へと突進してくる。
ヤツがクランシーの使徒であることが、俺の攻撃を無効にできた理由だとしたら、おそらく俺もヤツの攻撃を無効化できるだろう。
だが、今俺の手には、ヤツを傷つけることができる魔弓がある。
それを考えれば、俺は圧倒的有利どころではない。これは一方的な試合だ。
「グレイス、俺の側から離れるな」
「はい」
俺は側に立つグレイスに伝える。
サイラスは俺の方向へ向かってきてはいるが、実際の狙いは間違いなくグレイスだ。
俺がヤツの攻撃を無効化できるなら、グレイスは俺の近くに居てくれた方が色々と対処がしやすい。特に今は光の結界があるため、ヤツの魔法攻撃からもグレイスを護ることができる。
ただ、俺の心に一つ不安があるとすれば、それは “制約”をサイラスに利用されることだった。
ヤツは俺が、“制約”という言葉に反応して、苦しみだしたのを見ている。それをいざというタイミングで利用されるのだけは厄介だ。
グレイスは俺の指示に従い、俺の背中側へと回り込む。彼女は隠者の長剣と運命の短剣の二刀を構えつつ、俺の背中に寄り添うように立った。
俺は正面から迫り来るサイラスに向けて、魔弓イシュメルを引き絞っていく。
同時に岩弾をイメージした魔力を弓に集めた。次第に魔力は形を作り、岩の素材を持った輝く矢が出来上がる。
矢が飛んでくることを予期したサイラスは、正面に盾を構えた。俺は込める魔力を増大させ、ヤツの防御を気にせずそのまま矢を放つ。
そうして実際に放たれたのは、矢というよりもまさに岩の砲弾とも呼べるものだった。
バン!と大きな音が響いて、サイラスの持つ盾の左半分が大きく凹んだ。矢は目にも止まらぬ弾速でサイラスに到達し、盾ごとヤツに大きな衝撃を与える。岩の砲弾はそのままバラバラになって砕け散り、サイラスは着弾の衝撃に耐えきれずに無様に床に転がった。
「ぐうぅぅっ!?」
これほどの衝撃がくると想像していなかったのかもしれない。あまり格好の良くない苦痛の声を上げ、サイラスが何とか立ち上がろうとする。
「な、何だ、今のは――。
何故だ!! 何故、私が床に転がっている!?」
その状況を認めたくないのか、サイラスは錯乱状態だ。
ヤツは慌てた様子で立ち上がると、自分の身体と周りの様子を確かめ、「おかしい、おかしい」と何度も口走っていた。
何とかヤツには訊いておきたいことがあったのだが――この調子では、まともな答えは期待できないかもしれない。
俺はそれでもサイラスに声を掛けることにした。望みは薄いが、錯乱を装っている可能性もあると考えたからだ。
「サイラス――。
聞こえているなら尋ねたい。
あんたは何故、転移門を護っているんだ?」
「――ヒヒッ」
「――――」
何が可笑しいのか、サイラスは甲高い笑い声を上げた。
聞こえたのはそれだけだ。残念ながら、ちゃんとした答えは返ってこない。
先ほどまでサイラスは、どちらかと言えば俺たちを状況的に圧倒していた。
だが、魔弓の存在がその状況を一変させている。
魔弓には、俺の見間違いでなければ“必中”のスキルがあったはずだ。だが、ここまでの攻撃は、おおよそ必中という言葉の当てはまらない一撃になっていた。それを考えると、“必中”のスキルは毎射自動的に発揮されるものではなく、意識して発動させなければならないものなのだろう。
ところが、その必中でもない魔弓の一撃が、一瞬で状況をひっくり返してしまっているのだ。それは、バランスブレイカーという他ない状態だった。
俺は魔弓を構えながら、油断なくサイラスの動きを見守っている。
少し時間があったことで、倒れていたセレスティア、ロベルト、シルヴィアの三人が起き上がってきていた。
三人ともそれなりにダメージは被ったようだが、何とかそのまま戦闘に復帰できそうな様子に見える。俺は三人に大事がなかったことを、心の中で安堵した。
――と、その瞬間、俺の周りから光の膜が姿を消した。光の結界の有効時間が過ぎたのだ。
直後、俺の正面から二つの光刃が飛んで来る。その向こうに一瞬見えたサイラスの顔は、歪んだ笑みに支配されていた。
今までのは気が触れた振りだったのだろうか? どちらにせよ光の結界が切れた直後を狙うとは、油断がならない。
俺が片方の光刃を魔壁で受け止めると、もう片方をシルヴィアが岩壁を作って遮った。
立ち上がったセレスティアとロベルトは、比較的ヤツに近い位置にいる。
サイラスの攻撃を見た彼らは、そのまま不審な動きを続けているヤツに、同時に襲いかかった。
「ハァァァッ!!」
珍しくセレスティアの声が上がる。サイラスは隙だらけの体勢だったが、いざ襲いかかられるとしっかりと剣と盾を構え直し、二人の攻撃を受け止めた。
ガチッという金属同士がぶつかり合う音が立ち、そのままギリギリと金属が擦れ合う不快な音がする。
二人の攻撃をしっかりと受け止めたサイラスは動きを止め、完全に鍔迫り合いの様相だ。
俺は動きの止まったサイラスを見て、再び魔弓を引き絞った。
仮にこのままの状態で矢を放った場合、狙いを外せばロベルトやセレスティアを射貫いてしまう可能性がある。確実に狙いを外さない自信がなければ、矢は放てない。
「ケイ、意識を集中してください。
――大丈夫、必ず当たります」
背中側に立ったグレイスが、俺にそっと耳打ちする。
俺は彼女の言う通り、的となるサイラスに意識を集中した。外れたらどうなるということは頭の外に追いやっていく。
仄かに魔弓自体が魔法の光を紡ぎ出してくる。俺はこれまでとは違い、魔弓が持つスキルが確かに発揮されたのを感じた。
サイラスが鍔迫り合いになっているセレスティアの剣とロベルトの槍を押し返した瞬間、俺は魔弾・特大を意識した魔法の矢をヤツに向けて射放つ。
サイラスは慌てて盾を前に突きだし、身体が盾に隠れるように身構えた。
「――何!?」
矢が盾に当たる――と思った直前、矢は不自然な軌道を描いて盾をくるりと迂回する。
鋭く尖った矢の形を持つ魔弾・特大は、そのままサイラスの腹を貫いた。
「ぐぼおぉぁぁっ!!」
何とも言えない苦痛の声を上げて、サイラスが後方へと倒れ込む。
ヤツは慌てて自分に回復魔法を唱えたようだ。だが、急激に減りゆくHPの減少が止まっただけで、既に半分程度にまで落ちてしまったHPは戻っていない。恐らく治癒が完全ではないからだろう。
それでもゆるゆると立ち上がったサイラスは、手に持つ剣を杖代わりにしながら、そのまま俺の方へと歩み始めた。その表情は破滅的なまでに歪んでいる。
「――す、済まなかった」
俺は飛んできたその言葉に、眉をひそめた。
「済まなかった。も、もう狙わない。
み、み、見逃してくれないか――!?」
サイラスはふらふらと俺の方へと歩み寄りながら、辿々しく言葉を繋げていく。
ロベルトとセレスティアは武器を構え、俺がどういう判断を下すのかを待っているようだ。
俺は何とか取り入ろうと、歪んだ唇から笑い声を漏らすサイラスを見ながら、無言のまま魔弓を引き絞った。それに呼応するように、魔弓は微かに魔法の光を放ち始める。
「た、頼む!!
――死にたくないんだ!!」
サイラスの懇願が続く。
サイラスは腹を貫かれた余波で、盾を取り落としている。
だが、見逃してくれといいながら、剣は手放していない。
足を引きずりながらズルズルと歩み寄ってくるサイラスは、既に俺から数歩の位置まで近づいてきていた。
頭をガックリと落とし、完全に項垂れた状態ではあるが――俺は警戒を崩さず、魔弓を構えたままにする。
と、サイラスが不意に足を止め、その場で顔を上げた。
その顔は――歪んだ笑顔で、溢れている。
直後、明確にサイラスは俺でなく、グレイスに向けて斬りかかって来た。
同時にヤツの歪んだ口が動き、一つの言葉を俺に伝えてくる。
そして、その口は確かにこう言っていた。
「“制約”で苦しめ」
――だが、その声は俺には届いていない。
背後にいたグレイスがサイラスの意図に気づき、俺の耳を押さえ、塞いでいたからだ。
直接ヤツの言葉を聞かなかった俺は、最低限の頭痛を感じるだけで意識を保つことに成功する。
俺はグレイスの柔らかく立体的な身体を背中に感じつつ、そのまま魔法の矢を放った。
「――!!」
ひょっとしたら、サイラスはこうなることを予め予測していたのかもしれない。
俺が矢を放った瞬間、ヤツの姿は忽然と俺の目の前から消えていた。
空間魔法の戦闘転移ではない。これは過去、俺が賢者の杖を手に内務卿との闘いで使った光属性魔法、光の転移だ!
正直俺の中には、サイラスが光の転移を使ってくるという想定が欠けていた部分がある。
だが――迷宮の入り口側に転移し、この場から逃げだそうとしたサイラスにも、“想定が欠けていた”部分があった。
「――そんな――馬鹿な!?」
サイラスは目を疑ったに違いない。
俺が放った魔法の矢は、矢とは思えない軌道を描き、完全に“回れ右”をして俺の後方の迷宮入り口に向けて飛んでいった。
そして、その先には――ヤツの姿がある。
放たれた“必中”の矢は、真後ろに転移した敵に対しても、“必中”だったのだ。
「うぐっ――」
完全に胸の中心を穿たれたサイラスは、苦悶の表情を浮かべる。
「――――」
見ると、ヤツは必死にパクパクと口を動かしていた。
何かを話そうとしているのだと思うが――残念ながら離れた俺の耳にはそれが届いてこない。
正直、サイラスに訊きたかったことは、沢山ある。
とはいえ、グレイスを狙われたことで、状況的に闘わざるを得なかった。そして、そもそも相手が闘うつもりで来ていた。
だが、本当に倒して良かったのか――という呵責は、どうしても沸き上がる。
少なくともここに来るまでは、俺はクランシーの使徒が魔人の武器を狙うなどという想定をしていなかった。
クランシーの使徒と、敵対するなどということを想定していなかったのだ。
既にサイラスの命運は尽きている。
俺は残りのHPを散らし、その場に斃れてゆっくりと空気に溶けていくサイラスを見ながら、考えざるを得なかった。
一体――使徒とは、何なのだ?
俺は全く表情を動かさず、サイラスが去っていった場所を眺め続けていた。
「――ケイ、大丈夫ですか?」
心配したのか、側に立ったグレイスが声を掛けてくる。
「ああ――。
グレイス、それよりよく気付いてくれた。
地味なやり方だったが、効果的で助かったよ」
俺が耳を塞いでくれたことに感謝すると、グレイスはニコリと小さく微笑んだ。
「あいたたた――ちょっと、何二人で雰囲気出してんのよ?」
腕を擦りながら近づいて来たシルヴィアに、ツッコミを受ける。
俺はシルヴィアに笑顔を見せながら、彼女に大回復を掛けた。
それで蹴られた痛みがようやく治まったのか、シルヴィアも笑顔を見せてくれる。
俺はセレスティアとロベルトの姿を確認すると、みんなに向かって言った。
「目的はまだ果たせてない。
――奥へ進むぞ」
それを聞いた全員が、静かに頷いた。
転移門は祭壇の奥にある。
クランシーの石像がある、さらに奥の壁面だ。
絶界の山脈の迷宮と同様に、見上げるばかりの規模がある。
「さて、前回は一撃で崩せたが――」
残念ながら俺が手にする魔弓には、転移門を崩すのに適したスキルはない。
矢の雨というのもあるにはあるが――目の前のものを突き崩すのに適したスキルのようには思えなかった。
俺は仕方なく、魔弾・超特大をイメージしながら魔弓を引き絞る。
見る見るうちにSPが弓に吸い取られていくのが判った。魔弓が使うSPは、一射ごとに可変だ。大きな魔力を込めれば、たとえ一射であっても相当量のSPを消費する。
そして、転移門の中心を射貫こうと魔法の矢を放った瞬間、その矢と共に意識を持って行かれそうな感覚が生じて、俺は思わず足下をふらつかせた。
矢は真っ直ぐ飛んで転移門に当たったが、轟音を響かせてそこに大穴を開けただけで、転移門全体を崩すようなことはない。
逆に大量のSPを持って行かれた俺は、完全にSP切れ状態に陥った。魔弓を手に持っていることはできるが、恐らく威力のある一撃はもう放てない。
「――ケイ、弓は諦めましょう」
グレイスに促され、俺は魔弓を彼女に手渡した。
グレイスが魔弓に向かって何かを唱えると、魔弓は空気に溶けるように消えていく。
「いいわ、後はあたしがやる。任せて」
そう言って、先ほどの闘いが消化不良だったシルヴィアが進み出た。
入れ替わるように俺たち全員が下がり、彼女を見守る。
――と、シルヴィアは自信に満ちた表情で暁星の杖に魔力を集めていった。
杖の先端にある宝石が真っ赤に輝き始め、尋常でない攻撃力が蓄えられているのが判る。
「――ヤバイぞ!!」
俺はその宝石の輝きを見て、ロベルトたちに声を掛けて撤退するように指示をした。
ストレス発散なのかもしれないが、途轍もなく周囲を巻き込みそうな雰囲気が漂っている。
次の瞬間、彼女の杖から四つの大きな火球が繰り出され、壁面に向けて飛び出した。
シルヴィアの灼熱の四星は、着弾と共に全てを吹き飛ばしそうな爆風を上げて、壁面の転移門を壮絶に叩き壊していく。
「アハハハハハハッ!!」
シルヴィアは――かなり楽しそうだ。
俺たちは出来るだけ離れてその様子を見るが――何というか、ちょっと怖い。
俺は転移門をシルヴィアに任せ、セレスティアに向き直る。
闘いの余波が残っているとは思わなかったが、結果的に使徒に剣を向けることになった彼女のことは、気になっていた。
「セレス――複雑だとは思うが――」
俺が掛けた声に、意図を汲んだのだろう。セレスティアは微笑みながら首を横に振った。
「いや――今はいい。
私が剣を向けたのは使徒であって、神ではない。
それに――ケイも――、
ケイも、“クランシーの使徒”なんだろう?」
彼女は先の魔人と今回のサイラスとの闘いの中で、そう結論づけるに至ったのだろう。
だが、その彼女の何気ない発言は、俺の制約を改めて発動させてしまった。彼女は俺の制約のことを良く知ってはいない。その意味で結果的にそうなってしまったことを、責めることはできなかった。
俺は頭痛に表情を歪め、その場でふらつき始める。
異変に気付いたセレスティアは、慌てて俺の身体を支えようとした。
自分の身体を支えられなくなった俺は、身近にある支えを求めて、何かに捕まろうと手を差し伸べる。
次の瞬間、俺の右手は支えというには何とも軟弱な、且つ幸せな感触のモノを掴んでいた。
「あっ――」
ふらついていたはずの俺も、その感触が何なのかに気付いて思わず目を点にする。
主人を支えた俺の優秀な右手は、慌てて近寄ろうとしたセレスティアの胸元に引っかかり、元々胸元の開いていた聖乙女の鎧をずり下ろしてしまっていた。俺の手は完全に露出してしまった胸を隠すかのように、それをガッシリ掴んでしまっている。
あまりのことに、セレスティアは絶句して固まっていた。
そして、一瞬の間が出来てしまったことで、俺は何となく脊髄反射で右手を動かしてしまう。
「――きききききき、貴様―っ!!」
「ま、待て! 事故だっ!!」
だが、彼女は俺の言い訳など、全く聞いていない。
次の瞬間、俺はセレスティアの見事な右ストレートを受けて、その場に崩れ落ちた。
「――痛てぇ!! 使徒を殴っていいのかよ!?」
使徒という言葉に頭痛が生まれるが、今はそれ以上に殴られた頬が痛い。
セレスティアは腕で胸元を覆い隠しながら、怒りを込めて口を開いた。
「フン!! 邪念の詰まった使徒など、殴って当然。剣を向けられて当然だ!!
そもそも倒すべき使徒は本当にあちらで良かったのか、省みる必要があるっ」
「ひ、酷でぇ――」
グレイスとロベルトがそのやりとりを見ながら、クスクスと笑っている。
――兎に角、セレスティアは心配に及ばないということは良く判った。
ちょっと意図していたのとは違うが、それが確認できただけでも良しとしよう。
俺は腫れた頬をさすりながら、ホッと胸を撫で下ろすのだった。
転移門の消滅を確認した俺たち五人は、開門を越えて、首都へと戻っていく。
魔力を十分に発散し終わって疲れを見せたシルヴィアが、そのまま宿に戻ることを主張したが、報告を後回しにすることはできない。
俺たちがサリータの兵舎前に戻って門番に来意を告げると、間もなく客間へと通された。
それから少しの後、客間の扉がノックされ、いつもと変わらない様子の豹男が姿を現す。
豹男は客間にいる全員の姿を見渡し、俺たちが無事に帰還したことを、素直に喜んだ。
「お帰りなさいませ。皆さんご無事で何よりでした」
だがそこに竜人の姿はない。まだ戻ってきていないのだろうか?
俺がそれを尋ねると、豹男は静かに頷いた。
「竜人さまはまだ戻られていません。塔の迷宮の構造は荒野の迷宮よりも複雑ですので、探索に時間が掛かっている可能性があります」
「そうか――。
では、一応報告しておくが、荒野の迷宮にある転移門は破壊した。
これであとは塔の迷宮の転移門だけになる」
俺が伝えた内容に、豹男はこの男には珍しいぐらいの笑みを浮かべて喜んだ。
「それはそれは。
さすがと申した方が良いでしょうか。竜人さまが戻られたら、再び酒宴の準備が必要ですね。
さて――皆さんはお疲れでしょう。エルキュール邸のようにはいきませんが、竜人さまたちがいらっしゃらないため、今日は兵舎の部屋に余裕があります。お一人ずつ部屋を使っていただけますので、よろしければ、今日はこちらで身体を休めてください」
俺たちはその有り難い申し出を受け、身体を休めながら竜人の帰りを待つことになった。
そして、その日の夜――。
見回りの一部の兵士を除いて、兵舎の中は既に全員が寝静まっている。
兵士たちの朝は早い。そして、しっかりとした時間管理がされているため、夜中に歩き回っている獣人の姿もないようだ。
闇と静寂の中、俺の姿は兵舎の一階にある食堂のテラスにあった。
食堂は丁度客間の向かいにある。俺はなかなか寝付くことができず、少し頭を冷やすことも考えて、この場に出てきたのだ。
テラスの縁に腰掛け、少し考え事をする。
少しだけ吹いた風が、テラスの外側に植えられた草花を揺らしていた。
闇の中ではあるが、草花の音を聞くだけで何となく心が洗われるような気がしてくる。
揺れる草花を見ると、どうしてもこの世界に降り立った最初の大地を思い出してしまうのだった。
あれから――随分時間は過ぎた。
俺はきっと順応しすぎるぐらいに、この環境に順応している。
そして、段々と俺にとって大切なものも――元の世界とどちらの方が多いのか、即答できなくなってきている。
――ふと、足音が聞こえたのに気づき、俺はそちらの方を振り返った。
そこには食堂へと入ってきたグレイスの姿がある。
彼女は髪を下ろし、寝間着だろうか?普段は見ない、ゆったりとした服を纏っていた。
「――眠れないのですか?」
グレイスは静かだが通る声で、俺に尋ねてくる。
そして、少し微笑みながら、俺の隣に腰掛けた。
「いや――。
これからのことを、少し考えてた」
俺がそういうと、グレイスは俺が言ったことに興味があるのかないのか、小さな声で「そうですか」と言った。
俺がそのまま無言になると、グレイスも無言になり、俺たちは闇の中で並んで座ったまま、静かな時間だけを共有することになる。
お互いが無言のまま少しの時が過ぎた後、グレイスが一際大きく息を吸い込んでから、口を開いた。
「――ケイ、あなたにお話ししないといけないことがあるのです」
グレイスは微笑みながらそう言い切る。
だが、俺の目には――彼女の笑みが、どこか寂しそうな雰囲気を含んでいるように思えた。
恐らく彼女は、これまで敢えて俺に伝えてこなかったことを、今まさに話そうとしているに違いない。
それを聞きたくないと言えば、完全に嘘になる。
だが、それを伝えることが彼女にとって負担になるなら――と、この時俺は考えた。
「無理に――話さなくていい」
俺が半分拒絶するように言うと、再びグレイスは優しく笑みを浮かべた。
「いいえ――あなたに、聞いていただきたいのです」
そう言ってから一つ息を吐くと、彼女は真っ暗な空を見上げて、続けて口を開いた。
「――これはわたしが知る、ある“身勝手な魔人”に纏わるお話です――」
グレイスは、覚悟をしてここに来ているようだ。
俺は素直に彼女の意図を汲み、静かに次の言葉を待つ。
そして――静寂の夜に、彼女の澄んだ声が続いた。