044 魅了
「――褒美もなしでこれかよ。酷いな」
俺はレーネの向かいのソファに腰掛けて、赤く腫れた右頬をさすりながら抗議する。
レーネはそれを鼻で笑うと、眼鏡を掛けて俺の向かいに腰掛けた。
「乙女の寝顔を覗き込むなど、下品の極みじゃな」
誰が乙女なんだ? ――というツッコミは寿命を縮めるのでやめておく。
「それにしても、随分戻りが早いようじゃが――まさか、逃げ帰ってきた訳ではあるまいな?」
「それこそ、まさかだ」
俺はそう言うと、テーブルの上に半蛇女王の憑代である、赤い宝石の填った指輪を置いた。
「魅了の指輪か。
――確かに、半蛇女王の憑代じゃな。
これはお主が持っておくがいい。相手に魅了を掛ける効果もあるが、魅了されている相手を見破ることができる。
――しかし、この短時間で仕留めるとは、お主どんな闘い方をしたのじゃ?」
レーネは訝しがって聞いてくる。
「どんなと言われても、普通に闘っただけだが――」
レーネは俺をじっと見つめると、ソファから立ち上がって俺に背を向けた。
「――良かろう、今日はもう迷宮には出ず、休むが良い。
今日お主が攻略したのは、二十四層目の守護者だが、お主はこれから先、二十三層、二十二層と進んで行くことになろう。
もちろん進む上で、各階層の守護者を倒すことになろうが、お主は各階層の守護者を倒したら、必ず一旦ここに戻って私にその旨を報告するのじゃ。それを約束せよ」
「そりゃ構わないが――。
何のために、そんな面倒なことをする?」
レーネは俺の質問に、ニヤリと微笑んだ。
「私がこの深淵の迷宮の中の、魔物のバランスを管理しているからじゃ。
多すぎもせず、かといって少なすぎもせず、溢れかえることもないようにしている。
お主はその意味では、この迷宮の均衡を壊す者なのだから、お主がどこまで進んだのかは、当然把握しておく必要がある」
――ということは、この深淵の迷宮が、永らく閉鎖されても魔物が溢れかえらない状態にあったのは、レーネが魔物の数を管理していたからなのか。
「――判った、約束しよう。
ただ、俺はできれば一刻も早く地上に出たい」
「焦るな、ケイ。
半蛇女王との闘いでは、ダメージを受けなかったのか? 疲労は?
二十四層の敵よりも、二十三層の敵が弱いなどと、誰が決めたのじゃ。
確実に進むなら、常に万全の体勢で臨め。でなければ、必ず足を掬われるぞ」
――俺は焦っているのだろうか?
確かにレーネの言う通り、半蛇女王との闘いではダメージを受け、消耗もしている。このまま二十三層目に進んだ時、半蛇女王以上の敵が出てくれば、恐らく苦戦するだろう。
「――判った。レーネの言う通りにする。
書庫で休ませて貰っていいかな?」
俺がそういうと、レーネは満足そうに微笑んだ。
「好きにするがよい」
「済まないな。
色々気遣ってくれて助かる。ありがとう」
俺はレーネの端的な言葉に感謝を返す。
それを聞いて、レーネは少し驚いたような表情を見せた。
「何だ? 俺、変なこと言ったか?」
「いいや。
――私はこの後、所用がある。誰も来ぬとは思うが、しばらく留守を頼むぞ」
「ああ。
といっても、本を読んだり、寝ているだけになりそうだが」
「構わぬさ。
――それと、褒美の件は考えておく」
レーネから出てきた思いもよらない言葉に、俺は思わず驚きの表情を見せてしまった。
それを見てレーネが笑う。
「フフ、そんなに驚くことはなかろう。
――そうじゃな。お主が何か目的を達した時に与えることにするか」
レーネはそういうと、少々楽しげに寝室から出て行った。
俺はその日以降、一階層ずつを確実に攻略していった。
逆方向から攻略していっていることもあって、各階層の最初に守護者がいて、それを倒した後に迷宮部分がある。
俺は守護者を倒すごとに空間魔法で書庫に戻り、レーネに報告を行った。
報告をした後は身体を休めながら、書庫で魔法書を読む。
書庫の上の方にある銀の魔法陣で囲まれた書棚がどうしても気になったのだが、レーネはそこの書棚の書籍だけは、頑として手に取ることを許さなかった。
日々の変化としては、半蛇女王を倒して以来、レーネが不在がちになったのも変化の一つだ。
俺が修練に励んでいた一ヶ月の間は、ほぼレーネは付きっきりで俺の側にいた。
とはいえ、俺の闘いを傍観しているだけで、ピンチになっても助けてくれなかったのだが――。
レーネは俺から守護者を倒した報告を受け取ると、毎度そこから不在になり、俺が魔法書を読み終わって寝室で寝ている間に戻ってきているようだった。
そんな生活が、二週間になろうとしていた。
俺は深淵の迷宮の十一階層目まで到達していた。
ほぼ、一階層を一日で上ったことになるが、二〇階層目と十五階層目だけは、迷宮の大きさが二倍以上あり、攻略に時間を要してしまった。
それまでは迷宮を完全に頭の中でマッピングしていたのだが、それをレーネに伝えると、空間魔法に地図作成スキルがあることを教えてくれた。
十一階層目は、完全に迷宮と呼ぶにふさわしい迷路になっている構造だ。
通路は広くなく、なおかつ部屋と呼べるような空間もない。
石造りの壁は見た目も特徴がなく、地図作成スキルがなければ相当難易度が高かったに違いない。
俺は壁に光弾で焦げ目を入れ、それを目印にすると、迷宮攻略の基本である左手の法則で進んで行った。
左手の法則で歩けば時間は掛かるが、確実に出口には到達できる。もちろん歩いている途中で迷路の構造が変わらない、という前提条件はあるが。
いくつかの通路で骸骨戦士やスライム、吸血コウモリに遭遇したが、どれも強い敵ではない。
単体の敵は倒し、複数の敵は新たに覚えた隠密の魔法でやり過ごす。
そうしていくと、間もなく一〇階層目への階段が見つかる。
俺は階段に罠がないことを確認すると、慎重に階段を上っていった。
そして、一つ目の広間に到達する。
これまでの経験で言うと、攻略に手間の掛かった二〇階層目、十五階層目は守護者のレベルも高く、強敵だった。それを考えれば、恐らくこの一〇階層目の守護者も強敵に違いない。
構造としては、五階層おきに強敵がいる形だ。実質の二十五階層目にレーネが住んでいることを考えると、何となく納得してしまう。流石にレーネは単なる強敵という言葉で形容するには、有り余る難敵だとは思うが。
俺は自分が考えたことに少し苦笑してしまうと、自分の状態に問題がないことを確認し、改めて付与をかけ直した。
「――さあ、果たして何が出てくるか、お楽しみだな」
俺は半分期待感を抱いたまま、一〇階層目の守護者の部屋へと侵入する。
俺が足を踏み入れた部屋は、広い空間になっていた。十一階層目が狭い迷路になっていたことを考えると、それだけで開放感がある。
どういう構造で作られているのか、この部屋は天井の高さも心なしか高い気がする。ただ、深淵の迷宮は、この手の部屋だと上空から攻撃してくる敵か、大型の敵が出てくることが多い。
部屋の中は決して明るくはないのだが、このまま闘えなくはない明るさだ。
何カ所かの壁に光源がついていることを考えると、夜行性の敵が出てくるということもないだろう。
ふと、部屋のなかにドシンと大きな振動が響いた。
俺は油断なく、振動がした方向を見据える。今のが足音だとすると、かなり大型の魔物が出てくる可能性が高い。
暗がりから、一つの影が進み出てきた。かなり大柄で、俺の身長の1.5倍はありそうだ。
隆々とした筋肉質の身体は腰布だけで覆われており、手には巨大な斧を持っていることが判る。
さらに、頭には人間にはない角が生えているのが、シルエットで見えた。
次第にその姿が光源に照らし出されると、その頭が牛の形をしていることが判る。
「――牛頭巨人か」
迷宮と言えば、定番とも言える魔物の出現に、驚きはない。
俺が気になったのは、牛頭巨人の状態の方だ。
**********
【名前】
牛頭巨人
【クラス】
魔物
【レベル】
50
【ステータス】
H P:?????/?????
S P:???/???
筋 力:????
耐久力:????
精神力:???
魔法力:???
敏捷性:???
器用さ:???
回避力:???
運 勢:???
攻撃力:????
防御力:????
【属性】
不明
【スキル】
不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明、不明
【装備】
巨人の斧(攻撃力+715)
【状態】
魅了
**********
なんと、俺よりレベルが高い。
――しかも問題がふたつある。
ひとつ目は、巨人の斧の破壊力。筋力が見えないため、実際の攻撃力が判らないが、取りあえず受け止めるとか、受け流すという類の威力ではない。魔壁も攻撃を止めるには使えなさそうだ。大鬼の王戦と同じように、敵の動きを妨害するのに使うしかない。
ふたつ目は、状態の“魅了”だ。
俺のレベルは牛頭巨人に劣るため、殆ど状態が見えないが、半蛇女王の憑代である魅了の指輪を持っていることで、魅了の状態だけは見破ることができる。
問題は、これが誰によって魅了されているかということだ。
牛頭巨人を魅了した相手によっては、闘い方を変える必要があるかもしれない。
あり得るのは、レーネが何らかの理由で俺の先回りをして、牛頭巨人を魅了し、俺に嗾けているということが一つある。
だが、もしレーネがそれをするのであれば、証拠が残らないようもっと上手くやるに違いない。
「クルトか――!」
俺は次に思い当たる理由を口に出した。
その声をきっかけにするように、牛頭巨人が急に突進を掛けてくる。
俺は牛頭巨人の顔と足下に魔壁を展開したが、それらは一瞬で粉砕された。
牛頭巨人はほぼ勢いを変えずに、俺に迫ってくる。
俺は慌てて濃霧を張ると、空間魔法を使って牛頭巨人の後方へ転移した。
戦闘転移の空間魔法を使うと、自分の視界に入る場所へ、高速に転移することができる。
だが、一度使うと次に使用できようになるまでの休息時間と呼ばれるものが存在し、何度も連続で転移することはできない。
目標がいなくなった牛頭巨人の一撃は空を切った。
だが、その空振りは、末恐ろしい風切り音を作り出す。
――冗談じゃない、あんなの喰らったら真っ二つだ!
俺は一瞬、背筋に悪寒が走るのを感じた。
俺は背を向けた牛頭巨人に向けて、二つの岩弾を放つ。
一つはミノタウロスの背中に当たり、もう一つは外れて地面に当たった。
当たった瞬間、岩弾は炸裂し、大きな爆発になる。
岩弾に魔弾・特大の接触魔法を付与したものだ。
攻撃を受けた牛頭巨人は、低く響く唸り声を上げて俺の方へ振り返る。
それなりの威力の爆発だったはずだが、牛頭巨人は出血もしていない。
俺は濃霧を張り、濃霧の中から風刃を複数放った。
牛頭巨人は避ける素振りを見せたが、風刃はカーブを描きながら、牛頭巨人の太ももと上腕にヒットする。
牛頭巨人の皮膚が破れて、ダメージになったのが判った。
「――土属性だな」
二つの攻撃によって、牛頭巨人の属性を見極める。
念のため状態でも確認するが、判明した属性は確かに土属性だ。
なので、風属性の魔法が効果的になる。
とはいえ俺は、あまり威力の高い風属性の魔法を持っていない。
電撃は使えるのだが、更に高位の雷鳴ぐらいでないと、牛頭巨人には有効なダメージにならなさそうだ。
俺は雷鳴を大鬼の王戦で使ったことがある。だが、今のところ、魔人の武器の助けがなければ発動が難しい。
となると、やはり闇属性か状態異常魔法によって牛頭巨人を弱体化させて闘うのが常道だろう。
だが、侵蝕や呪弾は、当てるのに牛頭巨人に近づかなくてはならない。呪弾は最悪空間魔法で敵の近くまで飛ばせるが、弾速が遅いため、確実に当たるとは言い切れない。
牛頭巨人と効果的に闘うのには、危険が存在する。
しかし一方で冷静に考えれば、いくつも取れる戦法が頭に沸いてくるのも事実だ。
――それよりも問題なのは、“クルト”が途中から仕掛けてくる可能性があるということだった。
現状、少なくとも俺から見える範囲には、クルトは見つからない。隠れ身を使っていたとしても、俺はそれを見破ることができる。
風刃を喰らった牛頭巨人は、俺を攻撃対象として定めると、激高した様子で突進してきた。
俺はそれを注意深く観察した上で、タイミングを計って牛頭巨人の目前に濃霧を張る。
そして、濃霧に向けて、抵抗力低下の呪弾を撃ち出し、その場から横っ飛びで逃れた。
牛頭巨人は濃霧を突き破り、自分から呪弾に当たりに来る結果になった。牛頭巨人の攻撃は俺を掠めて、迷宮の壁を粉砕したところで止まる。
横っ飛びした俺が、体勢を整えようとした瞬間だった。
「――!!」
壁を粉砕した牛頭巨人の側に、“文字と数字”が浮遊しているのに気づく。
次の瞬間、その“文字と数字”から、いくつかのナイフが飛んできた!
俺は不十分な体勢から、それを飛んで避けようとしたが、そのうちの一本が俺の脚を掠める。
途端にドクン、と強い動悸を感じた。
間違いない、何かの毒が塗られたナイフだ。
俺は自分の状態を詳しく確認する前に、高位回復魔法の解除を使って状態を正常に戻す。
「――やはり、まぐれで私の隠れ身を破った訳ではないのだな」
そう声が聞こえると、こちらに向き直った牛頭巨人の側に、ゆらりと浅黒い肌と銀髪を持つ男が浮かんできた。
これまで興奮して突撃してきた牛頭巨人はその場から動かず、黒妖精の男に付き従うように控えている。
「――――」
「毒も解除したか。
もう少し深ければ、解除もできず、致命的だったものを」
黒妖精の男は、ニヤニヤと笑いながら語りかけてくる。
俺はその表情に嫌悪を感じながら言った。
「無駄口が多いな。
闘うなら早くやろうぜ。そこの牛頭と、まとめて掛かってこい」
クルトはそれを聞くと声を上げて笑った。
「ククク――なるほど、少しは強くなったようだな。
――だが、人を食った発言は、すぐに後悔することになる」
スッと目を細めたクルトを見て、俺の額から汗が流れていく。
牛頭巨人だけでも強敵なところに、これ以上ない難敵が加わってしまった。
今、頼りとする仲間はなく、魔人を倒すための武器もない。
開門で書庫に逃げ帰ることも考えられるが、クルトがそんな隙を見過ごすとは思えないし、そもそもクルトを追い求めていたのは俺の方だ。
この機会を逃がしてしまえば、次はいつ遭遇するか、判らない。
俺の中の思考は、この困難な状況を上手く切り抜けるための策略を、急速に練り始めていた。
――だが、それだけではない。
俺は、これ以上ない困難な状況に、得も言われぬ“楽しみ”を感じてしまっている。
思わず俺の顔から漏れ出てしまう笑みが、その感情を如実に表しているのだった。