表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

虹をかける水浸しの光学迷彩 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜

作者: 尾白景
掲載日:2026/03/14

 これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――



挿絵(By みてみん)


四月のとある土曜日。

 空は雲ひとつない快晴だった。季節外れの暖かさで、風に揺れる桜を見上げれば少し汗ばむほどの午後。


 俺、川背匠かわせたくみは、リビングのテーブルで頭を抱えていた。目の前には中学一年生の理科の教科書と、真っ白なままのワークが広がっている。


「……光の屈折? 反射? マジで意味分からん」


 入学して数週間。小学校の「理科」とは一線を画す本格的な「科学」の洗礼に、俺は早くも立ち往生していた。

 図形の上に引かれた矢印がどこで曲がり、どこで反射するのか。そんな無機質な理屈が、春の陽気で弛緩した脳に馴染むはずもない。


 次の小テストを乗り切るため、この単元をなんとか片付けなければならないのだが、活字を追うだけで眠気が襲ってくる。

 気分転換に麦茶でも飲むかと席を立ち、ふと掃き出し窓から庭を見た時だった。


「……姉ちゃん、何やってんの?」


 庭には姉の真綾まあやがいた。高校二年生の姉は、普段は女子力をすべて知識欲に全振りしているような変人だが、今日の格好はやけに涼しげだ。


 テニスウェアのような白いポロシャツに青のショートパンツ。爽やかなスポーツ少女に見えるが、問題はその服装ではない。


 彼女の身体には「大量の園芸用ホース」が巻き付けられていた。


 まるで巨大な蛇に巻き付かれた遭難者のように、あるいは自作の罠に絡まったマヌケな狩人のように、緑色のホースが身体中に巻き付いて、あちこちに霧吹き用のノズルが結束バンドで固定されている。ホースの大元に目を向けると、庭用の蛇口へと繋がっていた。


「静かに、匠。敵に気づかれるわ」

「敵って……回覧板の山田さん?」

「そうよ! 山田さんのトークに巻き込まれれば、一時間は捕まるわ。今の私は、庭先で隠密行動ステルスを強いられているのよ」


 山田さんは近所でも有名なお喋り好きだ。ロックオンされたが最後、孫の成績から特売情報まで、ノンストップで拘束される。


「じゃあ家に入ればいいじゃん。なんでそんなホース巻いてんの?」

「間に合わないわ! それに匠、これは歴史と科学の融合実験なのよ」

 真綾はホースに食い込む襟元を正し、不敵に笑った。


「あんた、中一の理科で『光』を習っているでしょ? 人間が物体を見るのは光の反射によるもの。ならば、その光をねじ曲げてしまえばいい。これぞ、紀元前の天才、アレクサンドリアのヘロンへの挑戦よ!」


「ヘロン? 誰だよそれ」

「古代ギリシャの最高峰よ! 彼は反射鏡を使って神像を不可視化させたり、空中に浮かび上がらせる『神殿の魔術』を作り出した。二千年以上も前に、彼は光を制御して人々に『奇跡』を見せたのよ。

 私がやろうとしているのは、その現代版――『光学迷彩オプティカル・カモフラージュ』よ!」

 姉の瞳が、マッドサイエンティスト特有の怪しい光を帯びる。


「水の屈折率は空気の約一・三三倍。微細なミストの層を幾重にも重ねることで光を回折させ、私は背景へと溶け込む!

 これぞ、古代の英知と現代園芸のコラボレーション、『全方位ミスト噴射システム・改』よ! 行くわよ、匠。システム起動! アクア・クローク!」

 真綾がバルブを全開にした。


 プシューーーーーッ!!


 凄まじい音と共に全身のノズルから水が噴き出した。白い霧が爆発的に広がり、一瞬で真綾の姿がかき消える。


「うわっ! すげっ!」

 確かに、濃密な霧の中に姉の姿は消えたように見えた。


「どう!? 消えたでしょ!? 冷たい! 想像以上に冷たいけど、これも隠密行動の代償ね!」


 ◇


 しかし、その「奇跡」は一瞬だった。

 春のそよ風がふわりと吹き抜け、霧をさらっていく。現れたのは――当然、全身ずぶ濡れになった姉だった。


「……っぷはっ! ごほっ!」


 真綾が濡れた前髪をかき上げる。吸汗速乾素材のはずのポロシャツは、設計者の想定を超えた水を吸い込み、完全に肌に張り付いていた。


 薄いシャツは水を吸って透過度が増し、その下の身体のラインを驚くほど鮮明に露わにしている。

 滴る水滴が四月の陽射しを反射して、キラキラと眩しく輝いていた。


「ど、どうかしら匠! 今の私、完全に風景と一体化していたでしょ!?」


 真綾は無邪気に両手を広げているが、今の彼女は「風景」というより、中学生男子には直視不能な何かに変貌していた。


「……姉ちゃん、いろいろと透けてる。女子力が遭難してるぞ。シャツ張り付いてるから!」


「えっ? くっ……計算外だわ。素材の吸水率を考慮していなかった……! これでは迷彩どころか、逆に光の全反射によって私の存在を強調してしまっているじゃない!」


「そこじゃないだろ! 早く着替えろよ!」


 その時、昼寝をしていた愛犬のきなこ(ミニチュアダックスフンド)が、真綾の水遊びに混ざろうと、目を輝かせて突進してきた。


「ワン!」


「ああっ、きなこ! 来ちゃ駄目! ここは神聖な再現現場よ!」


 きなこが激しく身体を震わせ、泥混じりの水しぶきを撒き散らす。真綾は慌ててきなこを抱き上げようとし、泥で足を滑らせた。


「きゃっ!」


 ドサッ、と尻餅をつく真綾。ノズルからはまだミストが噴き続けており、庭はあっという間に泥だらけの水たまりと化した。


「ちょ、大丈夫かよ!」

 俺は庭に飛び出し、水道の蛇口を力いっぱいひねった。水が止まり、静寂が戻る。

 残ったのは、水と泥にまみれて座り込む姉と、満足げにはしゃぐ犬だけだった。


「……はぁ。ヘロンも、水濡れまでは計算していなかったのかしらね」


 真綾が力なく笑う。春の風が吹き抜け、彼女の身体が小刻みに震え始めた。


「うぅ……寒っ」

「当たり前だろ。ほら、俺のパーカー貸してやるから。風邪引くぞ」


 俺がパーカーをかけてやり、真綾が立ち上がったその瞬間。


「あら? 真綾ちゃん、匠くん?」

 生垣の向こうから、山田さんの明るい声が響いた。


「やだ、どうしたのその格好? 仲が良いわねぇ~、水遊びなんて。あ、そうそう、うちの孫がね……」


 真綾が凍りつく。光学迷彩もヘロンの英知も消え失せ、ただの「ずぶ濡れの変な姉弟」として完全にロックオンされていた。


「若いっていいわねぇ。そういえばね、うちの孫がこの前中学の入学祝いで……」


 そこから十五分、俺たちは濡れたまま、孫の入学祝いの話から最近のキャベツの値段まで、たっぷりと聞かされる羽目になった。

 春の風は、濡れた身体から無慈悲に体温を奪っていく。


 ◇


「……ねえ、匠。山田さん、私のこと『見えて』たわよね?」


 ようやく玄関をくぐり、タオルを被った真綾が、震える声で囁いた。

「一ミリの狂いもなく見えてたよ。むしろ虹が出てて目立ってた」

「虹?」


 真綾が窓の外を振り返る。ミストが晴れた後の空には西日が差し込み、庭の向こうには、淡くも美しい七色の橋が架かっていた。


「……あ。水滴が光を分光プリズムしちゃったのね。屈折させることばかり考えて、分光の制御を忘れていたわ。二千年前のヘロンの鏡とは違って、ミストだと光が回折しすぎてスペクトルが分かれちゃう。ただ光を散らして『ここに私がいます』って宣言してたようなものね……」


 悔しそうに虹を見つめる彼女の瞳に、再び科学者の色が戻る。


「くっ……次は負けないわ。水鏡の原理を応用して、特定の波長だけを透過させる『完全不可視結界』を構築して、山田さんのトークの間合いから……へくちっ!」


 真綾が、肩を丸めて盛大にくしゃみをした。それを見た俺が、呆れ半分に声をかける。


「ほら見ろ。反省会はお風呂の後。まずは身体温めろよ。……へ、へくしゅっ!」


 今度は俺がくしゃみをした。

 霧の中にいた上に、真綾にパーカーを貸してシャツ一枚になっていた報いだ。


「あーあ。……姉ちゃんのせいだからな、これ」

「分かってるわよ……へくちっ! ああもう、匠、お風呂の設定温度、上げておいて!」


 ◇


 一時間後。

 お風呂から上がり、髪をタオルで拭きながら戻ってきた真綾は、だぼっとした部屋着のパーカーに包まり、ソファに沈み込んでいた。

 さっきまでのマッドサイエンティストとは別人のように、温和で大人しい。


「……ふぅ。生き返ったわ。匠、お風呂ありがとう」

「どういたしまして」


 俺はダイニングテーブルで、再びワークに向き合っていた。でも、今はさっきまでとは違う。


『問4:光が空気中から水中に進むとき、境界面で折れ曲がる現象を何というか(屈折)』


『問5:太陽光が空気中の水滴を通るとき、光が分かれて虹ができる現象を何というか(分光/分散)』


 今の俺の脳裏には、さっきの光景が鮮明に焼き付いている。

 真綾の周りで歪んで見えた景色。彼女を包んでいた白い霧。そして、その後に架かった虹。


『密度差によって光が屈折するのよ』

『水滴が光を分光しちゃったのね』


 姉の、あの必死でバカバカしかった言葉が、教科書の無機質な活字と繋がっていく。


「……屈折、プリズム、スペクトル」


 俺はペンを走らせた。驚くほどスラスラと図が描ける。姉ちゃんが身を持って(ずぶ濡れになって)実演してくれたおかげで、教科書の図形が、リアルな「物理現象」として脳内にカラーで再現されていた。


「あら、光の性質? 私の実験、役に立ったんじゃない?」


 真綾が背後からニヤリと笑う。石鹸のいい匂いと、風呂上がりの湿った熱が伝わってきた。


「……まあ、ちょっとは。おかげでこの単元は完璧だよ」

「でしょ? 私の実験に無駄なものなんてないのよ。ヘロンの英知は、現代のワーク一冊分より重いの……へくちっ!」


 本日三度目のくしゃみをする姉を見て、俺は教科書を閉じた。


「……でも、風邪引いたら元も子もないだろ。ココア、飲む? 生姜入れてやるよ」


 真綾の目が、さっきの虹よりも明るく輝いた。


「飲む! マシュマロも浮かべて! あと、二千年前の甘味事情についても語っていい!?」


 まったく、手のかかる姉ちゃんだ。

 でも、この姉の奇想天外な行動のおかげで、俺の成績が救われているのも事実。


 リビングの窓の外には、すっかり夜の帳が下りている。キッチンのコンロから上がる火は温かい。

 小鍋にミルクを注ぎながら、俺はさっきの虹を背景に笑っていた姉の姿を思い出す。


 甘いココアの香りが、春の夜に優しく広がっていった。

本作をお読みいただきありがとうございます。

お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。


今後も同シリーズにて短編を投稿いたしますので、ご愛読いただけましたら幸いです。


【匠の「その後」の物語はこちら!】

本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?

匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!


本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。

ぜひ合わせてチェックしてみてください!


『転生式異世界武器物語』

https://ncode.syosetu.com/n3948lb/



※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ