040 深層
――迷い込んでここに来たのか、望んでここに来たのか――。
深層のレーネが放った問いを、俺はどちらとも付かない形で回答する。
どちらの答えが正解なのかを、この段階で判断するのは難しいからだ。
「“ここ”というのはどこのことだ?
この深淵の迷宮のことか、もしくはこの書庫のことか」
俺の質問を聞いて、レーネはニヤリと唇の端を上げる。
「――お主、礼儀は知らんが、意外に慎重な男のようじゃな。
この迷宮は長らく閉鎖されていたが、ここ最近になって、慌ただしく出入りする者が出てきたことは知っている。
私が聞いているのは、この私の“住処”に、何故お主がいるのかということじゃ。
無論、お主はこの質問に答えても良いが、答えなくても良い。好きな方を選ぶがよい」
俺はその言葉を聞くと、徐々に身体から汗が噴き出してくるのが判った。
「住処と言っても、ここは書庫にしか見えないが――」
「土の中に棲む虫のような輩もいる。
書庫に住んだとて、何が珍しいというのか。
さあ、余計な話は良い。お主がここに来た目的を答えよ。
もちろん答えても良いし、答えなくても良い。お主は好きな方を選べる」
「――チッ」
レーネは飽くまで俺に、どちらかの選択を迫ろうとしている。それを避けるために話を逸らそうとしていたが、上手くは行かなさそうだ。
大体これだけの書庫を構えている相手だ。恐らく相当に頭が回るのだろう。俺の意図ぐらい、お見通しなのかもしれない。
俺は意を決して、レーネの質問に答えることにする。
「――迷い込んだのか、望んで来たのかという意味で言えば、その両方だ」
「――ほう」
レーネは明らかに興味を抱いた面持ちで、俺の言葉を待った。
「深淵の迷宮には目的があって来た。
――つまり迷宮には望んで来たことになる。
だが、この場に書庫があることは知らなかった。
その意味では俺はこの場に“迷い込んだ”。
一方で、俺はここに書庫があることは知らなかったが、ここに至るまでの仕掛けを見て、ここに何かが重要なものがあると思って来た。
そこから考えて言うなら、俺は望んでここに来た。
――だから俺は、迷い込んだのでもあり、望んで来たのでもあるということだ」
レーネはそれを聞くと、フフと笑いながら言葉を返した。
「お主のその発言を、真実と証明する手段はあるのか?」
俺はその発言に反発する。
「言葉の内容を証明する手段に、何の意味がある?
そんなものを提示したところで、今度はその手段が有効かどうかを証明する必要が出てくるだけだ。
結局のところ、あんたにできるのは俺の言葉を信じるのか、信じないのか、その選択しかない。
あんたは俺の言葉を信じることもできるし、信じなくても良い。
――ほら、好きな方を選べるぞ」
選択を迫られていた俺が、今度はレーネに選択を迫っている。
レーネはそれを聞くと、アハハと声を上げて笑い出した。
「お主、頭はキレるが、邪気が少々強いな。それも使徒ともなれば、仕方のないことかもしれぬが――。
――まあ良い。
私はお主がここに望んで現れたと言うなら、私の書物と住処を護るためにも、お主を殺すつもりであった。
一方、お主が単に迷い込んでここに来たのであれば、どうせ大した能力もなく、ここから抜け出すことも叶うまいから、お主を殺すつもりであった。
――残念ながら、お主をいたぶるのは、お預けのようじゃな」
――危ねぇ!!
二択だからといって、片方を選ぶような素直な人間は、生き残れないということなのか。
スフィンクスの謎かけじゃあるまいし、どっちを選択しても殺されるとか無茶苦茶過ぎる。
「では俺は――ここに入ったのを許して貰えた訳か」
俺がそういうと、レーネはニヤリと笑った。
「そうじゃな。一方的に殺すのはやめることにする。
――では、お主にも攻撃の機会をやるから、存分に掛かってくるが良い」
俺の額に汗が流れる。
残念ながら、事態があまり改善してない――。
「一度奪うのを止めた命を、後から奪おうとするのは愚の骨頂ではないか?」
だがレーネは、俺が楯突いた台詞をあっさり撥ね付けた。
「なあに、構いはせんさ。
私は好物は後に取っておくタイプでな。実は熟すまで待ってから刈り取った方が美味いじゃろう?」
「――――」
一応会話にはなっているが、どうもレーネは最初から俺を殺す気満々らしい。
だとすると、この後どんな手法を使って話を逸らしても、結局はそこに帰結してしまうだろう。
俺は腹を据えて、この難敵をどうするかを考えなければならない。
「判った。“正々堂々”、闘おう」
俺はそう言うと、一階層目と二階層目の本棚を繋ぐ階段をゆっくり下り、レーネと正面から対峙する。
恐らくレーネは見た目からしても、魔法使いタイプの闘い方をするはずだ。
それを考えると、距離が開きすぎるのはまずい。特に二階層目はレーネのいる一階層目よりも動ける範囲が狭く、狙い撃たれてしまう可能性がある。
「いつでも良いぞ」
勝負を急ぐレーネに俺は一つ提案をした。
「まあ待て。
真っ正面から闘ったところで、あんたは絶対的に勝つ自信があるんだろう?
それならルールを決めて、勝負をしないか?」
「――ルール?」
一気にレーネが胡散臭そうな顔をする。
「これから二分間、俺があんたに少しでも触れることが出来たら、俺の勝ち。
二分経過して俺があんたに触れられなかったら、あんたの勝ちだ。
あんたはどんな手段を使ってもいいから、二分間、俺から触れられないようにする。
あんたが勝ったら、俺を好きにしていい。もちろん、俺は殺されても文句は言わない。
逆に俺が勝ったら、あんたは俺の望みを一つだけ聞くんだ。
――それでどうだ?」
レーネは俺の言葉を聞いて何も答えず、ニヤニヤと笑っている。
眼鏡の美女にそうされると、何やら嗜虐心が生まれてきそうで怖い。
「――まあ、良いじゃろう。
お主が何を考えているのか、興味もあるしな。
所詮、死ぬまでの時間が二分延びるだけのこと。
存分に思いを遂げるがよい」
「オーケー。
じゃあ、早速始めようか」
俺はそう言うと祝福の杖を横に持ち、光の結界を発動する。
それを戦闘開始と見立てたのか、レーネは早速俺に向けて攻撃を仕掛けてきた。
「そのような結界など!」
レーネが放ったのは何かの呪弾だ。恐らく光の結界を無効化するためのものだろう。
俺は構わず目前の空間に風塵を放つ。この風塵はそもそもレーネに当てるつもりがない。
予想通り、光の結界はレーネの呪弾で無効化され、俺は無防備になる。
風塵はレーネには当たらず、一瞬“視界”を奪っただけで、彼女の服や髪を風で靡かせる程度の影響しかない。
「フン、何のつもりか」
レーネは氷弾を放ってくる。俺の氷弾とは桁違いのスピードだ。
俺は魔壁を二重に張るが、氷弾はその魔壁を軽々打ち破り、俺の右肩に当たった。
俺は呻き声を上げて、右手に持った祝福の杖を取り落としてしまう。
俺は落とした祝福の杖を拾おうとするが、そこに飛んできた氷弾が今度は左肩に当たり、その場に昏倒した。
「――呆気なさ過ぎる。この程度だというのか」
レーネは俺の不甲斐なさに不満を募らせ、吐き捨てる。
俺は苦痛の声を上げながら、仰向けに倒れていた。
レーネはゆっくりと近づいて来て、汚れたものでも見るように倒れた俺を見下ろしている。
「では、ひと思いに殺してやるとするか」
レーネは邪悪に笑うと、俺に向けて何かの魔法を放とうとする。
俺はそれを見て、笑い声を上げた。
「おい、あんたこそ罠に掛かったのが判らないのか?」
「何――?」
俺はレーネの顔を見据えたまま、踵で地面を打ち付けた。
その衝撃で、先ほどの風塵で視界を奪った間に“靴”に仕込んでいた“接触魔法”が発動する。
俺が靴に仕込んでいたのは――大回復と風塵だ。
レーネの股の下すぐで発動した風塵は、彼女の深いスリットの入ったスカートを大きく反転させた。流石にレーネは右手でスカートを押さえに行く。
俺は大回復を受けながら、即座にその場所から回転して飛び退くと、反転して一気に突進を掛け、レーネに向けて突っ込んだ。
「その程度で!!」
レーネはきっと警戒しながら、俺に近づいて来ていたに違いない。
さらに言えば、彼女は風塵の直撃を喰らった程度では、全く怯みはしなかった。
レーネは向かってくる俺に向けて、ほぼゼロ距離で魔法を叩き付けようとしてくる。
この攻撃を喰らえば、恐らく俺は一瞬で吹き飛んでしまうだろう。
――だが、このゼロ距離の攻防こそが、まさに俺が望んだ展開だった。
俺は左手に装備した支配者の籠手を身体の前に掲げると、装備スキルの“絶対防御結界”を発動させる。
発動と同時に俺の身体全体が仄かに黄金色に輝き、俺はレーネの魔法を、そのまま無防備に身体で受け止めた。
レーネのゼロ距離の魔法は、一瞬で絶対防御結界に吸収され、かき消される。
「何――だと!?」
これまで冷静だったレーネの表情に、一瞬驚きの色が浮かんだ。
俺は至近距離からそのまま身を預けるように、俺から距離的に“最も近い”、レーネの身体の“突出した部分”に向けて、右手を目一杯に伸ばす。
「俺の――勝ちだ!!」
確かに右手に掴み込んだ、何とも言えない幸せな感触を感じながら、そのあまりのボリューム感に思わず笑みが浮かんでしまう。
――だが、その直後に飛んできたレーネの容赦のないパンチが俺の顔面を捕らえ、俺はカエルが潰れるような声を上げて、一瞬で意識を手放してしまった。
――気を失ってしまうのは、これで何度目だろうか?
だが今回の寝覚めが一番良くない。
意識が覚醒し始めた中で、自分が何とも身動きの取りづらい体勢を取らされていることが判った。
しかも異様に身体が痛い。特に左頬は腫れているのか、熱を持っているのが判る。
「――起きたのであれば、さっさと目を開くがよい」
聞いたことのある声が響いた。
俺が仕方なく目を開くと、俺は書庫の中で、芋虫のように手足を拘束されて転ばされていたことが判る。
目前には先ほどと同じく、レーネがいた。
彼女の顔を見上げると、その視線は刺すように冷たい。
何となく俺は、その視線にグレイスのイメージを思い出しながら、声を掛けた。
「――よう、オッパイ魔人。
俺の望みを聞く、心の準備はできたか?」
その言葉を聞いて、レーネは一度目を細めてから、鼻で笑った。
「フッ――つくづく、邪気の固まりのような男じゃ。
所詮は支配者の籠手の能力に、助けられただけのことだというのに、それを恥じることもないとはな」
俺はそれに反発するように語った。
「バカいえ。
確かに絶対防御結界は強力だが、あれは僅か四秒しか保たないんだ。それだけに、使いどころに工夫がいる。
初撃の風塵も、目隠しだけじゃなくて、あんたが幻影でないことを確かめるために放ったものだしな。
装備や魔法の能力を上手く活かすことも、立派な能力の一つなんだよ」
レーネはそれを聞くと、僅かに破顔した。
「確かにな。
一瞬の出来事だったからこそ、私も少々不覚を取ったと言える。
――だが、あのような無礼な行い、本来なら八つ裂きにするところじゃ」
俺はそれを聞いて、流石に苦笑する。
レーネは俺の顔を見て、ニヤニヤ笑い、言葉を続けた。
「とはいえ、お主自身に興味が沸いたのも事実。
――さて、抵抗せぬ、私の話を聞くというのなら、お主の拘束を解いて良いのだが、どうじゃ?」
俺はその発言を聞いて苦笑する。
「俺は最初から抵抗などしていなかったはずだが――」
それを聞くと、レーネはフッと鼻で笑った。
「まあ、そう言うな。
私はまだお主の名前すら知らぬ。まずは名を聞かせよ。
お主は暫くの間、私が飼ってやる」
一応、俺が勝者でレーネが敗者のはずなのだが、彼女の台詞は何だか上下関係の表現がおかしい。
とはいえ、その台詞を聞くに、俺はようやく絶望的な闘いから解放されたと言って良さそうだった。
俺はレーネに向かって頷くと、自分の名を告げた。