第39話:奇跡と代償
深々と突き刺さる、死んだはずのヒュドラの牙。
夥しい量の血がゼロスの脇腹から噴き出し、洞窟の浅瀬を瞬く間に赤黒く染め上げていく。彼は短い呻きを漏らし、糸が切れたように崩れ落ちた。
「…くっそ…」
その光景に、アリシアの世界から音が消えた。
「ゼロスさん!!ゼロスさんっ!!!」
絶叫が、彼女の喉から迸る。アリシアはもつれる足で、必死に彼の元へと駆け寄った。
「うそ…」
ルナは、その場に立ち尽くし、ただ呆然と呟いた。先ほどまでの激闘で張り詰めていた糸が切れ、魔術の反動が一気に噴き出す。彼女の身体がぐらりと傾ぎ、崩れ落ちたところを、レオが力強く受け止めた。
「…ゼロス…」
レオはルナの身体を抱えながら、血の海に沈む友の名を、絞り出すように呼んだ。
アリシアはゼロスの傍らに滑り込む。彼の胸に耳を当てたが、鼓動は聞こえない。呼吸も、止まっていた。
「いや…いやっ!!」
『光よ、傷を癒したまえ…痛みを和らげ、力を与えたまえ…』
『天の慈悲よ、この身に宿れ…傷ついた者を癒し、疲れた者に安らぎを…』
彼女は震える手で、必死に初級回復スキルであるヒーリングをかける。だが、淡い光は夥しい出血の前ではあまりに無力で、傷は一向に塞がらなかった。
やがて、ルナを肩で支えたレオが追いついた。
「…とりあえず、いったん牙を引き抜こう…アリシアさん、回復スキルは、あと何回使える?」
レオは冷静に状況を判断し、懐から魔素ポーションを取り出してアリシアに手渡す。
アリシアはそれを受け取ると、躊躇なく一気に飲み干した。そして、顔を上げる。その瞳には、涙を浮かべながらも、決して折れることのない、烈火の如き決意が宿っていた。
「…私の命が尽きるまで…!」
ルナは蒼い顔で、ゼロスの傷を見つめていた。
(…その傷…初級スキルでどうにかなるレベルじゃない…上級ポーションが、樽一杯あったって…)
レオが意を決し、ヒュドラの頭部を掴んで牙をゼロスから引き抜く。その瞬間、再び血が溢れ出す傷口に、アリシアが全神経を集中させてヒーリングをかけた。
なんとか追加の出血は免れたが、それでも致命的な傷が癒える気配はなかった。
レオはありったけの回復ポーションをゼロスの身体にかけるが、ただ流れ落ちるだけで、肉体が再生を始める気配はない。
彼の魂が、肉体から離れかけているのだ。このままでは、いくら頑丈なゼロスでも…。
レオの顔を、絶望が覆っていく。
しかし、アリシアだけは諦めていなかった。
彼女は再び詠唱を始める。その声は、もはや祈りではなかった。運命に抗う、魂の叫びだった。
『光よ、傷を癒したまえ…痛みを和らげ、力を与えたまえ…』
『天の慈悲よ、この身に宿れ…傷ついた者を癒し、疲れた者に安らぎを…』
一瞬、彼女の手から放たれた光が、これまでとは比較にならないほど強く輝き、ゼロスの傷口が僅かに塞がった。
「…今一瞬、スキルの強度が跳ね上がったような…アリシアさんっ!」
ルナが驚きの声を上げる。
「…大丈夫です…。ゼロスさんを、私より先に死なせる気はありませんから」
アリシアは、ふらつく身体に鞭を打ち、再度のフル詠唱を行う。放たれる光は、先ほどよりもさらに輝きを増していく。
レオとルナは、固唾をのんでその奇跡を見守る。
何度目かのフル詠唱。アリシアの鼻から血が吹き出し、視界が白く霞む。それでも、彼女は詠唱を止めなかった。
八度目の、フル詠唱。
『光よ…傷を癒したまえ…痛みを和らげ…力を与えたまえ…』
『天の慈悲よ…この身に宿れ…傷ついた者を癒し…疲れた者に安らぎを…』
『ヒーリングッ!』
その瞬間、洞窟全体が目も開けられないほどの純白の光に満たされた。
光の中心で、ゼロスの身体が内側から輝き、失われた血液が戻るように、彼の顔色が見る見るうちに良くなっていく。抉られた脇腹の傷が、光の粒子となって再構成されていく。そして――
「…うっ!…あれ?…」
ゼロスが、ゆっくりと目を開けた。彼は自分の脇腹を確認する。そこにあるべきはずの穴は、跡形もなく消えていた。
「…俺、なんで生きてんだ?」
「ゼロスさんっ!」
アリシアは、彼の胸に泣きながら飛びついた。
「良かった…本当に、良かった…」
涙でくしゃくしゃになった顔を、ゼロスの胸に押し付ける。ゼロスは、まだ状況が掴めないまま、それでも安心させるように、彼女の頭を優しく撫でた。
「…寝てる間に、心配かけたようだな…」
「…ほんと、もうだめかと思ったよ」
レオが、心底安堵した声で言った。
「…あたしも、諦めかけたよ」
ルナも、涙声で呟いた。
ゼロスは仲間たちの顔を見て、ようやく何が起きたのかを悟り、照れくさそうに笑った。
「わりぃわりぃ、つい油断しちまったようだ」
彼はその場で立ち上がると、「さてと…」と呟き、ヒュドラがいた場所へと近づいていった。
水面に転がる、異様に大きく、赤黒く爛々と悍ましく光る魔核を拾い上げる。しかし、それを手にしても、周囲の魔素の奔流は一向に収まる気配がなかった。
ゼロスはアリシアたちに告げた。
「…とりあえず、いったん帰還しよう」
そう言い、彼は倒れていたレックスの元へ歩み寄る。背嚢から中級ポーションを何本か取り出し、その身体にかけた。
やがて、レックスが呻きながら目を覚ます。
「…うぅ…ヒュドラ…は?」
「なんとか辛うじて倒したよ」
ゼロスは、彼に手を差し伸べた。レックスはその手を取り、ふらつきながらも立ち上がる。
「…そうか…。スタンピードの前兆は、収まったのか?」
ゼロスは、静かに首を横に振った。
「まだだ…。最悪の事態を予測して、いったん帰還するぞ」
彼はそう言うと、背嚢から帰還のスクロールを取り出した。
「…すまんな、世話をかける」
「いいって…。だが、ダデウス男爵にはこの事はちゃんと伝えてくれ。この先、何が起きるかわかんねぇぞ」
その言葉に、レックスは暗い表情で俯いた。
「…これが、欲を出した末路か……。わかっている。きちんとお伝えしよう」
彼は、自らのギルドが男爵の野望に手を貸したことを、心の底から後悔していた。
「ふぅ…やっとこれで休めるね」
ルナが安堵の声を漏らすが、ゼロスは険しい表情を崩さなかった。
「…だと、いいけどなぁ」
ゼロスが帰還のスクロールを起動させると、眩い光が五人を包み込む。
死闘の末に掴んだはずの勝利。しかし、その先に待ち受ける、さらなる脅威の予感を胸に、彼らはダンジョンを後にするのだった。
光が収まり、一行が立っていたのは、見覚えのあるBランクダンジョンの入り口前だった。先ほどまでの死闘が嘘のような、静かで湿った空気が彼らを迎える。
無事にダンジョンから生還した五人は、そこで一度足を止めた。
レックスは、ゼロスたち四人に向き直ると、騎士のような実直さで、深く頭を下げた。
「…感謝する。君たちがいなければ、俺も、部下たちも、あの場で死んでいた」
その言葉に、ゼロスはへらりと笑って手を振った。
「いいってことよ。あんたも、最後は命がけで俺を庇ってくれただろ。これで、貸し借りなしだ」
レックスは、その言葉に静かに頷くと、決意を秘めた目で街の上層区を見据えた。
「…俺は、ダデウス男爵の元へ戻り、全てを報告する」
「そうか。じゃあ、ここで別れるか」
「あぁ。…達者でな」
短い言葉を交わし、レックスは一人、ふらつく足取りで男爵の居城へと続く坂道を上っていった。その背中は、多くのものを失った指導者の哀愁を帯びていた。
「さてと…」
ゼロスは、その背中が見えなくなるのを見届けると、仲間たちに向き直った。
「俺たちも、報告に行こうぜ」
一行は、街の最下層にあるレジスタンスの根城、あの古びた坑道へと向かう。
隠された扉を開け、ゼロスは中の薄闇に向かって声をかけた。
「バルガス、いるか?」
坑道の奥、揺らめく焚き火の光に照らされて、数人の人影が浮かび上がる。その中心にいたバルガスが、安堵の表情で立ち上がった。
しかし、彼の隣には、もう一人、いるはずのない意外な人物が身を潜めていた。
「よぉ、戻ったか。…ちょっと、変わった客がいるぜ」
バルガスが、どこか緊張した声で言う。
その言葉に促されるように、もう一人の人物が顔を上げた。それは、寸分の乱れもない制服に身を包んでいたはずの、騎士団長付きの執務官、ヘレナだった。
今の彼女は、その制服をところどころ汚し、憔悴しきった表情を浮かべている。
「キ、キミ達は…」
ヘレナは、ゼロスたちの姿を認めると、驚愕に目を見開いた。
ゼロスもまた、彼女の姿に眉をひそめる。
「あら…なんで執務官様が、こんな薄汚い場所に…?」
再会は、互いにとって、あまりにも予想外の形だった。
(第39話/了)




