FE2 魔人の来訪 前篇
本作「魔人の来訪」は、本編(第八部 魔人の剣篇)終了後および追加エピソードの「新しい朝へ」の後を描いたものになりますので、少なくとも“本編を読了いただいた上で”お楽しみいただくことをお勧め致します。
※本編とは違い三人称で書かれています。ご注意ください。前後篇構成。
――――――――――――――――――――
Beauty, Sage and the Devil’s Sword
Fragmentary Episode II
――――――――――――――――――――
深淵と称される迷宮の奥底に位置する、本の海――。
静寂を湛え続けるその書庫の中心に、茫っとした青い光に包まれる人影があった。
周囲の書架に掲げられた魔法の灯りは、その場を薄らと仄暗い程度にしか照らしてはいない。
だがその僅かな光を受けて、彼女の髪は月明かりに煌めく夜の海のように鮮やかな輝きを放っていた。
さながらそれは、青い宝石から生まれ出したとでも言うように――この世のものとは思えない、どこか人を惑わすような美しさと妖しさに溢れている。
ふと彼女が立ち上がると、その動作に合わせて彼女を包む光も揺れた。
そして彼女の歩みをゆるゆると追うように――その燐光が、光の帯を作っていく。
深淵の迷宮の最下層を住処とするレーネは、一日の殆どをこの書庫で過ごす。
一見怠惰にも見える生活だが――彼女にはこの書庫と、書庫の奥にある場所を護るという大切な役割があった。
とはいえ普段の生活は、持て余した時間との付き合い方を考える毎日でもある。
幸い読むべき本には事欠かない。何しろここには彼女すら把握しきれない程の本の山がある。
レーネは手にしていた本を机に置くと、棚から筒状の容器を取り出した。
容器の蓋を取り外すと、周囲には爽やかな香気が広がっていく。
それは、彼女が好む紅茶の茶葉から漂う香り。
レーネは満足そうに一度その匂いを確かめると、陶磁器らしき別の白いポットを取り出した。
そして彼女がそのポットに魔力を込めると――不思議なことに、たちまちポットの中に透明の水が湧き上がってくる。それはさながらポットの中に、小さな泉が出来たような光景だ。
どうやら彼女が手にしているポットは、魔力を通す特殊な逸品のようだった。
レーネは水の入ったポットを石版の上に置くと、そのままソファに戻って腰を落とす。
すると石版に書かれた複雑な文様から、魔法の光がキラリと立ち上がった。
「――――」
湯を沸かす――。
実は紅茶を好むレーネが最も煩わしく感じているのは、この瞬間だ。
というのも彼女は火属性の魔法を使うことが出来ない。それは彼女自身の属性が火属性の反対である水属性だからだ。
仮に火属性の魔法が使えたならば、一瞬で水を沸騰まで導くことが出来るだろう。
だがそれが出来ないレーネは、湯を沸かすという何でもない行為を魔法道具に頼っている。
彼女が手にした魔法のポットは一見ただの陶磁器に見えるものの、対になっている石版の上に置くと湯を沸かせるという代物だった。
もちろん魔法の道具で湯を沸かせると言っても、沸騰するまでの待ち時間が存在する。沸き立つ音を聞くまでの、数十秒の待ち時間が何とも煩わしい。
だが、この煩わしい時間があるからこそ、紅茶を楽しむという趣味が長続きしているのかもしれない。
何でも思い通りに手に入るものなど――何ら執着心が掻き立てられないからだ。
しばらくするとポットの水が、ボコボコと沸騰した音を立て始めた。
紅茶は沸騰直後の湯を使わねば、香気が落ちてしまう。十分にお湯が沸騰しているのを確認して、彼女は予め暖めてあった別のポットに湯を注いだ。
そのポットにはお気に入りの茶葉が、一つまみほど入れてある。
蓋をして茶葉を蒸らす時間は、彼女が最も至福を感じる時間だ。
周囲に漂い始める紅茶の香りが、彼女の心に安寧をもたらす。
茶葉を蒸らす時間は少し長めが良い。大好きなミルクティーを美味しく淹れるには、ミルクに負けない香気を付ける必要があるからだ。
レーネはポットからカップへと紅茶を注ぐと、一度カップを手に取りその香りを楽しんだ。
そして机に置いたカップに、常温のままのミルクを注ぎ入れる。
暖めたミルクは使えない。折角淹れた紅茶の香りを消してしまうからだ。
混ぜた紅茶に口を付けると、途端に香りと甘みが舌を包む。
鼻腔を抜ける仄かな香りが、いつもながらの満足を与えてくれていた。
ふと、ミルクティーばかりも芸がないだろうか――と、彼女にとっては珍しいことを考えた。
紅茶の香りは大好きだが、レーネはあまりストレートの紅茶を飲まない。
それは彼女が甘党であることも、大きな理由の一つだろう。基本ミルクティーにして飲むのが、彼女流の紅茶の楽しみ方だった。
だがその日の彼女は、少し普段とは様子が異なる。
とはいえ、ストレートで飲むのもどうか――そう思った時、ふと壁横のカウンターに置かれている果物が視界を掠めた。
「レモンティーに――するか」
彼女がレモンを取り上げて撫でるように手を動かすと、途端にレモンは等間隔にスライスされ、皿の上に広がる。
レーネはそこから一枚、スライスされたレモンを摘まみ上げると、それをカップに沈めて再び紅茶を注ぎ入れた。
一口飲んで見ると――普段とは全く違う、酸味の利いた香りが口の中に広がっていく。
はて、こんなに美味しかっただろうか――?
それが意外な発見のように思えた。
だが、これは嬉しい誤算だ。
レーネはニヤリと微笑むと、再びレモンティーを口元に近づけるのだった。
レーネは魔人である。
ただし彼女は、自身が魔人であることに特別な感情を持ち合わせてはいない。
非常に高い魔法力を持つ彼女は、魔人の中にあっても傑出した能力を誇る存在だ。
実際そんな彼女に闘いを挑む輩は、過去を探してもほとんど存在しなかった。
無論彼女は今に至るまでに、数え切れないほどの戦闘を経験している。だが、その相手の多くは魔物や蛮族であって、決して妄りにこの世界の人を殺めることはない。
その意味でレーネという魔人は、至極温厚な性格を持つ魔人ではあった。
だがその一方で彼女は、物事を闘いで解決することを否定している訳でもない。
必要であれば自ら手を下すし、場合によっては得意としている幻影魔法で相手を滅ぼす。
どちらにせよレーネと闘うと決めた瞬間に、相手の敗北は決まっているのだ。その後に存在するのは、相手がどう負けるのかという事象でしかない。
――いや、思い返せばそれほど遠くない過去に、レーネに土をつけた相手がいた。
その人物を思い浮かべると、彼女は思わずフッと微笑む。
レーネは近くの書棚から好みの本を手に取ると、お気に入りのソファに寝そべるようにして読み始めた。
書庫の蔵書は膨大である。
果たして何冊の本が収められているのか、レーネとて正確に数えたことはない。
彼女も今に到るまで、かなりの数の本を読破してはいた。
だが、果たしてここにある全ての本に、目を通し切る日は来るのだろうか――?
そんな思いを馳せつつ本を楽しんでいると、何となく眠気を感じて小さな欠伸が出てしまう。
この迷宮の奥底では、誰が見ているということもない。だが彼女は反射的に、口に手を当てた。
ふぅ――少し疲れたかな。早めに休んだ方が良さそうじゃ。
そう思うと彼女は本を閉じ、書庫から寝所へと移って行く。
レーネは寝所に入るやいなや、次々に衣服を脱ぎ捨てた。
脱ぎ捨てた衣服は不思議なことに、地面に着地する前に消滅してしまう。
どうやら彼女が装備を格納している資産に、吸い込まれて行っているようだ。
レーネは深いスリットの入ったドレスを脱ぎ去ると、何とも際どい下着姿になった。
そして次の瞬間躊躇もなく、下着もアッサリと脱ぎ捨ててしまう。
すると見事に均整の取れた、美しい肢体が現れた。
彼女は蠱惑的な曲線を真っ白なシーツに包むと、そのまま柔らかいベッドに倒れ込む。
最近少し疲れやすくなった気がしないでもない。きっと以前に比べて気苦労が増えたからだ。
――気苦労といえば、しばらく姿を見せないあの男はどうしたのだろうか。
自分勝手で礼儀知らずな――邪気の塊のような男。
生きた年月はレーネよりずっと短く、闘ったとしても脅威にはなり得ない。
だが、どこか突拍子もないことをやり遂げてしまいそうな、レーネの思い通りにならない男――。
レーネはフッと小さく苦笑すると、思い浮かべた男の姿を頭から消し去る。
――これがまさに、気苦労の原因じゃな。
彼女はそう思いながら、静かに眠りの世界へと心を委ねていくのだった。
夜がこんなにも明るいことに気づいたのは、いつだっただろう――?
ケイはベッドに横たわったまま窓を眺めると、暗闇に浮かぶ星々を見てふとそんなことを思う。
一度床に就いて眠ったはずなのに、どうやら目が覚めてしまったようだった。
今の時間、大地に点る明かりはない。世界を照らし出すのは月や星の輝きだけだ。
ケイはそのまま静かに、星を眺め続けた。
だがしばらくそうしていても、陽が昇るような予兆はない。
物静かな夜の中、もう一度眠ろうと微睡みを感じた瞬間――。
ケイは何かが蠢くような気配が、自分の後背にあることに気づいた。
「――!!」
窓の方を向いていた身体を、一気にぐるりと振り返らせる。
すると部屋の暗闇の中に、ゆらりと揺れるような人影が見えた。
「誰だ――!」
ケイは警戒の声を上げると、身体を起こして身構える。
明るい星々を眺めていたせいで、目が暗闇に慣れるのに時間が掛かりそうだ。
だが、彼には特別な能力がある。暗闇であろうと、相手の状態を知ることの出来る能力が――。
ケイは影の正体を確かめようと、目の前で動くものを凝視する。
ところがその状態を読み取ろうとした瞬間、ヌッと現れた人物の姿に、彼は思わず後退った。
「――!? ぬあああぁぁぁっ!!」
ベッドの上で後退したせいで、ケイは後ろ向きにひっくり返ってしまう。
ベッドから落下した痛みに耐えながらも、彼は直ぐさま立ち上がった。
「レ、レーネ!? いや、まさか!?」
「――――」
溶け出すように暗闇から現れたのは、深淵の迷宮にいるはずの魔人レーネだった。
青い髪、胸元の開いた青いドレス――どこからどう見ても、ケイの知る彼女である。
だが少なくともケイのよく知る彼女は、不必要に深淵の迷宮を抜け出し、ここまで足を伸ばすようなことはない。
「ど、どうした?
何故ここに――?」
素朴な疑問をぶつけてみると、意外にもレーネは口を開くのに躊躇を見せた。
「――――。
何でもない――。
単なる気の迷いじゃ」
「は!? な、何でもないって――」
そんな答えを予測していなかったケイは、思わず理解不能といった反応を返す。
「――では、帰ることにする」
「待てよ。
夜中でビックリはしたが、何か話したいことがあるんだろ?」
「ない」
即答で返ってきた言葉に、ケイは思わず苦笑してしまった。
とはいえこれを、言葉通りに受け取る訳にはいかない。
何しろ目の前の美しい女性は、素直とは縁遠い場所で生きているのだ。
「――まあ、判った。
だが、逆に俺が話しておきたいことがある。
ちょっと外に出ようか」
ケイはそう言って微笑むと、レーネを部屋の外へと誘った。