046 西へ ★
※世界観把握のためのもので、細かな距離感などは反映できていません。
世界がこんなにも明るかったことを、再認識する。
日常を生きるということは、自分がいる環境に鈍感になることだ――。
何となく、そんな考えが俺の頭を過ぎった。
自らの意識とは別に、時間の経過と共に表情を変える世界が、こんなに貴重に感じるとは思いもしなかった。
俺は、この世界の人間じゃない。
でも、この世界には、俺にとって貴重なものが既に存在している。
俺は大凡一ヶ月半もの期間、様々な貴重なものから遠ざかっていたように思う。
それは迷宮から抜けだし、外界に出て初めて、実感することだった。
俺とグレイス、シルヴィア、セレスティアの四人が深淵の迷宮を抜け出した時、辺りは夕方になりつつあった。
俺たち四人はお互いの無事を喜び合った後、迷宮を上の階層へと戻りながら、この一ヶ月半の出来事を共有しあっていた。
再会直後に俺にからかわれたセレスティアだけは、暫くの間、膨れっ面ではあったのだが――。
俺がグレイスたちに語ったのは、次のようなことだ。
魔石像の王との闘いで床から落下したとき、深淵の迷宮の最下層まで落ちてしまったこと。
幸いにして、怪我だけで済み、助かったこと。
そこで一人の魔人に出会ったこと。
その魔人と対話し、魔人同士の対立関係について教えられたこと。
俺たちが追っているクルトは、リース派と呼ばれる勢力に属していること。
深淵の迷宮から抜け出すために、かなりの期間、自分を鍛える必要があったこと。
一〇階層目の闘いの時、クルトに遭遇したこと。
クルトと闘ったが、逃がしてしまったこと――。
特に終盤の、俺が一人でクルトと遭遇し、クルトを逃がしたという部分に対しては、三人とも驚きを隠さなかった。
「――ケイ、一応聞くけど、クルトの行き先は判ってるのかしら?」
シルヴィアが俺に尋ねる。
絶対に訊かれる質問だとは思っていたが、正直ばつが悪い。
「すまん――それが判っていない」
「そう――」
シルヴィアが目を伏せてしまう。
クルトを追い詰めるのは、今の彼女が旅する大きな理由だ。
これまでヤツを逃し続けているだけに、俺が伝えた内容には、落胆も大きいに違いない。
「ケイ、それで次の目的地はあるのですか?」
グレイスが気遣ったのか、話題を変えるように俺に尋ねてくる。
俺はグレイスの長い睫毛に視線を止めると、何となく眼鏡を外したレーネのことを思い浮かべながら質問に答えた。
「ある。
――ただ、その話をする前に、できればみんながこの間、どうしていたのかを訊きたい」
俺が三人を見渡してそういうと、グレイス、シルヴィア、セレスティアがそれぞれの顔を見合わせた。
すると、セレスティアが進み出るように話し始める。
「あまり特筆すべきことはないかもしれないが――私が話そう」
「頼む」
俺がそういうと、セレスティアは頷いて話し始めた。
セレスティアが語った話はこうだ。
魔石像の王との戦闘中、俺が床から落下した。
俺が床から落下した当初、セレスティアとシルヴィアはその事実に気づいていなかったのだという。
異常に取り乱したグレイスが、要領を得ない説明をして、ようやく俺の身に何かがあったことに気づいたらしい。
それから先は、セレスティアが魔石像の王の攻撃対象をしっかり維持して、時間を掛けて倒したということだった。結局、俺が落下してから魔石像の王を倒すまでに、数時間を要したようだ。
だが、名前付きを僅か三人の女性が倒したのだ。この三人の能力と結束は、相当なものなんだと思う。
その後、魔石像の王を倒した彼女たちは、下層に向けて俺の名前を呼んで声を掛けたらしいが、その声は残念ながら俺には届かなかった。
逆に、俺の名を呼ぶ声が魔物を引き寄せたこともあって、結局一旦撤退することになったのだという。
撤退はシルヴィアが強硬に反対したようだが、セレスティアが無理矢理引きずって撤退した、と言っていた。
撤退後は再度迷宮に挑むかどうかを議論したようだが、結局一旦王宮に戻り、宰相に会って騎士団を動員してもらうよう話をしたらしい。
宰相はそれを受け入れ、王国の中央騎士団がそれに駆り出されることになった。
高々冒険者の捜索に騎士団が動員されるのだから、相当に異例なことだ。
だが、騎士団を動員したにも関わらず、結局一ヶ月近く掛かって一〇階層までも進むことができなかった。
特に五階層目の守護者の部屋では騎士団に多くの被害が出て、宰相も騎士団動員の方針を見直す可能性があると伝えてきたらしい。
そうしたこともあって、グレイス、シルヴィア、セレスティアの三人は、独自に深淵の迷宮を探索し、敵を倒してきたのだという。
セレスティアの話を聞いていて、騎士団を導入しておきながら、なかなか下の階層まで進めなかった理由は見えてきた。
この世界では、迷宮内で夜を明かすということは、普通しない。
迷宮の中で眠れば、魔物の餌になることが判っているからだ。
つまり、騎士団もグレイスたちも、毎日新たな階層を進みながらも、毎夜迷宮の外まで一旦戻っていたということになる。
そうすると、階層が深くなるごとに移動時間が増えて、新しい場所を探索する時間は短くなっていく。
だから、なかなか進むことができなかった。
開門の魔法で、その辺りを近道していた俺とは対照的だ。
そして、彼女たちは俺を探索する間、クルトには全く遇わなかったのだという。
騎士団が深淵の迷宮の入り口を見張っていたことを考えると、ひょっとしたらクルトはかなり長い間、深淵の迷宮内に潜伏していたのかもしれない。
恐らくクルトとしては、俺たち四人が深淵の迷宮を探索し、どこかのタイミングで縄張りを荒らされたレーネとぶつかり、どちらかが倒れる――どう考えても俺たち四人が劣勢だが――といったシナリオを書いていたように思う。
そのシナリオが崩れ始めたのは、俺が最下層まで落下し、そこでレーネに会ったところからだ。
しかも、レーネと俺は、闘うことなく協力関係を築いてしまった。
結果として、クルトは逃げ出さざるを得なかったのだ。
俺は経緯を話してくれたセレスティアに礼を言うと、彼女たちがこの後の目的地を定めているかどうかを尋ねてみた。
すると、セレスティアが首を振って答える。
「ケイを探す。クルトを追う。
――実は私たちにこれ以外の目標はなかった。
今ケイが見つかり、クルトの行き先が判らない以上、私たちが考える次の目的地は曖昧だ。
ぜひケイが思う次の行動を、教えて欲しい」
俺はそれを聞くと、微笑みながら口を開く。
「セレスは以前、西方にいたんだったな」
「ああ。二ヶ月前までの数年間、私は西方国境の都市エイヴィスを守護していた」
それを聞いて頷いた俺は、三人を見渡した上で言う。
「俺はこの後、西方に向かう。そして、国境を越えて隣国ロアールに入る。
――深淵の迷宮で会った魔人から聞いたんだ。
魔人たちは、この世界に勢力を拡大しようしている。
それを止めるためにはまず、隣国ロアールに行って、“クローヴィス”という男に会えと」
俺の発言を静かに聞いていたグレイスが、質問をしてきた。
「ケイ――あなたが最下層で会った魔人は、どの程度信用ができるのですか?」
俺は目を閉じて少し考えると、その質問には首を振る。
「判らない。
――だが、少なくとも俺は信じたいと思っている」
俺の言葉を聞きながら、グレイスは俺の目をじっと見つめていた。
彼女は一頻り何か言いたそうな表情を見せていたが、結局言葉にせず、飲み込んでしまったようだ。
「いいんじゃない?
手がかりがないなら、何かの可能性があるところに向けて行動あるのみ、よ。
あたし、西方行ったことないから興味もあるしね」
シルヴィアが同調して言う。
何となく後者の理由の方が、彼女のモチベーションを高めている気がしないでもないが――。
「私もそれで良いと思う。
残念ながらクローヴィスという名前には心当たりがないが、実際に足を運んで探せばきっと何とかなるだろう」
セレスティアも同意し、意見を表明していないグレイスに視線を移す。
グレイスは一瞬複雑な表情を見せた後、何かを観念したかのように、静かに頷くのだった。
俺たち四人は深淵の迷宮を出て、王都の王宮へと向かった。
宰相に俺が無事だった旨を報告するためだ。
それに、中央騎士団まで駆り出しての捜索をさせてしまったことを、詫びておかなければならない。
王宮に着くと、生憎宰相は来客中だった。
忙しいであろう相手にアポなしで会おうというのだから、仕方のないことだ。
だが、結局三〇分ほど待ったところで、宰相は来客を切り上げ、俺たちがいる応接室に顔を出した。
「ご迷惑をお掛けしました」
俺は姿を見せた宰相に、真っ先に深々と頭を下げた。
宰相は首を振ると、俺に声を掛ける。
「いいえ、賢者よ、無事で何よりです。
セレスたちも笑顔を取り戻せたようで、安心しました。
何しろ、貴方がいなくなった時のこの三人の表情といったら、もう――。
女性を悲しませてはいけませんよ。肝に銘じなさい」
「は、はぁ――」
何か違う話になっている上に説教されているのが気になるが、取りあえず無事を喜んでくれているのだから、あまり考えないことにしておく。
「殿下、魔人のことでご報告が」
「ええ、聞きましょう」
セレスティアが切り出して、俺の方を見ている。
クルトがどうなったのかは、俺から詳しく報告しなければならない。
「俺は王宮に忍び込んだ魔人――クルトと、深淵の迷宮で遭遇しました。
ですが、俺の力が及ばず、取り逃がしてしまいました。
ただ、深淵の迷宮にはクルトはもういません。それは確実だと思います」
「この王国内に潜んでいる可能性はありますか?」
「残念ながらあります。
ただ、ヤツは目的を持って動いています。その目的は他の魔人を手段を問わずに追い込み、消滅させることです。まさに、内務卿を、そうしたように――。
その意味で言えば、すぐにこの国に害を成すことはないでしょう」
「判りました。少し安心しました。
――それで、貴方たちは、この後どうするのです?」
胸に手を当て、宰相は本当に安心したような素振りを見せている。
俺は宰相の優しげな目つきを見ながら言った。
「クルトを追いたいのですが、残念ながら逃げた先が判りません。
ですが、俺はある人物と会い、一つの情報を得ました。
それはこの世界に拡大しつつある魔人の影響力を、暫くの間止めることができる方法があるという情報です。
そのために俺たちは、西方の国境を越え、ロアールに行きたいと思っています」
宰相は目を閉じて、少し考える素振りを見せた。
「――判りました。エイヴィスまで馬を用意しておきます」
あっさり許可してくれた上に、移動手段まで用意してくれたのは非常に助かるのだが、ここで俺は一つだけハッキリしておかなければならないことがある。
「殿下。
西方へ向かうにあたって、ひとつお願いがあります」
そう改まって言う俺に向き直り、宰相は和やかに微笑んだ。
「賢者からのお願いは、色々と含みがありそうなので、聞いてみるまで少し不安になりますね。
いいでしょう、申してみなさい」
俺は和らいだ宰相の表情を見ながら、真剣な表情で伝える。
「心配させて恐縮ですが、率直に言わせていただきます。
セレスティアをロアールへ連れて行かせてください。――俺と共に」
直前まで微笑んでいた宰相の表情が、それを聞いて一気に引き締まった。
「――それが、何を意味するのか判って言っているのですね?」
「もちろんです。
最終的にはセレス自身が決めることだと思いますが、俺自身はそう望んでいます」
真剣な俺の目を見て、宰相は目を閉じ、諦めたように静かに頷いた。
それを見た俺は、改めてセレスティアに向かって言う。
「セレス、このまま騎士として王宮に残るか、完全に騎士位を返上して、俺と共にロアールへ行くか。
――君が選ぶんだ」
「なっ――」
セレスティアは突然のことに絶句してしまう。
それに被せるように、宰相が言った。
「魔人に関わることで、この国の正式な使者をロアールに送ることはできません。
であれば、この国に軍籍を持つ貴方が、友好国でもないロアールに入国することは不可能。
貴方が賢者と共に行くのであれば、復帰を見越して預けたままの騎士章を返上し、軍籍を抜けて一人の民間人となって行きなさい」
伝えられた内容の重さに、セレスティアの表情が凍り付く。
しばらくの間、誰も何も言葉を発しない。
応接室には長い静寂が生まれ、全員が次のセレスティアの言葉を待っている。
思い詰めた表情のまま、セレスティアは拳を堅く握りしめていた。
この僅かな時間に、彼女が大切にしてきたものを振り切れというのは横暴だ。
だが、俺も宰相も、それが当然であるかのように、セレスティアにこの場での判断を求めた。
それは、彼女が出すであろう結論が――想像できていたからだった。
「殿下――お許しください――」
セレスティアはそう言うと、自らが持つ騎士章を取り出し、宰相に差し出した。
その手は心なしか、震えている。
宰相は微笑むと、その騎士章を両手で包み込むように受け取った。
「――セレス、貴方が出来ることを精一杯やりなさい。
そして、最後までやり遂げたらここへ戻ってくるのですよ。
私は、貴方を自分の娘だと思っていますから――」
そういって宰相は、ゆっくりとセレスティアを抱きしめる。
俺はそれを見て、自らが求めた決断の重さを、改めて感じるのだった。
翌朝、俺たち四人は王都の冒険者ギルドに向かった。
冒険者ギルドは突然現れた白銀の戦乙女によって、少しパニックになってしまったのだが、セレスティアは無事に登録を済ませて一介の冒険者になった。
「これで――あなたたちと一緒だ」
セレスティアの表情は、少し紅潮しながらも晴れやかだった。
様々なものを吹っ切り、俺たちと同じ立場の仲間となって、新しい目的に向けて旅をする。
その期待感が、彼女を高揚させているのかもしれない。
そうして冒険者の登録を済ませた俺たちは、早速西方へ向けて移動することになった。
ところが――。
「馬って、馬車じゃないのか――!」
宰相に“馬を用意する”と言われていたが、俺は勝手に馬車のことだと思い込んでいた。
ところが、用意されていたのは、普通の騎馬だ。俺にとってはとんでもない落とし穴だ。
「ケイ、ひょっとして馬に乗れないのですか?」
グレイスが遠慮なしに聞いてくる。
まるで大人に「自転車に乗れないのですか?」と聞いているような口調だ。
そう言われて正直に乗れないと答えるのが恥ずかしいのだが、流石に出来もしないことを出来ますとは答えられない。
「――みんなは乗れるのか?」
「はい、わたしは乗れます」
「乗れるわ」
グレイスとシルヴィアが答え、セレスティアはその質問には答えなかった。
見るとセレスティアは既に先行して馬に乗っている。
――要するに、答えるまでもないということのようだ。
支度するグレイスとシルヴィアを見て、一瞬戸惑った表情をした俺に、不意に手が差し伸べられた。
「ケイ、私が乗せよう。後ろに乗ってくれ」
先行して馬に乗っていたセレスティアが、鞍の前の方に詰めながら言う。
見ればグレイスとシルヴィアも支度を終えて、馬に乗り始めていた。
俺は何となしに言われるまま、セレスティアの手を掴み、手伝って貰いながら何とか彼女の後ろに乗せて貰う。
鞍に二人の身体が収まると、下半身が完全に密着してしまっている。
これは余計なことを考えると――色々面倒なことになりそうだ。
「もう大丈夫か?
――では、出発するぞ」
セレスティアの声に反応するように、三騎の馬が鞭打たれ、急に街道を走り始めた。
俺は、セレスティアの身体に出来るだけ触れないようにと考えていたのだが、突然発進した馬の動きに、一瞬動転してしまう。
仰け反るように落馬しかけた俺は、慌てて手を伸ばし、セレスティアの身体を力一杯掴んだ。
両手には柔らかい感触が、広がっている。
「ちょっ、貴様! どこを掴んでいる!」
セレスティアの抗議の声に、俺は思わず手を離した。
だが、手を離したら離したで、身体が流れ、そのまま馬から落ちそうになってしまう。
「ダメだ! 落ちるぞ、ちゃんと掴まれ!
――違う、そうじゃない。おい、どこを触っているんだ!?
よせ! そこじゃないと言っている!!」
――その様子に、グレイスとシルヴィアは呆れるように溜息をついた。
そうしたやりとりを繰り返しつつ、三騎の騎影は――その内の一騎は時折身悶えするような不自然な動きと叫び声を発していたが――西へ西へと、駆けていくのだった。