追加エピソード⑮:大聖女の仮面とギルド長の策略
豪奢な調度品が並ぶエメルダの客室。窓から差し込む午後の陽光が、床に敷かれた深紅の絨毯に織り込まれた黄金色の刺繍をきらびやかに照らしていた。部屋の中央にある執務机には、各地から届いた報告書が山積みになり、今しがたまで作業していたのか、インクと古い羊皮紙の匂いが微かに漂っていた。
その静寂を破り、ゼロスが任務完了の解放感と共に、勢いよく扉を開けた。
「戻ったぞ、エメルダ~」
エメルダは机で羊皮紙の資料を見ながら、羽根ペンを走らせる音を止め、顔も上げずに事務的な声で答えた。
「戻ったか。任務ご苦労」
お付きの魔術師が傍らの椅子に影のように腰かけ、静かに佇んでいた。その視線がこちらを向いているため、エメルダはギルド長としての威厳ある仮面を被ったままだった。
ゼロスは軽い調子で続けた。
「んじゃぁ、俺らはローラン騎士団長の所に報酬を貰いに行くからよ」
カチャリ、とエメルダがペンを置いた。ゆっくりと顔が上がり、その琥珀色の瞳が、値踏みするようにゼロスを射抜いた。
「…待てゼロス」
「んぁ?」
ゼロスは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだよ、まさか『私も一緒に行く』とか言うんじゃねぇだろうなぁ?」
お付きの魔術師が咳払いをし、眼鏡の奥から咎めるような視線を向けた。
「ゼロス殿…敬語が抜けてますよ…」
エメルダはお付きの魔術師の指摘を無視する形で、すっくと立ち上がった。その動きで豪奢な外套が翻った。
「そうだ、何か文句あるか?」
ゼロスは大げさに肩を落とした。
「文句は…ないでございます…」
エメルダは、そのわざとらしい態度に呆れたように深いため息をついた。
「…はぁ…急に敬語に戻すのをやめろ、気色悪い」
「…こいつっ」
ゼロスは小さく毒づいたが、エメルダは既に執務机から離れ、マントを羽織っていた。お付きの魔術師は再度咳払いをし、場を仕切り直そうとしたが、エメルダは構わず扉へと向かった。
磨き上げられた大理石の石造りの廊下を、エメルダが先頭を歩いていった。カツ、カツ、と彼女のヒールの音だけが規則正しく反響し、後ろを歩くゼロスたちにも不思議な緊張感が伝わってきた。
アリシアが小さな声で尋ねた。
「…あの、エメルダさん…報酬を受け取るのに、ゼロスさんだけでは心配ですか?」
ゼロスが即座に反応した。
「そーだ、そーだ。子供のままごとじゃねぇんだぞぉ。…であります」
エメルダは歩みを止めずに、振り返りもせず、肩越しに言葉を投げた。
「心配だから付いて行くんだ、たわけ」
そのまま廊下を進み、やがてローラン騎士団長の部屋の前に着いた。エメルダはノックもせずに、躊躇なく重厚な扉を押し開けた。
「いるか、ローラン騎士団長」
レオが小さく嘆息した。
「…いや、せめて、開ける前に…」
重厚な木製の扉が開かれると、そこには質実剛健ながらも品格のある、広々とした執務室が広がっていた。壁には美しく磨かれた剣と盾が飾られ、大きな窓からは手入れの行き届いた中庭の景色が見えた。
部屋の中央に置かれた応接用の椅子には、ローランと大聖女アウレリアが並んで腰かけていた。
ローランが勢いよく立ち上がった。その顔には、張り詰めたものが解けたような、心からの安堵と感謝の色が浮かんでいた。
「騎士団から成果は聞いております!この度はなんとお礼を言えばいいのか!!」
ゼロスは気さくに手を振った。
「いや、そんな大した事じゃないって…」
「立ち話もなんだ、座ってくれたまえ!」
ローランが促すと、エメルダが当然のように上座の一人掛けソファに深く腰掛け、ゼロスたち一行が、その向かい側の革張りのソファーに腰かけた。ふかふかとした感触が、長旅の疲れをわずかに癒してくれるようだった。
ローランはしきりに感謝を述べてから、一握りの革袋をテーブルの上に差し出した。
紐が解かれ、袋の口が開かれると、ジャラリ、と重い音を立てて、眩い輝きを放つ白金貨10枚がぎっしりと詰まっていた。
ルナが目を輝かせ、身を乗り出した。
「おぉぉぉぉぉ!!これだけあれば、毎晩宴会が出来るね!ゼロス」
「そうだなぁ、毎晩呑めや歌えやだなぁ」
「ぐひひひ、今から夜が楽しみだわぁ…」
黙っていた大聖女アウレリアが、優雅に口を開いた。その声は鈴を転がすように美しく、部屋に心地よく響き渡った。
「本当に今回は、我が国の為に力を尽力していただき、誠に感謝致しますわ」
慈愛に満ちた、愛想の良い笑顔をふりまいた大聖女アウレリア。その微笑みは完璧で、まるで彫刻のように美しかった。
シェルが深々と頭を下げた。
「いえ…大聖女アウレリア様にそのような事を言っていただけるなんて、誠に恐悦至極」
ゼロスは横でシェルを見た。その表情には、明らかな違和感があった。
「シェル?」
シェルは確かにある程度仕事上での口のきき分けは出来るほうだったが、ここまで畏まった言い方はしないはずだ。まるで、王族に謁見しているかのような、硬い口調だった。ゼロスは何らかの異変に気付いた。
シェルが続けた。その声音は、妙に恍惚としていた。
「…しかし…大聖女アウレリア様においては、その…お美しさもそうですが…」
大聖女アウレリアが、包み込むような微笑みで促した。
「なんでしょう?どうぞ、言ってくださいな」
(…かかった…)
内心、アウレリアはほくそ笑んだ。これで、この男たちを手中に収められると思った。そうすれば、ルーメンの戦力不足も解消できると。
しかし、シェルの表情が一変した。
「…なんですかね、鼻腔をくすぐるような香しい匂いと言いますか…」
シェルはそれを言い切った瞬間、口角をニヤリと釣り上げた。その目には、明確な嘲りの色が浮かんでいた。
大聖女アウレリアの表情が一瞬硬直した。完璧だった微笑みに、僅かなひびが入った。
「…はて、何の事でございましょう…?」
(この男…チャームにかかってないのか!?)
内心、動揺が走った。まさか、この程度の男が私の魔術を看破するとは。
黙ってその様子を見ていたエメルダが、ついに口を開いた。その声は氷よりも冷たく、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
「猿芝居はその辺にしたらどうだ?大・聖・女・様?」
エメルダは見下すような笑みをしていたが、眼鏡の奥の目は全く笑っていなかった。その視線は、獲物を狙う猛禽のように鋭かった。
大聖女アウレリアは平静を装った。しかし、その額には薄く冷や汗が浮かんでいた。
「い、一体何の事か、私にはさっぱり…」
ローランが困惑した声を上げた。
「先程から、どうされましたか?エメルダ様」
エメルダは抑えていた魔素を解放した。猛烈な威圧感が部屋を包み込んだ。空気が重く、呼吸することすら困難になるほどの圧力だった。窓ガラスがビリビリと震え、テーブルの上の革袋が小刻みに揺れた。
「どうもこうもあるか…大聖女アウレリア。今すぐ事実を話せ。私と事を構えたいのか?」
ローランが驚愕し、思わず立ち上がった。
「っ!?エメルダ様、一体何を仰ってるのか!?」
エメルダは獰猛な笑みを浮かべた。その笑顔は、戦場で敵を屠る戦士のようだった。
「私はその女と話している。…さぁ、どうする?アウレリアよ、私は貴様と一戦交えるのも興の一つだと思っているが?」
大聖女アウレリアは観念したかのように、その場に膝から崩れ落ちた。純白の法衣が床に擦れる音が、やけに大きく響いた。完璧だった姿勢は崩れ、聖女としての威厳は跡形もなく消え去った。
「…誠に申し訳ございません…エメルダ様…」
と、深く頭を下げた。
エメルダが冷たく命じた。
「その謝る理由を貴様の口から吐け…」
大聖女アウレリアは震える声で告白した。
「………私は…ゼロス様御一行に向けて…『チャーム』を使用しておりました…」
その言葉が落ちた瞬間、ローランの顔色が蒼白から赤銅色へと変わった。
「…っ!?アウレリア!!!」
パァン!!
ローランは大聖女アウレリアの頬を、思いきり引っ叩いた。乾いた鋭い音が部屋中に響き渡った。
アウレリアの口から鮮血が滴った。
「っ!」
ローランは立ち上がり、腰の剣を引き抜き、アウレリアに向けた。切っ先がアウレリアの喉元に向けられた。
「貴様…客国の恩人にそんな事をすれば、どうなるかわかっているのだろうな…!!!」
アウレリアは涙声で答えた。
「…ごめんなさい…ローラン…彼らを率いる事が出来れば…我が国の戦力不足が解消できるものかと…」
「!!!!!」
ローランは再度、剣を持っていない方の手で、アウレリアの顔を思いきり引っ叩いた。二度目の衝撃に、アウレリアの身体が大きく揺れた。
その様子を見ていたアリシアは顔面蒼白になり、思わず口元を抑えた。その身体は小刻みに震えていた。
ゼロスが心配そうに声をかけた。
「…アリシアさん?」
アリシアは心の中で呟いた。
(………私は……私は…私はこんな人の元で働くのを憧れてたというの…?)
かつて、教会で聖女たちの噂話を聞いていた頃。大聖女アウレリアは、誰もが憧れる存在だった。
しかし、今目の前にいるのは、自らの保身のために他者を操る、薄汚い魔術師に過ぎなかった。
憧れがガラガラと崩れ落ちていった。
ローランはこちらに向き直り、深々と頭を下げた。その額が床につくほどの、悲壮な覚悟が込められた礼だった。
「この度は、大変なご無礼、申し訳ございません…この者の首は後ほど刎ねて御覧に入れますので、何卒ネクサスに置かれましてはご容赦を…」
アウレリアは血が出ている口元には手もやらず、ひたすら茫然としていた。まるで、魂が抜けてしまったかのように。
エメルダが冷静に告げた。
「…良い、許してやれ。だが、二度目は無い」
ローランが声を荒げた。
「しかしっ!」
シェルはヒュゥと口笛を吹いた。
「流石、総大将。懐が広い」
アリシアはぶるぶると震える手で抑えた口元から手を離し、口を開いた。その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど、鋭く冷たかった。
「エメルダ様…それは何故でしょうか…彼女は…大聖女アウレリアはネクサスと私達に明確な敵対行動を取られました…ローラン様のご判断は真っ当なものかと…」
あの温和なアリシアから出た言葉とは到底思えなかった。ゼロスは驚いて彼女を見た。
「アリシア…」
ルナが驚きの表情で、じっとアリシアを見つめていた。
「…」
レオは何かを受け入れているような、静かな表情をしていた。
「…」
エメルダは、やれやれと言った顔をした。
「アリシアよ…よもや貴殿、『世界は正しく美しいモノ』などと思っておらんだろうな?」
アリシアがはっと息を呑んだ。
「…っ!」
エメルダが続けた。その声は、厳しくもどこか諭すようだった。
「思っておらんだろう?貴殿はこの国から蔑まれ、場所を追われた身だ。世界の汚れなど、よく理解しているであろう」
エメルダはアウレリアの方を向いた。
「その女も、その辺はよーーく理解しているだろう?だから、大聖女の地位まで上り詰められた。…いくら、大奇跡リザレクションが使えるとは言っても貴様の魔素量では、日に1回が限度だろう?それで、その立場…さぞ苦労したであろうな…」
クックック…と楽しそうにエメルダは笑った。その笑い声には、頂点に立つ者同士の、どこか共感めいたものが混じっていた。
ローランが食い下がった。
「しかし…それでは、ネクサスやエメルダ様たちへの示しが…」
エメルダが冷徹に告げた。
「何もタダで許す気もない。スタンピード討滅の際に使う広範囲殲滅魔術『エクスプロージョン』の代金一発を200枚にあげる。これで釣り合いが取れよう?リザレクションが日に1回でも、あるとないでは天地の差であろう?それに、その女…政治的駆け引きにも使ってきたのであろう?始末すれば、ルーメンが傾くぞ?」
ローランとアウレリアは、そのあまりにも現実的で政治的な裁定に、深々と頭を下げた。
「…この度はご配慮いただき、誠にありがとうございます………」
二人の頭が、屈辱と安堵のうちに、床につくほど深く下げられた。部屋には、重苦しい沈黙だけが残された。
重苦しい雰囲気を残したまま、一行はエメルダの客室へと戻ってきた。豪奢な調度品が並ぶ部屋には、先ほどと同じようにお付きの魔術師が控えていた。ローランの執務室で目の当たりにした生々しい人間の欲望と裏切りが、まだ一行の間に重たい沈黙を落としていた。
エメルダはお付きの魔術師に声をかけた。
「ご苦労、今日はもう休め」
「承知致しました…」
お付きの魔術師は恭しく一礼すると、静かに部屋を出ていった。扉が閉まる重い音が、緊張した静寂の中で妙に大きく響いた。
お付きの魔術師が出て行って、少し時間が経った頃。
エメルダが突然、こわばっていた身体を解き放つように、大きく背伸びをした。
「ぶっへぇ…いやぁ…ギルド長モードは肩が凝るわぁ…ゼロきゅん、肩揉んで?」
先ほどまでの氷のような威厳ある態度は一瞬で消え失せ、いつもの飄々とした、だらしない笑顔を浮かべていた。
ゼロスは、そのあまりの切り替えの早さに呆れたように息をついた。
「はぁ~?なんで俺が…」
エメルダはにやりと笑った。
「…仕方ないにゃぁ、片乳だけは許そう」
「許さんでいいわっ!!…はぁ…」
ゼロスは深いため息をついた。(こうなると、言うことは聞かないか…)という顔をしながら、渋々エメルダの肩を揉み始めた。
エメルダが、猫がじゃれるような声を上げた。
「あっ!んああっっ!!効くっ!効いちゃうよゼロきゅぅぅぅぅん」
「変な声を出すな、気色わりぃ」
ゼロスの指が、的確にエメルダの凝りをほぐしていった。
エメルダはソファーに深く腰かけ、極楽浄土といった表情を浮かべながらも、部屋の隅で膝を抱えるようにして暗い顔をしていたアリシアに声をかけた。
「…意外だったかい?アリシアさん」
アリシアは、ハッとした顔でエメルダを見た。その瞳には、まだ先ほどの衝撃的な光景が焼き付いているようだった。
「そ、そうですね…あの方は聖女達の憧れでしたから…あんな事に…」
エメルダの声が、少し優しくなった。
「ま…どこの国にもそれぞれの事情ってやつを抱え込んでるし、見た目が大聖女でも、中身までは大聖女じゃない。って事だよ。一応あれでも実力的には世界的には上位層そのものだ…殺したところで何の旨味もありゃしない」
アリシアは俯いた。
「…そう…ですよね…綺麗ごとで回る世界なんて…そんなのおとぎ話の中でしか…」
その声は、か細く震えていた。
ルナがアリシアの横に音もなく座り、その背中を励ますようにポンと肩に手を置いた。
「まぁ…アリシアさん…今夜は呑もう!呑み明かそう!!」
ゼロスがエメルダの肩を揉みながら、横から突っ込んだ。
「お前はそればっかだな…」
少し離れたところの椅子に座っていたレオも苦笑いしていた。
「ほんと、お金がたくさん手に入ると、ルナは酒・肉・酒…おっさんじゃないんだから」
ルナが勢いよく振り返った。
「あーん!?レオなんか言ったぁぁぁあああ?今朝、師匠とイケない事をした癖にぃぃぃぃ」
アリシアが目を丸くした。
「…イケない事!?」
シェルが、待ってましたとばかりに意味深に頷いた。
「まさか一晩でそんな関係になるとは…」
レオが慌てて立ち上がった。
「ルナァァァァアアアアア、勘違いするような言い方しないでぇぇぇぇえええ」
その必死の形相に、部屋がようやく笑いで包まれた。先ほどまでの重苦しい空気が、少しずつ和らいでいった。
シェルがエメルダに視線を向けた。
「しかし、大聖女相手に随分、余裕そうだったな、エメルダさんよ。世界でも上位の実力のヒーラーなんだろ?」
エメルダは気持ちよさそうに目を閉じ、肩を揉まれながら答えた。
「…ま、所詮はヒーラー…マジックミサイルの魔法陣だって1個2個が限界だろうよ…ローランが隣についたと言えど、私に勝つなんて万が一にもないさ…」
シェルが興味深そうに身を乗り出した。
「なるほどね…そんなあんたは、世界ではどの程度の位置に入るんだい?」
エメルダが薄目を開け、得意げに答えた。
「そうさな…多数対1の戦いで、私の右に出る者なんて、そうそう居ないしなぁ…計れるものでもない。というのが現状か」
「へぇ…やっぱあんたはすげーんだなぁ…」
シェルは素直に感心したように頷いた。
そのやり取りを横目に、ゼロスはエメルダの肩をほぐしながら、まだ落ち込んでいるアリシアを見ていた。その横顔は、まだどこか憂いを帯びていた。
「なぁ、アリシアさん」
アリシアはいきなり声をかけられたことに驚いた。
「え!?あ、はい!なんですか?ゼロスさん」
ゼロスは、いつもの飄々とした態度ではなく、真剣な表情でアリシアを見つめた。
「俺も、世界が綺麗ごとで回るなんてのは思ってないけどさ…その…アリシアさんの、そのなんつうか……その綺麗な考えは俺はスゲー良いと思うよ…だからさ、あんま気にすんなよな…これからも『始まりの雫』で頑張っていこうぜ……」
アリシアは、ふいに言われた、アリシアの考えを全肯定するような言葉に顔がカッと赤らんだ。心臓が早鐘を打った。
「あ…はい…その…あ、ありがとうございます。ゼロスさん」
と微笑んだ。その笑顔には、先ほどまでの憂いは消えていた。
ゼロスとアリシア以外の一同が、なんとも言えない呆れたような顔で二人を見つめていた。
「「「「「…」」」」」
シェルがエメルダに小声で囁いた。
「…なぁ、エメルダさんよ。ゼロスにもうちっと乙女心っつうか、なんつうか…なぁ?」
エメルダは肩を揉まれながら、非常に複雑な表情を浮かべた。
「…言うなっ!言うなシェル…今、あたしはひっじょーーーーに、微妙な心境なんだっ」
レオが静かに頷いた。
「…まぁ…ゼロスだしね…」
ルナが肩をすくめた。
「…言われる方の雰囲気は台無しだけどね」
ゼロスが慌てた。
「な、なんだ、お前らっ!!!俺、変な事言ったか!?」
アリシアは柔らかく笑った。
「…ふふっ…ありがとうございます…ゼロスさん。なんだかさっきまで悩んでいたことが馬鹿みたいに思えてきました…」
「アリシアさんまで!?」
ゼロスは困惑した表情を浮かべた。
アリシアは、その変わらない優しさに、心の中で静かに思った。
(…そうだ…私は今ゼロスさん達と一緒に在る…もうくだらない過去を気にする必要なんてないんだ…この人は、きっと私が望む限り、ずっと傍に居てくれるんだから…)
アリシアはゼロスに全幅の信頼を寄せる眼で見つめていた。その瞳には、確かな光が宿っていた。
ゼロスは、なぜ周りからこんな目で見られているのか、アリシアの期待に満ちた眼はなんなのか、まったくわからないでいた…。
客室には、先ほどの重苦しさとは打って変わった、温かな笑い声が響き続けていた。
部屋を包んでいた和やかな空気が、ふっと引き締まった。エメルダは、ゼロスに肩を揉ませたまま、ゆったりと肘掛けに身体を預けながら、ゼロスに視線を向けた。
「で、ゼロきゅんよ」
ゼロスは警戒するように眉をひそめた。まだ何か頼まれるのか、という顔だった。
「なんだよ…まだお願いごとか…?」
エメルダは咳払いを一つして、ふざけた口調を引っ込めた。眼鏡の奥の瞳が、いつになく真剣な光を帯びた。
「…おっほん…ときにゼロスよ、Aランクダンジョンのボスは確認してきたか?」
その質問に、ゼロスの表情が一瞬固まった。
「………」
気まずい沈黙が流れた。その間を埋めるように、シェルが代わりに口を開いた。
「…エメルダ、すまんな。救助者の事で頭がいっぱいで最下層には行ってないんだ…ただ、道中のモンスターはあらかた始末しておいたから、行こうと思えばすぐにでも行ける」
エメルダは小さく頷き、納得したように笑みを浮かべた。
「いや、いい。まぁ、ゼロスの事だから、仲間を引き連れて不要な無茶はしないと踏んでいたが、その通りだったな」
ゼロスは不満げに肩をすくめた。
「何がいいてぇんだよぉ?」
「ボスを倒してくれなくて良かった。と言ってるんだ」
その言葉に、アリシアが驚いて声を上げた。
「倒さずに良かった…という事ですか?」
エメルダは腕を組み、静かに告げた。
「そうだ、ヴァレリウスの時のダンジョンでスタンピードが発生した直後の事を覚えてるか?」
レオが記憶を辿るように呟いた。
「確か、ヒュドラを倒して…」
ルナが引き継いだ。
「なんかその数時間後には発生してたよねぇ」
ゼロスの表情が険しくなった。嫌な予感が的中しそうな空気が漂っていた。
「…まさか…」
エメルダは重々しく頷いた。
「そうだ…ボスモンスターの討伐はトリガーになりうる刺激を与える可能性があるということだ」
シェルが眉を寄せて反論した。
「…だが、スタンピード目前のダンジョンを納めるってんなら、一定周期ごとに現れるボスモンスターを何度も討伐ってのがセオリーじゃ…」
エメルダは面倒臭そうに首を振った。
「んなことしてたら、スタンピードが起きなきゃルーメンに半年以上いる事になるぞ」
シェルが困った顔をした。
「…ちと、それは長いな。仲間には長くて一カ月って言ってあるし」
エメルダは挑発的に笑みを浮かべた。
「だから、ボスモンスターの討伐をわざとせずに、スタンピードをあえて引き起こす」
ゼロスが思わず声を上げた。
「まじかよ。やっぱ今のボスモンスターを一旦倒すべきなんじゃ…そのあとは騎士団に任せて…」
エメルダはそれを遮るように、低い声で問いかけた。
「ゼロス。下層のモンスターの魔核は持っているか?」
ゼロスは怪訝そうな顔をしながら、背嚢に手を伸ばした。
「ん?あぁ…ちょっと待ってろ」
ゼロスは背嚢から、鈍く輝く魔核を取り出した。クリムゾンドレイクの魔核だ。爛々と魔素で光る紅い石が、エメルダの手に渡された。
エメルダはそれを手の平に乗せ、じっと観察した。その紅い光が彼女の眼鏡に不気味に反射した。やがて、彼女は確信を持った声で告げた。
「…この程度なら、ユニークの発生条件はまず満たす事がない…」
ゼロスが訝しげに眉をひそめた。
「なんで、んなことわかんだよ」
エメルダは魔核を返しながら、淡々と説明した。
「あいつらはな、莫大な魔素の力を使って、次元の割れ目から出没するのさ。だから、下層の中ボスの魔核がこの程度の魔素汚染なら、起きることはありえない。今まで散々検証してきた」
アリシアが不安そうに口を開いた。
「…ですが、スタンピードが起きれば、周囲の民間人を巻き込む事になるのでは…」
レオも心配そうに頷いた。
「それは…」
ルナが冗談めかして言った。
「目覚めが悪くなりそうだねぇ…やっぱ酒しか勝たん…」
レオがたしなめるように呟いた。
「…ルナ…」
エメルダは安心させるように手を挙げた。
「大丈夫だ、アリシアさん、この魔核の魔素量から凡そのスタンピード発生時期が絞れる。それだけのデータが揃えば十分だ。民間人を避難させ、そこへ…」
ゼロスが何かを思い出したように目を見開いた。
「あの大技か…」
双頭の魔人が唱え、未然に防いだあの膨大な魔素の奔流。街ごと消し飛ばすかのような、絶望的な光景がゼロスの脳裏に蘇った。
エメルダは挑戦的な笑みを浮かべた。
「ま、丁度いい。ユニークの詠唱を間近に見たキミらには、そいつとあたし、どっちの魔術が強そうか見てもらおうじゃないか…」
ゼロスが呆れたように呟いた。
「エメルダ…お前は…」
アリシアが静かに確認した。
「殲滅できるのは前提なんですね…」
シェルが苦笑いを浮かべた。
「いやはや…同国側で良かったというか…」
レオが驚きを隠せないといった顔で言った。
「ユニークモンスターとの力比べって…」
ルナが誇らしげに笑った。
「ま、さすがはあたしが認めた師匠なだけある…」
エメルダは満足げに胸を張った。しかし、その貧相な身体は魔術で若返らせすぎているせいで、豊満とは程遠かった。
「ま…そんなわけだ。その日が来たら、このあたしの豊満なボディに任せなさいよ、ひよっこどもがっ!!」
と、エメルダは、自身の華奢な身体を示して言い切った。
その姿に、ゼロスは思わず目を背けた。
一抹の不安を抱えたゼロス達…
決戦の時は近くなっていた。




